2006年06月09日(金)14時42分-川口翔輔
彼と初めて出会ったのはいつだったろうか。ぼくには思い出せない。しかし思い出せないからといって、それがそれほど遠い過去の出来事だったようには思わない。その証拠といっていいかわからないが、ぼくは今でもその時のことを鮮明に記憶している。もちろん、時間という要素を除いてだが。
「手を上げてもいいし、嫌なら上げなくてもいい」彼はそう言った。ぼくのこめかみには、これ以上ないほどまったく自然に・冷ややかな銃口が突きつけられていた。ぼくはその冷たさに心地よさと形容すべきものさえ感じていた。
手を上げてもいいし、嫌なら上げなくてもいい。言うまでもないことかもしれないが、ぼくに君の選択の自由を侵す権利はないし、そんなつもりもない。これは、仕事なんだ。
仕事?
そう。ぼくは愉快だからといって君に銃を向けたりはしない。好きでこんなことしているわけじゃない。仕事なんだ。ぼくは君の意思をこうして確かめなくちゃいけない。いいかい?ぼくは今・君のこめかみに銃を突きつけている。もちろん安全装置ははずしてあるから、変なことは考えないほうがいい。ぼくはいつでも君を殺せる。ぼくはこの仕事・けっこう長いんだ。だからまず落ち着いて、ゆっくりぼくの話を聞いてほしい。何度も言うけど、これは仕事なんだ。知ってると思うけど、仕事には当然ルールというものがある。踏み越えてはならない矩というものがある。だからぼくは、「だからぼくは」の続きも言わずにいきなりズドンなんて野暮はしない。このことに関して君はぼくを信用してくれていい。君がぼくの手によって不意の死に見舞われることはまずないから安心してほしい。でも決して忘れてはならないのは、ぼくが君のこめかみに銃を突きつけているということ。いいね。
つまり君は今・生命の危機にさらされているというわけだ。それほど差し迫ってのものでないにしろね。こんな状況におかれながら、しかし君はまだ自由というものを所有している。まったく自由とは不思議なもんだよ。あるいは、君の存在と自由とが不可分であると言えなくもない。君は手を上げてもいいし、嫌なら上げなくてもいい。要するにそういうことなんだ。断っておくけど、ぼくはどっちだってまったくかまわない。君が手を上げようと上げまいと、君が死のうと死ぬまいと、そんなことはどうだっていいんだ。気を悪くしないでくれよ。立場が逆だったら、きっと君もそう思うはずだ。どうだっていい。だってぼくは君に、今ここで初めて会ったんだぜ?今ここで初めて会ったような奴が死んだところで、ぼくになんらかの得があるわけじゃないし、同様に損もない。どっちだってかまわないさ。だから、本当に君の自由な意思次第なんだ。君のことを、君が自分で決める。とても簡単なことだ。そうだろ?
そうかもしれない。
はっきりしない返事だな。こういうことは一部の曇りなくはっきりしてもらわないと困る。さっきぼくがどうでもいいと言ったのは、もちろん君がはっきりと明確にその意思を表明してくれることを前提としているんだ。あいまいな態度はいけない。絶対にいけない。ぼくはこの仕事をして長いから、相応の経験がある。いいかい?この仕事をしていて間違って人を殺すとね、本当にひどい気分になるんだ。本当に。ひどいもんだよ。全部の骨、あらゆる骨という骨が内側からぼくの肉をえぐってみしみしと泣き、腐ってぐちゃぐちゃになった黒い内臓からとても堪えられないにおいが立ち上ってくるみたいな感じさ。痛くて、気持ち悪くて、くさくて、脳みそが廃油にでもなってしまいそうだ。どうしようもなくなる。わかるかい?
