2009年11月21日(土)20時52分 - 壱伏 充
REM ――The Hero in Dreams――
壱伏 充
ゆめ【夢】
一・睡眠中に生活経験のごとく生起して目覚めると同時にはかなく消える、一種の幻覚。(後略)
その夜、氷室こずえは鬱々とした気分を抱えて人気のない夜道を歩いていた。地方都市の新興住宅街、その外れに横たわる地域は、街灯が少ない分、星明かりが心強い。
残業が終わり、終電に間に合ったはいいが、これならどこかに泊まった方がマシだったかも……と心の奥底で弱気な声がする。
とりわけ、最近この周辺ではやれ隣の誰それがいなくなった、斜向かいのなにがしの姿を見ないなどと嫌な噂が立っているのだ。それを上司に言ったところ、「ま、君なら大丈夫だろう」などと返されてしまったが。
いつか絶対訴えてやる。心に固く誓うも、それで状況が好転したわけではない。
むしろ、自分を取り巻く不安要素を改めて確認してしまうことになる。
(大丈夫、大丈夫。そりゃ悔しいけど、私もそうそう襲われるようなタイプじゃないし)
自分の事は自分で良く知っている。街を歩いて声を掛けられたことなど稀だ。それでも、不安が消えるわけではない。
こんな、鋭い三日月が浮かぶ風もない静かな夜だから、かえって何かが起こりそうな予感がする。例えば、最近続けて見ている、ファンタジックの悪夢のような……。
あくむ【悪夢】
凶と判断される夢
「…………あれ?」
こずえは立ち止まることなく、空を見上げた。
ほんの数秒前まで、空に浮かんでいた星々が、ない。
石造りの天井が、壁が視界を覆っている。足はこずえ自身の意思とは関係なく止まった。足首を見ると、鎖に繋がれていた。鎖のもう一端は壁の金具に固定されている。
「え、え? 何、これ?」
鎖を引っ張ると、ジャラリと重たい音が響いた。同時にこずえは、自分の服装までもが変わっていることに気付く。
野暮ったいスーツから、ボロボロのドレスへと。それはまるで、おとぎ話に出てくる囚われのお姫様のような、浮世離れしたものだ。
「何なのこれ……冗談じゃないわよ、これじゃまるで……」
まるで、最近自分を悩ませている悪夢のようじゃないか――
こずえの呟きは、突如聞こえた物音のせいで生まれる前に喉の奥で消えた。
何かを引きずるような、音が聞こえる。
徐々に近づいてくる。
それは、やがてこずえのいる部屋――そう、部屋だ――の前で止まる。何度も夢に見た一連の流れだ。
かいじん【怪人】
神出鬼没で、次にどんな行動を取るか予想のつかない人。
軋むような音とともに、錠が開く。そう、こずえはこの部屋に閉じ込められていた。扉を開けようと試みる前に、彼女はそれを“知って”いた。
だけど、いつもならここで夢が終わるはずなのに。
扉が、徐々に開き始める。
「ひ――っ!」
扉に視線を向けてしまったこずえは、ひきつった声を上げる。
開いた扉の隙間から、毛むくじゃらの節くれ立った“肢”が覗いていて、先端の鉤爪が床をこすって固い音を反響させる。
そこで――こずえは意識を失った。
窓の外の満月が、倒れたこずえを薄く照らし出していた。
突然だが、真倉恭四郎には実生活で役に立たない特技を持っている。
多くの人間が一度は求め、しかし手に入らなくてもそれなりに諦めのつく能力だ。
それなりに羨ましがられはするが、妬まれたことはない。
頭上から太陽が、皓々と照りつける。その割に気温は高くない。
恭四郎はどことも知れぬ石畳の街に一人佇んでいた。周囲に人の気配はなく、物音すらしない。耳が痛くなるような静寂の中、彼はぽんと手を打った。
「あ、これ夢か」
恭四郎の特技。それは、自分が見ている夢を夢だと自覚できることだ。
恭四郎が呟くと同時に、背後で小さく何かがこすれる音が生まれた。
「っ!」
