エレベーターゴー!ゴー!

2006年05月16日(火)15時30分-川口翔輔

 

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  どうやら間に合いそうだ。面会時間は僕の都合を考えてくれない。いっそ病院に入ったところでちょうどよく面会時間終了のアナウンスを聞きたかった。それを聞き、「仕方ないな」とつぶやいてきびすを返す。スキップ・スキップ。素晴らしい。理想の週末だ。
  しかし、どうやら間に合いそうなのだ。これだけ時間があれば、親父の汚れた衣服と着替えを交換し、彼の仔細な問い詰めにいちいち丁寧に受け答え、また来いとの命令にうなずき、帰る足で売店の女の子に声をかけることまでできる。僕がまったく求めていない類の余裕。やれやれ。いまここで面会時間終了のアナウンスが聞けたらどんなに素敵だろう。「本日の面会時間は終了いたしました」。うん。僕がもしもキリスト十二使徒だったら間違いなく福音書に掲載してるな。「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。そして、本日の面会時間は終了いたしました」。聖書がこんなだったら、クリスチャンになってもいい。教皇のおしりにキスしたっていい。
  気づくと、エレベーターが一階まで降りてきていた。そうそう。とにかく14階だった。14階。僕は親父の着替えをいっぱいに詰め込んだ大きなカバンにバランスを奪われながら、よたよたと醜い足取りでエレベーターに乗り込んだ。考え事もほどほどに。まったく教皇のおしりにキスというのは少々いき過ぎだ。14階。僕はボタンを押した。すねのあたりに重力をひしと感じ取る。エレベーターはうんざりしたような低いうなりを上げて動き出した。この底の浅い単調な上下運動から抜け出したいんだと、僕に訴えかけているみたいだった。まあそう言うなよ。単調さからいったら僕の生活だって似たようなもんさ。ただ君の方は浮き沈みが激しくて、僕の場合はいつまでも横ばいというだけの違いさ。どっちが優れているなんてことはない。誰も同じだ。毎日毎日・同じことの繰り返し。それでも僕らは少しずつ年をとる。無常だね。やりきれなくなる。そんなとき賢いやつらがなんて言うか知ってるかい?しょうがないじゃないかって言うのさ。おい笑うなよ。本当なんだ。やつらは利口なんだ。まるでえなりかずきの役回りみたいに。
 ・・・どうやら僕は相当くたびれているらしい。エレベーターに人生について語るなど、普段の僕からしたら考えられない。僕は点滅する階数表示に拡散しようとする意識を集中することにした。そうでもしないと今度は自分のビジネスシューズとダンスホールにおけるミラーボールの必要性でも語り合いそうだったから。
  2・・・3・・・4・・・5・・
  と、突然に僕の体はよろめき、壁に左肩をしたたかに打ち付けた。言うまでもなく、僕がバランスを崩したのは親父の着替えのせいではない。にわかには信じがたいことだがしかし、どうやらエレベーターは右に動いているらしかった。外界の様子がわかるわけではないので、確かなところはわからないが、少なくとも僕の三半規管はそうコールしている。「これよりこのエレベーターは右へまいりま~す」だって。おいおい勘弁してくれよ。君が狂いだすと困るんだよ。君が狂うと、耳鼻科に行ってわけのわからない器具で耳の穴をくりゅくりゅとやられるんだぜ?たまったもんじゃない。もう少し冷静な主張をしてくれたまえよ。
しかし実際に・階数表示も5階で点滅したまま動かない。エレベーターの機動音もしっかりと(さっきより音に活力が感じられるのは気のせいだろうか?)聞こえる。僕の三半規管はより声高に僕に訴えかける。だ・か・ら、さっきから言ってるでしょ。確かに動いてるんだよ、右に。非常に、完全に、右だ。少しはおれを信用しろよ。生まれたときから一緒なんだぜ?おれとおまえの仲じゃないか。そうだろう?とにかく、おれが右と言ったら右なんだ。オーケー?・・・悪かった。確かに君の言う通りだ。うん。ただ僕は・常識というやつ、そう、君よりはるかに信頼できない、常識というやつにたぶらかされていただけなんだ。それに、恐かった。そんなことあるはずないと納得したかった。目前の現状を君が狂ったせいにして目を背けたかったんだ。疑って悪かった。君を信じるよ。そして、うん。オーケー・認めよう。このエレベーターは確かに右に動いている。非常に、完全に。
