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鳥よ、空高く希望の歌を歌え

2006年09月11日(月)10時06分-K

 

 何を思ったのかはよくわからないのだが、小林健二はタイムマシンを作ろうと思った。面白半分で作り始めたら、冗談半分でできてしまった。というわけで、小林健二は一週間後の未来へと旅立った。
 「ようし、その場の思いつきで、未来の自分を殺してやるぜ、ばきゅーーーん!」
 「やられた!」
 一週間後、小林健二は、今日は過去の自分が自分を殺しに来る日だ、と気づいた。そして、殺されてしまったら死んでしまうことにもはじめて思いを致した。小林健二は恐怖した。
 「やっべえ、マジやべえよ」
 小林健二が毛布にくるまってガタガタ震えていると、目の前の床に何か黒光りするものを見つけた。それは一週間前、彼が自分を殺すときに使ったトカレフTT33である。
 「そうだ、これを使って過去の自分を殺してしまえば、俺は助かるって寸法だ、イエイ。俺って天才かも」
 こういうわけで、小林健二の孤独な戦いが幕を切って落とされたのである。
 小林健二は毛布に身を隠し、トカレフTT33を両手で握り締め、時が来るのを待ち構えていた。そのとき、彼の部屋のドアがゆっくりと開いた。すべては一瞬に終わった。神経を極限まで研ぎ澄ました彼の動きはすばやかった。相手の目がこちらの姿を捉える前に、両手を顔の前に持ってきて、照準をあわせる。あの厳しい訓練期間中に徹底的に叩き込まれた膝射ち姿勢。長い期間前線から離れていても、やはり戦士の血は隠せないのだ。
 「健二、今日は一日部屋にこもっているけど一体どうし」
 ばきゅんばきゅん
 「たのひでぶっ!!」
 「か、母さん!」
 健二が母の元に駆け寄ると、母はすでに虫の息だった。銃弾は二発とも命中していた。(豆知識コーナー:近接戦闘では、狙点を正確に狙う時間的余裕がほとんどない。したがって、始めの一発が目標に命中したかどうかわからない。そこで、目標には必ず二発射撃(ダブル・タップ)する必要がある。それでも、なお敵が攻撃を仕掛けてきた場合には、さらにダブル・タップを行う。)母は口をパクパク動かして何かを言おうとしていた。いくら息を吸い込もうとしても一向に肺に酸素が入らないのを不思議がっているような顔をしている。金魚みたいで間抜けだ。
 「ハアハア、け、健二……」
 「母さん、もうしゃべっちゃ駄目だよ、すぐに救急車を呼ぶからね」
 「(;´Д`)ハァハァ、ば、ばら」
 「な、何、母さん? 何を言ってるのか良く聞こえないよ。もっとはっきりしゃべってよ!」
 「ば、薔薇の蕾……」
 「母さん? 母さん!」
 ガクッ  ガシャーーン
 母の手からワイングラスが落ち、床で砕け散った。絨毯に赤黒いしみが広がり、健二の目の中でそこから紅蓮の炎が燃え上がる。健二は母の体を引き寄せる、ちろちろと踊る炎の舌が、母の体に触れないように。触手に触れられた背中が内側から熱い。目の裏がちかちかする。耳鳴りがする。健二はいま、自分たちの周りにとぐろを巻く歴史の黒い濁流を感じていた。一定方向に流れていたそれがいま、轟音とともに裂け、ぶつかり合い、渦巻き、沸騰した。灼熱の流れが目からあふれ出すのを感じ、健二は目を閉じた。
 まぶたの裏にあの頃がよみがえる。今より少し若い母。まだ幼い自分。世界は今よりもずっと楽園に近い姿をしていた。母は旅行好きだった。いろんな場所に行った。今でも覚えている、母と一緒に鳥取県境港市に行ったこと。迷子になって泣いていた僕を母は必死になって探してくれた。僕は鬼太郎と目玉の親父のブロンズ像の下にうずくまっていた。境港市は水木しげる誕生の地だ。ムスリムが一生に一度はメッカを巡礼するように、水木しげるの信者は一生に一度はここに巡礼することを夢見るのだ。JR境港駅から水木しげる記念館までの一本道は水木しげるロードと名づけられ、さまざまな妖怪のブロンズ像が立ち並ぶ。それぞれの像には霊験あらたかな効能があり、僕は力が強くなるという牛鬼の像に触った。途中には妖怪神社もある。名物「妖怪汁」というのは缶ジュースの名前だが、不気味なので飲まなかった。水木しげる記念館では妖怪たちのジオラマ展示や、膨大な妖怪データベース、さらには有名な水木さんの書斎が再現されています。料金は、一般700円/中高生500円/小学生300円とお手ごろ。毎週火曜日(祝日の際はその翌日)は休館日なので注意するように。
