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ソラオイビト

2006年05月10日(水)00時46分-ばーねっと

 

 空は人外の領域である。
 いつどこに居ようとも見上げれば空はそこに在る。しかし、手を伸ばせば届きそうなほど近くにあるにも関わらず、そこは何処よりも遠い場所だった。ある詩人は空を翼在るモノの聖域と詠った。そこは地を這うものには決して辿り着けない場所であり、見えずとも確かに存在する「断絶」――天と地の境界を越えることが出来るのは翼という名の免罪符を持つモノだけである、と。
ただ、例外として一部の人間は魔術という手段によって聖域を侵すことには成功している。だが、その者達ですら、出来たのは侵すことだけであり、空は未だ聖域――人が到達し得ぬ領域で在り続けている。
 そんな領域の下を一人の青年が歩いていた。
 歳は二十代後半。髪の色は黒。やや細めの体躯を外套で覆い、色白な顔に眼鏡を掛けており、どこか学者然とした雰囲気を持った青年である。
 今、青年が歩いているのは森の中に作られた小道である。ただし、整備はほとんどされておらず、足元は枯葉で埋まり土の色さえ見えない。
 森は静かだった。
 暖かな頃は緑をその身に纏っていたであろう木々も、今はその葉を散らし、裸になった表皮に寒風を受けていた。緑の木々に寄り縋っていた小さな命達も鳴りを潜めており、そこに在るのは茶色の木々だけだった。
 首都とは随分な違いだ、とその風景を見ていまさらながらに青年は思う。
 ふと後ろを振り返ると遠くには村が見える。彼が今滞在している村である。
 エルトという名を持つその村は辺境にしては大きく、また生活基盤も確かなものを持っている。首都の周辺と比べれば劣るものの、辺境の村としては異様なほどの繁栄ぶりと言える。
 その理由はこの村の伝統にある。エルトは古くより工芸の発達した村であった。
 そのため自力で作りえない品を求めるとき、周囲の村の人々はエルトへとやってくるのが常であった。それによって生じた人の流れは、工芸品の対価として食料や材木、鉱石など様々なものをエルトにもたらし、エルトの人々は自らが誇る技術でそれを加工することで生計を立てていたのである。古くは物々交換から始まったであろうその循環は、辺境まで貨幣が浸透した現在でも途切れることは無く、伝統は高い技術力とともに脈々と受け継がれている。
要は彼と同じ、技術者の村なのである。似たような人種が多いと居心地がいいのか、長期間にわたって彼はこの村に滞在している。
(同じ、といっても僕の場合は過去形がつくんでしょうけどね)
 心地よさを感じている自分を戒めるように、手に持っている透明な箱に目をやりながら青年は心の中で自嘲気味にそう呟く。
 それは魔術機関(エンジン)と呼ばれる代物である。こんな辺境では馴染みのない、だが、青年にとっては何よりも馴染みのあるものだった。
 クレスト・イドスというこの青年はかつてこの国の首都で魔術機関の技師をしていた。
 魔術機関とは、人の意思によって発動され、様々な現象を引き起こす魔術を、簡単な操作をするだけで使用することが出来る機構のことを指す。平たく言えば、人の代わりに魔術を発動する便利な道具といった感じだろうか。
 その機能は武器として使えるようなものから日常生活の役に立つようなものまで多岐にわたる。また、使用するために特別な訓練を必要とする魔術と異なり、操作方法さえ分かれば誰でも使用できるという極めて使い勝手の良い代物でもある。
 しかし、魔術機関は旧世界の『遺物』であり、その数は決して多くは無い。そこでこれを研究・解析することでその模造品を作り出そうという計画が立ち上がった。多くの魔術機関技師がそれに携わり、何年にもわたって研究は続けられた。
 だが、研究はあまり進展しなかった。何度も何度も失敗を繰り返した後、研究者達はその原因が魔術に関する知識が不足しているいう結論にたどり着いた。魔術機関に関しての知識だけでは無理だと理解したのである。
 ならばその知識を得よう、と彼らは魔術大国である隣国に協力を求めるよう進言した。が、魔術機関の技術が流出するのを忌避した彼らの指導者達はそれを良しとはしなかった。
 それでも一部の者たちは諦めなかった。クレストもその中の一人である。彼らは秘密裏に隣国と接触を図り、彼らの技術と引き換えに魔術に関する知識を得ようと画策した。だが、その計画は実行される前に明るみに出ることとなり、結果、計画に関わった者達は全員、技師としての資格を永久に剥奪された。
魔術機関を扱うものにとって技師資格は必須のものである。故に資格を失った者達は裏の世界に足を踏み入れるか首都を出て行くかのどちらかを選ぶしかなかった。そして裏の世界でやっていくコネも度胸も無かったクレストは後者となった。もう二年以上前の出来事である。
 自分は間違っていなかったはずだとクレストは今でも思っている。彼はただ研究者として真実にたどり着き、それを人々の役に立てたいと思っていた。それが自分の成すべきこと、成せることだと信じていた。だが、それは裏切られ、クレストは自分の無力さを思い知らされた。
 その後、彼は様々な場所を転々とした。今思えば、何かを求め彷徨っていたのかもしれない。資格を失ったときに感じた、それとは別の何か大事なものを失ってしまったような喪失感。自分はきっとあのときに失った何かを取り戻そうとしてこんな遠くまで来てしまったのだ。
 靴が規則的に音を立てながら落ち葉を踏み潰していく。沈んでいく思考を元に戻すため、軽く息を吐き、前を見据える。そろそろ目的地が見えてくるはずだった。
 見えたのは人影らしきものだった。結構な距離があったが向こうもこちらを見つけたらしくまっすぐに―― 一本道なのだから当然だが――こちらへ向かってきた。クレストも同様に歩き続ける。待ちきれなくなったのか途中から相手は走り出した。
 人影は灰色の髪の少年だった。古びた大きすぎるマント――明らかにサイズが合っていないそれは小さな頃からの少年のお気に入りらしい――を引きずらないように注意しながら走っている。近づいてきた少年はクレストの隣に立ち止まって並ぶと、歩調を合わせて歩き始めた。
「思ったより速かったじゃん。」
 少年はクレストの同僚である。十代半ばの少年を同僚と呼ぶのは妙な感じではあるが、同じ工房で雇われ働いている以上同僚であるのは間違いない。ついでに向こうは友人だと言い張っているが、クレストにしてみれば友人よりは弟に近い存在である。
「まあ、待たせたら悪いですからね。それにしても随分遠くまで迎えに着てくれましたね、ロイ。家まで後どのくらいあるんです?」
「いやぁ、クレストが道に迷ってないか心配でさ。」
「一本道なんだから迷うわけ無いじゃないですか」
「いや、どうかなあ。」
二人で軽口を叩きあいながら歩いていく。
「まったく、それが酒の席を断ってまで約束を守ろうとした人間に対する言葉ですか」
「ああ、親方ね。別にいいじゃん、酒ぐらい。っていうか、何であんなもの皆して飲みたがるんだろ?」
「そう言っているうちはまだまだ子供ですね」
「酒を飲まなくても大人にはなれるって。これだから根暗は」
「誰が根暗ですか、誰が」
「まあ、今じゃだいぶマシになってるけどなー。来たばっかの頃はそりゃあもう――ん?」
 不意に頭上から降り注いでいた光が一瞬遮られた。二人が反射的に見上げてみると、一羽の大きな鳥が空の彼方へと飛び去っていくところであった。足の代わりに翼を力強く羽ばたかせ、人には届かぬ聖域を我がもの顔で駆けていく。
その様子を見て、ふと先ほど村で聞いた噂話を思い出してクレストは口を開いた。
「そういえば、この辺りで『怪鳥』を見たって話を聞いたんですが」
「怪鳥? ナニそれ? どんなの?」
「なんでも、翼が四枚ある、首の無い大きな鳥の化け物らしいとか」
「翼が四枚……、首がない……大きな鳥……」
「心当たりは?」
「無い。本当に無い。全然まったく無い」
「いや、そんな全力で否定しなくてもいいんですけど。だいたい首が無いなんて鳥じゃないでしょうし」
「そうそう。噂は噂」
 そう言って、ロイはほんの少しだけ眼を逸らした。が、クレストは気付かなかった。
「しかし、本当に変な噂ばかりですね。クリストフさんに関しては」
 クリストフ――本名ライル・クリストフというのはロイの保護者の代わりをしている老人のことである。このクリストフ老人だが、数年前にロイを連れて村に現れ、何を思ったか村はずれの森の中に家を建て、あまり村に姿を見せずにそこで暮らしているらしい。そのため村人には気味悪く思う者もおり、彼についてのあまり良くない噂がいくつも存在している。もっとも、ロイに言わせればそれらはすべて根も葉もないものであるらしいのだが。
「……なんだよ。クレストも疑ってんの?」
「いえ、そういうわけでは」
 と、甲高い鳴き声とともに、再び頭上を影が遮った。どうやら先ほどの鳥が戻ってきたらしい。足の代わりに翼を力強く羽ばたかせ、人には届かぬ聖域で踊るように旋回する。
 クレストが頭上で行われる見せつけるような舞踏を眺めていると、不意にロイが口調を変え、妙なことを言い始めた。
「ところでさ、クレストって空を飛びたいって思ったことあるか?」
「飛びたい? 空をですか?」
 空と鳥を見上げたままどこか曖昧な物言いでロイは言葉を続ける。
「えーと、なんていうかさ……ガキの頃、そう、ガキの頃。そんなこと考えなかったか?例えばさ……自分の背中に翼があって、それで空を飛べたら楽しいんじゃないか、とか考えなかった?」
 クレストは少し考える。正直に言えば子供の頃の記憶などろくに残っていない。
 だが、考えたことが無いとは言い切れなかった。
 それはきっと現実という限界を曖昧にしか知らない幼き子供たちが皆抱く幻想の一つだ。クレストとて恐らくは例外ではあるまい。
「そうですね……。考えた……かもしれませんね。」
「そっか。うん、やっぱそうだよな」
 ロイはその答えを聞くと空の彼方へ飛ばしていた視線を戻し、小さく笑った。どこか満足そうであった。
「あ、そういや、それ直った?」
 クレストの手にある透明な箱が眼に入ったのだろう。ロイが尋ねる。
「ええ、多分。ちょっと試してみましょうか?」
 そう言うとクレストは箱についている取っ手のようなものを握った。
 握った手から何かが吸い出されていく感覚。そして、
「お、ホントだ」
 箱の中から光が発せられていた。それほど強いものではない。一般的なランプとそう変わらない程度だろう。
 これが魔術機関だ。ちなみにこれは照明用の物である。機能も光を出すだけの単純なものだ。
「じゃ、ついでに俺にもやらせてくれよな」
「はいはい、どうぞ。というか元より貴方の物なんですけどね」
「ホントはそれじいちゃんのなんだよ。よっと」
 クレストから箱を受け取ったロイが取っ手を握る。
 結果はもちろん同じで、箱はまた光を発する。ただしその光はクレストのときよりも随分と明るいものだった。
「へえ、相性がいいみたいですね」
「これと? 相性とか、そんなのあるの?」
「ええ、まあ」
「ふーん。っと着いた着いた」
 気付けば目の前にやや大きめの小屋が見えていた。いや、小屋というより家と表現したほうが正しい。村の中にある建物と遜色の無い出来である。
 そして玄関であろう扉の前に拵えられた階段に白髪の老人が座っている。ロイが老人に口を開く。
「ただいま、爺ちゃん!」
「おお。お帰り、ロイ」
 そして
「ようこそ我が家へ。クレスト君、だったかな」
『変人』と噂される老人はそう言ってクレストを迎え入れた。