反射的に横へ飛び退くと、何かが恭四郎の脇腹を掠めて飛んでいく。真っ赤な影は空中で旋回して、恭四郎に向き直った。
虚空で器用に静止しているのは、夢ならではの生物。人間大の猛禽類だ。
「クケェェェェェッ!」
猛禽類は、翼を畳んで鋭角的なシルエットを形作ると、再度恭四郎に襲い掛かる。
しかし恭四郎は慌てることなく、左手の平を猛禽類にかざした。
それだけで、猛禽類は見えない壁に阻まれたかのように動きを止める。空が軋むような音に、恭四郎は顔を少しだけしかめた。
効果音をつけた方がイメージしやすいと思ったのだが、少々耳ざわりだったかもしれない。
「やれやれ。どうしようかな、これ」
夢を夢と自覚でき、なおかつその内容を思い通りに出来る、「明晰夢を見る」才能。これのおかげで生まれてこの方、目覚めは常に爽やかだ。
しかし、所詮夢は夢。現実世界の時刻が分かるわけではない。目覚まし時計に起こされるのもそれはそれで無粋だが、目覚まし時計より早く起きるのも何だか悔しい。
そんなことを考えていたら、左手への負荷が心なしか強くなった。
「全く……ふぅっ」
「クケッ!」
恭四郎はため息をひとつついて、猛禽類の拘束を解く。猛禽類はつんのめる形で恭四郎の元へ飛び込んでくる。
とりあえず、夢の環境を改善しよう。恭四郎はそう考えて、
「っ……どりゃあああああっ!」
右手の中に生み出した鉄パイプを、バランスを崩した猛禽類の側頭部目掛けてフルスイング。やけにしっかりとした手応えを押し返して、そのまま振り抜いた。
「クケェェェェェェェェェッ!」
猛禽類は勢いよく吹き飛び、石造りの建物に頭から突っ込んで、埋もれていった。
「よしっ」
恭四郎は鉄パイプを投げ捨てて、周囲を見回した。せっかくの自分の夢だ、少しくらいはリフォームをしてもいいだろう。
まずは街並を見覚えのあるものに。通行人を配して多少賑やかに。そして、憧れのあの人を……
「いや、別にやましいことは考えてないよ俺」
誰にともなく言い訳をしつつ、恭四郎は自分の夢を作り変えていく。恭四郎が思い描くままの姿に塗り潰していく。
と、その時。どこからともなく硬い足音がした。
「ん?」
そんなものはイメージしていない。訝る恭四郎に向けて、足音は徐々に近づいてくる。
「……今日は随分深層心理が粘るな俺」
「そういうお前さんこそ、随分夢に慣れてるじゃないか。あれ殴り飛ばすとか、器用だねぇ」
日本の住宅街風に再構築された世界の、すぐ目の前の角から笑って現われたのは、一人の青年だった。
年頃は恭四郎より一回りほど上、三十歳少し手前くらいだろうか。フライトジャケットとサングラスという服装がどうにも怪しげだ。窺える顔立ちは、全く知らない他人のもので、恭四郎としては微妙にうんざりする。
「誰だよ、色んな意味で」
自分の深層心理が見せているはずの奇妙な存在に、恭四郎は無造作に問いかける。と、青年は笑みを返してきた。
「ああ悪いね。自己紹介が遅れた。俺は敷島ダン。君の先輩だ、よろしく」
「先輩?」
さらに予想外の言葉が語られた。恭四郎は若干の焦りを覚える。夢ならではの不条理には慣れているが、それだけ夢が自分の思い通りにならないのが信じられない。
しかし一方で、この夢がどこへ転がるのか興味を抱いてしまう自分もいた。
「そう身構えるなって。なあ後輩」
ダンと名乗った青年は馴れ馴れしく握手を求めてくる。恭四郎はそれを無視して、次の出方を待った。
「で、それから?」
「……あまりに動揺しないってのも、お兄さん寂しいぞ」
そういうのも素質の内だが、とダンは拗ねたように唇を尖らせると、気を取り直したように手の平を上に向けた。
「まあ、夢の扱いに慣れてるところは見させてもらったから、後は諦めて俺の後継者になってほしいってとこだな」
「!」
そう言ってニヤリと唇の端を歪めるダンの手の平の上に、先刻恭四郎が殴り飛ばした猛禽類、鷹の怪物が現れる。