  エレベーターは右に動いている。5階と6階の間を、ただひたすら右に。まるで百年前からそうしてきたような、ひたむきで、恒久的な物理的運動だ。そして重要なことはなんといっても、そのことがとりもなおさずこの僕までもが同次元に移動しているということなのだ!ひたむきに、恒久的に、右へ!「やれやれ」と僕は声に出して言ってみた。5階と6階の間で、その声はひどく場違いな所に放り出されたみたいに気まずい響きに聞こえた。
  とりあえず(非常に妥当な表現だ)僕は備え付けの非常用電話を手に取った。コール音。教科書通り。非常に妥当な行動。誰かに模範的、教科書的行動として表彰されたいくらいだ。表彰状。貴殿はエレベーターが右に動きだした際においてたいへん教科書的な行動をとった。よってこれを称える。おめでとう。ぱちぱちぱち。
  僕がお辞儀をして回れ右をし、さあ胸を張って降壇しようというところでコール音が止んだ。
 「はいもしもし」
  女性だった。「もしもし」と僕は言った。しかし言葉が続かない。言い訳みたいだけど当然だ。いったいなんて説明すればいいんだろう。正直に、正確に、エレベーターが右に動いていると主張してみたところで、頭がおかしいと思われるか、そうでなくとも三半規管がいかれていると思われるのが見え透いてる。当然だ。彼女に対して、常識というやつは僕の三半規管とは比べ物にならない程の信頼を獲得しているのだ。常識は彼女の腕の中に抱かれながら、こちらを見てむなくそ悪い微笑を投げかけている。にや~。くそっ。すけべな野郎だ。しかしそれを見て、指をくわえて素直に諦める僕の三半規管ではない。生まれたときから一緒なんだ。彼が黙って引き下がるなんてあり得ない。彼は常識に対して嫉妬している。嫉妬。すさまじいエネルギーだ。素晴らしい。このエネルギーを以って、僕は彼女への現状説明および常識以上の信頼獲得に乗り出すことにした。
 「あの、エレベーターが・ですね、」と僕は言った。というか、正確にはせめてここまでは言い切りたかった。しかし僕のこの控え目な希望は、迅雷のごとく現れたスーパースターの手により一瞬で摘み取られてしまった。
 「はいはいはいはいエレベーターですね。すいませんね。いま故障中でして、貼り紙ありませんでした?只今故障中って、ありましたよね?ありましたよ。ホントに。私、確認したんですから。きっとありましたよ。それなのに乗っちゃったんですね。しょうがないですね。乗っちゃったんですから。もう気をつけてくださいね。ホントに。そのエレベーターはどうにも言うこと聞かずに右にばっかり動こうとするんですよ。ホントに困っちゃいますよ、まったく。私どもも手を焼いているんです。ねえうそみたいでしょ?エレベーターのくせにね、上下運動にはもううんざりだ、なんて言うらしいんですよ。ホントにもう。動く歩道が前世だったんじゃないかって疑っちゃいますよ。でもホントに気をつけてくださいよ?ホントに。もう大変なんですよ、修理が。管理会社さんも辟易してましてね、当然ですよ。ずうっっと右まで行って修理しなくちゃならないんですよ。ずうっっと右ですよ?そりゃあもうすごい距離で、採算だって合わないって聞きますよ。ええホントに。ホントにホントに。だからホントに気をつけてくださいね?大変なんですから。大変なんですよ。とにかくいまから管理会社さんに連絡とりまして、ずうっっと右まで行ってもらって修理してもらうんで、それまでちょっと待っててくださいね。じゃあお願いしまーす。はいはいはい失礼しますね。はいはいはい」
  がちゃん。
  あっという間だった。僕の発言を風のようにインターセプトしたかと思うと、そのまま一人で突っ走る。光のスピード。誰も彼女に追いつけない。触れられもしない。かのすけべな常識でさえも。あらゆるものを抜き去って、振り切って、置き去りにして、ついに彼女はそのまま孤高のゴール・イン。スタンディングオベーション。スタジアムは割れんばかりだ。渦潮のような大歓声と、いつ途切れるとも知れぬ拍手喝采が彼女のミラクルプレーを称えるために注がれる。ぱちぱちぱち・・・そんな感じだった。まあしかし、敵役としてでも彼女のミラクルプレーのきっかけを作るキーパーソンになることができて、僕としてはまったく身に余る・・・いや、もういいんだ。どうやら僕はホントに疲れている。うん?「ホントに」? やれやれ。なんということだ。彼女のミラクルプレーがここまでの影響力とは。
  「しかし」と僕は思い直し、ちらと腕時計に目をやってみた。面会時間は終わろうとしていた。なにはともあれ、今日この日は親父のところに顔を出さずにすみそうだ。神様ありがとう。もう僕は教皇のおしりにだって喜んでキスします。