 夕食はクリストフ老人の手による豪勢なものだった。本人によれば、客人がこの家を訪れるのは久しぶりらしく、腕によりをかけて作ったということらしい。実際、料理の味は年季が入っていることもあってか申し分の無いものだった。
 村から離れたところに住み、村にもあまり顔を出さないため『変人』と呼ばれているクリストフ老人であったが、話してみれば気さくな人物であり、また相当の学識の持ち主でもあるようであった。
 その夜はクレストの予想通り、首都についての質問攻めとなった。どうも辺境の人々は首都に対して何らかの理想を持っているらしい。ロイが、首都に住む人は、皆金持ちで何の不自由も無く暮らしているんじゃないか、と聞いてきたときには流石に苦笑を禁じ得なかった。穏やかな時間が流れ、夜は何事も無く更けていく。



 深夜。
 無音の闇に包まれた廊下に足音がかすかに響く。光無き世界に現れた人影は壁に手を着きつつ、何とかまっすぐ進むことに成功しているようだった。
灯りを持ってこなかったことをクレストは後悔していた。つい先ほど唐突に目が覚めた彼は、便所へ向かい用を足してきたところである。たいした距離ではないと思って持ってこなかったのだが、どうやら失敗だったようだ。だいぶ慣れてきたとはいえ頼りない目を凝らしながら来たときと同じ道を通ってあてがわれた部屋へと戻っていく。
 と、角を曲がったとき彼の目にかすかな光が見えた。彼の進行方向左側の扉よりわずかな――周囲が完全に闇に覆われているからこそ見える程度の光が隙間から漏れている。
 ――それは好奇心、いやどちらかというと出来心だった。特に理由も無くクレストはその扉に手をかける。鍵はかかっていないようだった。ゆっくりと開く。
 扉の奥に見えたのは下り階段。どうやらこの小屋には地下室があるらしい。光はその部屋から出ているようである。
 出来るだけ音を立てないよう、クレストはゆっくりと階段を下りていく。
 そこはガラクタで埋め尽くされていた。厚めの木の板や金属の棒、荷車の車輪らしきものや何か既視感のある複雑な外見をした塊などが、ランプの光に照らされあちこちに散らばっている。ある程度の分類はされているようだが、それでも決して整頓されているとは言いがたい状態である。
 周囲を見回すと、左側に扉が見えた。足元に注意を払い、ガラクタを避けながら扉へと向かう。扉の先からも光が漏れてきている。音を立てないように慎重に扉を開く。そして目の前に現れたものを見てクレストは固まった。
(船……? いや、違う……?)
 彼の目の前にある船のような物体は、普通の船とは明らかに異なった形状をしていた。
 何よりも特徴的なのは二枚の板のようなものだった。小型艇のような形をした胴体の上方と底面に一枚ずつ船そのものの全長と同程度の板が取り付けられていた。胴体の先端には円錐の底面に針葉樹の葉を二対貼り付けたような風車のようなものが付いており、その後ろには座席と思われる窪みがある。さらに、脚立の両脚の先に車輪を取り付けたような形状をしたものによってその胴体は持ち上げられていた。
 それらすべての特徴は船としての用途、すなわち水の上を進むということにおいておよそ不必要――いや、邪魔でしかない代物だった。
 その船のようなものの下――取り付けられた車輪の辺りに一人の老人が居た。この部屋の、ひいてはこの小屋の持ち主であるその老人は、クレストの存在に気付いたらしく困ったような――本当に困ったような顔をしていた。互いに眼が合うも言葉は交わされず、微妙な沈黙が起こる。そして、しばらく続いた沈黙は船もどきの陰から現れた第三者の、聞き覚えのある声によって砕かれた。
「爺ちゃん、こっちはいいよ――ってクレスト!? 何でここに!?」
「……それはこっちが聞きたいですよ」
「ロイ、また鍵を掛け忘れおったか」
自分が思ったことと同じ問いを発した声の主の少年は驚愕に顔を引きつっており、老人のほうを見やると、その表情は困惑を通り越して苦笑いへと変化していた。
「まあ、こうなってしまったら仕方が無いのぉ、クレスト君これがなんだか興味があるじゃろう?」
そしてクレストの返事も聞かず、老人は顔を後ろにあるそれへ向け、言葉を紡ぐ。その様子は招かれざる客に語るのにも関わらず、どこか誇らしげであった。
「これは地を這うもののための紛い物の翼。空という名の聖域への扉をこじ開ける無骨にして奇怪たる一人乗りの箱舟。その名も、飛行機械『スカイチェイサー』。――もっとも、まだ試作だがね」




 空を飛ぶという行為を実現することは極めて難しい。
 地面から空へと上がるためには何らかの方法――例えば、地面を蹴ったりすることで自らを押し上げなければならない。これは難しいことではない。問題はその後、空中に在る状態をどうやって維持するか、である。
 地に住むモノは空という世界においてはあまりにも無力である。それは魚が陸では生きていけないということと同義だ。地上においていかに強大な力を持つ生物でも、地を離れれば無力な――何も出来ずに落ちていくだけの弱者へと成り下がる。たとえ空に足を踏み入れても、決してそこより先に進むことは出来ない。それが地に住むものの限界であった。
 しかし、例外も存在する。それが「魔術」。いつかも分からぬ古き時代に人が手に入れた不可能を可能にする理不尽な力。その力によって人は限界を超えられると信じた。超えられるはずだった。
 だが、魔術に出来たのは限界を超えることだけであった。飛行するためにはその間常に魔術を発動させておかなければならない。魔術の持続発動は精神的疲労が極めて大きいため、短時間しか行うことが出来ない。努力を重ね、効率の最適化も図ったが、それでも長くて数十秒程度。これでは空を飛んだなどとは言えない。万能の力と思われていた魔術さえ、そこが限界だった。
 最後にして最高の手段ですら失敗したと悟ったとき、ついに人は空への夢を諦めざるを得なくなった。翼持たぬ者にはどう足掻いても届かぬ場所なのだと、人々はそう結論付けたのだ。
 彼らは知らない。かつて、人が翼を手にしていたことを。




