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隣人

2006年08月29日(火)21時43分-緋夜叉

 

隣人――最も遠い愛人、最も近い他人

 私が隣の一〇二号室に興味を持ったのは、何ら疾しさや妬みといった感情を持ったからではない。隣には、老人が一人で暮らしているだけなのだ。このような老人に興味を持つ者など、悪徳業者以外にいまい。実際この老人と顔を合わせたのは、過去に数回程度であったが、愛想の悪い人であったと記憶している。話しかけたこともなければ、話しかけられたこともない。つまり私は一〇二号室と関わる要素など、皆無であったという訳だ。

 さて、事の始まりは突然であり、小さな出来事であった。その日、私は夜遅くまで仕事をしていたので、夕食も食べずにそのままベッドに倒れ込んだ。ベッドは壁に沿うように置かれてあり、その壁は隣の一〇二号室との間に設けられた隔たりであった。俯せになり、部屋の明かりを灯したまま、いよいよ目の前の壁が霞み始めた頃、何かお経のような声が耳元をかすめた。声にあまり抑揚がないので、そう聞こえたらしい。最初は、夢見心地にその何を言っているのかよく分らない声に、耳を傾けていたが、ある言葉が私を現実に引き戻した。

「わしはな、自分の嫁を喰っちまったんだ。」
 人を喰っただって?

 耳をそばだてると、声はどうやら壁の向こうからやって来ているらしかった。
 私にはその発言が、老人の痴呆による戯言だと思っていた。おそらく、その老人は自分の妻が亡くなって悲しいのだ。そこに痴呆が加わって、あのような狂言が出たに違いない。それで納得しようと思えば出来たのだが、老人はまだ何かを言っていた。私は冷え切った耳を壁に静かに押しつけて聞いてみることにした。既に、眠気は何処かへ消し飛び……時計の規則正しい音が左耳から、そのまま右耳へ抜けていった。

「当時は日本全体が貧しくて、誰もが今日を必死で生きていたもんさ。その頃のわしは、画家を職業にしておった。只でさえ金がない時代に、金にならない仕事をしておったのだよ。もちろん、仕事は来なかった。だが、それでは飢え死にしてしまう。わしは毎日、人通りの多い場所へ絵描き道具を持って行って、似顔絵を描いていた。一回十円の安い仕事さ。一日に、大体五人ほどの顔を描いたと思う。懐に余裕のある連中が多かったから、気前の良い客が多かったものさ。夫婦か、愛人。どっちかは知らないが、男女の組で来る客が大半だった。わしが描くのは女の顔ばかりであった。そりゃそうだろう。自分の顔を絵に残したい者など、女しかいないからな。中には女にせがまれ顔を描いてもらった男もいたが、それは稀だった。わしは綺麗な女はより綺麗に、不細工な女も、気付かれぬように若干の整形を施して描いたものさ。どの女も喜んでいたさ。男は自分の女がこれ程美しかったのだろうか、と首を傾げていたものだが、わしの整形を見抜くような目の肥えた輩などいるはずがないのだから、傍らで子どもみたいにはしゃぐ女を落ち着かせながら、わしに『取っておきな』と三十円渡して去っていくのさ。男としても女が上機嫌になるのは、喜ばしいことだからな。礼のつもりなんだろう。わしはあまり同じ場所で絵を描かなかった。ああいう場所は、縄張りも厳しいからな。変な言いがかりを付けられて、絵を描けないような手にされてしまっては元も子もない。」

 眠気が打ち返す波のように戻ってくるのを感じた。私は老人の話がもう少し長引けば、この先の話を全て聞き逃していたことだろう。老人はそれを察したのか、壁を何か棒のようなもので数回突いた。それは閉じかかっていた瞼を無理矢理こじ開けた。同時に老人がこちらの存在に気付いているのではないか、という疑念も抱かせた。老人は喉に絡んだ痰を吐き出すと、何度か咳をした。私は静かに……息を潜めて耳を壁に持って行った……。

