アットウィキロゴ

What I'm Wating For...2nd

2006年11月08日(水)16時13分-川口翔輔

 


イントロ

 「ああ、ひどい」
 「本当にひどい」
 彼は言った。
 「僕が神なら、どうしても救えないな」
 「たしかに、あれじゃ、救えない」
 そう言いながら彼は、しかし歩み寄る。本気の手を差し伸べる。
 神なら、救えない。幸か不幸か。しかし、僕らは人だ。

 ああ、そうだ。僕らは、人だった。



21.
 「おい、もう月が出ているぜ。早いな」
「ああ、ほんとうだ」
「きれいだ」
「きれいだ」
 僕はこのことをとにかく誰かに言いたくて仕方なかった。というのはたてまえで、やっぱり特定の誰かでないと、だめだった。
 でも、たったこれだけのことを、どう言っていいかさえ、僕は知らない。たったこれだけのこと、それさえ僕は知らない。
 「見上げた美しさだ」
 そう彼は言った。
 ふと、月が足元にあったらどうなのだろうと、僕は思った。
 でも月はきれいだった。



22.
 11月が来る。僕はパンクロックを聴き出した。僕の頭は、なんだかガチャガチャいうようになってしまった。がなるそれは、全然、僕自身のイラつきであるというような気がしない。まるで、ずっと遠くの、誰かのイラつきを、僕が代わりに引き受けているみたいだ。
 僕はこのイラつきのために、つまりはこのイラつきのはけ口として、パンクロックを聴き出したのか、それともこのイラつきこそパンクロックが僕に刻んだ証であるのか、わからない。僕はわからない。とにかく、僕はイラついていて、そしてパンクロックを聴いているのだ。ただ、それ以上を、僕はわからない。
 このイラつき。
 耳鳴り。粘る空気の錯覚。遠くで加速する世界の確信。滞るリンパ液の幻覚。


 僕はまたしても思う。
 きっと、大切なことは、本当のスピードなのだ。



23.
 「人に嫌われるのはつらいな」
 「そうか」
 「そりゃ、そうさ。とても疲れる。不本意にエネルギーを消費する」
 「そうか」
 「そうさ」
 平日の午前10時過ぎ、コンビニのゴミ箱の隣、ちょうど雑誌陳列棚の前、僕は適当な段差に腰掛けている。彼は黙っている。駐車場には古い型で緑色のマーチと、あとは放置自転車らしきが1台、時刻の割に明るすぎるような日光、自動車の行き過ぎる音、衣擦れの音、呼吸、ほんのかすかな排ガスの匂い、たぶん、ここは世界の中心ではないと思う。僕は空に一瞥を投げた。「紺碧の空」がどんなものか、僕はまだ知らない。視線を水平に戻すと、目の前の歩道を、毛玉の多そうなシーズー犬を連れた、青いサンバイザーの女性が、左手から右手へと過ぎて行くのを見る。歩道の向こうの片側二車線道路では、ルノーとホンダが行き違う。BMWとスバルが行き違う。モデルチェンジ前のBbがウーファーを響かせて過ぎて行く。足元、その少し向こうのアスファルトには、大きさも数もぼんやりとしたシミが見える。たぶん、嘔吐物の跡だろう。何人もの人が、きっとここで吐いたのだ。その証は、今僕の目前で、それぞれの輪郭を失い、お互いの区別を失ってしまっている。それは、やはり、拒絶され、はじき出された嘔吐物の辿るべき道なのかもしれないと思う。僕は腰の後ろに手を突いて右脚を僅かに伸ばす。ざら、とした不快な感覚を手のひらに感じる。首を肩に埋めるようにして汚いスニーカーを眺める。彼は黙っている。靴底がアスファルトを擦る音を聞く。二輪車が凄まじい音を散らかして過ぎて行く。伸びかけた右脚は、その場に留まることができずに、ずるずると向こうへ持っていかれる。僕はそれをただ見ている。あるところまでいくと、諦めたように、一息に右脚は伸び切り、死んだように足首を外側に倒した。僕はそれをただ見ている。まだ僅かに脚が揺れている。
「きっと、」
 それが、彼の声だと判別するのに一瞬間を要した。なんだかそれは、このステージに存在するものとされない、あるはずのない、聞こえるはずのない、即興で発せられた黒衣の科白のようだった。
 「きっと、人を嫌うのも、同じだ」
 それは彼の声だった。
 「つらいというにも、疲れるというにも、不本意にエネルギーを消費するというにも、きっと」
 