 お隣の島根県にも鬼太郎に触れることのできるスポットはあります。平田市にある「旬鮮市場 おもひで横丁ぶらり」内に平成18年4月オープンした「鬼太郎商店 平田店」です。店内はレトロな雰囲気に包まれていて、昔ながらの情緒あふれる一角に鬼太郎のグッズが並びます。懐古的な空間の中に妖怪たちがマッチします。また、「ぶらり」に隣接する「割烹温泉 ゆらり」では源泉かけ流しの温泉も味わえます。ゆったり温泉にくつろぎながら、妖怪たちの世界に触れてみてはいかが? また松江市の市街地にある嵩山には、名水で有名な熊井の滝があります。また麓では夏期限定で涼を求めて訪れる人に人気の、そうめん流しも味わうこともできます。森林の香と滝の清涼感と共に、美味しいそうめんは夏を涼しくすごすのに良いスポットです。
 健二は開いたままの母の両目を閉じてあげた。
 「きれいだよ、母さん」
 健二は涙を振り払い、立ち上がった。
 「くそ、よくも母さんを! 許さん。絶対に許さんぞ。夢半ばで倒れた母の仇は俺が、俺がとる。復讐! そう復讐だ! あいつに母の感じた痛みを思い知らせてやる。鉛の弾丸にはらわたを抉り取られた痛みを、鉛の弾丸に小腸を抉り取られた痛みを、大腸を抉り取られた痛みを、十二指腸を、空腸を、回腸を、盲腸を、虫垂を、結腸を、S状結腸を、直腸を、胃を、etcを抉られたときの痛みを。さあ来い、過去の俺、怒りの弾丸を受けてみろ!」
 そのとき、彼の部屋のドアがゆっくりと開いた。すべては一瞬に終わった。神経を極限まで研ぎ澄ました彼の動きはすばやかった。相手の目がこちらの姿を捉える前に、両手を顔の前に持ってきて、照準をあわせる。あの厳しい訓練期間中に徹底的に叩き込まれた膝射ち姿勢。長い期間前線から離れていても、やはり戦士の血は隠せないのだ。
 「健二、さっきなんか大きな音がし」
 ばきゅんばきゅん
 「たけどたわば!!」
 「と、父さん!」
 健二が父の元に駆け寄ると、父はすでに虫の息だった。銃弾は二発とも命中していた。
 「ハアハア、け、健二……」
 「父さん、もうしゃべっちゃ駄目だよ、すぐに救急車を呼ぶからね」
 「は、犯人は……」
 「な、何、父さん? 犯人はいったい誰なの? もっとはっきりしゃべってよ!」
 「犯人の名前は……」
 「父さん? 父さん!」
 ガクッ  ドスン ゴロゴロゴロゴロ
 父の手からボーリングの玉が転げ落ち、部屋の一方に向かって転がっていく。この家は欠陥住宅で傾いているので、丸いものはすべて一定の方向に転がっていってしまうのだ。よって健二の部屋の片方の壁には、ピンポン玉、テニスボール、野球のボール、ソフトボール、バレーボール、バスケットボール、パチンコ玉、BB弾、いまやだんだん姿を消していっているマウスのボール、爆笑問題の田中の巨大化して摘出された睾丸、デススター、ディスカバリー号の先っちょ、レリエル(の影)、セックススフィア、月、等世界中の丸いものが転がりつく。皆さんもドラゴンボールを探す際には、まずここをご確認するのが効率的でしょう。ボーリングの玉は椅子や机などさまざまな物にぶつかりながら、転がっていった。その様子はまるで、ピンを探してさまよっているようだった。だが、このボールはもう二度とピンに向かって父の指から解き放たれることはないのだ。もう二度とこのボールが、あの優美な曲線を描くことはないのだ。健二にはこの玉が悲しんでいるように感じられた。もちろん勘違いであった。
 健二は開いたままの父の両目を閉じてあげた。
