2006年06月09日(金)16時42分-Κ
1.
わたしは、医者の後について病院の廊下を歩いていた。
「ここです」
医者はそういうと、病室のひとつにわたしを招じ入れた。中に入ると、細身の女性がベッドに横たわっていた。窓から外の景色を見ていた彼女は、わたしに気がつくとよわよわしく笑いかけてきた。
「兄さん、来てくれたんだ」
はて、わたしに妹なんていたのだろうか。どうも思い出せないが、いたのかどうかは思い出せなくとも、いるのかどうかならわかる。ここにいる。
「体のほうはどうだい」
わたしは訊く。
「最近はかなり楽になったけど、ただ単に鎮痛剤が効いてるだけかもしれない。先生は快方に向かってるとは言ってるんだけど」
「そうか」
わたしは窓の外の景色を見る振りをして目をそらす。本人はどう思っているのかはわからないのだが、正直妹の変わりように耐えられないのだ。あのふっくらした頬が、あんなにこけてしまって。もっと早く来るべきであった。
山間にある病院の窓から見える景色は、まるで窓枠により切り取られた一幅の絵のようであり、夏の凶暴な太陽の光が直接降り注ぐと、すべてのものがギラギラと内部の切っ先を顕わにし、そのまぶしさの中でわれわれ生あるものは影となり、無機物たちが光となる。時間と空間は溶け始めついには蒸発し、陽炎となって舞い上がり、肌の表面でねとねとした汗となる。雲が日の光をさえぎると、触れば指が切れそうだった物質の境界線がぼやけ、わたしでも生きていけそうな景色になる。
わたしは、医者に話を聞くために椅子から立ち、「すぐに戻るよ」と言い残し、病室から出る。
すると、わたしが部屋から出るのを見て、医者が走り寄ってきた。「どうなんでしょうか、妹の調子は」と訊こうとしたら、医者のほうが先に、
「どんなもんでしょうか?」
と訊いてきた。
「はぁっ?」
と言い返すと、
「なかなかの上玉ですし、何しろ逆らわない、ただ少しだけ痩せすぎのところがあるので、今なら格安でご提供できますし………」
「ちょっと待ってください、いったい何の話をしてるんで」
「何の話って、あなた」
そこまで言うと、医者はわたしの顔をつくづくと眺めていた。どこかで見覚えがあるぞ、という顔だ。わたしも負けずに医者の顔をつくづくと眺める。どこかで見覚えのある顔だ。
「あっ、あ、あなたは彼女のおおおおお兄さんでいらっしゃられさせられましたか」
「そういうあなたは妹の主治医ではありませんか。あなたはいったい何の話をしているんです」
「いえだから、妹さんは、ええと、なかなかの仕上がり具合といいますか、はい、あの、あそこの具合も実によいですし、ええと、だからほら、うちの稼ぎ頭といいますか………」
「もういいです、あなたみたいな人にうちの妹は任せられません!」
そう言い放って病室の中に入ろうとすると、医者が腕をつかんで止めた。振り向くと医者の顔が青くなりすぎて紫になり、ついには紫外線の範囲に突入し見えなくなった。声は聞こえる。
「そそそそそそそそそんな、困ります、すいませんでした、反省します、これからは心を入れ替えます、もうあんなことは二度としません、だ、だから、ですから佳織さんを僕にください!」
「ええい、だめったらだめだ。お前みたいなやつはこうしてやる」
わたしは懐から、コクヨの三十センチ竹尺をとりだし、それで医者の頭を打擲し始めた。
「こうだ、おまえなんかこうだ」
「痛い痛い、止めてください、痛っ」
「止めてほしければお前の知っていることを早く吐くんだ。そうすれば楽にしてやる」
「吐けったって、何も知らないって言ってるじゃないですかぁ」
「知らないはずはなかろう、あくまで白を切るつもりなら代わりに俺が言ってやろう。お前は俺のお父さんなんだ」
わたしの目からは止めようとしても次から次から涙がでてきて、前が見えなくなった。前が見えなくなったので、あてずっぽうに抱きついた。
「なぜそのことを?」
「えぇっ! じゃあ、やっぱりお父さんなんだ! じゃあ、ますます香織はあなたにはあげられません」
「そんなぁ」
「そんなぁじゃない!」
「そこを何とか、お兄さん」
「あなたに兄さんといわれる筋合いはない! あなたはわたしから母さんを奪っておいて妹まで奪うつもりですか。あなたが母さんと結婚しなければわたしが母さんと結婚していたのに! ねえ、母さん」
「まったくその通りです」
父はますます色を失って、体全体が透明になろうとしていた。
「そんな無茶な」
「まだ口答えするのですか。それなら仕方がない。本当はこれは使いたくなかったんだが」