 エルトからいくらか離れた場所に存在する広大な名も無き平原。誰も立ち寄らないようなその場所に彼らは来ていた。
 特にすることも無く、クレストは辺りを見回してみる。地図の上ではさしたる広さではないように見える場所だが、実際に目にしてみるとやはり広い。だが、森や山こそ遠くに見えるものの、周囲には足元に雑草が申し訳程度に蔓延っているだけである。要するに何も無い。
 その何も無い平地の中を、土を掘り固めて作ったのであろう一本の茶色い道が真っ直ぐに通っている。不自然な光景であった。
 街道から外れたこの場所に人がやってくることなどまず無いであろうし、そもそもこれだけ何も無い平地に道を作る必要はどこにも無い。石ころ一つ見つけるのも難しいほどの徹底した整備のされ方も不自然さに拍車をかけていた。
 その不自然な道の上で昨日は地下室でランプの光に照らされていた飛行機械が、今は太陽の光にその身を晒していた。ちなみに地下室から運び出す際には、地下に設けられた通路を使っている。その地下通路の出口がこの草原だったのだ。
 それを見ながら半信半疑――というか、どちらかというと疑わしい気持ちでクレストは考える。
(本当に飛ぶんですか……? これ)
 昨日の夜から今までに見聞きしたことが正しいのなら――これについて確証は何もない。だからこそ疑わしいのだが――そういうことになる。
 今朝方受けた大まかな説明を頭の中で反芻する。
(――船首にある二対の羽根を高速で回転させ、空気を後方へ押し出すことによって推力を得る。そしてその推力で前進する際に生じる風を胴体に付いている翼で受けることによって船体を上昇させる……ですか。まあ、理論上は可能かもしれませんが……)
 要は自分で風を生み出しながら滑空するグライダーというところだろうか。確かに自らが風を生み出せるなら長時間にわたる飛行も可能であろう。しかし この物体とグライダーでは重量が明らかに異なっている。その差を埋めるだけの強風を生み出すにはあの羽では明らかに力不足である。そもそも、普通の方法でそれだけの風を生み出すことなど出来るはずが無いのだ。だが、彼ら――ライル老人、ロイ、そして今朝紹介された五人の『弟子』を名乗る者たちはそれを――あの物体が飛ぶことを当然のことのように自分に見せようとしている。
 言いたいことはあった、がクレストは黙ってみていることにしようと決めていた。自分は所詮ただの客だ。彼らがこれから行うショーを見に来た観客に過ぎないのだ。ならば、観客は観客らしくしていようとクレストは考えた。観客はショーの舞台裏を知る必要は無い。そこに文句を言いにいくなどもってのほかである。おとなしくこの成功するか失敗するか分からないショーを楽しめばいいのだ。幸い、お代は無料なのだし。



 これに乗るのは――あの場所へ行くのは久しぶりだった。
 前の休日は雨、その前の休日も雨だった。さらにその前の休日は自分が風邪を引いてしまった。さらにさらに前の休日には運んでいるときに機体が転倒し破損したため中止になっている。
 他の人はどうであるか知らないが、少なくともロイ・フライア少年にとって空は素晴らしい場所であった。自分の体が地面を離れるとき。全身に風を感じるとき。空で体験するあらゆることが彼にとっては喜びだった。こここそが自分の居るべき場所ではないかと思うほどに。
 今、ロイの目の前には六人の大人たちが最後の確認を行っていた。毎回行っていると一種の儀式のように感じられるから不思議なものである。
 残念ながら彼らが何を話し合っているのかロイには理解できない。ロイ自身勉強はしているのだが、いかんせん彼はまだ幼すぎた。幾つか知っている単語は聞こえるものの結局話は理解できず、代わりにロイは話している大人たちに目を向けた。
 ハワード・ナックス。職業は運び屋。体が大きく、筋骨隆々としている。本人もその逞しい体を自慢にしているが、小さな子供が時々怖がって逃げていくのがちょっとした悩みだという。
 アルフレットとリドルのクレッグ兄弟は家具職人で顔は似ていないが、性格も似ていない。普段は仲がいいのだが、たまに突然大喧嘩を始めたりする。密かに兄弟が欲しいと思っているロイとしてはいつでも仲良くしていればいいのに、と思うのだがなかなかそうはいかないとは兄の方の弁である。弟のリドルはロイと一番年が近かったりする。まあ、近いといっても十年近く離れてはいるのだが。
 アルマ・ミールは唯一の女性であり、美人で気が強い。問屋の経営を手伝っている。実は未だに浮いた話の一つもないことを気にしているらしい。綺麗な人なのだからすぐにできそうなものなのだが、ロイの知り合いのある人曰く、「強烈過ぎて近寄りがたい」らしい。
 クレイ・サイゴートは『弟子』たちの中では最年長であり、既婚者でもある。職業は細工師。普段はわりと静かで無口な人だ。娘が二人いるのだが、少し前に上の娘は嫁に行ってしまっている。ちなみにその当時は毎日酒場に通っては、泣きながら潰れるまで飲んでいたとか。ロイも一度だけその様子を見たことがあるが、あまりに普段とかけ離れた醜態に、絶対に酒には溺れるまい、と心に誓ったものである。
 そして、じいちゃんことライル・クリストフ。自分を育ててくれた、たった一人の家族。生まれたときからずっと一緒にいる人。誰よりも尊敬している人物。料理が得意で物知りの老人。
 この六人が作り上げたのだ。人を空へと導く翼を。
 自分も手伝いはしたが、残念ながらまだその一員といえるほどではない。ロイはそう思っていた。だが、そう遠くないうちにその中に入るつもりであった。
 最近15歳になった。昔と比べればいろんなことを知ったし背も伸びた。今は未熟な子供だが、いつの日か立派な大人になり胸を張ってその一員であると言えるようになる。それがロイの目標、あるいは自身に対する誓いであった。
 確認は終了したらしい。全員がロイのほうへと視線を投げかけている。これもいつものことだった。それに応えて、ロイは大きく――ややオーバーとも思えるほどに首を縦に振った。これで、すべてが整った。
 ――さあ、行こう。


 今日の主役は定位置に着いたようだ。こちらまで移動してきた六人とともにクレストは離れた場所からショーの始まりを待っていた。目の前には先ほどの一本道が通っている。その先には飛行機械とその舵をとるあの少年がいるはずである、が見えるのはあの物体だけで少年の姿までは見えない。
 六人のうちの一人、ハワードとかいった大男が手に持った大きな赤い旗を振った。その勢いとわずかに吹く風に旗がなびく。これが開始の合図と見て間違いないだろう。
 旗が下げられた後、最初は何も変化がないように見えた。飛行機械の姿がわずかに大きくなったようにも見えるが、それも見間違いと言われれば納得してしまいそうな程度である。
 だがしばらくすると、その姿は変化を無視できないほどに大きくなった。大まかではあるが輪郭も認識できる。とりあえず動いていることは間違いなさそうだ。
 次にわずかな音が聞こえてきた。羽虫が耳元を通り過ぎるときに聞こえるあの耳障りな音に似た音。それが高速で風を押しやる物体が発する音だとクレストは知る由もなかったが。
 音が次第に大きくなっていく。音の発信源たる機影もその姿をはっきりと捉えられるほど近づいてきている。それは間違いなく昨夜地下室で見たあの物体だった。そして――
「っ!?」
 突風とともに、それは凄まじい速度――馬の全力疾走にも勝る速度でクレストたちの目の前を通り抜けていった。あの巨体が、である。信じがたいものを見るかのような気持ちでクレストは目線でそれを追いかけた。そして、さらに信じがたいものを見ることとなる。

 車輪が――決して軽くはない重量を支えていた二対の車輪が大地を、離れた。

 それを皮切りに飛行機械はゆっくりと上昇を始め、そしてその名の通りに大空を飛んで見せたのだった。
 六者が六様に歓喜の声をあげる中、クレストはといえば驚きを遥かに通り越し一人絶句していた。我が目を疑うとはこういうことを指すのだろう。そんな クレストを尻目に飛行機械は緩やかな旋回を繰り返しながら空を飛び続ける。
「どーだい。たいしたもんだろ」
 そう言ってクレストの肩に手を回してきたのはクレッグ兄弟の弟リドルだった。
「俺たち以外でこいつを見たのはあんたが初めてさ。つーわけで、なんか感想を聞かせてくれよ! な! な!!」
「おいリドル、はしゃぎ過ぎだ。――すいません、誰かに見てもらうのは初めてなもので、こいつ随分と興奮してて」
 兄のアルフレッドがリドルを引き剥がし、代わりに謝罪した。そのリドルは腕をつかまれたまま、いいだろー兄貴、と抗議の声を発している。そこへさらに怒りを含んだ別の声が割り込んでくる。
「ほら、そこの二人! 遊んでないでやることやる!」
 今度の声は女性のものだった。聞こえてきたほうを見やると、アルマと名乗った女性がこちらを睨んでいた。別にクレストは悪くないのだが、それでもなんとなく謝ってしまいそうな表情だった。実際に睨まれている兄弟も似たような感想を抱いたようで、おっかねー、などと小声で口走りながらそちらへと去っていった。
 二人を視線で見送った後、そういえば他の三人はどうしているのかと思い、クレストは辺りを見回した。目立ったのかどうなのかは分からないが、最初に目に入ったのは大男のハワードだった。手にはまだ旗を持っており、時折それを大きく振っているようだ。上空にいるロイに何らかの合図を送っているのだろう。
 残る二人――クレイという男とクリストフ老人もそのすぐ近くにいた。飛び続ける機体を真剣な表情で見ながら何かを話し合い、それを紙に書き込んでいるようであった。クレッグ兄弟とアルマのほうに目を戻すと、三人ともやはり空を見上げて何か話しているようだった。
 六人に習うようにクレストも上空を見上げた。誰もが見守る中、飛行機械は悠然と蒼穹を漂い続けていた。