 「きれいだよ、父さん」
 健二は涙を振り払い、立ち上がった。
 「くそ、よくも父さんを! 許さん。絶対に許さんぞ。夢半ばで倒れた父の仇は俺が、俺がとる。復習! もとい復讐だ! あいつに父の感じた痛みを思い知らせてやる。鉛の弾丸にはらわたを抉り取られた痛みを、鉛の弾丸に心臓を抉り取られた痛みを、肝臓を抉り取られた痛みを、膵臓を、腎臓を、脾臓を、胆嚢を、肺を、膀胱を、甲状腺を、副腎を、etcを抉られたときの痛みを。さあ来い、過去の俺、怒りの弾丸を受けてみろ!」
 そのとき、彼の部屋のドアがゆっくりと開いた。すべては一瞬に終わった。
 「お兄ちゃん、貸したマンガ、早く返」
 ばきゅんばきゅん
 「してよあべし!!」
 「い、妹!」
 健二が妹の元に駆け寄ると、妹はすでに虫の息だった。銃弾は二発とも命中していた。
 「ハアハア、に、兄ちゃん……」
 「妹、もうしゃべっちゃ駄目だよ、すぐに救急車を呼ぶからね」
 「あ、あと……」
 「な、何、妹? 何が言いたいんだ? もっとはっきりしゃべろよ!」
 「ペ、ページに折り目つけるのやめて……」
 「妹? 妹!」
 ガクッ  ぬっちゃぬっちゃくっちゃくっちゃ
 健二は開いたままの妹の両目を閉じてあげた。
 「きれいだよ、妹」
 健二は涙を振り払い、立ち上がった。
 「くそ、よくも妹を! 許さん。絶対に許さんぞ。夢半ばで倒れた妹の仇は俺が、俺がとる。さあ来い、過去の俺、怒りの弾丸を受けてみろ!」
 そのとき、彼の部屋のドアがゆっくりと開いた。すべては一瞬に終わった。
 「ちわっす、三河屋で~」
 ばきゅんばきゅん
 「~すてるあびぶ!!」
 「み、三河屋!」
 健二が三河屋の元に駆け寄ると、三河屋はすでに虫の息だった。銃弾は二発とも命中していた。
 「じ、実は奥さんのことが……」
 「三河屋? 三河屋!」
 健二は開いたままの三河屋の両目を閉じてあげた。
 「きれいだよ、三河屋」
 健二は涙を振り払い、立ち上がった。
 「くそ、よくも三河屋を!」
 「どうも、NHKで~す。集金にきま」
 ばきゅんばきゅん
 「したあじゃぱぁ!!」
 「え、NHK!」
 健二がNHKの元に駆け寄ると、NHKはすでに虫の息だった。銃弾は二発とも命中していた。
 「え、NHKは皆さんの受信料で、成り立っておりま……」
 「NHK? NHK!」
 健二は開いたままのNHKの両目を閉じてあげた。
 「きれいだよ、NHK」
 健二は涙を振り払い、立ち上がった。
 「くそ、よくもNHKを!」
 「警察だ! 現行犯で逮捕……」
 ばきゅんばきゅん
 「するぐわしっ!!」
 「ま、松田優作!」
 健二が松田優作の元に駆け寄ると、松田優作はすでに虫の息だった。銃弾は二発とも命中していた。
 「な、なんじゃこりゃあ!!!」
 「松田優作? 松田優作!」
 健二は開いたままの松田優作の両目を閉じてあげた。
 「きれいだよ、松田優作」
 健二は涙を振り払い、立ち上がった。
 「膀胱癌で死んだはずの松田優作が、なぜここに?」
 しかし、コピー&ペーストというのは実に便利だ。ぼくみたいに繰り返しが好きな人間にとっては、これがあるとないでは、効率が段違いになる。つまり、パソコンがあるかないかって言い換えても良い。
 パソコンは、情報をできうる限り物質から切り離して扱うことが何しろ革命的だった。その特性のもっとも典型的な発露がコピー&ペースト、つまり「コピペ」なわけだ。というよりパソコンは「コピペ」をする機械と言い換えたいくらいだ。
 なぜ、手書きじゃなくてパソコンのワープロソフトで文書を作成するのか。もちろんそれはそっちのほうが早いからじゃない。大して時間は変わらないだろう。楽だからでもない。肩はこる、目は疲れる。じゃ、何のために。それは後で「コピペ」するためだ。同様に、なぜデジカメで写真を撮るのか。たとえ画質は劣っても。それは後で「コピペ」するためだよね。
 ちょっと乱暴な議論だけど、結構いい線いってるんじゃない?