怪物はくるりと自分の体を丸めて、ソフトボール大の光球と化した。
「お、おい後継者って一体何の……」
「動くなよ。夢の中でも下手すりゃ痛いんだぜ?」
不安の滲む問いに構わず、ダンは光球を振りかぶって、恭四郎に投げつけた。恭四郎は反射的に両手で自分の顔を庇う。
だが、光球はシュートコースを描き、ガードを掻い潜って恭四郎の腹に吸い込まれていった。
「っ!」
衝撃もなく、光球は文字通り恭四郎の下腹部、臍の近辺に吸い込まれて輝きを放つ。見下ろすと、光が弾けて中から一本のベルトが現れた。
楕円形の、存在感たっぷりのバックルが鎮座する、やけに機械的なベルトだ。そのくせ生物的にうごめき、徐々に熱を持ち始める。
恭四郎は、今が夢の中だということも忘れて呆然と呟いた。
「何だ……これ」
「“REM”、さ。それがきっとお前の力になる」
ダンは言って、身を翻す。恭四郎はそれを追おうとした。
「おい、ちょっ、待て……っ!」
途端に腹部に激痛が走る。その場にくず折れた恭四郎は、痛みの発生源――腰のベルトを改めて見下ろした。
楕円の中心に分割ラインが走る。きれいに裂けて開いていく。
開ききった中から現れたのは“眼”だ。
「ひっ?」
嫌悪感が、背筋を駆け上がる。恭四郎は目を背けた勢いのまま倒れこんで……
恭四郎が目を覚ますと、そこには普段どおりの自室の天井があった。
下腹部に目をやる。異状は無い。
「…………なんだよ、夢か」
口にするのも久しぶりの定型句をもらして、恭四郎はベッドから降りた。
自分が明晰夢を見ることができると気づいてからは一度もなかった、もやもやしたものが残る目覚めだ。
しかし。夢は所詮夢である。
「ま、いっか。さあがんばるぞ俺」
携帯電話を見て時刻を確認して、気持ちを切り替えた。今日は胸躍るバイトの日だ。
努実(ゆめみ)町。よそ者から一度は必ず「どみちょう」とか「どみまち」などと呼ばれる、新興ベッドタウンである。
数年前までは「村」だったこともあってか、一時間に四本の電車が通り国道が直交する努実駅近辺と周辺では町の雰囲気ががらりと変わる。
恭四郎がウェイター兼雑用として働く喫茶店「フロイト」は、そんな「街」と「町」の境目でひっそりと年中無休の営業中だ。
小さいころから父に連れられて出入りし、マスターとも顔馴染みになり、高校生になった今では当然のようにこの店唯一のアルバイトとして働いている。
とはいえ、初のアルバイト先にこの店を選んだ理由はそれだけではない。
「~~~~♪ ……っと、いらっしゃいませ」
ドアベルが軽やかに鳴る。鼻歌混じりで皿を洗っていた恭四郎が、自然な風を装って来客を迎えた。
客の女性は人懐っこい笑みを浮かべて問うてきた。
「今日も使わせてもらうわね。奥、空いてる?」
「ええ」
恭四郎は奥の席に視線を向ける。そこが彼女の“指定席”だ。
女性は頷いてカウンターを見回した。
「あれ、マスターは?」
「用事だって。由布子さんにオススメの、友人秘蔵の豆がどうとか」
恭四郎が肩をすくめると、彼女――掛川由布子は苦笑した。
「それじゃ、今日は副店長さんにお任せしちゃおっかな」
「はいはい」
恭四郎は内心小躍りしたいのを抑えて由布子の軽口を受け流して見せた。
十五分後。由布子は一人で書類を確かめつつ、テーブルの端を指で叩いていた。
あれから客は一人も来ていない。由布子も疲れているのか、どこか仕草が眠たげだ。そんな細かい変化を見抜けるほど、恭四郎は彼女の事を見続けてきたのだが。
(やっぱり徹夜したんだろうなあ……)
由布子の健康に思いを馳せ、高校を卒業したら彼女を手伝おうと決意を新たにすると、その時。
不意に目の前の光景がぼやけた。
満月が白々と輝く、どこかの林の中だ。由布子はいつの間にか姿を消し、代わりに遠くそびえる塔が目を引く。寒々とした風が吹き抜けて――――
(――あれ?)