 目前に広がるは青、左右に広がるも青、頭上あるいは後方に広がるのもやはり青。わずかに見える白雲以外青一色の世界はいつであろうとロイに開放感と高揚感をもたらしてくれる。
 久々の飛行は概ね快調といえた。風に翼をとられることもなく、飛行機械の状態にも異常は見られない。全速力で疾風のように駆けたいという衝動と戦いながら、ロイは出来る限り冷静であろうとしながら操縦桿を握り締めていた。 速すぎれば消耗が激しくなる、かといって遅すぎるわけにもいかない。最も消耗が少ない速度で長時間飛び続けることが必要とされていた。
 少し頭を出してみると、眼下には緑の平野といつもより一つ多い人影があった。高い崖から下を見下ろすとこんな感じになるのだろう。そういえば自分は今どれくらいの高さを飛んでいるのだろうか。ロイはふとそんなことを考えた。少なくともエルト村付近の一番高い木よりは高いだろう。ひょっとしたら世界で一番高い木よりも上かもしれない。しかしそれでも――
 今度は頭上を見上げた。そこには空があった。地上で見るのと全く変わらない、どこまでも続く吸い込まれそうな空が遥かな高みに広がっている。
 空の上には神様の世界がある、と皆は言うが、それは間違いだとロイは思う。
 空の上には空があるのだ。きっとその上にも空があって、そのまた上にも空があるのだろう。果たして自分は、いや、人はどこまで行けるのだろうか。いつかは本当の意味での空の上にたどり着くことが出来るのだろうか――
 ガクンッ、と体が座席に押し付けられた。考え事をしていたせいで速度が上がってしまったらしい。ロイは慌ててペダルの踏み込みを弱くする。危ない危ないと思いながら今度は旋回するために機体を傾けた。飛行機械はゆっくりと弧円を描き始め、

 ――直後、突然の強風によって大きく体勢を崩した。


 緩やかな曲線を描いていた飛行機械が、突然揺れたかと思うと高度を下げ始めた。それまでの軌道からも外れ、ただ降下の速さだけが増していく。何かが起こったのは誰の目から見ても明らかだった。そう、それはもはや降下ではなく――
「落ちる!?」
 その言葉を発したのは誰だったのか。それすら分からぬほどに、クレストはすべての意識を落下する飛行機械に向けていた。
 それは御伽噺にある、神の怒りを買い空から追放された怪鳥を連想させた。まるでその身に重い咎を背負わされたかのように、飛行機械は地面との距離をゆっくりと縮めていく。
 誰も何も出来なかった。目の前で起こる事実を受け入れられず、あるいは起こるかもしれない奇跡を祈るように、全員がその光景をただ見ていた。
 そして、小さな音を立てて人造の――紛い物の翼は地へと墜ちた。
 しばらくの間、誰一人として言葉を発しなかった。クレストもなんと言えばいいのか――それ以前に自分が口を出していいのかすら分からず、沈痛な表情をしている他の六人の様子を遠慮がちに伺っていた。
 最初に口を開いたのは大男だった。そして、その内容はクレストが予想していなかったことだった。
「おい……、ロイのやつ、ちゃんと脱出したか……?」
 空気が一瞬で凍りついた。誰もそれを否定できなかったのだ。飛行機械にはいざというときのための脱出手段が設けられていると彼らは言っていた。しかし、ロイがそれを使って逃げたのをクレストも彼ら六人も見ていない。それはつまり――
「っ、マジかよ、あンの馬鹿!!」
 真っ先に動いたのは、リドルだった。罵声を残し、凄まじい形相で落下したと思われる方向へ走り出す。それに遅れて、クレストと残りの五人も走り出した。体力の差から走っているうちに一人、また一人と追い抜き、いつしかクレストの前にいるのは先に走り出したリドルだけとなっていた。
しだいに小さな砕けた木片が足元にちらほらと見えだしてきた。目的の場所は近いと考えてクレストは速度を上げる。視界の中にそれらしき物体が姿を現し始めていた。
 不意に、前を走っていたリドルが足を止めた。クレストもリドルの横で立ち止まる。
 その先には見覚えのある服を着た見覚えのある少年が確かにいた。しかし、
少年は無残な姿となった飛行機械のすぐそばで、仰向けに倒れたままピクリとも動いていなかった。


「──ばらくは絶対安静、つまり動くな──、だってさ。」
 医者の口調を真似て──実際に似ているかクレストには分からなかったが──ベッドの上で上半身だけを起こしたロイはそう言った。
「その割には元気そうですね。まあ、いいことなんですけど。痛んだりしませんか?」
そのすぐ傍で椅子に座って、差し入れの果実の皮をナイフで切りながらクレストがそう訊く。
「んー、なんか変な感じがするけど、たいしたことないって。それよりも、暇で暇でしょうがないんだよ。ていうかなんだよ、木登りしてて落ちましたって。」
「まさか正直に言うわけにもいかないでしょう? まあ、言ったところで誰も信じないとは思いますけど」
 窓から入り込む昼過ぎの淡い陽光がその姿を照らしていた。そこはクレストの知る病室というものとは少し違っていた。左手と左足を包帯で覆われた痛々しい姿であったが、その表情は普段と何ら変わらないように見えた。
 あの日からすでに五日が過ぎていた。
 上空より落下し、地面に激突する際に投げ出されたロイは重傷ではあったが命には別状なく、ベッドの上という限定付ではあるがこうして普通に会話できるほどに回復していた。
「動かないほうが早く直るって言うから静かにしてるけど、ホントつまんないんだよなー。でもまぁ、じいちゃんやみんなのためにも我慢しないと」
 その言葉に、皮を剥いていたクレストの手が止まった。
「あ、でもその前にスカイチェイサー直さないと。バラバラになっちゃったしなぁ……。うん、そのためにもこんな怪我早く直さないと」
 コトリ、と。クレストは剥きかけの緑の果実を木皿の上に置くと、椅子から立ち上がりロイのほうへと向き直る。
「おーい、クレスト。先にそれを剥いて──」
「……まだ、続ける気ですか?」
「へ?」
「もう一度あれに乗る気なのかって聞いてるんです」
 それまでの穏やかな空気を引き裂くこともいとわず、眼鏡の奥で真剣な光をたたえながえら問うたその口調は、クレスト自身の意図したものよりも強いものだった。ロイは唐突な雰囲気の変化に戸惑っているようだったが、それでも
「……乗るよ」
 と、短く、それでいて明確な言葉で答えた。
 それを聞いてクレストの中の何かに火がついた。感情が急速に高まっていくのを、頭の中のまだ冷静な部分で感じ取ることができた。これだけ熱くなるのは珍しく、そして随分と久しぶりだった。感情が高まるにつれ、言葉も強さを増していく。
「なぜです!」
「乗りたいから。空を、飛びたいから」
「危険だとわかっているのに!? その危険をその身で味わったというのに!? 次はこの程度で済まないかもしれないんですよ!?」
「それでも、それでも飛びたいんだ!」
 問い詰めるクレストの声よりも大きく、口調を荒げながらロイはそう答えた。
「そりゃあ、無茶苦茶怖かったし、それ以上に痛かったよ。あんな思いをするのはもう嫌だし、ホントはもう一度乗るのも考えただけですっげえ怖い」
言葉とは裏腹に、見つめ返してくるその眼に曇りはなかった。自分の意思は曲げないと、そう主張している。
「でも、それなんか軽く超えるくらい飛びたいって思うんだ! 地面から離れて飛び上がって、体全体で風を感じて、青と白だけの世界を鳥みたいに自由に飛び回って。それが楽しいんだ。何よりも、どんなことよりもそれが楽しい。だから、飛びたいんだ!」
 叫びにも似たその言葉に嘘偽りは一言もないであろうことはクレストにも理解できた。クレストが知りうる限り、ロイという少年は嘘が苦手ということもある。がそれ以上に、その言葉に込められた想いが何より強かったことが大きい。それゆえクレストは反論できなかった。そんなクレストの心情に気付くことなくロイは言葉を続ける。
「それに、俺、飛んでるときはなんだか安心できるんだ。まるで生まれた場所に戻ってきたみたいでさ……。だからかもしれないけど、思うんだ。空へ行きたいって、行かなきゃいけないって、──空が、俺の居場所だって。」
そ こまで一息に喋ると、ロイは何かに気付いたように言葉を区切り、そして俯いた。そこには先ほどまでの意志の強さは残っておらず、むしろ怯えて小さくなっている気弱な少年を髣髴とさせた。普段とはかけ離れたその様子は、何か異様なものを含んでいるように感じられた。
「おかしいだろ……? 人間って地面を歩くのに。空は飛べないのに。これじゃまるで──」
 弱々しい声で話し、躊躇うかのように一拍置いた後、小さな──本当に小さな声でロイは呟いた。
「──人間じゃないみたいだよな……」
 その言葉は小さな声にもかかわらず、二人だけの静かな室内にやけによく響いた。
 響きが消えた後でも、どちらも言葉を発しようとはしなかった。何を言うべきか分からず、クレストは逃げるように剥き途中の果実を手に取る。ベッドのほうにちらりと眼を向けると、ロイはまだ俯いたままだった。
窓を叩く風の音が、先の呟きと同様に大きく響いていた。


