2006年05月09日(火)22時34分-逢風
Welcomeのプレートがさがった飴色の木のドアを押し開ける。さすがに午後三時、広くはないがカントリー風に装飾されたどこか可愛らしい店内は閑散としていた。カランカランというベルの音にかぶさる「いらっしゃいませー」の声。
小走りで駆けつけてきたウェイトレスが、僕の顔を見て「あっ」という表情になる。が、それも束の間のこと、彼女はすぐウェイトレスの顔に戻り、
「一名様ですね。どうぞこちらへ」
と言って、僕を店の奥へと導いていく。
案内されたのは、光の差し込む窓側の席。ニスを塗られてつやつや光る正方形の木のテーブルを間に挟んで、編み上げたバスケットのような椅子が二つ、向かい合って置かれている。見た目よりずっと丈夫なその椅子の一方に腰を下ろすと、先ほどのウェイトレスがメニューとおしぼりと水の入ったグラスを白いトレイに載せて運んできた。それらが手際よく目の前に並べられていくのをぼんやりと眺めながら、僕は近くて遠い記憶の中へと吸い込まれていく。
そう、あの日も僕はこの席に座っていた。
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あの日は、半年近く付き合った彼女にフラれてちょうど一週間経った日曜日だった。
失恋以来、全てにやる気を失って抜け殻のように過ごしていた僕を見かねて、友人たちが僕を遊びに連れ出した、その帰路のことだった。「元気だせ」だの「泣きたきゃ泣け」だの、それができないから困ってるんだと言い返したくなるような台詞を目一杯浴びせられた後に皆と別れ、一人駅に向かっていると、突然大雨が降ってきた。生憎傘は持っていなかったし、駅まではまだ十五分ほど歩かなければいけない。ゲーセンだのカラオケボックスだのとあちこち連れ回されて疲労していた僕の足では当然走る気にもなれなくて、雨宿りついでに一休みしようと近くの喫茶店に飛び込んだ。玄関に立ち、運よくバッグに入れていたスポーツタオルで身体を拭きながら、僕はこの喫茶店がよく知っている店だということに気が付いた。
―――彼女との映画鑑賞の帰り、何度か立ち寄った店だった―――
いつの間にか僕は席に案内され、メニューを前にしていた。湯気の立ちそうなおしぼりを手で弄びながら、規則正しく並んだ文字に目を走らせていくうち、僕はふと思い出してデザートのページを開いた。その六文字は変わらずそこに載っていた。「チーズケーキ……370円」と。
彼女はこの店に来ると、いつもチーズケーキを注文していた。そのことに気付いたのは彼女と三度目にここへ来た時で、そんなに何度も頼みたくなるほどおいしいのかと気になったが、男の僕が甘いもの、しかも彼女と同じものを頼むなんて、なんとなく気恥ずかしくてできなかったのだ。とはいえ、やっぱり気になって、彼女に分けてもらった一口ばかりじゃ足りなくて、彼女と同じサイズの、同じチーズケーキを食べてみたいと思っていた。そう、次に来た時こそは自分もチーズケーキを注文しようと思っていたのだ。あの時は。
「……チーズケーキを」
気付けば僕はメニューから顔を上げないまま、無機質な声でそう注文していた。ウェイトレスがさらさらとペンを動かしているのを気配で感じる。無意識に自分の口から出ていた言葉に、僕は少なからず動揺していた。
「ご注文は以上でよろしかったでしょうか?」
「……はい」
頷くのに少し時間がかかった。
「少々お待ち下さい」
どこかで聞いたことがあるようなよく通る声を残して、そのウェイトレスは厨房の奥へと歩いていった。
窓の外、色とりどりの傘をさした人たちが通り過ぎていく。灰色の空に浮かぶ信号機の赤が、やけにはっきりと目に映る。交差点を右折してきた大型トラックが盛大に水しぶきを撥ね上げ、歩道を駆け回っていた子供たちがわあっと悲鳴を上げる。
雨はなかなかやみそうにない。僕は窓ガラスを流れる水のカーテンを眺めながら、小さく溜息をつく。
「お待たせいたしましたー」
不意に、今の空に似つかわしくない明るい声がして振り向くと、先ほどのウェイトレスが二枚の小皿をテーブルに並べているところだった。一枚の小皿には、彼女がおいしそうに口に運んでいたものと寸分違わないチーズケーキ。もう一枚には、注文したおぼえのないホットコーヒー。一瞬の当惑の後、僕は勢いよく顔を上げた。
「あの……」
間違ってますよと言おうとした途端、ウェイトレスは無言のまま伝票を僕の顔の前に広げて見せた。右上のところに銀色のクリップが付いていて、薄桃色の小さなメモ用紙がとめられている。そこには小さくて丸っこいけど整った字で「コーヒーは私のおごりです」と書いてあった。何が起こったのかよくわからず、ぽかんと口を開けた僕に向かって、彼女はにっこり微笑んだ。