恭四郎は目をこすって周囲を見回した。いつものように、何の変哲も無い喫茶店の設備が恭四郎の視覚を出迎えてくれる。コーヒーのいい匂いが鼻腔をくすぐった。
(……気のせいかな。今朝も変な夢見たし)
白昼夢から醒めて、肩をすくめる。そろそろコーヒーも飲み頃だ。
恭四郎はあえて足音を立てて彼女の席に近づいてみた。
「もしかして、もしかします?」
「かも、ね……」
由布子は流れるような動作で書類をしまいこみ、恭四郎を見上げて唇をむずむずと動かした。
恭四郎はすかさず、トレイ上のコーヒーを彼女の前に置く。
「ずいぶん疲れてたみたいですから、お先に淹れちゃいました」
「あはは、ありがと」
由布子は笑顔を返して、コーヒーに口をつけた。来店したときから恭四郎は気づいていたが、よく見るとかすかに目の下に隈がある。
「大きなお世話かもしれませんけど、ちゃんと寝てますか?」
「ふっ、愚問ね恭四郎くん。クライアントの要望のためなら、睡眠時間の5時間や6時間、場合によっては命も削って当たり前なのがこの商売よ」
本心から心配しつつ、恭四郎は彼女の対面の席に着いた。
そういう彼女は、私立探偵だ。現在、絶賛依頼人にすっぽかされ中だが。
「お得意様の健康状態が気になるのが、この商売なんですよ」
恭四郎が言い返すと、由布子はにっこりと笑ってくれた。
「まだまだ青いわね恭四郎くん。そこは口で語らずコーヒーの味で語りなさい」
「…………あんまりそういう人にカフェインおススメしたくないんですけどね」
高感度アップ作戦は、地味に失敗したようだ。恭四郎は首をすくめる。
「あはは。というか、睡眠時間は問題ないんだけどね」
恭四郎の様子がよほど哀れだったのか、由布子が付け加えた。
「えっと、お仕事の話だったら俺が聞くわけには……」
「ううん、そうじゃなくて。最近妙な夢を見るのよね。それも連続して」
身構える恭四郎に手を振る由布子。恭四郎は首をかしげた。
「夢、ですか? ええと……それは例えば、変な男が現れて延々わけのわからないことをまくし立てるような」
「いや、そういう前衛的なものじゃなくって」
いい加減な説明が感覚の齟齬を引き起こしたらしいが、恭四郎は放っておいた。どうせ不名誉をこうむるのは謎の登場人物・敷島ダンその人だ。
一方で由布子はどこか躊躇っている。
「何て言うか、ね。こう……ああ、恭四郎くんに言ってもアレよね」
「あ、無理には聞きませんけど。でもほら、言うと言わないじゃ大違いってこともありますから」
反射的にマスターが言っていた言葉を引用してみる。由布子は小さく俯いて、念を押した。
「笑わないでくれる?」
「そりゃ、夢の話ですから」
恭四郎が気楽に請け負うと、由布子は視線を微妙にそらして、やがて口を開いた。
「その、ね。どこかの塔に閉じ込められている夢……なの。お姫様っぽく。よく分からないけど、怪しい、そりゃもう怪しい怪物に閉じ込められて、ずっと助けを待ってる。あ、見たことないんだけど怪しいって分かるのよね、何でか。
でもって誰も助けてくれなくて。そのうちひたひた足音だけが近づいてきて、それで……」
「それで?」
塔。ちょうど今、そんな白昼夢を見た。運命を感じて恭四郎は思わず身を乗り出す。由布子は肩をすくめて自嘲気味に笑った。
「それでおしまい。ね、おかしいでしょ。せっかくお姫様なんてものになったのに、王子様の存在信じてないから誰も助けてくれないって夢なのよ」
