2006年08月24日(木)15時15分-川口翔輔
イントロ
僕と彼との最初のやり取りはこうだ。
「そこで何してんだい?」
僕がそう言うと、彼はにっこり笑った。
「誰かが」
彼は言った。
「そう聞いてくれるのを、ずっと待っていたんだ」
「ふうん。で、何してんだい?」
「だから、待ってたのさ。ずっと」
「ふうん。そうか」
世界にはいろんな期待の形がある。たいていの人は何かを待ち望んでいる。そして、そのそれぞれに特有のせつなさがある。待つ身の辛さがある。彼は、僕とは違う。僕が彼の期待に応え、彼は報われた。
彼は、僕とは違うのだ。
①
「なあ、まるで死んでるみたいだろ」
「本当に」と僕は言った。
「まるで死んでるみたいだ」
「死んでるのさ。本当に」
②
「まだ眠らないのか」
僕は肯いた。
「眠れないのか」
ちがう、と僕は言った。
「なにか・まだやり残したことがあるような気がするから」
「なるほど。それで、寝る間も惜しんで起きているだけ、というわけか」
僕ははっとした。寝る間も惜しんで起きているだけ。僕は心中で復唱した。
「やり残したこと、ね」
僕は呆れて笑ってしまった。
③
「いつだっけ」
「つい昨日のこと」
「昨日?」
「昨日だよ」
「昨日か。そういえば、そんな日があったんだっけ」
「あったと思うよ」
「それはよかった。安心した」
そう言って彼はまた遠のいていった。
僕は不安になった。
④
「ねえ、聞いたんだけど」と僕は切り出した。
「あれって幻なんだってさ」
「ああ、知ってた」
「知ってた・か。ふうん。いつから」
「最初から。君は知らなかったか」
「うん。どうして言わなかった」
「なにか不都合でもあったかな」
「不都合か。あれは幻だ」
「だから」
彼は笑った。まるで僕が野暮を言ったみたいだ。
⑤
「おい、殺したいほど憎い奴はあるか」
「なんだ、代行してくれる気かい?それはありがたいね、まったく」
「あるかと聞いた」
「ないよ」
「そうか」
「殺してもらいたいほど憎い奴ならあるがね」
しかし、僕にもわからんでもない。
⑥
「どうすれば長生きできるか教えてやろうか」
「いいよ」
「なんだ、それじゃ、まだ考えていたのか」
「いや、それはもうやめた。何かが抜けてしまったみたいだ。疲れて考える気も起きない。あれからまた百倍ばかになったみたいだ」
「元来そんなに真剣じゃなかったんじゃないのかい?」
「もしかしたら」
「そうさ」
「そうかもしれない。不思議だよ」
「健全だ。しかし、都合いいじゃないか。くるりと方向転換だ。教えてやるよ」
「興味ない」
「うそはいい。君は下手だ」
「うそか」
僕は苦笑した。かまわず彼は続ける。
「いいか、日記をつけろ。しかし普通とは違う様にだ。三日分の日記を一週間かけて書くんだ。そうしてだんだんに日記のほうに自分を合わせていくんだ」
「ああ、わかった。試してみる」
僕はうそをついた。
⑦
「おい何してる」
「なにって、野暮を言うな。ぶち壊しているのさ」
「やめろよ。僕のだ」
「なんだ、大切なのか」
「そうだ」
「どうして」
「どうしてって、」
僕は言葉に詰まった。しかし彼の相手をするより、僕は修理と片付けに意識をまわしたかったから、まともな答も考えずに手ばかりを働かせた。とても大切だったから、夢中で作業した。彼が何か言ったようだったが、耳に入らなかった。
「自分のだと思っているからさ。だから大切ってね」
⑧
「おい、いまの彼女を見たか」
「ひどいな」
「ひどい?すてきだっただろう」
「ひどかった」
「おい君、視力はいくつだ」
「0.1」
「僕は1.5だ。君、今は裸眼か」
「いつもそうだ。しかしひどかったな。まるで深海魚のお化けだ。魔物の心だぞ。それに、君もそんな視力を以てこれじゃあ、盲も同然だ」
「ああ、わかった、わかった。とにかく君に眼鏡を薦めるよ。どうして彼女が深海魚のお化けだ」
「おい、それより見ろよ」
「なんだ」
「あっちから菩薩が歩いてくるぜ。驚いたな」
