2006年08月24日(木)15時03分-川口翔輔
「よくもまあこんなに」と、振り返って僕は言った。「本当にね」と、彼女も辟易した様子でいる。よくもまあこんなに殺したものである。振り返れば、そこに、膨大の屍であった。我ながらここまでやるとは、なんだか、善でも悪でも、そういった概念をすべて超越して、大変なことをここにやってみせた思いである。
初めに断っておくが、なにも僕一人でこんなに殺したわけではない。彼女と、僕と、共犯でやったのである。そう、「殺った」として「やった」と読ませるのが、やはりここでは適当であろう。僕と彼女とは共犯で、字の如く、殺りに殺りまくった。
僕らのしてしまったことについてここで正直に告白することを、僕は、じつは少々恥ずかしいとも思う。不思議である。これだけのことを自ら望んでしておいて、かつ、一種・これを達成感とも名付け得る感覚を抱きながら、これを告白するに「恥ずかしい」という心状を以てする。自分でも偽善者ぶってそう言っているように思われてしまう。こういうことをしてしまったからには、恥ずかしいと思い、かつ、その旨を発信してしかるべきであるという、人の目により見苦しくない自分自身を組み上げようとしているように思われるのだ。どうやら僕の心中どこかにわずかこびりついた何か(あるいはこれを、「良心」と形容したがる人もいるかもしれない)が、僕をそのようにけしかけているようである。そしてこのこびりついた何かを以て、こびりつかれた側が、その正当性を支持するがために、これを偽善であるとして押し込めようとしているのかもしれない。こびりついた側は、しかし、これに対して恥ずかしさという心状の発露を以て一矢を報いているのかもしれない。そして、それはあくまで「一矢」であるから、やはり氷山の一角ともいうべきもので、こびりつき君の含む所は、その発現を見ないのみであり、じつは相当のものであるのかもしれない。
要するに、わからない。僕がこのように思い、かつ、またあのように思う。これはいったいどういうことか。わからない。人間というのはわからんもんである。しかしこう言ってみるとなぜだかすっきりする。また不思議である。少なくとも、人間というものはわからんもんである、ということをわかった気にでもなっているであろうか。くだらない。またしかし、であるが、くだらないからといって、では、徹底的にわかろうわかろうとの一念、ひたすら考え考え、あるいは勉強、勉強、研究、研究では、とても生活ができないのである。少なくとも、脆弱かつ怠慢な精神の主である僕にはできない。ルーティンであるが、これは謙遜ではない。ここで僕は再びくだらないと言おう。逃避であると認めてもいい。くだらない。さもなくば、僕は生活していかれないのである。ああくだらない、くだらない。
それにしてみても、こう自分の心というやつに歩み寄ってやろうという気を少々でも起こしてみると、どうして僕はこのような文章を書いているのかということにも考えが及ぶ。どうしてか。つまり、目的、か。ふむ。じつを言えば、これに関しては、僕はひとつの解答に辿り着いている。あくまでひとつの解答の形、ではあるが。しかし僕はそれをここに書かない。なぜなら、それを書いたなら、これより先に読み進んでくださるという方の意気を著しく削いでしまうであろうし(こう書いてしまった時点であるいはすでにこの、僕にとって好ましからざる想定を実現してしまったかもしれないが)、ともすれば僕に対して怒りを露にされる方もいらっしゃるかもしれない。したがって僕はこれを書かない。なんといっても僕は怒られるのを好まないのである。これを避けられないにしても、せめて先延ばしにしたい次第である。
とにかく(これほど使い心地のよい言葉も稀であると思う)、そう、とにかく、こうである。僕と、彼女は、殺しまくった。うん、これでいい。
僕と彼女は殺しまくった。それこそ、思いつく限りの、ありとあらゆる手段を尽くしてだ。僕らはどのように料理してやろうかと相談し、そこから生まれた佳き方法をいちいち実践していったのである。相談すれば、相談しただけ、泉のように次の考えが浮かんだ。僕にはどうやらこういった、いかに殺すか、ということを捻り出す才能というものが備わっているようであった。事実、そうであるのだろう。僕は一度も考えに詰まったためしがない。