「ええと、逆に笑い所がわからないですごめんなさい」
それなら俺が王子様になって迎えに行きます、とは言いたくても自信を持って言えない恭四郎だった。
苦笑する由布子は、そこで顔を上げた。
「あ、でも今気づいたんだけどね」
「はい?」
「その足音、今思い返してみると少しずつ近づいてきてるっぽいのよ、何となく。こうなったら最後に何が来るか、確かめてやるわ。うん、そう考えるとちょっと楽しみになってきたかも」
由布子はぐっと拳を握る。どうやら闘志に火がついたらしい。
「ありがと、恭四郎くん。やっぱり相談ってしてみるものね。あ、でもこれマスターには内緒ね」
「いや、俺は何にも……」
照れて頭を掻く恭四郎だったが、その言葉にかぶさるようにドアベルが鳴り、楽しい時間の終わりを告げる。
「……いらっしゃいませー」
恭四郎は席を立ち、男性客を迎える。その男は由布子の依頼人ではなかった。
結局この日、由布子が引き上げるまで依頼人は現れず、また一通の連絡も来なかった。
マスターが帰ってきたのは、太陽がだいぶ傾いたころだった。
頭頂部に焼け野原を頂いているマスターは、残存兵力を労わるように軽くなでつつ、恭四郎にバイト代を渡して言った。
「今日はありがとうね。また頼むこともあるかもしれないから、その時はよろしく」
「ええ、まあ事前に言ってくれれば」
「うん、助かるよ。それじゃ気をつけて帰ってね。ここんとこ、妙な話を耳に挟むからさ」
マスターの言葉に、恭四郎は興味を引かれた。
「妙な話って言うと」
「ほら、誰それが消えたとかいなくなったとか。まあ若いうちは誰にでも悩みってのはあるだろうけど、三丁目の向居の爺さんがいなくなったのは別の意味で心配だよね。何があったか知らないけどさ、恭四郎くんはいなくならないように気をつけてよ」
そういうマスターの目は、なぜか捨てられた子犬のようだった。
「まさか、本気で俺に店任せるつもりじゃないよな……」
残念ながら恭四郎の個人的な希望進路は私立探偵――由布子の助手というポジションだ。そろそろ専門の勉強もしたいところである。
恭四郎は呟きながら、堤防沿いをのんびり歩いた。駅前の書店はどうにも品揃えが悪いので、次の土日に市街地へ出よう……などと考えていると、見覚えのある車が前方に止まっているのを見つけた。
由布子の軽自動車だ。
(あれ、仕事中かな)
あれから別の依頼でも入ったのだろうか。目を凝らしてみると、運転席には彼女の後ろ姿があった。
(邪魔しないように裏から帰るか)
ここで不用意に声をかけては迷惑だ。恭四郎は横道から帰ろうとした。
瞬間。
「……あれ?」
不意に、視界が暗転した。
ぶるぶると頭を振る。周囲を見回す。やがて周囲に光が差し込んだころには、のどかな住宅地は姿を消していた。
太陽は知らぬ間に完全に消え去り、変わりに満月が夜空を支配している。
鬱蒼と生い茂る木々に挟まれた一本道の向こうには、黒々とした塔が聳え立っていた。
恭四郎の記憶では、本日の月齢は満月には程遠かったはずだ。それ以前に、あまりにロケーションが日本離れしている。
「…………相当疲れてたのかな俺」
昔友人が、朝から眠ったまま徒歩で登校をこなしたという話を思い出す。とうとう自分も、歩きながら寝る境地に達してしまったのだろうか。