僕は彼の言うほうに目をやった。深海魚のお化けが歩いてきていた。
⑨
「君は忘れない」
「なんだ、だしぬけに」
「忠告だ。君は忘れないよ」
「なんのことだよ」
「忘れたふりをしてもだめだ。君は絶対に忘れない。いつまでもね」
「おい、なんのことだ」
「考えが甘いんじゃないかってことさ。君を見ていると、よくそう思う」
「はっきり言えよ」
「緑色の瞳、玄関のチャイム」
「それが」
「君は忘れない」
彼は笑っていた。僕はなんだか寒かった。平静を保つに全力を傾けた。大げさかもしれないが、「ワザ。ワザ」と言い放たれた際の気持ちはこんなじゃなかろうかと思ったりもした。
僕は、たしかに甘いかもしれない。
⑩
「老けたなあ」
と、僕は老けた口をきいてみた。
「老けたか」
「ああ、まったく順調だ。憎いくらいだ」
「そうか、老けているか」
「ああ、ゆっくり老けている」
「そうかもな」
と彼は言い、しかし、と接いでこう加えた。
「本当は、ゆっくり死んでいるんだ」
⑪
夏の、日曜日の早朝だった。具体的に言うと、8月6日の午前4時をまわった頃だ。僕はヘッドフォンで音楽を聴きながら、自転車で長い坂を重力に任せて下っていた。まだ日は昇らないが、もう今日は暑くなるにちがいないという確定的な予感のする日で、ヘッドフォンの内側ですでに僕の耳は汗ばんでいた。たぶん今これをはずしたら、すっとして気持ちいいのだろうな、と思いながら、しかし、聞いていたのはこの坂をうまく下るに不可欠のナンバーだったから、そのまま、ひょうと涼しく吹き上がってくる風に目を細めて、ふんふんと、僕はスピードを増してブレるハンドルを握って車体のバランスをとっていた。
ずっと遠くで、またずっと下の方で、ちかちかと赤い光がいくつか点滅していた。ほの暗いなかで、鼻から涼やかな風を吸い、これだけのスピードを感じ、遠くまで見通しの利く坂を下り、加えて聴いていた音楽も相応のものだったから、僕は存分に、空を飛ぶような錯覚に、快楽に、遊ぶことができた。
少し目を下にやると、ずっと先に坂を上ってくる影があった。ガードレールに手をついて、大儀そうに歩を進めている。こんな時間に、どういう了見でこんな所を歩くものだろう、と思いながら、いよいよ近づいてみると、彼だった。僕は錯覚に遊ぶのも忘れてブレーキを握りきった。暴れる車輪を制して彼の横に自転車をつけた。見れば、切ったのだろう、口元に乾いた血がこびりついている。左の頬骨の辺りもひどく腫れ上がっている。びっこを引いているところを見るに、右足もどこか怪我しているのだろう。僕はヘッドフォンをはずした。やはり、すっとして気持ちよかった。この快楽は、ちろと味わったばかりで、もったいなく思いながらも捨てて、僕は、おいと声をかけて彼を止めた。
「どうした」
「なんだ、君か」
「どうした、なにをやっていた」
「ああ、水族館に行ってきた」
「それで」
「ラッコの腹筋を拝んできたよ」
「ちがう、怪我のことだ」
「ああ、その後でトルコ人のクンフー・ファイターとの試合に出た。非公式の」
「どうして。君は格闘技をやるのか」
「言わなかったか。ムエタイをやる」
「負けたのか」
「勝った」
「じゃあその怪我はなんだ。どうしてこんな時間に歩いている」
「試合後に会場の非常階段で転んで、気絶していた。気がつくとこんな時間なものだから、急いで公民館へ行かないといけない」
「どうして」
「今日はまた、ネパール人のテコンドー・ファイターとの試合がある。非公式の」
「そんな怪我で、勝てるか」
「勝てる」
「そうか。急ぐなら、乗れよ。公民館まで送ろう」
「そうか、ありがたい」
でもその前に、と彼は言った。
「ラッコの腹筋を拝みに行こう」
⑫
「オーケー・オーケー。やれるだけやってみよう」
僕は結局、説得された形になった。彼は、僕の了承の旨を聞いて変な風に笑った。
「君は、『やれるだけやる』ということが、どういうことか、本当に知っているのかい?」
⑬♯
「とても眠いんだ」
「眠ればいい」
「眠ったら日曜日が早まる」
「嫌なのか」