 いま「コピペ」で簡単にできてしまうことが、昔は結構手間隙がかかった。文章を書き写す。絵をトレースする。最近でも、コピーして、切り貼り。写真の焼き増し。それがクリッククリックで終わり。
 すばらしい。
 でも現代の人間は「コピペ」を生かしきっているだろうか。そうは思えない。ちょっとインターネットを探検したら分かる。どこへ行っても判で押したように「禁無断転載」とか「営利目的の利用を禁ず」とか書いてあるでしょ。あれはつまり、パソコンの最大の得意技である「コピペ」を規制しようということだ。
 その根底にあるのは著作権という考え方だ。つまり、「情報にはその情報を生み出した人に所有権があり、それを勝手に持っていく人は泥棒だ」ということ。でもこの言い方はおかしい。なぜなら情報は物じゃない。情報は誰かが持っていったからといって、もとあった場所から消えてしまうわけではない。盗む気がなくったって、目に入っただけで情報は入ってきてしまう。じゃあ、その情報を勝手に使うのがいけないのかな。だったら、どこまで規制する気なのだろう。コピーしたものをそのままペーストするだけが能じゃない。コンピュータには加工だってお手の物。最終的に、元がなんだったったのか、分からなくなることもまれではない。それも駄目なの? 「コピペ」じゃないけど、模写は? 現行の著作権法では、模写も規制対象だ(嘆かわしいことに、プロの漫画家にも知らない人が多い)。なのに、マンガを模写した絵に「著作権云々」とか「禁無断転載」とか書いてあるサイトも多い。盗人猛々しいってやつなのか? 
 要点を整理しよう。そして根本的なところから話を進めよう。まず、情報ってやつは人類全体の財産だ。一度、世に出回った情報は、誰でもアクセス可能であるべきだし、誰がどんな風に使っても自由であるはずだ。もちろん、恥ずかしくて出回ってほしくない情報もあろうし、戦略的に独占したい情報もあろうが、今回は主に芸術作品に関する話なので除外する。
 情報は本質的に流通しようとする性質を持っている。そして、パソコンの登場により、情報はやっと思うがまま流通することができるようになった。それまで紙や人の脳など、定着させられる物に縛り付けられていた情報が、物の呪縛をほとんど感じさせないようになったのだ。(もちろんその呪縛から完璧に解き放たれたわけではない。コンピュータがクラッシュしてしかもバックアップをとっていないと分かる。だから「コピペ」が世界を変えたといってもあくまで量的で、質的にではない。今までできなかったことができるようになったわけではなく、いままで手間がかかったものが、「コピペ」によってほぼ理想的な環境でできるようになったのだ。もし、何かが質的変化をこうむるとしたら、それは我々の情報に関する見方だ。情報の本来一部に占有されるものではなく、共有されるものだという本質がようやく我々人類にも感じられるようになってきたのだ)
 あと、もう一つ重要なのが、さっきは「情報を生み出す」と書いたが、情報は生み出されるものではない。情報はただただ流れていくものだ。人間にできるのは、入ってきた情報を再編集して再び流すことだけだ。だからもし情報の再利用を禁止したら、我々は小説を書くことも、絵を描くことも、それどころか日常しゃべることすらできない。我々はいつだって、今まで自分に流入してきた情報を、何か目新しい風に組み替えて使っているのだ。オリジナルなんてものはない。あるとしたら、ただ単にそれ以上起源が遡れないだけだ。(枡野浩一の『かんたん短歌の作り方』(筑摩書房)という本を読んでいたら、「影響されるのがイヤだから他人の作品は読まないようにしている」という投稿者に枡野教祖が説教していた。他人の影響を消すためのたった一つの方法は、徹底的にいろんな人から影響を受けまくって、いったい誰の影響でそんな作品を作るのか書いている本人にもよくわからなくすることだ)
 ここまで考えれば分かることだが、著作権というやつは、人が作品を作ることの邪魔をしている。情報が流れないようにさせ、人が新しい作品を作るのを規制している。
 じゃあ、何で著作権なんかあるんだろう。
 たしかに、もしぼくが作った作品を、誰かがさも自分が書いたような顔して発表して、あまっさえそれで金儲けまでしたら腹が立つだろう。そんなことがまかり通ったら、作品をつくろうなんて思う人はいなくなっちゃうんじゃないか。そこで、みんなが気持ちよく作品をつくれる様に、著作権ができたんだ。だから、だからあくまで、一時的なものであるはずだ。基本はみんなのものだけどしばらくは作った人に優先権がありますよ、ということ。だから、著作権には「著作者の死後50年」とか限度が制定されている。
 ところが、世の中の流れは違う方向に流れている。ハリウッドやディズニーは著作権保護期間を延長しているし、その他群小の著作者も他人の違反に敏感になっているし、作品を作る側も慎重になってきている。山形浩生の本に書いてあったことだけど、今の映画が昔の映画に比べてクレディットが長いのは、画面に映ったいろんなものに関しての著作者をきちんと表示するためなんだそうだ。それをしないと「映画の中に俺のデザインした椅子と似た椅子が無断で映っている」とかいわれて『12モンキーズ』の上映が中断したり、どこぞの建築家が画面に映った庭のデザインが自分の設計によるものだとけちをつけて、『バットマン・フォーエバー』の公開が遅れそうになったりするのだ。
 それって著作者のためになっているの?