                  *

  「しかし」と再び僕は思った。管理会社というのはいったいいつ来てくれるのだろうか?僕が一時の感情に任せた誓いを立ててしまってからもうずいぶん経つ。その間に僕は一度立てた誓いを存分に後悔し、ついには撤回し、神様にお詫びを入れ、まあきっと許してくれただろうと贖罪された気になり、そうしながら同時に心ゆくまで仮眠をとった。僕はこれでけっこう器用なのだ。
しかし。まだ来ない。状況は相変わらずだ。5階と6階の間。狭間の世界。いまだエレベーターは右へ運動している。ひたむきに、恒久的に。やることがなくなって退屈した僕は、ついに自分のビジネスシューズとミラーボール談議を開会してしまった。ただいまより第一回ミラーボール談議を開会する。一同、礼。僕にはどうやら暇つぶしの才能が備わっているようだ。うれしくて涙が出てくるね、まったく。とにかく僕らは熱心に語り合った。いつまでも話題は尽きることがなかった。各教育機関へのミラーボール設置要請をPTAがしぶり続ける論拠について。天文学的なミラーボールの回転数について。何面体が理想のミラーボールであるかについて。ミラーボールとストロボライトの併用が二次元世界に与える影響について。ミラーボールとプラグマティズム思想の相関関係について。みみず社会においてミラーボールの果たすべき義務と責任について。各都市におけるミラーボールの個体数に見る経済格差の拡大問題について。ドーナツ化した都市中心部でのミラーボール需要と供給のバランスについて。ミラーボールから地球科学を考えるツールとしてのメタフォリカルなアプローチの可否について。ミラーボールをひとつのテーゼとしたときのアンチテーゼの模索、またそれとの実験的アウフヘーベンの記録について。等比数列によって表される数学的見地に拠ったミラーボール美学について。携帯型ミラーボールが次世代のムーヴメントたりうるかについて。カリブ海最深部の地質学調査におけるミラーボールの使用の有用性とそのリスクについて。サッカーボールのミラーボール化によるオフサイドトラップ成功率の増減を統計学的に数値化しようというトレンディーな試みについて。ビザンツ帝国におけるミラーボールの普及率と採尿気の普及の比較論について。核弾頭の突端にミラーボールを設置した場合の戦況変化シュミレーションについて。
ちょうど僕のビジネスシューズが、ダーウィン進化論の立場からミラーボールの発達と淘汰における柳田国男的な民族性の汲み取りと中国製ミラーボールの禅思想含有率について見識を述べ上げていたときだった。僕の三半規管が叫んだのだ。
  「上に進んでいるぞ!」
  僕は何度も彼に確かめた。そして確信する。間違いない。上昇している。エレベーターの、エレベーターたる機能が回復したのだ。エレベーターのエレベーター的アイデンティティークライシスが打開されたのだ。そして、狭間の世界からの脱却。ついに僕は6階に辿り着いた。6階!なんと新鮮で芳しく、生命力に溢れた呼称だろう!僕は次に引っ越す際は6階の部屋にしようと心に決めた。ミラーボール的ジョークだ。
  ・・・7・・・8・・・
  「しかし」と、僕は14階の表示を見つめながら思った。僕はそもそもどこに向かっているんだろう?すごい距離、と彼女は言った。確かに相当な距離を右へ右へと進んできたはずだ。
  ・・・9・・・10・・・
  そうすると、果たして14階でドアが開いた時に、僕が一歩踏み出したそこが、病院の14階でありうるのだろうか?
  ・・・11・・・12・・・
  まあ、そうだな。たとえそこがどんな14階であろうとも、あるいは14階でさえないどこかだとしても
  ・・・13・・・
  せめて女性看護師さんでも待っていてくれたら、もう僕はなにも言うことはない。
  そう。僕は看護婦なんて言葉が時代遅れなことくらい、ちゃんと知っているのだ。
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はいはい。
僕が悪かったですよ。

くそ。

最終更新:2012年12月30日 10:14