「嫌じゃない。望むところだ。でも、」
「またか」
「そう、また」
「いいかい?眠っても、眠らなくても、日曜日はやってくる。土曜日の夜が明けて、月曜日の朝になるなんて、都合のいいことは起こりっこない。1の次は2で、その次は3だ。君がいくら望んだところで3の次は16になりはしない」
「望まない」
「よろしい。3の次は4で、土曜日の次は日曜日だ」
「3の次は4で、土曜日の次は日曜日」
「その通り。4の次は5で、日曜日の次は月曜日だ。君も、もうわかっている。君が、その足をもう引き返せない道の上に踏み出していることを。そして、それを避けることができなかったのは、君の弱さのせいじゃない。誰だってそうだ。同じことさ。君がどんなに強くても、敵う相手じゃないんだ。むしろ、相手ですらない。戦うこともできない。逆らおうというのが無茶だ。諦めるんだね」
「僕は無力だ」
「無力。そうかもしれない」
「無力だ」
「少し疑問なんだが、君は本気でそう思っているのか」
「…」
「…」
「あるにしても、無いに等しい」
「ふむ。しかし謙遜に聞こえなくもないな」
「むしろ謙遜であってほしいね」
「しかし、君に抵抗の余地がないということは、どうやら確かなようだ。君は感情のコントロールができない。もちろん、その表現は自制が利く。感情を偽ったり、隠したり、あるいは装飾したり。しかし、どういった感情を抱くかということは、君の支配の下で行われていることではない。君の意志に断りなく、感情は君の内で芽吹く。にきびみたいなもんさ。主のことなんてまったく無視して、勝手に現れやがる。その意味で、君は感情のコントロールができない。そう考えると、なるほど、君は無力だ。手も足も出ない」
「無力さ」
「つまり、君は彼女を好きだ」
「うん」
「そして、その感情は、君のコントロールの外に存在している。打ち消すことも、忘れることもできない」
「たぶん」
「べつにかまわないだろう。わからんな。君は彼女を好きだ。それでかまわないと思う。その感情に、どうせコントロールできっこない感情に、どうして、あえて抗うのか」
「嫌だから」
「嫌か」
「嫌だ。僕は嫌なんだ。自分が、彼女を好きであることが、なんだか嫌だ。心が乱れる。心の乱れというものは、とても厄介だ。疲れるし、面倒くさい。不安定で、居心地が悪い。心が乱れる。それがとても嫌なんだ」
「なるほど。それで、敵わないと知りながら、圧倒的に強力な感情に抵抗しているわけか。なんとかコントロールしようと、その感情の表現から遡ろうというアプローチから、沈黙してみたり、偽ってみたり、装飾してみたり」
「あるいは」
「彼女に対して罪悪感は」
「ある。申し訳なく思っている。気の毒にさえ思う。彼女には、僕でなくたってよかった。僕である必要はない。もっと素晴らしい人を、彼女は知るべきだし、僕はそれを助けるべきだ。そうして、僕は彼女に報いたいし、少しでもこの罪を滅ぼしたい」
「そして、それを君がしないのは、感情のせいだ」
「その通り」
「彼女のことが嫌いか」
「少し」
「愛と憎しみ」
「愛と憎しみ」
「彼女は君の心を乱した。安定を求める君は、彼女の出現を望んではいなかった。だから、君は彼女を憎む」
「愛と憎しみ」
「わからないでもない。しかし事はとても複雑で、入り組んでいる。そして、見る限りでは、これには緑色の瞳の影がちらついている。君の記憶、罪、恥、緑色の瞳」
「認めたくないけど」
「とても難しい問題だ。抵抗を続けるか。どうするのが良いか。その選択が、良いとして、それが何にとって、誰にとって良いのか、よく考えるんだね」
「誰にとって良いのか」
「誰にとってのベストか」
「エゴ、安定」
「一つの選択肢」
「わからない」
「だろうね」
「…」
「眠るんだ。長く、深く、眠る。君がどんな選択をしても、おそらく日曜日は間違いなくやってくる。そして君は彼女に会う。愛と憎しみの渦中だ。眠るんだ。その日を夢見て眠る。時間をかけて、とにかくゆっくりと眠るんだ。時間をかけて」