「これ、気が向いたら食べてください」
 皮を剥き、さらにいくつかに切り分けた果実と、その一言を残してクレストは病室の扉を閉めた。ロイは最後まで俯いたままだった。
 部屋を出た後、自らが閉じた扉の前でクレストは立ち尽くしていた。ロイを一人にするのは気が引けたが、自分ではどうにもできないと感じていたし、何より、あの空気に耐えることができなかったのだ。そんな弱い自分を責めながら、クレストは互いを隔てる扉をただぼんやりと見つめていた。
「ちょっといいかのう、クレスト君」
 突然かけられた声に、クレストは半ば反射的に振り向いた。そこにいたのは穏やかな顔をした小柄な影、もといクリストフ老人だった。
「君、これから時間は空いとるかね?」
「え、まあ、一応は。しかし、僕の見舞いはもう終わったので──」
「今見舞いに行ったところで、あの子は聞く耳持たんじゃろうて。変なところだけはやけに強情でのう。また後で出直すことにするわい。それよりも君、時間があるならついてきたまえ。いいものを見せてあげよう」
 それだけ言うと、クリストフ老人はさっさと背を向けて歩きだす。が、いまいち状況が掴めていないクレストはその後姿を眺めていることしかできなかった。そんなクレストの様子を面白がるように、クリストフ老人は不意に立ち止まって首だけで後ろを振り返り、
「そうそう、病室の中で大きな声を出すのはあまり感心できんのう」
と、それだけ告げるとまた歩き出した。
 残されたクレストがその言葉の意味を理解するのには、もう少しかかりそうであった。


 クリストフ老人に連れられ歩くうちに、いつしか森の中へ、そして見覚えのある道へと入り込んでいた。数日前、ロイとともに歩いた道である。あのときの元気で楽しそうな様子を思い出して、クレストは余計に気を落とす。
 共に歩いている二人だったが、しかし、そこに会話というものは存在していなかった。先導する老人は後続たる青年に何も告げず、青年もまた何も尋ねずに無言で付き従っている。村の診療所を出てから、この奇妙な構図がずっと続いていた。
 虫の音も去った森の中で、ただ枯葉を踏みしめる音だけが断続的に小さく発せられる。存在する音はそれだけだった。
「…………何か聞きたいことはないのかね?」
 ポツリと。顔を向けることもせず、歩く速度すら緩めず、なんでもないことを聞くかのようにクリストフ老人はそう言った。
「……なぜ、ロイなんですか」
「あの子がもっとも適しているからじゃ。それに君が聞いたとおり、本人の意思でもある」
「しかし、危険であることはわかっていたはずです」
「あの子はそれを承知の上で、自ら乗りたいと言ったんじゃ」
「そんなものが理由に! たとえ本人が望もうとも、それでも止めるのが保護者の、大人の役割でしょう! あなたの孫なんですよ! 心配じゃないんですか!?」
 心配でないはずがない、ということも本当は分かっていた。彼らの小屋で見た団欒の風景や、ロイが診療所に運びこまれるときに見せた焦燥した表情をみればそれくらい理解できる。それでも、それだけ大事にしているのにもかかわらず、危険な役割を任せたこの老人にありったけのことを言ってやりたかった。そうでもしなければ収まりがつかないのだ。
 だから何事もなかったかのように歩く老人に向けて、クレストは己の憤りを余すことなくぶつけた。しかしクリストフ老人はもはや罵声と化したクレストの言葉を突きつけられながらも、それでも揺るがずに歩き続けていた。
「…………少し昔の話をしよう」
 そして答えの代わりに発せられたのはまったく別の言葉だった。
「は!? 何を言って──!」
「まあ、聞きたまえ。時間はまだまだあるし、無関係な話でもないのだから」
 そう告げると、クリストフ老人はクレストの隣に並んだ。明らかに納得のいっていない顔のクレストを気にすることもなく、老人は話し始めた。
「あるところに一人の娘がおった。この娘、年頃にもかかわらず、お喋りよりも森の散策や木登りの方が好きだというどうしようもないおてんばじゃった。」
 それは子供に御伽噺を語るような口調だった
「ある日、いつものように娘がお気に入りの大きな木に登ろうとすると、上のほうに一人の青年が座っておるのが見えた。自分以外にも人がいるのをうれしく思った娘は、彼に声をかけようといつものように登り始めた。しかし、登っていくにつれはっきりしてきた青年の姿を見て娘は驚いた。その背中には翼があったからじゃ。そのときになって青年の方もようやく娘に気付き、慌てたように立ち上がると、枝から空へと飛び上がった。それを見た娘はとっさに、待って、と叫んだ。すると何を思ったのか翼持つ青年は娘の目の前に降り立ち、そして、どうして引き止めたのか、と娘に訊いた。娘は答えた。あなたのことが知りたいから、と。それが始まりじゃった」」
 そして、それは同時に過去を懐かしむ独り言のような口調でもあった
「それから人間の娘と鳥人の青年は同じ木の上で何度も逢瀬を重ねた。そして、いつしか二人は互いに想い合うようになっていた。しかし、その恋にも終わりが訪れた。仲間たちとともに、青年は別の地へと旅立つことになったのじゃ。娘は必死に引き止めたが、青年はそれでも去っていってしまった。いつか必ず戻ってくるという誓いを残して」
「…………それで、この話がどうして関係があるんです」
「そう焦りおるな、まだ続きが残っておる。──青年と別れてからいくつか季節が変わった頃、娘は自分の調子がおかしいことに気付いた。娘は身篭っておったのじゃ。周囲の者は父親が誰なのか問うたが、娘はその名を決して明かさなかった。そして、幾多もの反発にあいながら、それでも娘はその子を産み落とした。我が子を腕に抱いた娘は本当に幸せそうじゃった。しかし産後、娘の調子は悪くなり、その体は日々衰えていき、ついには死を迎えることとなってしまった。残された誓いを果たすことなく」
「……救われない話ですね。それで?」
「君はあの子の姓を知っているかね?」
「ええ。フライア、でしたっけ」
「そうじゃ。フライア……、『飛翔する者』、あるいは『翼ある者』の意をもっておる」
「!? まさか……」
「──この話に出てくる青年には姓がなくてのう。じゃから、子供の姓は娘が自分でつけた。その父親を表すもっとも単純な言葉でな」
 そして、クリストフ老人はそこで言葉を切った。
 視界の先で、数日前にも見た小屋とその扉がいつの間にか随分と大きく見えていた。