しかし友人は信号も難なくクリアしたと豪語するが、恭四郎にそれができる保証はない。現実ではその場で倒れているかもしれない。
ここはたとえ体が限界を迎えていても――そんな自覚はカケラもなかったが――起きるべきだろう。恭四郎はそう判断して、目を閉じて軽く力んだ。
「…………っ!」
いやな夢から手っ取り早く覚める方法は、しかし恭四郎の世界を変えはしなかった。
「…………あれ」
目を開ける。周囲はやはり木々と塔が見下ろす夜の世界だ。
ついでに少し念じて腕をつねってみる。痛かった。
「夢じゃ……ない?」
「いンや、夢だよ」
「ふぉあ!」
至近距離からの呟きに、恭四郎は思わず飛びのいた。立っていたのは昨夜と同じくサングラスにフライトジャケットの怪しい青年、ダンだ。
「よっ、久しぶり」
「久しぶり、じゃない!」
恭四郎は驚いたことへのバツの悪さをごまかすようにダンの頭にチョップを入れようとして避けられた。
「過激なスキンシップだね」
「やかましい。ダン、とか言ったなオッサン……どういうことだよ。あんた、俺の脳内人格とかじゃなかったのか!」
「いけないなぁ、他人様の存在をそんな風に断定しちゃ。てか三十路前捕まえてオッサンはなかろ、オッサンは」
ダンはおどけた風に首を振る。その態度がいちいち恭四郎を苛立たせた。
「馬鹿なこと言うなよ。というか夢ならさっさと覚めてほしいよホント」
「そいつは無理な相談だ。そもそもここはって、おーい、人の話を聞け青年……って」
「?」
不意にダンが言葉を切る。恭四郎もまた、疑問符を浮かべた。
ダンの言葉が要領を得ないからではない。急にあたりが、さらに薄暗くなったのだ。まるで、光源を隠す何かが頭上に現れたように。
「――上だ!」
「うぇっ!?」
ダンの声が飛ぶ。見上げると、月をバックに何かが空を飛んでいた。
直後、恭四郎はそれがあり得ないものであることを知る。
「っ……おいダン、何だよあれは!」
立ち止まり、恭四郎はダンに問う。ダンもまた、恭四郎の隣で苦々しげに表情を歪めていた。
そう、いたのだ。月明かりを隠した犯人が。
高くそびえる塔から伸びた、糸の網に足をかける、巨大な蟲じみたシルエットが。
そしてシルエットは大きく口を開き、二人の前に降り立った。
「何……え、何!?」
「バイオメア…………っ!」
ダンがその名を呼ぶと同時に。
「Syaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa!!」
シルエットは肢を広げて、二人に飛び掛ってきた。
「こっちだ!」
「うわぁっ!」
ダンに手を引かれ、恭四郎は脇の林に飛び込んだ。一瞬前まで二人がいた辺りに、シルエットの正体――軽自動車サイズの、巨大な蜘蛛が着地する。
「な、なな何だあれ!」
「だからバイオメアだっての! おら立て!」
問答無用でダンは恭四郎を引きずっていく。どうにか体勢を持ち直した恭四郎も、半ばつんのめるように林の中を走り出した。
「Syuuuuuu…………」
獲物を取り逃がした大蜘蛛は、のそりと体の向きを変えると、木々の間を飛び回って二人を追ってくる。
改めて見てみると、微妙に単なる蜘蛛とも異なる体型だということがわかった。最後部の肢の一対は他の六本に比べてしっかりとしており、むしろ人間の足を思わせる。二足歩行するかもしれない。