「時間をかけて、僕は着実に磨り減っていく。時間をかけて」
「けっこうじゃないか。そうして、君は消える。いつか消える。君はゆっくりと眠り、彼女に会い、時間をかけて磨り減り、いつか消える」
「悲しいね」
「おお、感情か。悲しい。たしかに、そうかもしれない。そしてさらに悲しいことには、悲しいことがまた悲しいということだね」
「うん」
「眠るんだよ。君は眠る。夢を見る」
「夢」
「僕らはステージの上にいる。そして踊る。いつでも、いつまでも踊る。スポットライトを浴びると浴びざるとに関わらず、僕らは踊る」
「フィクションに」
「そう。あるいはフィクションにさえ踊る」
「フィクションに踊る?」
「君は疲れている。眠るんだ。眠って、朝、目覚めたら、またきっと踊れるようになる。リアルにも、フィクションにも」
「そうかもしれない」
「もうおやすみ」
「そうする」
⑭
「君、そういえば、あの日、あんな時間にあの坂で何をしていた」
と、彼は僕に言った。
あの日、といえば、彼がネパール人のテコンドー・ファイターとの試合に出た日だ。非公式の。
彼は試合前に、水族館に行ってラッコの腹筋を見ようと言った。僕は従って水族館まで彼を連れて行った。もちろん、ラッコを見るどころか、水族館に入ることさえできなかった。午前5時前に開館する水族館は、まずない。開館まで待とうかと言ってみたが、試合の時刻は午前6時だそうなので、そのまま公民館へと足を向けた。彼は落胆しているようだった。ラッコの腹筋に、どのような魅力があるのか、僕にはわからない。
どうしてこんな早朝に試合をするかと聞けば、そのネパール人テコンドー・ファイターがアルバイトの都合でそうなったのだそうだ。ネパール料理店にでもアルバイトをしているのかと聞いたが、ちがうという。なんでも、24時間営業しているレンタカーショップのコールセンターに勤めているらしい、と彼は教えてくれた。時給は1100円だという。僕らは人気のない道をすいすいと抜けて行った。
公民館には午前5時40分頃に着いた。辺りはまだ静かなもので、ずっと遠くで早起き性の鳥とセミがやっと鳴きだしたといった具合だった。もう一時間もすれば、すぐ近くでもセミがうわんうわんと鳴き騒ぐようになるだろう。
適当なところに自転車を停め、まだ電灯の点る公民館の玄関に立った。足元で死にかけた蛾が、ほこりっぽい羽を片側だけばたつかせて地面にくるくると小さな円を描いている。鍵は開いていた。玄関のドアをくぐると、なんとなくかび臭いような気がした。彼は靴を脱いだままにして、スリッパも履かずにすたすたと奥へと歩いていく。僕も続いた。乳白色の、ゴムみたいな床を、スリッパを履いて歩くと、びっくりするくらい大きな音が響いた。彼が会場だという広間は、黄ばんだ畳がしいてあった。僕はスリッパを脱いで上がった。まだ夜の気配が満ちている。例のネパール人テコンドー・ファイターは、まだのようだった。僕らのほか、人はない。僕は、本当に今日ここで試合か、と尋ねた。そうだ、と彼は言った。非公式の、と。
彼はさっさとエアコンのスイッチを入れ、ボクサーパンツに着替えた。そして柔軟体操を始めた。驚くほど彼の体は柔らかかった。あの調子では、僕が思ったより足も悪くないようである。僕は広間の壁にもたれて楽に座り、ぼんやりと彼のしなる体を眺めた。
一通りの柔軟体操を済ますと、彼は脱ぎ捨てたカーゴパンツのポケットから、しめ縄のような、なにか、植物の茎をねじったひもを何本か取り出し、その特に太い一本をまず額に巻いた。そしてまた名刺くらいの大きさで金属らしい薄い板を取り出し、それを手の甲に当てると、その上からさっきのひもでくるくると巻き、拳を固めていった。
僕は壁掛け時計に目をやった。もうすぐ6時というところだ。ネパール人テコンドー・ファイターの姿はまだ見えない。僕は腹が減ったので、近くのコンビニに行って何か買ってこようと思って腰を上げた。そう彼に言ったが、返事は返ってこなかった。両手を固めた彼は、今度は意味のわからない掛け声とともに、型のような動きを繰り返している。差し込む朝日が彼の肩口に当たって、彼の肌が光って見える。僕はコンビニに向かった。