「あの子はわしの親友の孫でな。わしとはまったく血が繋がっとらん」
 左手にランプを持ち、右手で鍵穴に鍵を差し込みながら、至極当然のことのようにクリストフ老人はそう告げた。
「その、実の祖父母の方は……?」
「死んでしもうたよ。娘が死んで数年後に、火事で、後を追うようにして。偶然にもあの子だけは生き残ったがね」
 老人が軽く鍵をひねると、カチャリという小さな音が聞こえた。開かれた扉の奥にあるのは、やはり数日前に見た地下への下り階段。ただし、今は光が漏れてはいなかったが。
「じゃから、あの子は肉親の顔を誰一人として知らんし、もはや知ることもできん。ただ一つの可能性を除いてのう」
 ランプに灯を入れると、クリストフ老人はゆっくりと階段を降り始めた。クレストも足元に注意しながら無言で続く。
「……一度だけ、あの子の父親に会ったことがある。火事で肉親を失ったあの子を引き取ってからしばらくたった夜のことじゃ。全身をローブで覆った灰色の髪の若い男が突然尋ねてきおった」
 足音を規則的に響かせながら、二人は下へ下へと向かっていく。
「その男は、子供を見せてくれ、とだけ言うと、有無を言わさずに中にあがりこんで、幼いあの子の寝ているベッドを覗き込んでおった。そこで、その男とあの子の髪の色が全く同じであることにわしは初めて気付いた。わしは男に、君がそうなのか? と聞いたが、彼は答える代わりに、この子をお願いします、とだけ告げて、これまた突然に去っていってしまった。少し遅れて追いかけてみたものの、すでに彼の姿は無く、彼が着ていたローブが地面に落ちているだけじゃった」
 たどり着いた地下には自然の光は届いておらず、代わりに老人の手にあるランプの灯がまがいものの太陽のごとく周囲を照らしている。そこも、そしてそこから先も何も変わっていなかった。ガラクタの山、人が通れる最低限の足場しか残っていない部屋、かろうじて見える左の扉。すべて見覚えのあるものだった。
 老人は残った足場を器用に進み、扉を開けた。
 その先、やはり変わらない地下室の中に、これ以上ないほどに変わり果てた『飛行機械だったもの』が横倒しになっていた。
 まさに無残といった様相だった。まず、片側の翼が根元からもがれている。 車輪も一つを残して抉り取られており、もはや機体を支えることは不可能だろう。さらに、先端にあった二対の小さな羽根も姿を消しており、その中心の円錐にいたっては接合部ごとあらぬ方向へと曲がっていた。
 高いところから落ちればものは壊れる。机の上から花瓶を落とすのと同じことだ。そしてそれは当然生き物にも、人間にも当てはまる。目の前の残骸はそんな当たり前の事実をこれでもかというほどに突きつけてきていた。そう、運が悪ければ──
「危険と知っていても、わしがこれを作った理由は二つ。一つはあの子の血が持つ潜在的な願望のため。もう一つは──あの子を父親に会わせるためじゃ。そのための手段をわしはずっと探しておった。」
 途中から手段が目的に変わってしまったがね、と付け加えるとクリストフ老人はすでに飛行機械だったものから目をはずし、別の方向へと向かっていた。先に見えるのはまたしても扉。老人はその中へと姿を消す。クレストも躊躇いがちに中へ足を踏み入れた。
「皮肉なことにヒントは青年が娘に聞かせた話の中にあった。日々、衰えていく中であの娘は楽しそうに話してくれたよ。──はるか昔、旧世界が終末を迎える以前に、このあたりでは人間のための翼が作られていたと」
「こ、れは……」
 そこは書斎、あるいは資料置き場のようなところなのだろう。壁に張り付いた本棚には大量の書物が並び、二つある大机の上にもそれらしき本や手書きと思われるノートがいくつか置かれている。足元には乱暴に丸められた紙が散乱していた。そして、その部屋の奥には、
「身寄りのないあの子を連れて、わしは旅に出た。小さいあの子を近隣の人に預け、それを求めてこの辺りを何度も、何度も何度も彷徨った。そして何年もかかった末、ようやく『これ』を見つけた」
 紛れもない、飛行機械が鎮座していた。全身は赤茶けた色に変色し、搭乗席や先端部はないが、その形状はまさに瓜二つであった。
「驚いたじゃろう。これが紛い物の翼のオリジナルじゃ。本当はいくつも見つかったんじゃが、残念なことに原型を留めておったのはこれ一つだけでのう。さすがにもう飛ぶことは出来んが、あれを作る際にあらゆる面で参考になったよ。まあ、正確にはこれと同じものを作ろうとしたんじゃが」
「これも『遺物』……」
「そう。君がよーく知っとる魔術機関と同じじゃ」
「……知って、いえ気づいてたんですか」
「なに、長いこと生きとると、どうでもいいことまで分かるようになる。それだけのことじゃよ」
 そう言うと老人はくるりと向きを変え、クレストと向き直った。
「さて、本題に行こうか。多分もう気付いておると思うが、こいつとそのレプリカであるスカイチェイサーには動力として魔術機関が積まれておった。運のいいことに、一緒に見つかった部品の中にまだ動くものが一つだけ残っておったのでそれを使っとったんじゃが、落ちた衝撃で完全に壊れてしもうてな」
 クレストの脳裏に先ほどの飛行機械の惨状が蘇る。恐らくは先端の折れ曲がった円錐の奥にあるのだろう。魔術機関の中には用途によっては異常なほど頑丈に作られているものもあるが、たとえ頑丈だろうとあの状態を見る限りとても無事とは思えなかった。
「実際のところ、魔術機関の部分以外は作り直すことは可能じゃ。そもそも、そこ以外はわしらが全て自分で作ったものだしのう。だが、そこだけはどうにもならん。わしらの中には魔術機関に関する知識を持つものはおらんからじゃ。かく言うわしも、起動方法とその効力ぐらいしかわからん。しかし、偶然にも今ここに君がおる。それは何かいみのあることだとわしは思う。じゃから、卑怯な訊き方だと分かっておるがそれでも訊かせてもらおう。」
 一度も逸らすことなく、クリストフ老人はクレストの眼をじっと見据えていた。老年のものとは思えぬ強く鋭利な眼光がそこにあった。そして老人は問うた。
「わしらの、そしてあの子のために力を貸してもらえんか?」



 考えさせえてください、という安直な決まり文句を残してクレストは小屋を後にした。クリストフ老人のほうもすぐに答えが決まるとは思っていなかったようで、特に引き止められることも無く、クレストは村へと戻ってきたのだった。
 とはいえ日の入りが早いこの時期である。小屋を出るときにすでに空は赤く染まっており、森を抜け村の中に入る頃にはもはや闇色一色に変わっていた。
それでも下宿に戻るにはまだ早すぎるとクレストは思った。別に早く帰って問題があるわけではないが、今のまま帰ったところで、部屋の中で一人悶々と考え込む羽目になることは容易に想像できたからだ。
 ならば酒でも飲んで気を晴らそうとも考えたが、近くの酒場から馬鹿騒ぎする声が聞こえた時点でその気が失せた。精神が笑い声とともに漏れてきた雰囲気をはっきりと拒絶していた。今の状態で、盛り上がっている酒場に入っていくのはある意味拷問に等しいと。
 そういうわけで特にどこかを目指すわけでもなく、ただぶらぶらと歩きつづけているのであった。
 しかし、ただ無為に歩いていても、地下室でのやり取りが頭の中に自然と浮かんでくる。
 ロイの身を案じるのなら、あの場で即座に断るのが正しい選択肢だったのであろう。たとえ本人が望んでいたとしても、危険な目に遭わせるようなことには協力できない、と。少なくとも、クリストフ老人に対して啖呵を切ったときの自分はそう考えていたはずだった
 だが、あの時、飛行機械の原型となった『遺物』を目にし、そして魔術機関という言葉を聞いた時に、自分の内から何かが頭をもたげるのを感じたのだ。その名を思い出すことはできなかったが、それは懐かしく、強い感情だった。気づかない振りをするのが躊躇われるほどに。
 結果、意思という名の天秤は揺れ動き、クレストは今こうして悩み抜いている。
 無理にでも別のことに意識を向けようとも考えたが、それは問題を先延ばしにするだけであり、結局いつかは考えなければならない。それに、早く答えを出す必要も感じていた。出すのが遅ければ、どちらの側に立つこともできないただの部外者になってしまうと、そう思ったからだ。
 しかし、このままでは埒があかないのも事実である。今に至るまで天秤の傾きはどちらにも定まらず、思考は堂堂巡りを繰り返している。何か、何か切り口となるものが必要だった。どんな些細なものだろうとも、それさえあれば何らかの結論を見出せるだろう。だが、問題なのはその何かが一向に見つからないことだった。
ふと気づくと診療所の前を歩いていた。いや、ひょっとしたら無意識のうちにここへ向かっていたのかもしれない。ここにいる少年がその何かをもたらしてくれる可能性が高いというのは考えてみればあまりにも当然なことだった。悩み込むあまりそんなことすら思いつかなかった自分にクレストは苦笑する。
 縋り付くような思いで診療所に足を踏み入れようとして、しかしクレストは足を止めた。
 今ロイに会って自分に何を話し、何を訊くというのだろうか。
 両親のこと、クリストフ老人の目的のこと、直らないかもしれない飛行機械のこと。新たに知ったことはいくつもある。が、自分がロイたちの事情に深く踏み入ってしまったことを告げることは躊躇われた。
 言ってしまえば今の関係は崩れてしまうだろう。そんなリスクを負ってまで訊くべきか。
 答えは、否だ。急ぐ必要はあるがそこまで慌て過ぎることもない。
 そう判断するとクレストは踵を返した。ちらりと横眼で見渡すと全ての窓に明かりが点っていた。ロイは今も退屈しているのだろう。窓から眼を離し、立ち去ろうとしたその矢先だった。
「通りがかったんなら挨拶ぐらいしてけよな。この薄情者」
 窓の一つが開き、少年が顔を出した。
 振り向いたクレストがなんと答えようかと戸惑っていると、ちょっといいか、とロイが手招きをした。断る理由が見当たらず、とりあえず窓際まで移動したクレストにロイが語りかけた。
「クレストが言ってたこと、考えてみたんだ」
 その口調は普段の馴れ馴れしいもののままだったが、しかし何か──真剣というのとも少し違う何かが含まれていた。
「心配してくれてるのは分かる。でもさ、俺は空を飛ぶことを諦めたくない。ホントはそんな単純じゃないんだろうけど、とりあえず今は怖いよりもやりたいのほうが上なんだ。それになんていうかさ、やりたいことがあるのに怖いからってやらないのは格好悪いと思うんだ。だから、」
 考えは──想いは変えない、変わらない、と少年は言い切った。
「まあ、いつか怖いがやりたいより上になったら……その時は考えるよ。……言いたいことはそんだけ。引き止めて悪かったな」
 自分の言いたいことだけ言い終わると、じゃ、と短く挨拶するとロイは首を引っ込め、そしてバタンッとやや乱暴に窓が閉じられた。
 窓を向いたままのクレストの周りを夜風が吹き抜けていった。寒い、と思った。そしてそんなことに今更気づいた自分を笑ってやりたくなった。
 少年はやりたいと言った。諦めたくないと言った。それだけあれば切り口として十分だった。
帰りましょうか、と呟いてクレストは今度こそ診療所を後にする。芯まで冷えた体が、思い出したように震え始めていた。これで風邪などひいて診療所送りにでもなったら笑うに笑えない。
早く寒さから逃れようとクレストは足早に下宿を目指す。待っている部屋と夕食が暖かいものであることを祈りながら。

