2006年08月29日(火)21時32分-緋夜叉
男は何やら落ち着かぬ様子で、額の汗を拭いながら、上体を起こし、辺りを見回していた。着ていたパジャマはすっかり汗を吸っていたらしく、体にまとわりつくように張り付いていた。
カーテンの向こうから、思い出したように、蝉の鳴き声が聞こえてきた。
彼はパジャマに引かれるように、再び体をベッドに沈めた。汗ばんだ右腕を、両目の上に覆い被さるように置き――男はこの格好が最も落ち着くらしく、よくそうしていた――空白の時間を手繰り寄せた。
夢……そうか、夢か……それにしても変な夢だったな……あれ、どういう夢だったっけ……確かどこかに居て……いや、居たのかどうかもはっきりしないな……本当に変だったのか……おかしいな……起きたときは確かに……。
起きるまで――正確には上体を起こす直前まで――その手に掴んでいた夢は、元から空気であったかのように、男の手からすり抜けていた。把握できず、ましてや認識も出来ない。ただ、変な夢を見たという根拠のない事実だけが、男が記憶している唯一の内容であった。
蝉の声が次第に大きくなり、男は「ま……いいか」と吐き捨てるように独り言を呟き、明かりを付けた。何かが切欠で空気が砂になるときもある。その僅かな可能性に賭けても、何ら問題はないだろう。
男はベッドから降り、湿ったパジャマを脱ぎ捨て、制服に着替えた。時計を見ると、あと五分で七時になる頃であった。
部屋から鞄を持ち出し、階下に降りた。茶碗の触れ合う音や水の沸騰する――生気のない――音のする台所へ行くと、女が――男より三歳下の妹であり、その年頃に特有な態度を持ち合わせていた――先に食事を始めていた。
妹は男を一瞥すると「おはよう」と一言だけ発し、再び茶碗の中へ視線を落とした。
「おはよう」男は冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに注いだ。
「あら、今日は早いわね」男の母親が、首だけをこちらに向けて言った。昨日の仕事の疲れが残っているのだろう。目の下には隈が出来ていた。男は気付かぬ振りをして、少しとぼけた顔をしながら「そうかな?」椅子に腰を下ろした。よく冷えた麦茶を飲みながら、右にいる妹を見た。彼女を見ても、夢はまだ空気のままだった。
「なに?」彼女は、不機嫌そうに振り向き、男は「いや、何でもない」と、母親が用意した朝食に手をつけ始めた。年頃の女は恐いものだな、と感じながら熱い味噌汁を啜った。少し、舌が火傷した気がした。
会話のない状態が何分続いたのか覚えていない。ただ、長針が3を刺した頃「ごちそうさま」妹は、そう告げると鞄を取って、先に玄関へ向かった。
「いってきます」先程とは異なり、凛とした声で家を出た。男は、ぬるくなった味噌汁の残りを飲み込んだ。
「いってらっしゃい」母親はいつものように、娘を送り出していった。再び、台所が無機質な音に包まれた。そろそろ、男が耐えかねて、口を開いた。
「今日は遅いの?」
「そうね……。十二時までには帰るつもりだけど、ちょっと面倒な仕事が来ちゃったもんだから、もしかしたら夜中かも知れないわね。すまないけど、晩ご飯は、二人で作ってちょうだい。野菜も少し切らしちゃってるから、買い物もお願いね」
「お金は?」
「後で、机の上に三千円置いとくわ」
「わかった……。それじゃ、ごちそうさま」男は箸を置き、鞄を手に取った。
「事故にはくれぐれも気をつけてね」母親が少し真剣な面持ちで言った。疲労で上の瞼が低くなっているからだろう、と男は思った。
「小学生じゃないんだからさ」男は作り笑いをした。
「親にとっては子どもはいつまでも子どもなの」
「はいはい……それじゃ、行ってきます」無理しないように、と言いたくなるのを堪え、男は台所を出た。
「いってらっしゃい」扉を開け、むせ返るような、しかし新鮮な朝の空気を吸い込み、男は家を後にした。