四分か五分歩いて入ったコンビニには、意外と客が多かった。僕は客と商品棚の間を縫うように店内を巡り、できるだけ甘そうな缶チューハイを3本選び、ミニドーナツの詰め合わせと、クランチ・チョコレート・バーを2本かごに取った。アイスクリームも買おうかと思ったが、なんとなく面倒でやめた。レジは二口あったが、その両方ともに二、三人が並んでいた。僕は奥のレジに並んだ。レジの向こうの壁掛け時計を見ると、もう6時をまわっている。たったいま、自分がコンビニのレジに並んで精算を待っている、まさにこの時、すぐそばの公民館でムエタイとテコンドーが激突しているなんて、考える者はないだろうな、と思いながら、揺れるコンビに店員の名札を眼で追っていた。名前を見るに、どうやら彼女は中国人らしい。僕はかごをカウンターに置いた。慣れた手つきで商品をさばいていく。目はずっと伏せたままだったから、僕は、なんだか悪いような気がしながらも、じっと彼女の顔を見つめていた。彼女は見事な発音でしゃべった。僕より流暢なんじゃないかと思うくらいだ。ただ、「レシート」の発音だけがどうも不自然で仕方なかった。千円札を出し、つり銭を受け取って外に出た。レシートは断った。しかし、それはべつに彼女の発音が気になったせいではない。
外は、もう夜の気を完全に失い、朝の爽やかな空気さえ、ぐんぐんと角度を増す日差しにおされ気味である。暑い、と僕は思った。それほど長くコンビニにいたつもりはないが、しかしやはりその間に気温の上昇をみたようである。気付けば、セミの声も、せわしくなりつつある。僕は、冷たいものが欲しくなって、不本意ながらレジ袋から公民館で飲むはずだったチューハイを一本抜き取り、栓を開けた。歩きながら飲もうという心積もりだったのだが、これが、実際にそうしようとすると、とても飲みにくい。歩きながら缶を口に運び、飲み口にかちかちと前歯が当たるのは不快である。しょうがないのでちょっと足を止めては、ちび、と一口、といったように歩くことにした。その甘さがもどかしさを助長し、口の中もやたらべたべたしてきたので、ついに僕は歩きながら飲むのを諦めてしまった。それからは、レジにいた彼女の「レシート」を頭の中に何度も再現しながら公民館へと歩いた。
公民館につくと、僕の自転車のそばにもう一台自転車が停まっていた。不自然なくらい車輪の小さいやつである。きっとネパール人のものだろうと思った。もう勝負はついてしまったろうかと考えながら玄関を過ぎ、広間の戸を開けた。すると、向かって右に彼が立っていて、左にはどうやらあのネパール人テコンドー・ファイターである。白い道着姿で、彼のように変なものを体に巻いてはいない。拳も裸である。二人は向かい合って手首をくるくるとやったり、軽く跳んで体を揺すっていた。ネパール人が遅刻したのか、どうやらこれから試合、といったところだったようである。非公式の。
「ここにいていいか」と僕は聞いてみた。ああ、と彼は言った。僕の方をちらりとも見ない。そのくせ、ネパール人を見つめている風でもない。彼は定まらぬ目で続けた。
「審判をやってくれ」
僕は格闘技の審判なんてやったことがない。
「審判がいるのか」
「ああ、いるだけでいい」
それなら、と僕は思った。
「ちょっと飲んでいてもいいか」
と、レジ袋を揺すって聞いてみた。
「ああ」
「座っても?」
「ああ」
「オーケー。やろう」
僕は審判になった。
僕は二人の間を横断し、右にネパール人、左に彼を見るような位置に移った。そこで足を伸ばし、壁にもたれて座った。僕の体温と直射日光でぬるくなりつつあった飲みかけのチューハイを飲み干す。見れば、いよいよ始まるようである。二人が広間中央へ歩み寄っていく。素足が畳を擦る音が聞こえる。僕は新しいチューハイの栓を開け、クランチ・チョコレート・バーの封を切った。クランチ・チョコレート・バー、ミニドーナツ、クランチ・チョコレート・バーの順に食べようと決めた。
