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墓参り

2006年08月29日(火)21時38分-緋夜叉

 


 周囲は蝉時雨が似合う季節となっていた。視線の向こうから、揺らめく足の先が見える……またやって来た。
 息を何処かに忘れてきた生者が、墓石なった死者へ花を供えるために。


「私はね、死ぬのが待ち遠しいんですよ。あの世で待っている婆さんの処へ行けるんですから」
 共同病室内でAの隣で横になっていた老人は、誰に言うともなくそう呟いた。Aは手術を数日後に控えるその老人を見詰めていた。老人の下半身から糞尿特有の鼻を刺す臭気が漂ってきた。Aは顔を背けると、誰に訴えかけるように頭の中で呟いた。

……ああ、これはきっと死の臭いに違いない
  左手を窓ガラスにぴたりと付け、横へスライドさせた……

 これだから入院は嫌だったのだ。どうして、誰も彼も患者に成りたがるのだ。弱者になったところで社会復帰は望めないというのに……(壁掛け時計を一瞥する)そろそろ回診が始まる頃だ……医者と看護婦が色の抜け落ちた衣服をまとって入ってくる頃合いだろう。

――調子はどうですか?
 (看護婦から体温計を渡され、Aは静かに腋へ挟み込む)
――熱は少し引いたと思います。吐き気も減りました
――食欲はどうですか?
――朝食はあまり食べていませんが、昼食、夕食はほとんど食べています
 (看護婦がペンを走らせる)
――朝食をそれほど食べてないのは?
――朝は何も食べない生活が長かったもので
――そうですか(医者が白い歯を見せ)実は私もそうなんですよ。胃は無理して食べ物を入れると良くないですからね。食べられる分で結構です。昼食と夕食はきちんと召し上がっているようですし。他には、何か気になることはありますか?
――咳がまだ出ます
 (体温計が電子音を告げ、看護婦に渡す。医者が首を伸ばし、体温計を見る。看護婦が値を表に書き込む)
――熱は……微熱程度まで下がっていますね。それでは、一応咳止めも出しておきましょう。粉末は大丈夫ですか?
――ええ、大丈夫です
――それでは、お大事に

 二人は別の患者のベッドへ向かった。ここにいると、きっと死んでしまうに違いない。肉体の前に精神が。
 Aはなるべく外の空気を吸おうとしたが、喉の調子が悪かったため、秋の乾いた空気を長く吸うことは出来なかった。外気を取り込んだ肺が、それを吐き出そうと喉を刺激した。Aは三分ほど肩で咳をしていた。部屋は静かであった。
 Aは片手で窓を閉めると、周囲を見回した。白を基調とした部屋……潰れた蝿のような壁のシミ(咳が出始める)……主人をいつまでも待ち続けるベッド……窓枠の隅で鳴くのを止めた蝉……
「私はね、明後日に手術なんですよ。きっと、この手術で死ぬんです。もう、手術に耐えられるほどの体力は残っていませんからね。ええ、もちろんお医者様には言ってませんよ」老人がまた話し始めたようだ。唇が、焼けたビニールのように歪んでいた。
「おい、爺さん。そんな辛気くさい話は止めてくれないか」Aの向かいのベッドで梨の皮を剥いている男が声を発した。この男は――見たところ三十代のように見て取れるが――数日前にこの病室に入ってきた。事故に遭ったらしく、右足がギブスで固定されていた。
「私は死ぬんです。それは決まっていることなんですよ」老人は男の方を見た。
「死ぬかどうかなんて、そうなってみないと分らないもんだろうが。そんなに死にたきゃ、黙って死んでな。胸くそ悪いったらありゃしない」
「手術は明後日なんです。婆さんには明後日に会えるんです」老人の顔は男を向いていたが、目は男を捉えていなかった。
「けっ、この爺さん呆けてやがる」男は四分割した梨の一つを思い切り口に含んだ。みずみずしい音が聞こえた気がした。
「昨日、婆さんを夢で見ました。あの頃のままでしたよ」
 男は老人を見ていなかったが、眉間の皺は寄せたままであった。

 二日後、老人はベッドと共に手術室へ向かった。窓から差し込む淡い日の光を浴びて、老人の顔は石灰石のように白く見えた。男は薄いシーツの中で何度も足を動かした。Aは看護婦に嬉しそうに話しかける老人の横顔を眺めていた。看護婦が苦笑いを浮かべていた。
 