…あるいは。
そうだろうね。でも当たり前だ。こういった類の苦しみは、実際に経験した者にしか本当には理解できない。
告白しよう。ぼくは間違って人を殺したことがある。
緑色の瞳…
たしかに、最後の最後まで煮え切らなかった彼女にこそ、その悲劇の過失はあった。でもその何割かはぼくにも必ずある。だって引き金を引いたのは他ならぬぼくだ。ぼくは殺した。彼女は死んだ。彼女は死んだけど、このぼくはまだ生きていて、この過失を、自責を、後悔を、罪業を!いつまでも背負い続ける。彼女は間違って死んだ。このぼくが間違って殺した。それはもう取り返しのつかないことだ。間違って生かしたのと違ってね。
ぼくはたぶん、彼女を一生忘れない。彼女の瞳。
まったく、呪われてるよ。
それでもぼくはまだこの仕事を続けている。君はそれを不思議に思うかもしれない。もっともだ。こんな仕事やめてしまえばいい。逃げ出して、いつか死んだ彼女を、殺したぼくを、忘れてしまえばいいんだ。でもね、ぼくがしていることはあくまで「仕事」だから、仮にぼくがやめたとしても必ず他の誰かがやらなくちゃいけない。ぼくがいなくなっても、仕事はいつまでも続くんだ。ぼくがやめて、新しいのが仕事につく。右も左もわからない、自分のケツも拭けないようなくそったれさ。ぼくがこの仕事をやめるということは、そんなくそったれにこの仕事を任せるということなんだ。きっとそいつも間違って人を殺すだろう。一人や二人じゃ済まないかもしれない。たくさんの人間が間違って殺され、そいつはたくさんの人を間違って殺す。間違ってだよ!間違いなんだ。死ぬべきでない人間が死に、殺すべきでないそいつが殺す。あるいは、死ぬべき人間が生きる。間違ってる。そんなのぼくは絶対に嫌だ。彼女みたいな人間も、ぼくみたいなのも、もうたくさんなんだ。だから、ぼくはこの仕事を続ける。前に言ったように、ぼくにはそれなりの経験がある。自分で言うのもおかしいけど、ウデもなかなかだからね。ぼくは人間を殺してきた。そしてこれからもたくさんの人間を殺す。場合によっては君も殺す。だけど、ぼくはこの仕事を続けることで人間を救いたいんだ。間違って死ぬことから。間違って生きることから。きみはおかしな話だと思うかもしれないね。まったく。反論の余地はないよ。
でも、これだけはわかってほしい。間違って人間を殺し、間違って人間が死ぬというのは、本当の最悪なんだ。本当の最悪。
だから、君にははっきりと君の意思を表明してもらわなければならない。ぼくは君も、例外なく救いたい。そのためにぼく自身がここに来て、君に銃口を突きつけ、こうして少し会話をしている。ずいぶん一方的だけどね。
いいかい?君は手を上げてもいいし、嫌なら上げなくてもいい。その判断は君がする。要するに、君自身で君が生きるか死ぬかを決める。はっきりと、この上ないほどはっきり決めるんだ。「生きるなら生きればいい。死ぬなら死ね」ぼくの同業者には、こう言うのもいるらしい。きみは、こういうのとぼくと、どっちがいいと思う?