──そして、月日は流れる



「風向き、いいぞ!」
 頭上に掲げたあまりはためかない赤い旗を見ながら、大男──ハワードが叫んだ。
「だとさ。準備のほうは?」
「万事オッケーですよー、姐さん」
「誰が姐さんだ! リドル、その呼び方やめなさいって何度も何度も……」
「いやー。でも、姐さんは姐さんであるから姐さんって呼び方が似合うっていうかしっくり来るわけで」
「……いい加減にしておけよ、お前。まったく本当に余計なことばっかり……」
「でもよー、兄貴。やっぱ似合ってると思うんだけどなー。そう思わねぇ?」
「……………………」
「ちょっとそこ、何で無言──って目をそらすんじゃない!」
 すぐ近くからそんなやり取りが聞こえてきた。すでに見慣れたものになった、言い合いともじゃれあいともとれる、そんな掛け合い。先日まで地下室──彼らは工房と呼んでいた──の中で行われていたそれは、草原の只中であろうとなんら変わりなく繰り広げられている。ついでにいうなら、声が響かない分だけ今のほうが五月蝿くなくていいかもしれない。
 苦笑を噛み殺しながら、クレストは目の前に立つ物体を見上げていた。
「不安か?」
 そう訊いてきたのは隣に立つ中年の男だった。
「不安じゃないほうが変ですよ。貴方も、皆も、あの三人だってそうでしょう」
 騒いでいる三人を一瞥し、そうだな、と男──クレイは言葉で頷いた。
「しかし、君の担当したものは重要だ。試運転がうまくいったとはいえ、不安は大きいだろう。何ならもう一度整備するのもいい。どうだ?」
「無理ですよそんなこと。動力部を取り外せるようにはしてもらいましたけど、取り外して、その後もう一度取り付けるなんてここじゃ出来ません」
「ここが駄目なら、工房に戻ればいい。一片の心残りも無くなるまでやれば、不安も小さくなるだろう?」
「……せっかくですけどやめときます。やれるだけのことはやったつもりなんで。いまさら何かしたところで変わらないはずです」
 それに、とクレストは続ける。
「協力するという選択をしたなら、こうなることは分かっていました。それでも僕はこちらを選んだ。だから、この不安も受け入れなければならないと思うんです」
「ふむ。それが君の意思というわけか。ならば、これ以上は野暮というものだな」
 それきりクレイは黙り込んだ。特に話すこともないため──この状況で関係の無い話ができるあの三人のような図太さを持っていなかったためでもあるが──クレストも口を閉じ、蘇った飛行機械を見つめる。自然と今までのことが浮かんできた。
 大部分を破損していた飛行機械の修復にはかなりの時間が必要であった。被害の大きな胴体前部は大幅な修繕をしなければならず、折れてしまった翼と車輪部に至っては一から作り直さなければならなかったからである。そして、動力である魔術機関の問題もあった。
 とはいえ、実際のところクレストが関わったのは魔術機関についてのことのみである。研究者だったとはいえ、飛行機械の原理については門外漢であるクレストに機体構造の話など分かるはずも無い。よってクレストに求められたのは、魔術機関の修理という一点だけであった。
 来る日も来る日も、クレストは魔術機関と格闘を続けた。昔の勘が戻らないことに苛立ち、理論あるいは構造が解らずに悩み、一向に進まないことに焦り、何かを理解したことに喜び、自分の勘違いを悟っては苦笑し、宿る英知に感動し。そんなこんなで決して楽とはいえない日々を、しかし心の底では楽しいと感じていた。かつてのように魔術機関に触れることなど二度とないと思っていたクレストにとって、その日々は幸せといっても差し支えの無いものであったといえる。
 また、同じ場所で作業を行ううちに、彼らと親しくなることも出来た。同じ食事の席に着いたり、全員で騒いだり、あるいは少数のみで語り合ったりがいつの間にか当たり前のこととなっていた。
 過ぎていく日々なかで、いつしか村はずれの小屋とその地下の工房はクレストにとって失ったかつての居場所とよく似たものとなっていた。己のやりたいことができ、仲間と呼べる者たちが集まる場所という意味で。
 そしてあっという間に時は過ぎて、クレストは今ここにいる。
 こうなる道を選んだことについて悩みはしたが、まだ後悔はしていない。
 しかし、これからも後悔せずにいられる保証はない──否、後悔する日はいつか必ず訪れるであろうことクレストは感じていた。以前よりも慎重になったとは言え、またあのような事態が起こらない保証はない。それを承知で手伝っているという事実は今も彼の心の奥で燻ってはいるのだ。けれども──
 クレストは飛行機械の上部、操縦席を見た。
 座しているのは兜のような帽子とゴーグルをつけた一人の少年。一度死の危険を味わいながら、それでも恐れることなく空を飛ぶことを願った小さな存在。人として生きる、人と翼あるものの合いの子。
 だが、それ以前に彼は子供だった。たとえ危険であろうとも、夢を信じて疑わない、まっすぐな。
 その夢を守ってやりたい、自分のように失わせたくないとクレストは思った。そして、それがクレストに出来ること、いやクレストにしか出来ないことならば──やらないわけにはいかない。
 視界の端、離れた場所に立つ大男が大きく旗を振るのが見えた。
 スタートの合図を受け取り、低い音とともにプロペラが回り始める。そして最高速に達したプロペラに導かれ、飛行機械が──動いた。
 それだけでクレストの緊張が一気に高まる。彼だけではない。この場にいる全ての者が固唾を呑んでその様子を見守っている。
 彼ら全員が最善を尽くしたことは間違いない。そう、やれるだけのことはやったはずだ。その努力によっていくつかのパーツは改良され、機体の外見も多少変化している。
 だが、それでも届かないことはある。最善が本当に最善である確証はなく、努力は必ずしも報われない。誰もがそれを知っていた。だからこそ、
(祈る、なんて柄じゃないんですけどね)
 飛行機械を凝視しながら、クレストは心の中だけで溜息をついた。
 祈るなどという行為は無意味だ。それによって何かが良い方向に傾く根拠はないし、そもそも誰に祈れというのか。宗教屋なら『神に』とでも即答するであろう。が、その神様は果たして本当に祈りを聞き届けてくれるのだろうか。それは悪魔だろうが何だろうが同じだ。眼に見えない以上、保証はどこにも無い。それがクレストの持論だ。
 だが、それでもクレストはロイの無事を祈った。祈らずにはいられなかった。正確に言うのなら、祈ることしか出来なかった。彼だけではない。動き出した飛行機械を見つめる者達全てが同じようにただ祈っていた。
 根拠など要らない、縋る相手なぞ誰でもいい、たとえ何の効果が無くとも構わない。それでも、それでも何もしないよりは遥かにマシだ。だからこそ、心のどこかでその無意味さに気付きつつも、人は祈ることを止めない。それこそが祈るという行為の本質。不安にさいなまれる者に残された、あまりにも無力な最後の手段なのだ。
 ここから先は誰もが無力だ。どれだけ優秀だろうと、知識があろうと関係ない。だからクレストは、彼ら七人は祈った。たとえ無力であろうとも、起こるかもしれない悲劇に少しでも反抗するために。
 七人の祈りを一身に受けながら、空を追うものの名を冠する機体は淡々と速度を上げていく。
 追いかけるその先にあるのは天空への扉か、それとも──