僕がこのようであるに加え、彼女も相当に得意な方であったから、僕らはかなりの速度を肌に感じつつ、さくさくと殺していくことができた。なかなか順調である。しかし問題は、殺すべきの膨大なることである。じつに膨大である。終わりなき、と言ったら語弊があろうが、しかし絶え間なき「殺し」行為実行の渦中にあって僕らは、確かにそういった風のことを思い、感じ、あるいは互いに心根から信じきってさえいたのである。
そうしてまた僕らは知っていた。それが、殺されてなお、僕らの足を決して離さない性質であると。この足を、ひしと締め付ける枷は、引きずって歩くより他はないと。窮屈だからとか、気に食わないからといって、おいそれと自由になることはできないのである。そう易々と振りほどかれるものなら、とうの昔にそうしている。しかしそれは叶わない。なにせ相手は屍である。解放を望む僕のこの声が、いかに切実で、誰もが憐憫の情を起こさざるをえないようなものでも、いかんせん、生憎、屍というのは聞く耳を持たないのである。僕の声はただ虚空に踊るばかりでどこにも行き場がない。それならと、今度は問答無用、ただ一途に足をばたばたとやってみても、これもまた詮無き所作であって、一向にほどかれようという気配がない。それどころか、いよいよきつく、かたく、締め付けられるようである。仕様がないから、僕らはやっぱりいつまでもずるずる引きずっていくのである。いつまでも、と、そう思っていた。
そして僕らはひたすらに殺し続けた。殺って殺って、殺りまくった。
ところがやはり、「終わりなき」とさえ思われてしまうような膨大さであるから、このように殺し続けるにも僕らの体力が応えないようになる。そして僕らは実際にそうなったのである。絶え間なく続けてきたこの行為にも、消耗しきった僕らの体力では間に合わないようになる。これ以上殺し続けるわけにはならない。休まねばならない。僕らは疲れていた。もう相談するにも足りないといった具合で、無言の了解、アイコンタクトによって、僕らはほぼ同時に眠りについたのである。さすがに、戦友。息はぴったりである。
そうして、また、目覚めることもぴったりそろうのである。復唱になるが、さすがに戦友である。目覚めた僕らは、むくりと体を起こし、目を合わせて薄く笑う。そして、振り返り、その彼方にまで広がる僕らの殺してきた膨大の屍を眺めてみるのである。「よくもまあこんなに」と僕は言う。「本当にね」と彼女は言う。また、目を合わせ、今度はさみしく笑ってみる。 僕らの手元に、もうナイフはない。
僕らは本当にたくさんの時間を殺して生きてきた。
(What a lot of time we’ve killed there are!!)
弔ってやらねばなるまい、と僕は思った。僕がそう語らずとも、彼女はそれを察す。「そうね、」と彼女は言う。僕らが殺してきた時間。弔ってやらねばなるまい。彼女は言う。
「私たちでいいのよ。私たちが、殺した時間、その墓場は私たちで、その墓標は私たち。私たちはその墓場で、私たちはその墓標。きっとそういうものだし、それでいいでしょう」
僕は首肯した。どうせ、はずれない足枷だ。退屈なRPGだ。解けない呪いだ。どこにも行き場のない贖罪だ。墓場。墓標。僕らは、それであろうじゃないか。墓標として立つのだ。彼女と一緒に、僕は立とう。また、あわよくば、今度こそ終わりなき時間に。
さて、忘れてはならないことがある。アイ・アム・ア・キラー。たった今、こうして、僕はあなたの時間をも殺すことに成功したのである。たしかに、二人で殺したほどの時間でないにしても、僕は、あなたの時間を殺しましたよ。任務完了です。
懲りず、また罪を、ああ
ひまつぶし。ああくだらない、くだらない。信じられないかもしれないが、僕は今、泣いているのである。ああくだらない、くだらない…
聞こえたとも。
「この果てには」
(What do I kill time for?What should I do then?)
何もしないことでしか
あの人のためにならない
何もしないことだけが
僕があの人のためにできることだって
つらい