二人の距離が三メートルを切ったと思われるところで、歩みを止め、それぞれに構えた。一拍おいて、二人ともが同時に、また足を運びだす。試合開始である。非公式の。僕はクランチ・チョコレート・バーをかじった。まあ、悪くない味だ。それを飲み込むと、今度はチューハイをごくごくとやる。またクランチ・チョコレート・バーをかじる。目前ではムエタイとテコンドーが戦っている。僕は伸ばした両足の親指をくっつけたり離したり(僕はこの動作を心中で「キス」と呼んでいる)しながら食欲を満たしていく。こんな調子で務まるなら、審判なんて楽なものだな、と僕は思った。
二人とも、繰り出す技はキックばかりだった。彼は前蹴りや取り付いての膝蹴りが目立った。時々はひじも使った。ネパール人は頻繁に跳び上がってからのキックを打った。僕はミニドーナツにとりかかった。
僕が、最後の一個になったミニドーナツをきれいな半月形に仕上げようと苦心し、丁寧にかじって調整しては、またいちいちその形を確かめていると、彼の、おい、と言うのが聞こえた。見れば、彼は構えを解き、腰に両手を当ててこっちを見ている。ネパール人はそばでうずくまっている。知らぬ間に勝負がついたらしい。彼は言った。
「左手を上げろ」
僕は彼の言うように、ほぼできあがった半月形のミニドーナツを高々と持ち上げた。すると、軽く肯いた彼、はネパール人を抱き起こして立たせ、また距離をとって向かい合った。そして、互いに目礼して下がる。これで試合終了らしい。非公式の。ネパール人は左足を引きずっていた。彼のほうは、さっさと下がりきり、溜め息を一つついて、僕のところにやってきた。僕はきれいに出来上がった半月形のミニドーナツをぽいと口に放り込んだところだ。
「一口いいか」
僕は黙って、というか、もぐもぐやりながら、飲みかけのチューハイを差し出した。彼は試すようにちょっと口に含み、顔をしかめた。
「甘い」
「うん」
右を向くと、負けたらしいネパール人は壁にもたれて座り、左足のひざの辺りをさすっていた。表情を見るに、それほど痛くてどうしようもないという風ではなかったが、しかしその足で車輪の小さいあの自転車で帰らないといけないネパール人の身の上を思うと、なんとなくかわいそうになった。彼は、また柔軟運動を始めていた。僕は腰を上げ、ネパール人のところに行った。最後のクランチ・チョコレート・バーをくれてやろうと思って立ったのだが、いざそうしようとしてみると、なんだか惜しくなってやめた。代わりに飲みかけの缶チューハイをくれてやった。「ナイスファイト」とでも言おうかと思ったが、本当にそれほど「ナイスファイト」だったかどうか、あまり見ていなくてわからなかったから、その科白は腹に飲み下しておいた。ネパール人はちょっと笑って「アリガトウゴザイマス」と言った。ひどいカタコトだ。こんな発音で時給1100円もらえるのなら、コンビニの彼女なら時給2000円は下るまい。コールセンターなら、まず「レシート」なんて単語は使わないはずだから、きっと電話をかけた人は電話の向こうの彼女が中国人だなんて気が付かないだろうな、と僕は思った。
ネパール人は不恰好に自転車をこいで去っていった。僕も彼を自転車の荷台に乗せて公民館を去った。たぶん不恰好だったろう。自転車の荷台で、彼は口をきかなかったが、一言だけこう言った。
「ラッコの腹筋さえ拝んでいたら、もっと早く試合を決められた。非公式の」
この日、僕は20時に就寝した。まるで夏休みの農家の6歳児みたいな生活だ。そして夢を見た。ムエタイ・ファイターとスモウ・ファイターの試合だ。非公式の。見れば、琴光喜のわき腹に、彼がひざ蹴りを繰り出していた。その直後、彼は琴光喜の突き押しに吹き飛ばされていた。
翌々日、彼は僕にこう言った。
「君、そういえば、あの日、あんな時間にあの坂で何をしていた」
僕は答えた。
「マスターベーション」
「ああ、マスターベーションか」