わたしは、また懐中から、今度は太い三角スケールを取り出して振り上げた。血に塗れたそれを見て父は
「ひ、人殺し~~~!!!!!」
と叫びながら逃げていってしまった。
「ちっ、ばれたか」
すぐに追っ手が来るだろう。ぐずぐずしてはいられない。すぐにここから去らなければ。
死体をこのままにしておくのもなんなので、わたしは母の足をつかみ、体をダストシュートに突っ込んでおいた。
ドアを開けわたしはベッドへと駆け寄った。
「知香、僕と君はここでは一緒にはなれない。だからどこかへ逃げよう。二人の両親がいくら反対しても、もうどうにもできないような遠くへ。すぐに追っ手が来るだろう。でも大丈夫、君とならどこまでだっていけるさ」
「でも、あたしはこんな体だし」
「大丈夫さ、ほら、もうこんなに遠くまで来れたじゃないか。見てごらん」
窓から外を見ると、ガタンゴトンという単調な列車の音に合わせて景色が動く。するすると巻物がほどけてゆくように、風景が更新される。列車は町を後にした。
窓を開けると、乾いた空気が部屋の中に入り草のにおいが渦巻く。外は延々と単色の草原が続き、空も灰色一色に塗りつぶされている。時たま吹く風に、草原はまるで大地が蠕動するようにうねる。遠くに見える森は嵐の予感におびえ縮こまっている。空気の厚みによるためか一様にぼやけている。窓から外へと部屋の中の色という色が流れ出し、私たちの姿もからからに乾燥し、モノクロ写真としてこのまま固定されるのかと思われた。そこでならいつだってわれわれは同じ姿でいられるだろう。金属という金属は錆び、布という布は朽ち果てる。すべての物事は過ぎ去り、すべての書物は閉じられ、天球は回転を止め、すべての生き物は中身のない剥製となる。そこでなら偽者の永遠も少しは本物らしく見えよう。しかしそれも気のせいに過ぎない。すべては気のせいなのだ。空を鳥たちが、不吉な知らせを携えているかのようにV字型の編隊を組んで北を目指す。
突然の汽笛で我に返る。強い風でベッドのシーツがはためいている。
「ごめん、少し寒かったかな」
窓を閉める。とたんに静寂で部屋が満たされる。
「ううん、大丈夫」
知恵は精一杯の笑顔を返す。
「何かほしいものがあったらいってよ」
わたしも精一杯の笑顔で訊く。それ以外にどんな顔をすればよいのかわからないのだ。言葉もどこかぎこちなく、なにか中身を見てはいけない箱の表面を恐る恐るゆびでなぞっているようだ。
「別に、今は何もないよ」
「いや、遠慮しないで。というか、何か用事を言いつけてよ、何にもすることがなくて暇だから」
「そお? じゃあ、何か飲み物がほしいかな」
「ああ、それならさっきボーイにチップをやっておいたから、頼めば持ってくると思うよ。ちょっと待ってて」
わたしは廊下へ出て、ボーイを探そうとした。しかし、わたしの目に入ってきたものは別に探していたわけでもなければ、できることならもう二度と見たくないと思っているものだった。
わたしは、今出てきたばかりの部屋に戻る。多恵はきょとんとしている。
「今、前のほうから、ナチのSSが車両検査している。ここにいてはまずい」
透き通った瞳が恐怖と驚愕でひときわ大きくなる。その気持ちは痛いほどわかる。あと少しで、もう少しで国境なのに。
「あたしをおいて逃げて」
彼女は静かに言う。
「何を言うんだ!」
「あたしがここにいれば時間稼ぎになる。その間に逃げて」
多美はそっと、わたしの手を両手で包んだ。彼女の手は冷たく、そして震えていた。
「あたしは、あの時あなたが迎えに来てくれたとき、すごくうれしかった。このまま一人死んでいくのかな、と思っていたのに。どうせこの体じゃ長くは生きられないけど、最後にあなたの顔を見られて、それであたしは満足。だからあなたは生きて、さあ、早く!」
わたしはわたしの手を包む彼女の手をさらにわたしの両手で包み込んだ。そして、彼女の思いつめた顔を正面から覗き込んだ。
「まったく。もうちょっと楽観的に物事を考えられないのかな」
彼女を安心させるために少しだけ、無理にでも笑顔を作ろうとしてみる。
「ここまで来て、君を置いていくんじゃ、今までがんばってきた意味がわかんなくなっちゃうよ」
「でも」
「でもじゃない。僕が迎えに来たぐらいのことで、満足してもらっちゃ困るんだ。君には神様が嫉妬するくらい幸せになってもらう。僕の顔を見たくらいで一生分の幸せを見た気分でいちゃ困るよ。君はまだ何も見ていない。病院の窓以外ね。だから、これからいろいろ見るんだよ。お楽しみは、これからさ! さあ、行くよ!」
2.