家は山の中腹に位置しており、学校は麓――すなわち西の方角――にあった。行きはすべて下り坂になる。
この辺はニュータウンとして近年、開発が進み、大半の自然はなくなっていた。辛うじて家の裏手にある竹林がある位である。この竹林は山頂の神社まで続いている。この竹林が、強風でなびく度、男はひどく狼狽した。幼少時代、父親に叱られるときはいつも、家から閉め出され、この竹林に置かれたことが原因だと男は考えていた。その後遺症か、ひどいときは部屋にいても、台所にいても、笹の擦れるような音が耳から離れなかった。父親の亡き今、この竹林だけが父親の面影を残していた。今日は風がないため、竹林はひっそりと佇んでいた。
男は迷路のように入り組んだ道を、ひたすらに下り続けた。そして、ある道に出た。
大抵の道は狭いが、一つだけ広い道――車が二台、やっと通れるほどだった――があり、男や女やら学生やら車、自転車が降りてくる。その道が駅や学校への最短進路だからだ。但し、集団登校する小学生の場合は、敢えて遠回りをしているようだ。それは安全上、至極当然のことのように思えた。
狭い道路を車が我が物顔で通り過ぎる。車と壁の間を電柱を避けながら自転車が通る。壁いっぱいまで寄りながら人が下りる。住んでいる者は年々増えているらしい。だから、男はこの道を「大名通り」と名付けていた。車が大名で、人が従者。この長い行列はどこまで続くのだろう。
麓まで来ると、まず駅のロータリーが見える。駅は東に位置しており、大抵の車や人は駅に向かう。しかし、男の高校に通う者は、逆であった。そのまま、ロータリーを横切るようにして、踏切を渡る。そのまま、歩いていくと左手に正門が顔を現す。男は正門をくぐり、教室へと向かった。この高校には、クーラーがなかった。そのため、教室に入ると窓は全て開け放たれていたにも関わらず――生徒が発する熱も加わってか――蒸し暑かった。男は窓側に位置する、自分の席に座った。そしていつものように、右肘をつきながら空を眺めた。
クラスメイトの雑談、蝉の談笑、雲の微笑、無言の風……。
突然、誰かに肩を叩かれて振り返ると、そこには友人の齋藤荘介が立っていた。無口な男にとって、唯一の友人であった。
「今日、人身事故っぽいのを見たんだけどさ。」齋藤の話は、いつも突然であった。わざとそうしているときもあるが、今回は違うようだった。
「それ、どういうこと?」
「つまりさ……。俺はいつものように急行に乗って、ある駅で特急が通過するのを待っていたわけさ。そして、通過するはずの特急が急ブレーキかけて……そんで決め手は、女の、きゃああ!って金切り声さ。俺は人身事故だろうと思って、一度見てみようと思ってたんだけどさ。俺は電車で座ってたんだ。ここで降りて見に行ったら、戻ってきた時に立たなきゃいけないだろ?座るのと、人身事故の現場を見るのと、どっちが良いか、しばらく考えたんだ。そしたらよ、俺の前で立ってた連中が何人か出て行ったんだ。わざわざ、何だ何だ?、って呟きながらね。それ見た瞬間、俺はここに座ったままでいようと思ったんだ。わかるだろ?俺は、そういう死体だとか、殺人に興味があっても、それはもっと……何て言うんだろ……そう、深い興味があるからなんだ。だけど、俺の前に立ってた奴なんかは、単に火事場に群がる野次馬と同じなんだ。連中は、被害者ぶった加害者なんだよ。俺は、違う。純粋な傍観者であり探求者だ。面白半分で見るんじゃない」
「面白半分で見てたんじゃなかったのか」
「おいおい、冗談だろ?俺が面白半分でそういうのに興味があると思ってたのか?それだったら、心外だな。確かに、興味というのは一見すると、面白半分に見えるかも知れない。だけどね、火事や事故というのは、惨事なんだ。それを目撃するのは、滅多にないんだよ。だから、それを見て人は学ぶんだ」
「何を?」