「そういう生活を続けていたある日、わしは嫁に出会った。五月も半ばという辺りだった。ある女がわしの前で足を止めた。ようやく客が来たと思って顔を上げたのだが、どうも納得がいかなかった。その女は、当時のわしと同じ二十二歳で――まあ、これは後で知ったわけだが――服装も裕福な者が着る類ではなく、労働者によくあるような服を着ていたのさ。わしは単なる冷やかしだと思って、今日の晩飯はどうしたものかと考えていたら、女が突然こんなことを言い出したんだ。『似顔絵を描くんでしょ?描いてよ』わしは言ってやったさ『金はあるのかい?』とな。女は十円きっかり差し出した。その頃のわしは三十円もらうのが常だったものだから、多少損した気分になったもんさ。だから、この女には整形を施さずに、見たままを描いておこうと思った。描き終わった似顔絵を渡すと、女はこう言ったんだ『心が入っていない。これじゃ、金を払う価値はないね。金を返せ』ってね。わしは、とうとう面倒な輩に出会ってしまったと思ったもんさ。この女は極道者に違いない。わしはとうとう捕まってしまった、とな。しかし、辺りを見回しても男連中が近付いてくる気配はなかった。皆、無関心そうに歩き続けるばかりだった。わしはこの女が本気で、自分の絵を評価しているのかもしれないと思い始めた。女は血走った目をしたまま無言で『金を返せ』と訴えかけていた。わしは訝しそうにこう聞いたのさ『あんたに俺の絵が分るのかい?』ってな。すると向こうは『見れば分るよ。それとも君は自分の絵すら理解できないのかい?』と言い返してきた。わしは内心、面白い女に出会ったと思ったさ。わしの絵を見抜ける奴などそうはいない。ましてや女にいるとは夢にも思っていなかったのさ。女の言うことは正しかったからな。わしはどうもその女が気になってきた。気付けば、金を返して名前を聞いていた。女は『柳 翔子』という名だった。わしはそれが偽名だろうが気にしなかった。偽名など、この頃では日常茶飯だったからな。戦争が終わって、行方不明になった奴に成りすました人など、ごまんといた。わしは商売道具を片付け、女ともう少し話したいと思った。女は承諾した。近くの喫茶店で女と話をした。驚くことに、女は美術を志していたのだ。それが手が不自由になってしまったことから、諦めてしまったというのだ。女は手を握ることが出来なかった。わしは『そんな手では職など有り付けないだろう』と言った。女は『娼婦として生きてきたわ』と答えた。わしは、ますます女を守ってやろうと思うようになり、仕舞には『俺と結婚しよう』と断言していたのさ。女も『初めて分かり合える人に出会えた』と頷いてくれた。そうして、わしと女は結婚するに至ったのさ。生活は苦しくなった。彼女は仕事が出来ないし、そもそも忌まわしい商売から彼女を助け出すために、わしは結婚を言い出したのだから、文句は言わなかった。だが、二人分の食費を出すのは大変であった。今まで貯めてきた食費はすぐに底が見え始めた。そんなある日、彼女は不可解なことを言い出した。『あたしね……魚になっちゃう気がするの……ある日突然に……』わしはその発言に耳を疑ったさ。人が魚になるはずもなく、なりそうだとなぜわかる?わしは彼女にしつこく聞いた。だが彼女は『そんな気がするの。そうじゃないとあたしは窒息するかもしれない』と答えるばかりであった。その不可解な発言を毎日のようにするもんだから、わしもいつしか、彼女がある日突然魚になってしまうのではないか、と心配するようになった。そして、彼女が魚になっても生きられるように、小さな金魚鉢と餌を買った。その金が最後となり、とうとう溜めていた金は底をついた。」

 老人は急に黙り込んだ。私はどうしたのか気になり、耳を思いっきり壁にくっつけた。

「……とうとう、その日が来てしまったんだ。彼女は本当に魚になっていたのさ。目を覚ますと、彼女の枕元には誰もいなかった。代わりに金魚が枕の上で勢いよく飛び跳ねていたのさ。わしは落雷に打たれた気分がした。直ぐさま、金魚鉢に水を入れて飛び跳ねる金魚を入れたのさ。金魚は少しぐったりとしていたが、水に入ると元気を取り戻したようだった。わしは鉢に指を触れた。すると、金魚はガラス越しのわしの指に接吻したのさ。わしはこの金魚は彼女に違いないと確信したんだ。だが、問題はこの後であった。金魚になった彼女をどうやって戻せばよいのだろう?そんな話をしたところで、誰も信用してくれるはずがない。すると、彼女はこう言ったのさ『あたしは、このままでいい。だって、窒息しなくて済むんだから』わしは、はっきりと覚えている。声に出さなくても、わしと彼女は意志が通じ合っていたのさ。」

 私は老人の話に落胆した。そう、この話が真実であればこの老人は女にまんまと一杯喰わされたわけだ。救われないのは、女の嘘を完全に信じ切っているところだ。

「しかし……最も稀有なことは、何日か経った後わしがもう一人いたことだった。わしそっくりのわしが目の前に現れたのだ。そのもう一人のわしは『あの人は俺の物だ』などと言い出す始末さ。わしは『勝手に人の恋人を自分の物にするな!』と怒鳴ったが、これが単なる水掛け論なのは、言うまでもなかろう。わしは近くにあった包丁を取って、わしを刺そうとした。すると彼女は思いっきり飛び跳ね、わしとわしの間に入ってきたんだ。気付くとわしは、包丁でわしと彼女を殺してしまった。彼女はすぐに息絶えた。真っ黒い目を大きく見開きながら。わしは恐怖の余り、証拠隠滅のためだろうな……彼女を喰ってその場から逃げ出した。わしと彼女を殺したんだ。罪は重いに決まっている。そうして今に至るって訳だ。わしは自分の腹を見る度、罪の意識に苛まれてきた。わしはなぜもう一人のわしが現れて、彼女が鉢から飛び出したのか、考え続けたさ……それこそ何十年も……もう、考えることに疲れた……むしろ、彼女のように窒息しそうだ。最近はわしもこう思うようになってきた『魚になるかもしれない』と。確信は持てないが、きっとわしは魚になるだろう。だから今日を最後にこの部屋を出て行こうと思う。彼女はわしがいたから、水の中に入れたが、わしは一人だ。一人なら川で待つしかなかろう。」

 私は、もう眠ろうと思っていた。隣に住む老人は女に騙され気が触れた、哀れな男なのだ。誰が同情などするであろうか?私は老人に壁を叩かれても決して起きることはないだろう。次の日には、本当に老人は川に行って、二度と戻ってこないかもしれない。
 瞼がゆっくりと塞がっていく……老人の話が本当だろうが嘘だろうが、関係のないことなのだ――壁の向こう――魚は鉢から出て行った……。
 


非常に読みにくい作品だと思います(汗
展開が早すぎるのも問題ですが(滝汗

最終更新:2012年12月30日 12:26