わたしは帽子を目深くかぶり、美奈はスカーフで顔を隠し、できるだけ平静を装って病室を出た。骸骨の徽章のついた帽子をかぶった男たちは、二つ前の車両で、病室の中から患者の荷物だのベッドのシーツだのを廊下に放り出している。患者とその付き添いは文句も言えず、不安そうにそれを眺めている。逃げるならあいつらが仕事に熱中している今がチャンスだ。
しかし、どこがどうチャンスなのだろう、どこに逃げるというんだろう、走っている列車の中から。今やっていることは、とりあえずの時間稼ぎでしかない。
車両と車両の連結部に出る。秋のにおいがする。黄金色の野原が目にまぶしい。風が一瞬の風紋を演出する。
いくつかの車両を足早に通り過ぎる。走っては怪しまれる。
それぞれのコンパートメントでは、蒼褪めた病人たちが、それぞれの貴重な時間を、ほかにどうすることもできないまま、無為に過ごしている。濁った目は意思を表示することをやめ、半ば開いた口はぽっかり空いた空ろな穴に過ぎない。病人とその付き添いは石でできているようにまったく動かない。その石は風化しきっていて手に触れるとさらさらとした砂になる。いくつもの車両を通り過ぎたはずなのに、どの病室にいる病人とその付き添いも、奇妙によく似ている。それどころか、そっくりそのままだ。彼らの顔には見覚えがある。父と母だ。あれは、母の最期を看取ろうとする父だ。幾度も幾度も続く同じ部屋。逃げなければ、逃げなければ。
連結部でも、やはり同じ風景に出会い続ける。黄金色の野原、昼下がり、少年と少女が追いかけっこか何かをして遊んでいる。奇妙なことに、その二人はいくら列車が動いても決して遠ざかろうとはしない。永遠に続く午後三時で何もかもを忘れて走りまわるあの二人、あれはわたしたちだ。ここはあのころだ。そう気づいたとたん二人の姿は、はるか彼方へと後退してしまう。すべてが黄金色に輝いていたあの日々は、もう手の届かないところへといってしまった。
二人が十を越えたころから、世界は変わり始めた。かくれんぼをするのに絶好の場だった抜け道は、奇妙に捻じ曲がった迷路になり、そこから挨拶が交わされる家の窓は、そっとこちらを伺う視線が潜む闇となる。いつも何か新しくて素敵なことがそこを通って現れた家のドアを誰かがたたくとき、恐怖の念しか覚えなくなり始めたのはあのころだ。家々はその笑顔の仮面をはずし、その銃眼を向ける。町の道はいつもわたしを、行きたくもない場所へ連れて行く。呆然としたわたしは泣くこともできない。泣いても無駄なことぐらいもう知っている。もう逃げ場はないことくらい知っている。でもわたしには強がらなくてはいけない理由があった。自分は絶望していても、絶望してほしくない人がいた。
「ねえ、ちょっと! ねえ、ちょっと待ってよ!」
はっと気づくと、ほとんど走っているようなスピードで逃げていた。手で引っ張っている美裕の息がずいぶん上がっている。わたしも少しはあはあいっている。ずいぶん長いこと考え事をしていたようだ。
「かなり逃げてきたはずだから、ちょっと休めない?」
わたしは周りを見た。もちろん内装を見ただけではここがどこなのかわからない。ここが何両目なのかわかるような表示がどこかにあるはずだ、と思ったが見当たらない。
そのときわたしは妙なことに気づいた。
「迷った?」
列車はわたしたちを逃がさまいとして、増殖し、ありえない分かれ道や自己交差を作り出し、上がりや下りの階段を産み出し、ついには時刻表には乗っていない食堂車までも作り上げた。
わたしにはもう列車が、どちらからどちらに走っているのかすらわからなくなってしまう。
「見て!」
わたしの服のすそをクイクイ引っ張って小声で言う彼女の視線の先を見ると、ずっと向こうの車両から、こちらに向かっている二人の親衛隊の姿が見えた。しかも、もう一つ一つの部屋をあさるのをやめ、まっすぐこちらに向かってくる。一人はピストルを抜いていた。
どうすればいいんだ、ここで終わりなのかと思ったとき、裕佳がわたしの手首をつかんだ。
「ねえちょっと待って、これ何?」
「へっ?」
そういわれて彼女につかまれた、自分の手首を見ると、どうして今まで気がつかなかったのだろう、小指に糸が結ばれており、それがずっと通路の向こう側にまで続いている。
「と、とりあえず、これをたどっていってみようか」
ほかにどうしたらいいか、まったく思いつかないので、わたしたちは急ぎ足で、この赤い糸を手繰り寄せながら進む。いくつものドアを抜け、いくつもの連結部を通り過ぎ、いくつものロングシート席やクロスシート席、個室や寝台車を抜けていく。
時々後ろを振り返ると、とりあえず追っ手の姿はないようだった。しかし、安心するとすぐに次の心配事が起こるのが世の習いである。特に、この赤い糸の行き先である。この先にわたしの運命の女性かなんかが待ち受けられたりすると、横に佳子もいることだし、いろいろ複雑怪奇に、よくわからなくて困るような気がするのである。
のんきなことを考えていると、意図がひとつの個室の中に入っていることを発見した。そのドアを開けると中にいるは、わっかにした毛糸の束を両手にかけて暖炉の前に座っている父だった。
「父さん、何でこんなところに?」
「お前に父さんと呼ばれる筋合いはないわ! 娘を返せ!」
後から入ってきた良子も目を丸くしている。
「お父さん、こんなところで何をしているの」
「お前にお父さん呼ばわりされる筋合いはない! 息子を返せ、この泥棒猫! 母さんが、編み物をするからこれを持ってて、と言ったままどこかへ行って、帰ってこんのだ!」
(つづく)