 日本でも『キリンアワード2003』という映像大賞で、大賞をとるはずだった『ワラッテイイトモ』という作品が著作権問題で優秀賞になり、市場に乗ることも不可能という現状がある(ここにも現行の著作権の問題の一つがある。著作者がはっきりしていれば、許可を得ることも可能なのだが、ある種の作品は著作者が誰であるかがそもそも不鮮明なのだ。この『ワラッテイイトモ』という作品は、引きこもりの男性がずっと部屋で『笑っていいとも』をみている日常を、画面合成、CG、人形劇当を駆使し再構成したものらしいが(ぼくは未見)、もしこの作品をDVDにするために『笑っていいとも』の著作者に許可を求めようとしても途方にくれるしかない。映画やドラマのように監督がいて、現場を取り仕切っているわけでもなく、必ずしも一定しない演出家、ディレクター、プロデューサー、と森田一義との権力関係もいまいち不明。どれくらい段取りが決まっているのかもよくわからない。すると、安全を期するためには、出演者全員に許可を取る必要が生ずるけど、出演者全員って? 一般人のゲストも? こういう風に、著作者のはっきりしない作品については、いつどこから文句をつけられるか分からないから、結局手を出さないのが妥当って感じになっちゃう。それってすごくもったいない話だ。たとえば今まで日の目が当たらなかった作品が、他の作品の素材になることにより日の目を見ることもありうる。そんなときに著作権が桎梏になっていいんだろうか。
 この文章を読んでいる人たちは、これから小説を書いて世に問おうとしている人たちだろうと思うけど、よく考えなくちゃいけない。著作権はぼくらを守るために作られたもののはずだ。だけど、今の著作権は誰を守ろうとしているんだろう。
 ぼくらじゃない。これから著作をしようとしている人たちじゃない。もう著作をしてしまった人たち、そしてもうしないであろう人たちだ。これっておかしいよ。
 でもその人たちは何を考えているんだろう。図書館や新古書店の自分の本を置くなと主張している作家たちは何を考えているんだろう。自分の本を読んでほしくないの? 新しい読者を作りたくないの? 自分の自社ビルには肖像権がある、と主張するテレビ会社は何を考えているのだろう。自社を宣伝したくないの? 自分の大学のPR映像を納めたDVDにコピーガードをつけた名古屋大学とか言う大学は何を考えているんだろう。できるだけ多くの人に見てほしくないの? 自分で自分の首を絞めて何が楽しいの?
 そして、明らかに自分には何の得もないし、大体これを商売にするつもりもないのに、みんながやってるからやろうという軽い考えで、著作権は守りましょうという、資本家のプロパガンダをご親切にも普及させる手伝いをしている人たちって何を考えているんだろう。このサイトだってそうだよ。下のほうに「無断転載禁止」って書いてあるだろうけど、それみたら、「けっ、資本家の手先め!」って指差して笑ってやってよ。(「転載の際にはご一報を」というのも同罪。許可を得なくちゃいけない、という考え方が作品が世に出るのを妨げているのだ)だいたい「原稿を書くにあたって」でフリーのエディタを使うのを推奨しているのにそれで作った文章をフリーにしないのはルール違反では? 文芸サークル員にも残念ながら資本家の手先はいる。もしかしたら、これを読んでいるかもしれない。
 お前だ、お前! 資本家の犬! はっきり言おう、お前はバカだ!(違ってたらごめんなさい)
 もし、文サ連加入前の地下組織時代だったら、裏切り者に対する超法規的処分も辞さないところだったが、チッ、命拾いしたな。
 資本家どもはさらに砦を固めるつもりだ。著作権保護期間はこのままだと70年になるらしい。さらにディズニーは法律の抜け穴を使ってほぼ永遠に著作権を保持するつもりらしい。そのディズニーが堂々と日本のアニメを剽窃しているのだから恐れ入った。明らかに著作権の当初の目的は失敗している。著作権はいまや、巨大資本による知的財産搾取のよりどころとなっている。