わからない。
確かにね。きっとそうだろう。ぼくにだってわからない。でもね、実際ぼくの言っているところも、つまるところ同じことなんだ。この仕事ではね、どんなに言葉を尽くしても要するに「生きるなら生きればいい。死ぬなら死ね」としか言えないんだ。どんなに言葉を尽くしても。そう、そう言った後で君がもし手を上げたなら、ぼくはこの銃をしまって君のもとを去る。たぶん、君に会えてよかった、とかなんとか言ってね。それだけさ。あるいは、君が手を上げなかった場合には・ぼくはただ引き金を引くだけだ。ただ引き金を引くだけ。「じゃあさよなら」くらい言うかもしれない。とても簡単だ。君は想像できるかな。ぼくは引き金を引く。なんらのためらいもなく。ただ事務的に・迅速に・あるいはクールに、ドライに、トレンディーに、スマートに。ぼくは引き金を引く。じゃあさよならだ。「じゃあさよなら」。ぼくはとてもリラックスして引き金を引く。ハンマーがおりる。火薬が炸裂する。弾丸が吹き飛ばされる。銃身の溝と弾丸の溝とがかみ合って、弾道の軌道を軸にすさまじいスパイラル回転がかかる。くるくるくるくる。こんな表現は妥当じゃないかもしれないね。でもとにかくすごい回転だ。くるくる。そして鋭く丁寧に磨き上げられた弾頭が回転しながら君の肌を引き裂く。ほとんど同時に灼熱の硝煙が君の肌を焼く。ぼくがそのにおいを感じるのはもう少し後だ。君の肉にすうっときれいな穴が通っていく。絶望的で、致命的で、不可逆的。まるで弾丸の先に目に見えない糸がついていて、それをずっと遠くの巨人が引っ張って導いているみたいだ。引力。進むべくして進むんだ。弾丸はそして、頭蓋骨に達する。骨の折れる音がする。わるくない音だ。あるいは、君も死ぬ前に聞くことができるかもしれない。それも、耳もとでだ。砕けた骨片が君の脳をえぐる。ぐちゃ。脳しょうに濡れた弾丸は灰白質を抜け、白質を抜け、君の右脳から左脳へと旅する。右、左。反対側の頭蓋にまで辿り着けば、もう旅の終わりは目前だ。しかし勢いは衰えない。回転もね。くるくるくる。再び骨を砕く。出口。そうして花火のような血しぶきとともに飛び出す。君の頭を端から端へと旅して外の世界に出た気分というのは、いったいどんなものだろう?深呼吸でもしたくなるのかな。わからない。ぼくがひとつひとつ吟味して今日・君のために充填してきた銀色の弾丸。それが、こっち側から入って、向こう側から出てくる。銀色だったのが、赤色になって出てくる。目的を持って入ったのが、目的を果たして、あるいは失って出てくる。虚ろなエネルギーの塊。なにかにぶつかって、止まる。限界だ。君はもう死んでしまった。弾丸の軌跡からおびただしい量の血が流れ出る。ぼくはわずかに硝煙を吸い、君の肌が焼けたにおいをかぐ。発砲音の余韻がフェードアウトするよりはやく、ぼくは立ち去る。死体なんて、見ていてもなにもおもしろいことなんてない。死体だ。死んでる。悲しくもなければうれしくもない。ただ死んでる。そして、ただ、ぼくの仕事がまたひとつ間違いもなく片付いた。それだけ。
ところで、ぼくは時々考えるんだけど、君がこうして死んだとして、それはいったいどのタイミングで実現されたんだろう?正確に・君が死んだのはいつなんだ?この一連の段階的な事項の中で、君が死んだのはどこの事項においてなのか。引き金が引かれたときだろうか。頭蓋が砕けたときだろうか。意識の失われたときだろうか。右脳にまで、あるいは左脳にまで弾丸が達したときだろうか。頭を撃ちぬかれて無機的な音を立てて倒れたときだろうか。それとも・・・うん。きりがない。細分化。それに、難しい問題だ。どうにもぼくに明確な解答は出せそうにない。わからない。君はいったいいつ死んだんだ?