恭四郎は、ふと浮かんだ考えを思考の片隅に押しやった。今はそんなこと、どうだっていい。
問題は、どう見ても、大蜘蛛が二人を食べる気だということだ。
右も左もわからない世界で、いきなり人食い怪物に襲われている。絶体絶命のピンチだ。恭四郎は毒づいた。
「どうすりゃいいんだよ、くそ!」
答えたのはやはりダンだ。
「戦え相棒! お前にはその力がある!」
「力があるって、勝手にそんなこと決め付けるなよ! ……いや待てよ!」
恭四郎はふとひとつの可能性に思い至った。そうだ、昨夜も怪物に襲われて、対処したばかりだ。
立ち止まり、向き直る。大きく息を吸い、イメージを固める。
「おい馬鹿、待て……」
「――っっ、消えろぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」
恭四郎はダンの制止も聞かず、大蜘蛛が消えるように念じた。
今まで夢の中で何度もやってきたように。
しかし。
「Syaaaaaaaaaaaaaaaa!!」
大蜘蛛は一切気にした風もなく二人目掛けて飛んできた。
(嘘だろっ?)
恭四郎は目を丸くする。全力で叫んだせいで、とっさに体が動かない。大蜘蛛は徐々に近づいてきて、死の匂いを撒き散らしだす。
「う……」
「おおおおおおりゃああっ!」
恭四郎が身をすくませたのと同時に、その肩に手が置かれる。ダンだ。
ダンは、恭四郎の肩を支点に自らの体を持ち上げ、前方回転の勢いのまま大蜘蛛の顔面に、垂直に踵を打ち下ろした!
「Sya!?」
交錯するシルエット。顔面を踏みつけられ、大蜘蛛が地面にめり込む。
着地したダンが振り返った。
「今のうちだ、走れ!」
「え、あ、ああ」
我に返った恭四郎は、ダンに促されるまま再び走り出した。
(あれ。私、どうしたんだっけ)
由布子はふと気がついて周囲を見回した。ドレスを着た自分の姿に、認識が追いつく。
(ああ、そうか。私、捕まってるんだ)
とはいえ、その認識はぼんやりとしたもので、具体的な像を結びはしなかったが。
思いをめぐらせた瞬間、由布子は頭の芯がズキンと痛むのを感じた。
(あれ……私、これからどうするんだっけ……)
何か、するべきことがあったはずだ。それだけは思い出す。だが、内容が出てこない。
外を見ると、大きな満月が浮かんでいた。
どれくらい走っただろうか。追ってくる気配もなくなり、二人は一息ついた。
「ハァ、ハァ、ハァ……」
「しっかりしろよ。つーか、最近の若者は覚醒遅いのな」
肩で息をする恭四郎を小さく睨むダン。だが、ダンも息が荒い。
「おい大丈夫かよオッサン」
「だから三十路前にオッサンは……ああもういいや面倒くさい」
ダンは木の根元に座り込んで、小さく息を吐いた。
「そういえば説明がまだだったな」
「あ、ああ」
恭四郎も倣って隣に座る。ダンは周囲を見回し、真剣な面持ちで言った。
「ここは、夢の中だ。ただし、お前の夢じゃない」
「あの化け物はバイオメア。俺も又聞きになっちまうが、何でも人間の悪夢から生まれ、悪夢を喰らい、悪夢を撒き散らして悪夢を渡り歩く、情報生命体って触れ込みだ。
ここは、そいつに寄生された人間が見ている悪夢……俺たちは他人様の悪夢に迷い込んでるってわけだ」
ダンはそこまで語ると、目で「分かったか?」と問う。
恭四郎は半信半疑になりながらも、頷いた。夢の中で初対面したダンと一緒に、常識外れの大蜘蛛に実際に襲われたのだ。どんな説明でも受け入れられる心境になっている。