 でもこれに対抗する方法はある。もちろん法律を変えるという手段だってある。しかしそれはすぐには難しいし、手ごわい抵抗も予想される。(フランスの著作権法みたいに「パロディを規制することはできない」くらいの条項ぐらい付け加えられそうなものだが)そうじゃなくて今すぐにもできることがある。それはフリーで使える素材を少しでも増やすことだ。この動きは始まっている。たとえば著作権の切れた文献をどんどん電子化して無料に配布できるようにするプロジェクト・グーテンベルグ。その日本版とも言うべき青空文庫。そして山形浩生がやっているフリーの翻訳をどんどん公開して自由に使えるようにしようというプロジェクト・杉田玄白だ。興味がある人は一度山形浩生のHPを訪れてみてほしい。(urlはhttp://cruel.org/jindex.html)なんと、サンリオSF文庫ででていたアレッホ・カルペンティエールの傑作『バロック協奏曲』が読めるぞ、これなかなか手に入んないよ(ディレーニの『エンパイア・スター』のなんと本の文章をそのままスキャンしたものもある。すげえ)。その他、「ええっ、こんなものがフリーで読めちゃうの!」てなもんが目白押し。(ちなみのこの論考部分は山形浩生の受け売りです(一部丸写し)。特に参考にしたのがアスキーから出てる『コンピュータのきもち』の番外編。あと突然罵倒が始まるのも山形浩生のまね(ただし本家はこんなに言い訳がましくない)。『コンピュータのきもち』でも、突然「三浦、お前のことだ!」と三浦さんというおそらく会社の同僚かなにかを罵倒するところがあり爆笑。HPでも恩田陸を馬鹿にする文章だったはずなのにいきなり「ほら、なんだっけ、名古屋の工学部の先生の書いてる、Fになるとかなんとか、萌え系お嬢様女子高生と作者のナルシズム全開キャラの出てくるシリーズ。あれみたいな、トリックだけは物理的にはかろうじてつじつまがあっても(とはいえ「すべて仮想現実でした」なんてのがまともな意味でのトリックと呼べるならね)その他すべてがペカペカした感じ。人が死ぬときもちゃんと血を流したりせず、死体も腐ったりせずにロボットが壊れるみたいに「死んだ」と言ってるだけ」とかいいはじめてしまうのだ(urlはhttp://cruel.org/other/onda.html)。その人関係ないやん。いわゆる流れ弾に当たってしまったようなもんだ。犬にかまれたと思って我慢するしかないのだ。しかもこれを恩田陸『図書館の海』の解説を依頼されて書いたらしい。当然没。HPでは没バージョンと採用バージョンが両方読めるぞ)
 ただこれらのプロジェクトはどうしても、いわゆる古典と呼ばれる作品が多くなってしまう。古典の財産が再利用可能になるのはすごくうれしいことなのだが、やはり生の文学という感じはしない。だからこそ、今書いたものを、今フリーにして出すのが重要なのだ。
 だから、この小説全体もフリーで使えるようにしたい。この小説の一部および全部を引用する場合は、ここのurlを表記する限り自由に行ってよいです。改変して使用する場合も、ここのurlと改変した場所を明示すればOK。また、しばらくはこの小説は版権もフリーにしますので、この小説の全部、もしくは一部をそのまま、ないし改変して出版するのも自由です。ただしその場合もここのurlと改変箇所の明示を忘れずに。さらにこの小説以外のK(およびΚ)の書いた小説はすべて、以上の記載に従うことにします。まっ、ぼくの小説なんて素材にする危篤もとい奇特な人はいないと思うんだが、これを読んだ人が少しでも、同じようなことをして、少しでも小説が書きやすい世の中になるとうれしいな、と思うのだ(ちなみにこの小説も、一部ネットからの引用でできている。段落14の豆知識はTrueCombat:Japan というページから転載、urlはhttp://www.truecombat.jp/。段落23の水木記念館周辺の情報は島根県のHPの観光案内を参考にし、段落24はそのページから丸写しした(よく読むと「森林の香と滝の清涼感と共に、美味しいそうめんは夏を涼しくすごすのに良いスポットです」って文章おかしくない? 「そうめん」は「スポット」じゃないよね。でもこれは島根県のせいであって、ぼくのせいじゃないからね)。urlはhttp://www.kankou.pref.shimane.jp/mag/06/08/cool01.html。もちろん許可など受けていない。その他この小説はいろんなところから、引用したり影響を受けたりしている。残りは別に特記する必要はないと判断した(影響という意味ではとり・みきが大きいね)。それに関して作者は実験的なことをしているという気負いはない。なぜならこの手法はサンプリングという名前で音楽なんかでは当たり前の手法になっているのだから(今回サンプリングした文章の量もどうってことないしな)。それが小説において当たり前になっていないことのほうが問題だと考えている。その思いもあってこの論考を全体にそぐわないと感じながらも草した。もしこの小説に実験的意図があるとしたら、それは手触りの違うテキストをパッチワークすること(これ自体別に新しいことではない)で、こういうことをするためにもサンプリングの手法は自由に使えることが望ましい。