「命をさ……つまりだね、惨事という特別な状況を体験して、人は初めて命の重要性を認識するんだ。客観視というんだろうね。病気を患ってから、初めて健康の有り難みが分るっていうだろ?それと同じさ。だけど、火事や事故に群がる野次馬の顔を見たことがあるかい?あの恐怖とも畏怖ともつかない顔を。あれは、自分自身を見つめているからなんだ」
「つまり?」
「つまりだ……野次馬は不幸とか惨事が好きなんだよ。火事も、事故も対岸だから、安心して眺めていられる。そして、心の何処かで安心している自分を見てしまうのさ。連中は、火や血を見ているんじゃない。自分の後ろ姿を見ているのさ。壁に出来た穴を通して惨事を見ているつもりが、自分を覗いているんだから。全く馬鹿げた話だろ?自分を覗くなんてさ」
「へえ……」男は、別に反論はしなかった。それが男の癖であり、齋藤もそれを知っていた。普段なら彼は持論を言って満足するのだが、今日の彼はそこで終わらなかった。
「それでだ……。君はどう考えている?」
「どうって?」
「事故の純粋な傍観者になるためには、どうすれば良いか」
「純粋な傍観者……」男はしばらく黙っていた。その言葉に何か違和感のようなものを感じたからだった。そして、何かを言おうと顔を上げたが、チャイムがそれを邪魔した。
齋藤は、放課後に、と言い残し席へ戻った。おそらく、返答に対する充分な時間を与えるつもりなのだろう。
教師が入室し、教室に静寂が戻った。蝉の声が頭に響き、教師の声はあまり聞き取れなかったが、男は黒板の字を機械的に写しながら、齋藤の質問に対する答えを考えていた。しかし、うまい答えはなかなか出てこなかった。
時間は案外早く過ぎていった。気付けば、放課後になっていた。生徒達が教室から霧散霧消して行く中、齋藤が男に話しかけた。
「どう?」
「いや、まだ見つからない」
「そうか。ま、焦ることはないさ。見つかるまで探せばいい。納得のいく回答が見つかったら、教えてくれよ」
男と齋藤は、共に教室を出た。校庭は、部活に勤しむ生徒の熱気で埋め尽くされていた。
学校から離れ、駅の方へ向かった。踏切の手前に差し掛かったところで、警告音を鳴らしながら遮断機が下りた。二人は、辛うじてホームの端が見える場所に立っていた。
齋藤は、左を見ながらこう言った。
「人身事故って、特急でやることが多いんだ。あれって、スピードがあるだろ?通過直前に身を乗り出せば、後は電車がやってくれる。そして、老人が多いらしいぜ。飛び込む直前に、車掌に頭下げて飛び込む奴もいるそうだから……運転する側にとっては、いい迷惑だよな」
齋藤と男は、ホームの端で白線の手前に足を乗せている老人を見かけた。右手に何かの袋を持った、その老人はジグザグに少しずつ歩きながらも、確実に白線へ向かっていた。
「大丈夫かな?」
「危ないな。特急が来るってのに」訝しそうに見つめる齋藤の口元が、少し歪んで見えた。
左手から、勢いよく特急が近付いてきた。そして、ホームに侵入した途端、老人は右手に持っていた袋を落とし、少しお茶目に飛び上がった。その瞬間、老人が振り向き、男と目が合った。
特急は急ブレーキをかけたが、遅かった。老人の体は、冷たい金属部に触れた後、熟れたトマトが壁に勢いよくぶつかったときのように、弾け飛んだ。
急ブレーキに特有の、耳障りな鉄同士の摩擦音が、遮断機の警告音を掻き消し……人々は事態が飲み込めずに、ただその音に心を奪われ、固唾を飲み込み……全てが終わり、意図的な静寂が人々の体に絡み付き……女の叫び声が何処からか聞こえ……やはり、事故が起きたのだと、誰もが認め始めた頃……申し訳なさそうに、遮断機が上がった。
だが、誰も渡ることは出来なかった。特急が大きな遮断機となっていたからである。人をはねた巨大な車体は、人々をそこに留まらせた。
最前列にいた人は彼方此方に散らばる、皮膚や服、内臓の破片を目の当たりにしてしまったためか、青ざめた顔をして遮断機から遠のいていった。そういうのに興味のある齋藤が前に躍り出た。男も齋藤の後ろに付いていった。