わからない。
うん。わからない。正直で、正確で、純真で、そしてなにより無益な結論だ。でも、ぼくは思うんだ。あくまで仮説に過ぎないし、それを裏付ける何かがるというのでもないし、信じきっているいというわけでもない。にもかかわらず、ぼくは思うんだ。ただなんとなく。きっと君は、あのとき手を上げなかった時点で、もう死んでいたんじゃないかってね。なんだかおかしな話だよ。仮にそうだとすると、ぼくはすでに死んだ君を殺すために引き金を引くことになる。論理的じゃないことは十分わかってるつもりだよ。それでも、本当に思うんだ。ただなんとなく。ただなんとなく。便利な言葉だ。
さて、大体わかってもらえたかな、ぼくの仕事について。この仕事の主旨はつまるところ正確な「確認」なんだ。
確認。
そう、「確認」。どこまでいっても「確認」。To live or to
die. 確認。本当は、こんなことひとりでやってくれた方がずっといい。人間がみんなそうできたなら、こんな呪われた仕事は無用になるし、間違いだって根絶できる。まあ君に愚痴を言ったって栓ないか。忘れてくれていい。
そして、うん。そろそろ時間だ。いいかい?次にあの秒針が「12」を指したとき、そのときの君を見て、ぼくは判断する。何度も言うように、君は手を上げてもいいし、嫌なら上げなくてもいい。ただしはっきりと、だ。いいね。
沈黙。なんだかずいぶん久しぶりな気がする。
ぼくは手を上げた。すごくすごくいろいろと考えて、とにかくぼくは手を上げた。なぜか?なぜだろう。わからない。うそだ。ぼくはわかっているはずだ。なぜか。なぜ手を上げる?・・・オーケー認めよう。問題の先送り・逃避。惰性。ぼくの手は重力には逆らえるくせに、こういうものに対しては従順すぎるほど従順なのだ。「おおせのままに」だってさ。ばかみたいだ。とにかく、ぼくは手を上げた。あーあ、とぼくは思った。
・・・・・・・・・・・・・・・・「12」
彼の鼻から深い息が漏れるのを、ぼくが聞いた。こめかみから銃口が離れた。平和に、穏便に、でもどことなく名残惜しそうに。そして彼は去っていった。
今日は君に会えてよかった。
これが最初だった。
その後も何度か彼はぼくのところへやって来ては、「確認」をして帰っていった。彼が来る度、ぼくらは少し話した。ほとんど彼が一方的に話した。ぼくは相槌を打つ役なのだ。専門職。でもそれはある意味で仕方のないことなのだ。彼が話す。ぼくがふんふんと聞く。彼は遊びに来ているわけじゃない。仕事なんだ。彼は「銃を突きつける者」で、ぼくは「銃を突きつけられる者」。そういう役回り。
世界はまるでステージだった。そこでぼくは彼と一緒にひとつの場面を踊ったのだ。
一通り話しきると彼は、あたかもその仕事の九割を終えたかのような(実際に終えたのかもしれないけど)気楽な様子で「確認」をした。でもぼくはけっこう真剣だったし、緊張もしていた。
あるときぼくは例外的に、はなはだ例外的に、彼に話題をふってみた。彼の仕事の、死神性について。
さあどうだろう。
それだけだった。そして、はっきりしないこたえだ。でもぼくはそれ以上聞かなかった。ぼくはちゃんとわかっていたのだ。ぼくが本当に確認しなければならないのは、そんなことじゃない。
・・・
最後に彼に会ってから、もうずいぶん経つ。ぼくは時々、あのひんやりと心地よい銃口の感触を思い出す。右のこめかみに指をあて、深くいすに体を埋めて息を吐く。目を閉じて記憶を再生する。もう一度、彼に問われたなら、ぼくはまた手を上げるのだろうか。はっきりと、彼が間違わないように。
さあどうだろう。
ぼくは鏡に向かい、彼をまねて言ってみた。鏡に映ったぼくは全然彼みたいじゃなかった。でもまるでぼくじゃないみたいでもあった。彼でもなく・ぼくでもなく・誰か。ぼくは力を抜いた。ふう。見ると、自嘲的に笑うぼくがいた。ひどいもんだ。
ぼくはあるいは、彼を待っているのかもしれない。要するに「確認」なんだ。ぼくは目をただ閉じて、丁寧に記憶を再生する。丁寧に、愛おしむように。
…ひとりでやってくれた方がずっといい。
確かに彼はそう言ったのだった。
ごめんなさい。こんなんで贖罪になるなんて思ってないけど。