(だからこの小説の読み方は内容とか意味云々を読むのではなく、テクストの手触りについて語るのが正しく、よって著作権がどうのこうのなどは内容にとらわれた間違った読み方で、同様にテクストの手触りを云々する読み方もここの文章に引っ張られた間違った読み方である。(実験小説というのは分類するなら心理学的な実験で、そういう実験は、終わるまで実験意図を知らせないのが肝心なのだが、まあこの小説も半分以上過ぎたのでかまわんでしょう。実際、もうすぐこの論考部分が終わり、作者が自分で自分の頭をトンカチで叩き割り言い訳をする、意味不明な歴史小説風の文章があり、核戦争、脱線、論理的におかしいオチ、同じくらい論理的におかしいその注釈、下らない教訓、そしてSFパロディ、完、という予定になっております。)))。
 小説が本当に好きな人なら、自分の書いた小説ができる限り広く行き渡るほうがうれしいと思うはずだとぼくは考える。そして、どんな形でも、できる限り多くの人がそれを利用してほしいとぼくは考える。言葉が翼を持って、自由な鳥のようにできる限り遠くまで高くまで飛んでいってほしいと考える。
 甘い考えだと思われるかもしれない。世の中じゃ通用しないというかもしれない。ぼくだってそう思っていた。ただリナックスや山形浩生のHPをみていたら、希望はありそうだと思えたんだ。
 もう一度言うけど、できることならこれをよんだ人も、同じことをしてほしいと思う。でも、強制するつもりはありません。「俺の書いたものは俺のものだ」「人が使うのは許せん」「私的使用はいいけど商用利用は駄目だ」等のけち臭いことを言っている人たちはそこで19世紀の毛の生えたような小説でも書いてなさい。
 馬鹿らしいので、先に行かせてもらいます。
 (注:ものすごく生意気なことを言っておりますけど、これを言っているのはあくまで作中人物としての語り手であり、作者とは別の人物なのであります。だから生意気なのはぼくではなく、あくまであくまで作中人物なのです。勘違いしないでね。夜道で後ろから「斬奸!」とかいいながら切りかかってこないでね。これでも空手やってんだからね。ただもし、作者は作中人物の発言にも責任を持つべきだと無茶なことを言うならば、私にもプライドがありますので責任を取ってこのように(ゴン)このように(ゴン)このように(ゴンゴン)頭をかち割って見せる所存、というかもうかち割っちゃったんだけどね。おお、いたいいたい。この血だらだらぶりを小説というメディアじゃ実際に見せられないのが残念でならないよ。ほんとに痛いんだよ。でも言い分けさせてもらうとね、実はこの小説を書いたのはぼくじゃないんだよ。まあ、書いたのはぼくかもしれないけど、責任はぼくじゃないんだよ。悪いのは毒電波が悪いんだよ。思うに、ひろゆきがぼくの頭を勝手に2ちゃんねる化したため、宇宙を飛び交う「オレオレ!オレだよ、名無しだよ!!」とか「名無しは無慈悲な夜の女王」とかいろんな名前の名無しさんがぼくの頭に「氏ね」とか「逝ってよし」とか勝手に書き込んでいくのが良くないと思うんだ。先日も「ムハンマドたんにハァハァ」だかなんだかよくわからない電波が「この小説を書かないとお前の脳をハックかつジャックかつファックして日本の尊いお方にアナルファックさせるぞゴルァ、この童貞キモヲタ皮かむりチンポ野郎! ふぁっくずぃーざす!」とか言うので仕方なくこの小説を書いたのですよ。あっ、そうだ、この小説は妖精さんが書いたってのはどうですか? 普段からぼくの行いがいいもんだから、寝ているうちに妖精さんが書いてくれたんですよ。問題はその妖精さんが少しデムパだったのが問題だっただけなんです。だからこの小説が変なのもルべーグ積分の単位が取れなかったのもみんな妖精さんのせいなんですよほんとですうそじゃないんですうそじゃないんだってば。その証拠に今だって毒電波で頭が割れるように、ってあれ、ほんとに頭痛いよ、いったいどうし、あれっ、オレ頭から血だらだらやん、ちょちょちょ、ちょっと待って、なんや知らんけど目の前真っ暗なってk多;sdpm6j7う
 そして長い時が過ぎた。幾筋もの血の大河が流れた。小林健二の後ろには幾千もの屍の山が築かれ、彼はそれらを踏み越え、時には己が屍を踏み台にして立ち上がった(P・G・ウッドハウス『タッピーの試練』より引用)。健二は次第に人の死になれていきそうになる自分に気づいた。そして、慣れてしまったらおしまいなのだろうなと思った。だがそのように立ち止まって考えることができるのも、僅かの間に過ぎないのだ。いったいあれからどれくらいの月日が過ぎたのか。長い時が過ぎた、としか言いようがないのだった。健二は次第に時間の感覚を失っていた。今の健二にとって時間とは、日が昇り日が落ちる、月が満ち月が欠ける、そのような終わりのないサイクルに過ぎないのだ。ただただ、あの平和の日々がはるか遠くに見える陽炎のように時々思い出されるだけであった。