「ごゆっくりどうぞ」
窓の外は、相変わらず雨が降っていた。
僕はぼんやりしたままチーズケーキを少しすくって口に入れた。舌の上で溶けていく、まろやかな甘み。かといって甘すぎもせず、レモンがしぼってあるのだろうか、どこかさわやかな味がした。ホットコーヒーには、なんとなく、ミルクも砂糖も入れずに飲んだ。ほろ苦さと熱が、雨に濡れて少し冷えた身体にじんと染み渡る。
不意に指先がしびれたように震えた。カップから立ち上る白い湯気が大きく揺らいで、だんだん目の前が見えなくなる。
彼女と別れてから初めて、僕は声を上げて泣いた。カップに添えられた銀色のスプーンが、いつの間にか雲間から顔を出していた太陽の光を反射して、白く輝いていた。
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その時のウェイトレスが、一年前大学の授業で一緒にグループ発表をした矢島さんだったことに気付いたのは、その日の帰りの電車の中だった。くじ引きで決められた僕らのグループは運悪くリーダーシップのとれない人間揃いで、誰からともなく慌てて発表の準備を始めたのは例の如く発表一週間前だった。同じグループの人間とまともに会話したのは最後のまとめの時くらいしかなかったし、教え合った携帯番号も事務連絡以外の用途で使用することはなかった。そんな状況だったから、グループの一員であった矢島さんのことも、顔を見てもすぐに思い出せなかったのだ。
あの日以来、僕はこの店によく出入りするようになった。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
彼女―――矢島さんが僕の傍らに立ち、事務的な口調で訊ねる。
「チーズケーキとホットコーヒーを」
僕ももう決まり文句となったその言葉で返事をする。
「かしこまりました。少々お待ち下さい」
他の客に見せるのとまるで違わない営業スマイルを投げかけて、彼女は僕に背を向ける。
ふと背中越しに視線を感じて首をめぐらすと、近くのテーブルに座っていた女子高生三人組が、気まずそうに目を逸らした。きっとまた「なんであの人、梅雨ももう終わるのにホットのコーヒーなんだろう」とでも噂していたんだろう。でも、こんなことにはもう慣れっこだ。
ここに通い、毎回同じものを注文する僕のことを、彼女―――矢島さんがどう認識しているのかは知らない。玄関に立つ僕を見つけると必ず「あっ」という表情をするところを見ると、あの雨の日曜日のことを憶えているに違いない。しかし、僕と大学のグループ発表で一緒だったことや、デートで三回この店に来ているということまで憶えているかはわからなかった。彼女がこの店で僕に特別な待遇をすることも、あの日以来一度もなかった。唯一、僕を他の客と違う目で見ていることの証明である「あっ」も、後に続くのが「あっ、また来てくれたんだ」なのか「あっ、また来たんだ」なのか、僕には未だに判別できていない。
もう一度同じ講義室で授業を受けることは、少なくともこの半年間はなさそうだし、たとえ偶然どこかで会ったとしても、挨拶すら交わさずすれ違うのかも知れない。少し寂しいような気もしたし、それでいいような気もした。
「お待たせいたしましたー」
彼女がいつも通り二つの小皿を運んでくる。いつものチーズケーキと、いつものホットコーヒー。使わないことがわかっているミルクとスティックシュガーに、銀色のスプーンを添えて。
「ご注文は以上でよろしかったでしょうか?」
「はい」
僕が頷くと、彼女はテーブルの隅に置かれた透明な筒の中に「会計 ¥620」と書いた紙をまるめて差し込んだ。
「ごゆっくりどうぞ」
彼女はまた僕から離れていった。事務的だけど明るく、よく通る声を残して。
窓の外、額に汗をにじませた人たちが、うつむき加減で足早に通り過ぎていく。点滅する青信号を見て、一組の親子が慌てて道路に駆け出す。横断歩道を越えて交差点の真ん中で立ち往生していたワゴン車が、ぼーっとしているのか信号が変わっても発進しない前車に苛立ち、クラクションを鳴らす。
どうして急ぐ必要がある? 今日はこんなにいい天気なのに。
白い湯気の立つホットコーヒーを一口飲む。ほろ苦さと熱が、日射しに火照った身体にすうっと染み渡った。
サークル賞用の作品です。
ちょい短めですかね…f(^-^;)
とりあえずよろしく☆