 その日、夕陽を背にして、ベッドだけがわびしい音を鳴らしながら帰ってきた。Aは踵を何度もベッドに押しつけた。握り拳を押しつけた。しかしベッドからは、シーツの擦れる音と堅い抗力が跳ね返ってくるだけであった。
 Aは向かいの男とは口を聞かなかった。男が取っつきにくい態度の持ち主であるとはいえ、Aはいかなる愛想の良い者とも口を聞かなかったであろう。弱者同士が話をすれば、二言目には自分の身の上話が勝手に出てくるからだ。馴れ合いなど、まっぴら御免だ。必要なのは復帰への片道切符なのだから。

 男は順調に回復していった。時々、見舞いに来る友人達と歓談したり、有料のテレビを見たり、梨を剥いては食していた。
 Aはカーテンを閉めるようになっていた。男はきっと社会に戻ってしまうだろう。Aは異なっていた。医者が真実を喉の奥で変形させ、口から出していたのを知っていた。復帰の見込みは望めないのだ……分っていた……この鏡のような壁に囲まれた部屋からは、二度と逃れられない……

 男が退院した日に、別の患者が加わった。十三歳ほどの少年であった。老人がいたベッドの上で、少年は退屈そうな顔をしていた。右腕には何かの点滴を受けていたが、時には点滴をしたまま廊下へ勝手に出て行き、看護婦に注意されていた。活発な子どもであった。
 少年は隣の部屋の少女と仲が良かったらしく、少女はよく少年の処へ話をしに来ていた。その少女の顔が、昔入院したときに出会った少女の顔とそっくりに見え、Aは狼狽した。あの少女の病状は重かった。

 その日の夜、Aは昔の記憶を夢に見た。あの少女との約束を破ってしまったのだ。明日も会おうと言ったのに……Aは次の日に退院した……会うこともなければ、謝る機会も永遠に失われたまま……あの日、手に入れたのは往復切符だったのに、それを知らず……あんな紙くずを握りしめて走り出してしまった……少女を壁の向こうに置き去りにして……あのドアから現れるのは彼女ではない……ここは死者の吹き溜り……

 Aはその頃から、病状が悪化し始めた。四日後には、個室へ移動することとなった。個室の中は静かであった。ドアが二重に用意されていたため、廊下の音がほとんど耳に入らなかったのだ。壁掛け時計もなかったため、医者はいつも突然やって来た。
 そして、幻聴を聞くことが多くなった。誰かの足音が聞こえてくるのだ。看護婦が夜の見回りに来るからなのだろうと考えていたが、どうやらそうではなかったようだ。足音がするのに誰も姿を現さないことがあったからだ。Aは身の毛がよだつ思いがした。関係ないことを思い描きながら、Aは足音が静まるのを待った。
 そうだ。外の景色でも想像しよう……ああ、何であの窓から見える風景ばかり、こうもありありと浮かんでくるのだ……それから何日経ったのか、もう忘れてしまった。そのくらいAはベッドの中で足音が消え去るのを待っていた。身動きせず……いや、これは身動きが出来ないのかもしれない……いずれにせよ、考えるにはあまりに寒すぎる……

      夢さえ凍りそうな 寒い日に
       足音が息を潜めて やって来た
         カラスの一鳴き――かぁ――
                  息が 床に
                       落っこちた

 Aを死んだことを疑う者は、誰一人いなかった。医者は自分の予想通りに事が運び、Aを見下ろしながら誇らしい気分に浸っていた。病院から連絡を受けAの肉親が皆、苦瓜を噛み潰したような顔をして現れた。医者は病状の経過を饒舌に述べると、後で精算を受付で行うように言った。肉親はその領収書に書かれた金額を見るや否や、白紙のような顔をしたAを睨んだ。

 それから長い月日が過ぎ――誰もがAを忘れてしまったほどに――Aは墓石になっていることに気付いた。この墓石がAの墓石でないことは、さらに時間が経ってから気付いた。墓石に訪れる人間が、全てAの知らない人間であったからだ。不思議なことに、毎日誰かがAの元へ足を運んだ。
 Aは体を動かすことは出来なかったが、物音を聞いたり、何かを見たりすることは出来た。瞼がなかったため、一日中何かを見なければならなかった。何かを見なければならない、という行為はAを苦しめた。Aの足元で花を添え、両手を合わせる者を見る度にAは殺されるのだから。これが弱者の運命なのだろう……
 ああ、お願いだから止めてくれ……確かに死んでしまったかもしれないが、こうして生きているのだ……墓石の前で、花なんて置かないでくれ……これ以上、その葉で、花で、手で、殺さないでくれ!
 Aがいくら懇願しても、相手に聞こえるはずもなかった。弱者の声はいつも届かない。

 今日も足音が近付いてくる……愛しい弱者を殺すために……
    


現在の技量では、この量、質が精一杯です(汗
 

最終更新:2012年12月30日 12:24