 健二は今でも待ち続けていた、自分との対決を。もうすでにあの激烈な怒りはなかった。むしろ彼の心は海のように、宇宙空間のように静かだった。ただただ来るべきもの、避ける事のできないものを待つ心境だったのだ。それに勝つことができるかは分からない。ただ、勝つにしろ負けるにしろ、やるべきことはすべてやっておこうと、悔いの残らないようにしようと、考えているのだ。
 街中をミュータントたちが徘徊し始めたのは、どのくらい前だったろうか。数年前。何をどう間違えたか、偶然近所に立ち寄ったアメリカ大統領が、「壁にぶつかったらトンネル効果で向こう側へ突き抜けました」とでも言うような恐るべき偶然でこの家にトイレを借りに来たときに、健二が撃ち殺してしまったため、核戦争が起きてしまったのだ(細かい経過は省略)。そして廃墟を放射能で奇形化した人類が跳梁跋扈するようになったのだった。社会は長い時間の中で次第に退化し、国は名目上の存在となり、人々は数十人単位の村落的武装集団を作り、怪しげな宗教が権力を握った。そんな中、世界の果てを見るために旅立った父を探しだし、母の死を伝える為に、一人の少年が荒廃した世界に旅立つのであった。彼は旅の途中で一癖もふた癖もある人々に出会い(頭が二つある一人漫才コンビミュータント(ナイフ投げが得意)、いまや管理するものもいなくなった刑務所を根城にする元死刑囚(全身隙間なく刺青)、壁抜け超能力者(世を隠れて壁の中に住む)、二十メートルもの取っ掛かりの一切ない円柱のてっぺんで、三十年間瞑想している婆羅門(どうして自分はこんなところにいるのかについて考えている)、植物と同化した人間たち(まったくどうかしている)、ゾンビの群れ(死後も生前の習慣で一年に二回有明に行列を作るのに遭遇する。国際展示場の上にヘリで不時着した生き残りたちはおんなじ様な内容の大量の同人誌を毎日読んでいるうちに気が狂ってしまう)、風船おじさん(ジェット気流に乗って未来に流されてきてしまった)、すごいデブ(ものすごいデブ)、人差し指が手の甲につく人(腕にだったらぼくもつくんだけど)、呂明賜(右投右打)etc)、少しずつ、愛とは何か、勇気とは何か、命とは、世界とは何か、そして私的言語は可能なのかどうか、人生の意味と自由意志とは矛盾しないのか、陽子崩壊は存在するのかどうか(モノポールは、超対称性粒子はどうなのか)、双子素数は無限に存在するのかどうか(ゴールドバッハ予想は正しいのか、測度可能数に矛盾はないのか)、三浦一義ってほんとに有罪なのかどうか(O・J・シンプソンはどうなのか)、プリンに醤油をかけると本当にウニの味がするのかを知っていき、人間的に成長するのであった。
 そんなある日、食料を探すために死体の山を掻き分け、保存状態のよいのを探していたとき、見覚えのない死体を見つけたのだった。
 他のものよりもさらに腐りかけていたので、すぐに捨てようと思ったのだが、なぜだか見覚えがあったので、もう一度まじまじと見てみた。
 驚いた。
 それはなんと自分だったのだ。
 いったいこれはどういうことだろう。健二は小一時間考えた。
 ((前略)(中略)(後略))
 健二は結論を出した。
 「実は俺はもう過去の自分を殺してしまったんだ。ということは俺は、もう殺されないってことだ。わ~い、ラッキー!」
 (これは論理的におかしい。もし過去の自分を殺してしまったら、今の自分は消えてしまい、タイムパラドックスが起きてしまう。わたしが考えるに、この死体は健二が殺した未来の健二で、実は健二は未来に行ってもとの時空に戻るのを忘れていたのだ。だから、過去に自分が殺しに来ることもなかったのではなかろうか)
 この小説が意味は、努力をすれば未来は変えられるということです。読者の皆さんの一人一人にも、この小説の意味を考えてもらいたいと、思っています。)
 
 ついしん。どーかついでがあったらうらにわのアルジャーノンのおはかに花束をそなえてやってください。)。
 


がんばったからといっていい作品ができるとはかぎらないのだ、ということを痛感する。すみませんすみませんすみませんすみません、小説の神様すみません、ふざけた作品書いて申し訳ございません。もうしませんからゆるしてください。次は普通の小説を書きます。
 

最終更新:2012年12月30日 12:33