 双方向的な消耗。愛というものがもしもあれば。僕にはわからない。
 ノイズギター。ジャンクミュージック。汚いスニーカー。
 僕はそれをただ見ていた。



24.
 4時間眠って起きた。まだ眠かった。
 右の下まぶたが痙攣する。初めてのことだ。寄生虫でも住んでいるのかしらと爪を立ててみても、痙攣は止まない。虫も出てこない。鏡をのぞくと、そこがひくひくと動いているのが確かに見えた。そして、僕の顔はひどかった。
虹色の寄生虫、という言葉を、僕はふと思った。人の下まぶたに住む寄生虫の写真を、いつか見たような気がした。見たとすれば、たぶん小学生くらいの時だ。それは、死んだ標本の写真でなく、実際に寄生しているワーム型のそれが、宿主であるその人の眼球部に姿を現したところを撮影したものだった。
僕はかつて本当にそんな写真を見たものか、あまり自信がない。というのも、僕の記憶では、その寄生虫が、あまり色鮮やかな体皮をもっていたからだ。宿主の涙に潤うその体皮は、鮮やかな虹色だった。無表情にカメラを見つめる、淀んだ黒い瞳、細く枝分かれて血の浮いた、汚い白目、それらを包む、あたかもその寄生虫のために用意されたかのような、まるでその眼球のためでないような、そして、おそらくはその寄生虫が分泌する粘液と混じって不可分となってしまった、涙。その中にあって、その虫は、その寄生虫は、あまりにも自然に見えた。そこにあるべくしてあるという風だった。気味の悪い写真だったけど、僕は惹きつけられた。その虫を美しいとさえ思ったかもしれない。気味が悪いのは、その虫ではなく、むしろその虫を宿した目だった。それはただの人の目だった。そこに写った寄生虫を除けば、まったく普通の目だ。僕はきっと、その目が、虫を宿していたことで、本来的な人の目として見たのだと思う。その目は、やはり宿した虫のために本来の働きを鈍らせていたのだろうが、しかしそれは、確かに人の目だった。人の目でしかない、ただ目でしかない目だった。人の良い目でも、悪い目でもなく、人なつこさもなく、美しさも、厳しさも、優しさも、力も、表情も、意志も感情も、なにもない。そういった一切を宿す代わりに、その目は、ただその虫を宿していたのだ。普段、特定の誰かの目を、特定の誰かの目として、なんらかの色を帯びたものとしてしか見なかった僕には、それが、ただの器官、「ただの目」でしかないことが、気味悪く思えたのだ。それは彼の目でもなく、彼女の目でもなく、ただ人の目、「ただの目」であるに過ぎないから、それがたまたま足元に転がっていても、なにも特別に思うことなく踏み潰してしまえるような気がした。夕暮れの帰り道なら、がんばって部屋の玄関まで蹴って行こうとさえするかもしれない。
 僕はもう一度、鏡をのぞく。痙攣は止まない。そこに虹色の寄生虫はいない。僕の目は、僕の目に、僕の目として見えた。人差し指の腹で痙攣を続ける右目の下まぶたをめくり下げてみる。まぶたの裏は、鮮やかなピンク色である。やはり、虹色の寄生虫はいない。指に、痙攣の微細な振動が伝う。眼球が寒い。僕は指を離して何度か素早く瞬いた。
 虹色の寄生虫。僕の右目には宿らないつもりらしい。そういえば、写真では左目に寄生していたな、と思う。
 僕の目に宿る一切の代わりに、僕は、虹色の寄生虫を宿してもかまわないと思った。僕の目が何を宿そうとも、本当のスピードには、どうせついてこられない。
捨てるより、もっとはやく、気付いた時には、もう置き去りに、彼方。

