2006年06月17日(土)17時23分-彩希晶
ふぅ…
ちょっと休憩するか。
両腕を上に伸ばし、俺はそのまま後ろにひっくり返った。右の手首に何か硬いものがぶつかって痛かった。見ると、ベッドから転げ落ちた目覚まし時計が転がっていた。寝返りを打って時計を掴み、時間を見た。今日だった日が昨日になってすでに30分ほどが経っていて、針がほぼ180度に開いている。
時計を戻し、起き上がって目の前を見た。小さな折りたたみ机にパソコンと大量の資料がごちゃごちゃに載っている。書きかけのレポートがディスプレイに表示され、カーソルが文章の最後で点滅していた。マウスを操作し、とりあえず上書き保存しておいた。
不意に、開けられた窓から涼しい風がすぅっと入ってきた。もやっとこもった空気が奥へ去り、代わりに爽やかな空気が部屋を包む。風に揺れた電気の紐が顔に触ってくすぐったい。風と共に窓から光が入り、薄暗い部屋の床を平行四辺形に照らしていた。今日は満月だった。
顔に纏わりつく紐を払い、しびれ気味の足をさすりながら、俺はゆっくりと立った。窓の手すりによりかかると、夜風が直に当たって気持ちがよかった。
まさに月天心という言葉がぴったりな景色だった。2階の窓からの地味な夜景が、今日はやけに映えるように思えた。月明かりで藍色に染まった空に、綿雲が流れていくのが分かる。時々雲は月にかかり、その度に月は明暗を繰り返した。
あいつもこの月を見ているだろうか。見ていないのなら、教えてやりたいな。あいつはこんな風景が大好きだから、見ればきっと喜ぶに違いない。そういえば、ここのところしばらくあいつの声聞いてなかったな。離れてすぐの頃は毎日のように電話してたけど、いつの間にかその回数も減ったし。最近、あいつと距離感を感じるようになった気もするな。気晴らしに、久しぶりに話でもしてみようかな。
もう、寝たかな。まだ、起きてるかな。
気がついたら俺はケータイに手を伸ばしていた。
「もしもし」
呼び出し音に続いて、やや眠そうなあいつの声が聞こえた。
「あ、ごめん、起こした?」
「ううん、今までテレビ見てたから。明日は講義ないし。どしたの?」
「いや、今日は月が凄く綺麗だから、お前にも見せたいなと思って。今、外見れる?」
あいつの言葉が止まった。変だな、特におかしな話はしてないと思うけれど。
「どうした?」
「ううん、別に。ところで、こっちからもひとつ。今テレビ点けられる?」
テレビ? なんだろう。俺はとりあえず散らかった部屋からリモコンを探し出し、テレビを点けた。
「あっ……」
テレビが映し出したのは、その時間の番組を変更してやっている特別ニュースだった。画面右上に大型台風接近と書いてある。映し出された衛星画像に、白い大きな塊がドッカリと居座っているのはちょうどあいつの街の真上だった。勢力はまだ強いままで、あの白い塊の下は暴風雨になっているということは容易に想像できた。
「…………」
「ごめんね。そういうことで、こっちは月どころか、外は大雨暴風警報発令中なわけでして」
しまった。あっちは暴風雨で、こっちは絵に描いたような月の夜。遠距離の距離感を紛らわそうとかけた電話で、あろうことか、より遠距離を実感することになろうとは。自分の傷を自分で広げてしまうような、己の情けなさを嘆いた。
「あ……なんかゴメンな」
どうしていいかわからず、とりあえず俺は謝ってみた。
「なんで謝るのよ」
「いや、なんでって言われても……なんとなくだよ」
変なの、と言ってしばらく間を置いて、あいつが言った。
「ねぇ、どんな景色なのか、詳しく教えてよ」
「はぁ? どんなって……満月が街を照らしている景色だよ」
「ううん、もっと詳しく」
「詳しくって言ったって……」
突然に妙なことを言い出すのは昔から全く変わっていないな、などと思いながら、俺は仕方なく目の前を実況することにした。
「そうだな……えーっと、満月が、街の上に輝いている。丘の上のアパート2階から見える街は、それに照らされて幻想的に浮かび上がっている。藍色の空には千切れ雲が流れていて、速いスピードで流れていく。雲によって出来た影が街に降り、その影も雲と同じ方向に流れていく。あ、今雲のかけらが月にかぶさった。雲の中に月がぼうっと見えている」
「…………」
「月明かりの街は、夜も遅いから明かりはだいぶ減っている。それでも、ネオンや街灯の明かりが星のように輝いているね。遠くの高速道路を白い光と赤い光が互いに逆方向に流れていく。ビルの赤い警告灯は定期的に光って、それに遅れたタイミングで鉄塔の白い光も点滅する。あ、下の道路を人が歩いている。おっ、立ち止まって空を見上げた。あの人も今月を眺めているんだろうね。おっと、塀越しに犬に吼えられて慌ててまた歩き出したな」
「……凄い」
「えっ?」
「なんだか私もその部屋にいるみたい。月明かりの街の情景が、目の前に広がって見える感じ。こんなに離れてるのに、なんか不思議」
そう言われて、俺も気がついた。電話の向こうのあいつに実況しているつもりが、いつの間にか隣に座っているあいつに話しかけている気分になっていたのだ。月の下と、台風の下。こんなにも遠く、こんなにも違う空の下にいるのに、その瞬間だけは、この小さな部屋の、小さな窓から、雄大な景色を2人で眺めていることができたのだ。
俺は実況を続けた。あいつは黙ってそれを聞いていた。満月の街は、ただ目の前に存在し続けた。
「ありがとう」
実況を終えたとき、あいつが言った。
「こっちも1人でずっと寂しかったけど、そんなの吹っ飛んじゃった。こんなに楽しい台風の夜は初めて」
俺はなんだか照れくさいような恥ずかしいような気になり、頭を掻いた。
「そうか? こんなのでよかったら、いつでもやってやるよ」
「あっ、風雨が収まったみたい。もうそろそろ台風を抜けるかもよ」
「ほんとか?」
「雲も切れてきたみたい。これでやっと、そっちと同じような景色を本当に見られるね」
「よかった……これでやっと一緒に、」
目の前の景色に、俺は絶句した。不思議に思ったあいつが聞いてきた。
「……どしたの?」
「ごめん、やっぱ同じ景色見れそうにないや」
さっきまでの素晴らしい月はいつの間にか厚い雲に阻まれ、窓を抜ける風も強さを増してきた。台風は時速数10kmで移動する。あいつの街の上にいた台風が、こちらに移動してきたのだ。ついに雨まで降り出した。先ほどあれだけ近くに感じていたのに、またしても、台風の直径分だけ離れていることを思い知らされてしまった。
「なぁ」
苦笑いをしながら、俺は言った。
「何?」
「そっちの景色、実況してくれないか?」
end
初投稿になります。「月の夜に」はシリーズ化(?)するかもしれません。