立ちすくむ人々を押しのけ、少し距離の置かれた最前列へと体を持って行くと、レールや枕木の上に人間の断片らしきものがこびり付いているのが、はっきりと見て取れた。明らかに、雑草や排気ガス、汗とは異なる臭い――これが肉の臭いなのだろうか――が夏の暑く重い空気に乗って、漂っていた。ホームの方では、駅員が「この辺で老人を見た方はいませんか?」と多少声を張り上げながら歩いていた。周囲のざわめきは、いつの間にか蝉の鳴き声より大きくなっていた。
電車に乗っている人達は、人身事故があったことは知らされても、よもや自分の足元に老人の死骸があるとは知らず、不安そうな眼で遮断機にいる彼等を見つめていた。その彼等は、驚嘆、悲哀、歓喜、どれにも属さない、ふてぶてしく紅潮した顔をしていた。
間もなく処理班が現れ、周囲をブルーシートで隔離した。
「……見たか?」
「ああ」男は不思議と何も感じなかった。その理由は分らなかった。ただ、自分を取り囲む熱気が暑苦しかった。
「これが……人身事故なんだな……」齋藤の唇は、劣化したゴムのようにヒビだらけだったが、血色は良かった。
「あんな風に、人って潰れるんだな……まるで映画みたいじゃなかったか?水風船が割れるみたいに……見事だったなあ」齋藤は、少し震える両手で風船が割れる様子を実演して見せた。
「そうだな」
「これは、本当に貴重な体験だ。忘れない内に、写真でも撮っておこう」齋藤は、携帯でその様子を写真に収め、興奮気味に眺めていた。男はその様子を見て、狼狽した。
困ったなあ……これじゃ間に合わないよ、と誰かが言った。呼応するように、後ろの人が暑いなあ、とぼやきながら煙草に火をつけた。事故が発生してから十分ほど経った頃であった。
数分後、ようやくブルーシートが剥がされた。特急は後ろから急かされるように動きだし、乗客の顔に安堵の色が戻った。今まで重々しい車体が乗っていた、赤錆びた線路は行水をしたらしく、斜に差し込む光を受けて妖しく光っていた。齋藤は携帯をポケットにしまった。
遮る物がなくなり、今まで溜まっていた人や車が、決壊したダムのように踏切内に溢れ出した。男と齋藤も歩き出した。齋藤は駅のロータリーで、明日学校で、と男に軽く別れを告げると足早に去っていった。彼の足取りは、とても軽やかに見えた。
男は大名通りを歩き、家に帰った。家の中は――誰もいないが――いつものように静まりかえっていた。自室に入ると、机の上に三千円が置かれていた。
思い出したように今までの疲労が込み上げ、男はそのままベッドに横になった。すぐに起きるつもりであったが、そのまま男は眠ってしまった。
夢の中で、男は沸騰する前のやかんを覗き込んでいた。やかんの底から湧き出た小さな水泡は、水面に顔を出すや否やユラユラとやかんの端へ向かって泳ぎだした。大抵の水泡は、黒みがかったステンレスの壁に到達する前に割れてしまうのだが、湧き出す泡が大きくなるにつれ、遠泳するようになり――他の水泡と結合し、大きくなるのもあった――ようやく水面の端に行き着くのだが、壁に触れた瞬間、それは破裂してしまった。水温はどんどん上昇し、非常に大きな水泡が現れて、水面そのものを波立たせ――つまり、沸騰が始まり――どれがどれだか区別できなくなり……そこで夢は終わった。
目を開けると、男は急いで体を起こし時計を見た。もう、日が暮れる頃合いであった。
制服を脱ぎ捨て私服に着替えると、三千円をポケットに押し込んで家を出た。買う物は、もう決めてあった。既に、夢の内容は忘れてしまっていた。
大名通りに出ると、家路へ向かう人や車でごった返していた。男は母親の言うとおり、事故に遭わぬよう注意深く、しかし駆けるように歩みを進めた。そして、ふと肉片と化した、あの老人のことを思い出していた。
あのおじいさん……飛び込む前に、どんな顔をしたのだっけ。しかし、男はどうしても彼の死顔を思い出すことは出来なかった。
眼下に広がる町は、夕陽を受けて赤紫色に染まり、夢の如く透明に、輝いていた。