 そういうことを思いながら、二度寝をあきらめて僕は部屋を発った。



25.
 (ボイスレコーダーの再生)
「………えば、そうだな、ほら、人生の、生活の、一瞬一瞬、そのいつの時、も、死ぬ気のマスターベーション、を、以て過ごすことだって。だから、ええと、全力の。全開の。フルスロットル!!のマスターベーション、ね。だから、笑うこと、嘆くこと、と、歩くこと、語ること、食べること、まあ、生きる、という、そういうことを、全部、ひっくるめて、全力全開死ぬ気のマスターベーション!!に、する、と。あー、毎日だよ。やるなら、今も、うん、そう、光、光。ああ、目はね。最前線で、その、突撃の合図を待つ兵士のあれだから、帰れない、その、お………」
「………ないなら、むしろ、盲の方がいいのかもしれない。試しに研ぎ澄ましてみろよ。自分自身が、自分の審美眼に適わないのは、どうしようもないことだ。その鋭い審美眼はお前を殺すよ。自分で鋭くした刃で、ねえ、死ぬようになる。見る側と、見られる側の成長レベルが完全に一致しない。目の方は刃になる。もちろん、ある程度はパラレ………」



26.
 近頃の僕には、気合も足りないと思った。足りないものは、本当にたくさんある。
 「気合をどう調達しようか」
 「気合か」
 「足りないと思うんだ」
 「なにか、言ってみるのは」
 「言霊みたいなもんか」
 「そうかもしれない」
 「たとえば」
 「たとえば、ぶっころす」
 「ぶっころす。暴力的だな。わるくはないけど。ほかには」
 「オウ・イエー!!!!」
 「オウ・イエー!!!!」
 「オウ・イエー!!!!という気になる」
 「そうかもしれない」
 「気合を込めて言えばなおいい」
 「そうだろうな」

 足りないものは、本当にたくさんある。たとえば気合。
 たとえば、完全性。
 たとえば、現実を見る力。
 たとえば、圧倒的な身の不完全さに絶望しない無神経。
 たとえばお金。
 凡才であることへの無恥。醜いことへの無恥。生活に無恥。
 寡欲。



27.
 「そうすると、消耗する」
 「そうかな」
 「きっと」
 「消耗、ね」
 「それも、お互いに、そうなる」
 「消耗するって言うと、まるで、そうしないでいる今の君が、まだ消耗されていない何かを持っているみたいじゃないか」
 彼は笑っている。僕は黙っている。
 くれてやればいい、と彼は言う。そんなものを持っているより、くれてやってしまったほうがいい。そうして、敢然と起立した中指をそいつに突き付けてやれ。ファック・ユーと吐き捨ててもいい。消耗するより、しないより、ましだ。

 僕は何か言いたくなった。というより、本当は叫びたかった。頭蓋骨がぶっ飛ぶような声で。なにか、いい言葉はないかと探した。急がないといけないと思った。



28.
 イラつき。
 僕が求めるあのスピードは、このイラつきを、きっと置き去りにいくだろう。それほどのスピードだ。でも、置き去りにされるのはきっとイラつきだけじゃない。そもそも、何かがついてこられるようなスピードではない。そのスピードは、しかしその上へと加速するだろう。絶望にしても、快楽にしても、関係ない。獲得しようにも、いずれ、ついに僕をさえ置き去りにいくだろう。そのスピードは、そのスピードでしかない。何もついていけないし、何も帯びない、何も待たない。なにもない。
 
 なにもない。




29.
 正直に言おう。僕は、空を飛びたいのだ。切実に、ひたむきに。
 これだけの、空間がある、と、そう思うのだ。しかし、僕はこれだけのところにしかいない。しかし、僕の周りにはこれだけの空間があるのだ。この自由を、埋め尽くしたいと思うのだ。完全で純粋な至上のスピードを以て、これだけの空間を、ああ。
 「こんなものは自由でもなんでもない」
 「空を、飛ばなくちゃ」




30.
 「最高な世界へ行きたいな」
 希望を捨てようか。楽になろうか。足りない苦しみから自由になろうか。あきらめてしまおうか。こうなりたいなんて、思わないように。諦観の奴隷に、なってしまおうか。最低な、最高な、世界で、暮らそうかなあ。ずっと。

 本当は、どうでもいい。
 僕はただ、最高な世界へ行きたいだけだ。












最終更新:2012年12月31日 23:14