 操縦桿を握る両の手からわずかに汗がにじんでいる。理由など考えるまでもない。緊張、あるいは恐怖。そう、怖いのだ自分は。あれだけ見え張ったくせに格好悪ぃ俺、と気を抜くと震えだしそうな手を意地で押さえつけながらロイは苦笑した。
 前面にあるプロペラの回転は安定しているように見えるし、手のひらを介して体から何かが吸い上げられる感覚からも動力の健在は窺い知ることができる。動き出した機体は風を柔らかに受け流し、順調に加速を続けている。不安 要素は今のところ見受けられない。
 しかし、何度そう言い聞かせても震えは、恐怖は収まらない。
 ロイの脳裏にちらつくのは、あの日の混乱と落下感と、そして迫りくる地面だ。突然の突風による操作不能。爽快だった浮遊感は一瞬で自由落下の恐怖に変わり、落ちて、落ちて、落ちて、立て直そうと必死になって、気づいたときには目の前に壁のような地面があって。──覚えているのはそこまででだ。次に見えたのは診療所の天井だった。
 じわじわと攻め立てる幻影を何とか振り払おうと前方を凝視する。何かが見えるわけでもない。強いて言うなら──空が、青かった。
 落ちた飛行機械のこともロイの葛藤も関係ないといわんばかりにただそこに在る。実際関係ないに違いない。もし空に意識があったとしても恐らくはロイ達など気にも留めまい。何があろうとも空はいつも通りなのだ。
 聖域とはよく言ったものである。確かに生き物風情が冒し変質させられるようなものではない。まして、陸に生きるものにとっては手の届くことすらない、遠く遥かな、まさに聖域。
 ──だが、聖域というのは遠くから見つめる場所ではない。目指し、そしていつか辿り着くべき場所だ。
 気付けばロイは空を見上げていた。何かが胸の奥から湧き出してくる感覚。見上げたそれはいつものように広くて、いつものように高くて、──いつものようにロイを強く惹きつけて已まなかった。スイッチが切り替わる。
 確かに自分たちは失敗した。けれど、それがどうしたというのだ。
 膨らみ続ける恐怖を両足で無理矢理に踏みつけながらロイは思う。もう一度始めればいい。最初から──何もかもが手探りで怖かったあのころから、もう一度、だ。昔に比べれば自分も皆もいろんな事を知って成長した。仲間も一人増えて八人になった。だから、今度は前よりもうまくいくはずなのだ。彼らならきっとうまくやる。
 ハワード・ナックスは村の男達の中で最も逞しく、頑強だ。ロイはもちろん大人たちでさえ両手で持ち上げるのが精一杯の資材を腕一本で軽々と持ち上げる。彼の力が無ければ飛行機械の材料を小屋に運び込むことなど出来なかっただろう。力仕事に関して彼に頼る部分は大きかった。
 アルフレッドとリドルは数学の天才だ。ロイには意味すら分からない難解な計算を彼らは当たり前のように解いてしまう。たとえ一時躓いたとしても、兄弟で互いに補い合って必ず答えを導き出す。彼らが解いた問題は飛行機械の骨子となり、この素晴らしい機体を形作っている。
 物を調達する能力に関してアルマ・ミールの右に出るものはいないだろう。どんな部品だろうと材料だろうと、彼女に頼めば必ず手に入る。仕事柄顔が利くのよ、とは本人談だが、ロイが今まで見たことも無いような代物を、どこからとも無くあっさり手に入れてくるあたり間違いなく只者ではない。
 クレイ・サイゴートの持つ細工の腕は最早神業に等しい。指先ほどの小さな部品に細かな加工を黙々と正確かつ精密に行うことなど彼以外には出来ないだろう。飛行機械に使われている小さく細かな部品はそのほとんどが彼の手によるものである。
 そして、じいちゃんことライル・クリストフ。全ての始まりを作った人。彼がいなければ空を目指すなど誰も考えつかなかっただろう。飛行機械に関して誰よりも深い知識を持ち、誰よりも情熱を注いでいるのは間違いなく彼だ。歳の功というべきか、皆を纏めるのが上手く、話し合いをするときには必ず中心となる。皆の敬意を一身に集めており、その表れとして皆ライル・クリストフの『弟子』を名乗っている。
 さらにもう一人。クレスト・イドスという名の青年は、ロイ達の誰もが手を出せなかった動力部を扱うことが出来た。墜落の衝撃で壊れた動力部を修理し、足りない部品は工房に転がっていたスクラップ──それも魔術機関だったらしい──から取り出して補うということをやってのけた。おまけに気のせいか動力の調子が前より良くなっているように感じられる。ロイはただのちょっとじめじめした青年かと思っていたのだが、こんな技術を持っていることを知って正直驚いた。
 今自分が乗っているものはその彼ら七人の手による最高傑作だ。大丈夫に決まっている。
 すでに飛行機械は相当な速度に達していた。恐怖はさらに膨れ、踏みつけても踏みつけても収まらなくなる。手の震えは最早止まらず、操縦桿をきつく握り締めるのが精一杯だった。
 だが、ロイの中には別のものもある。それは期待だった。空に憧れ、空を飛ぶことに喜びを見出した少年の、再び空に戻れるときが近づいてきていることへの歓喜だった。
 ──飛べる、飛べる、飛べる!
 体に当たる風が強くなり、操縦席に強く押し付けられる。その感覚を体は覚えていた。もうすぐそのときがやってくることも。恐怖と期待のぶつかり合いを感じながら、睨むように前を見据えてロイは念じた。
 飛ぶんだ、絶対に、もう一度飛ぶんだ、と
──次の瞬間、柔らかな浮遊感がロイの体を包み込んだ。

 まず、前輪が僅かに地面を離れた。それほどしない間にふわりと後輪も浮かび上がる。
 最初は慎重に機首を持ち上げていく。ゆっくりゆっくり、少しずつ高度が上がる。
 そして、ある程度の高度を確保すると──機首を一気に持ち上げた。
 高速で回るプロペラに、その動力たる魔術機関に導かれ飛行機械は天へと駆け上っていく。
 それは人造の翼が空に蘇った瞬間だった。



 最初に歓声が上がった。
 上空を見上げていたクレストには見えなかったが、彼の後ろでは声の主たるクレッグ兄弟が抱き合って喜びを分かち合っている
 他の者たちはといえば、安堵のため息をついたり、まだ始まったばかりだとじっと様子を窺っていたりとさまざまである。クレストはというと、ちょうどその間ぐらいの心境だった。
 確かにまだ飛び始めたばかりだし、あの墜落事故もそれなりに時間が経ってから起きたものだった。まだ安心するには早いだろう。だが、飛行機械が何の問題もなく飛び始めたのもまた事実である。多少は気を抜いても許されるだろう。
 楽観的過ますかね、と思いながら、クレストが頭上で一定の円運動をしている飛行機械を軽く目で追っていると、ふとこれからどうしようか、ということが頭に浮かんだ。
 別に今すぐ立ち去ろうとかそういうことではない。ただその問い掛けに対する答えをずっと保留にしたままなのを思い出しただけなのだ。
 けれども、思い出したところですぐに答えが出るはずもなく。飛行機械の単調な空中輪舞を見上げながら考えること数分、クレストはその答えをもう一度先送りすることに決めた。
 褒められた事ではないのはクレストも分かってはいるのだが、答えが出ないのから仕方がない。もうしばらく考える時間が必要だ。
 その間、ロイや彼らの夢にもう少し付き合ってみるのも悪くはないかもしれい、ともクレストは思った。なんでも、かの広大なる内海を横断することが彼の夢だとか。まあいささか荒唐無稽ではあるが、夢と言うぐらいなのだ、これくらいでちょうどいいだろう。倉庫には直せば使えそうな魔術機関がまだまだ残っているし、なにより彼らはクレストを必要としてくれるのだ。条件としては悪くない。
 上空では飛行機械がようやく円を描くのを止めたところだった。その動きは弧から直線、直線から曲線へ変わり、無邪気な子供のように縦横無尽に駆け抜けていく。
 あの様子ならロイもさぞかし満足していることだろう。クレスト達の心配など綺麗さっぱり忘れて、蒼穹との久方ぶり逢瀬に夢中になっているに違いない。両の眼を輝かせながら操縦桿を握る少年の図があまりにも容易に想像できてしまって、クレストは思わず苦笑する。
 視界の端で唐突にはためいたのは、随分と見慣れてしまった赤い旗だ。どうやら、そろそろ時間切れのようだ。
 今回は機体、および操縦者の両方の意味で試し乗りであるため、随分と短な制限時間が設けられているのである。
旗に気付いたのか、飛行機械はすぐに進路を変更し、同時に高度を下げ始める。その影はクレストの頭上を覆った後、いったん大きく遠ざかる。彼方で大きく旋回した後、再びこちらに戻ってくる。
 先ほどまでは点のように見えていただけだったが、今はその全容をしっかりと見ることが出来る。さらに高度を下げ速度を落とし、地面すれすれを駆け抜けていく。
 そして──



 ──それは、後に好事家達の間で語られることとなる、八人のソラオイビトたちの物語の始まりであった。

 


サークル賞、および泡用。
間に合った……か?
 

最終更新:2012年12月30日 09:49