「空を飛ぼうと思って」
⑮
僕は世界地図を描いていた。それを見て、彼は言った。
「君が描いているのは、陸か、海か」
僕は答えた。
「世界地図だ」
本当はわからなかった。
⑯♯
まるで呪いだ。
彼はやっと静かになった。僕は意識を向け直す。当たり障りのない、なんでもないやりとり。空しい。ふむ、空しくないことなんて、何もないか。普通のことか。当たり障りのない、なんでもない、空しい、普通のやりとり。それでも考え方によってはこんなもんでも愛の歌になるのだ。そして掃いて捨てられる。ひどい話だ。
掃いて捨てられて、やはり腐っていく。僕と同じ様に。
腐っていく愛の歌と、腐っていく僕。たしかにお似合いだ。僕らは堆積していく。昔の誰かと同じ様に。昔いた、僕みたいな誰かが腐った上に、僕が腐って横たわり、昔あった、似たような愛の歌が腐った上に、新しいが同じ様な愛の歌が腐って横たわる。そうして、幾重にも堆積していく。僕は、誰かみたいな人間で、誰かと同じ様に考えて、誰かと同じ様なことを感じ、誰かと同じ様なことを言って、誰かと同じ様に笑い、誰かと同じ様に彼女を好きになり、誰かと同じ様に腐っていく。僕は、彼とは違う。
僕は誰かと同じだ。この椅子に座っているのも、いつかどこかの椅子に座るのも、僕である必要なんて全然ない。
希少価値なんてない。僕は同じだ。
「なんだか君はまた自殺でもしそうだな」
「そうかな」
「うん。いかにもそうだ。しかし、いかにも自殺しそうに見えるものだから、演技じゃないかと疑ってしまう」
「そうかな」
「そうかな、なんて、そんな相槌は沈黙と大差ない。そもそも君にその気はないんだろう」
「なぜだろう」
「わからんよ。君が知っていることだ」
「たぶん惰性」
「どうやら一理ありそうだ」
「すべてさ」
「そうかもしれない。君がそう言うなら」
「そうかもしれない。君がそう言うなら」
⑰
「ダンディさんは元気か。もう死んだかな」
「まだ生きている。瀕死だけど」
「迷っているのか」
僕はなんと答えて言いか迷った。
⑱
「これだけ自由を求めておいて、いざ獲得しようという時になると、びびって尻込みするなんて、これじゃまるでダチョウ倶楽部じゃないか」
彼はチャップリンの映画を見てにやにや笑っていた。たぶん彼は最後まで手を上げて取り残される類だ。いまみたいに、にやにやと不敵に笑ったまま。
⑲
僕はまた例のマスターベーションをしに出た。しかし、湿度も高く、空気もゼリーみたいに重たくて、きれいな錯覚が創れない。今日は重力が強すぎるみたいだ。たぶん月の巡り会わせが悪いのだろう。僕は諦めて坂を離れた。
僕はコンビニのゴミ箱の隣に適当に座り、「キス」を始めた。そして、買ったジュースパックにストローを突っ込んで中身を根こそぎ吸い上げながら、せわしく鳴きながら群れて寝床を飛び立っていく鳥を眺めた。
「今日は飛べなかったか」
彼の声だ。ちらと目をやると、確かに彼がいた。彼は僕の今日の不出来を見抜いた。きっと、僕は欲求不満で、恨めしげな目をあの鳥たちに向けていたのだろう。
僕は黙ったままで、ジュースパックの中身を一滴も残さず吸い尽くしてやった。からからと、悲しげなジュースパックの断末魔を聞く。僕は立ち上がり、空になったパックを握り潰し、消化不良で今にも嘔吐しそうなゴミ箱の口へ、これでどうだと言わんばかりに無理矢理ねじ込んでやった。やっぱりな、と彼は言った。彼も鳥を見ているようだった。
「君が飛ぶ理由と、あいつらが飛ぶ理由は、ちがう」
「だろうね」
「君はあいつらがどうして飛ぶか知っているか」
僕はまた黙った。
彼は言った。
「あいつらは、もう飛ばなくてもいい世界に行くために飛ぶんだ」
⑳
「なあ、まるで生きているみたいだろ」
「本当に」と僕は言った。
「まるで生きているみたいだ」
本当に、まるで生きているみたいだった。
だめだとは知っているつもりでも
こんなに
つらいなんて・悲しいなんて
それは知らんかった
四人目のあの人は賢明な選択をした。