「で、どうすれば逃げられるんだよ」
率直に聞いたら、ダンにあきれられた。
「お前ね。若いもんが逃げることばっか考えてちゃいけませんよ。言ったろ、お前は“REM”を継いだって。俺たちが他人様の夢にお邪魔してるのも、その一環でだね」
「いや、だからそのレムって一体……」
恭四郎は眉をひそめる。そういえば昨夜の夢のラストで投げつけられた光があったが、それだろうか。
もっと詳しく聞こうと恭四郎が身を起こした、その時。
「――――チッ!」
「うわっ!」
ダンが突如舌打ちとともに恭四郎を突き飛ばした。
「何するん……っ」
尻餅をついて抗議する恭四郎の目の前を何かが通り過ぎる。それは二人がもたれていた木を貫いて飛び出した、細くしなやかな蟲の肢だ。
そして、先端の鋭い鉤爪は、ダンの太腿を深々と刺し貫いていた。
「ダン!」
「ぬぐっ……心配すんじゃねェ、かすり傷だ!」
ダンは無理矢理鉤爪を引き抜き、跳び下がる。
「バカヤロ、どう見たって重傷……」
「来るぞ!」
恭四郎の気遣いをさえぎってダンが叫ぶ。瞬間、木が粉々に爆ぜて大蜘蛛が姿を現した!
「Syaaaaaaaaaaaaaaaaa!!」
「うわああああああっ!」
反射的に飛びのき、恭四郎は尻餅をついたまま後じさりする。ダンの怒号が飛んだ。
「来なすった! おい相棒、戦え!」
「むむむ無茶言うな! こんなのとどうやって!」
「REM継いだだろ!」
「だから何だそれはっ、くれと言った覚えはないっ!」
「Syaaaaa……aaaaaaaaaaaaaa!」
言い争う二人にかまわず、大蜘蛛は最後部の脚で立ち上がり、六本の肢を振り回す。木々が切り裂かれ、次々と倒れた。
「うお……っ!」
倒れる木々を避けていたダンが顔をしかめる。太腿から流れた血が、彼のジーンズをどす黒く染めていた。
「おいダン!」
「ああもう面倒くせェ! だったらテメェは逃げとけ!」
ダンは言い放ち、大蜘蛛に向き直った。
「テメェだったらいい“夢”見れると見込んだが、とんだお門違いだ。こいつは――俺がやる!」
「な…………!」
突然の宣言に、恭四郎は言葉を失う。だが、駆け寄ろうとした恭四郎を、大蜘蛛の肢が阻んだ。
「Syaaaa……」
「うぐ……!」
蜘蛛に気圧され、恭四郎は足を止めた。
そうだ、逃げてしまえばいい。心のどこかがそう囁く。
見上げた蜘蛛は、牙を開いて蜘蛛らしくもなく舌なめずりをしていた。あの口が、きっと多くの犠牲者を生んできたのだろう。遠からず、ダンも、そしてこの場に留まる自分もあの中に食らわれることだろう。そんなのは嫌だ。
勝手に訳の分からないもの――それも在るか無いかすら定かではないものだ――を押し付けられ、命の危機にさらされた原因の一端は、ダンにある。少なくとも恭四郎にはそうとしか思えない。
見捨てて逃げても、きっと自分は責められないだろう。法律的に見ても、緊急避難とかカルネアデスの板とか、自分を正当化してくれる理屈はどこにでもある。そもそも誰もこんな話を信じないだろう――もちろん逃げ切れればの話だが。
「オラこっちだバイオメア! この敷島ダン様が相手してやるっ!」
ダンが叫ぶ。その額には痛みのせいか脂汗が浮いていた。と、それに応えるように、
「――――sSyaaaaaa!」
「うぉっ!」
蜘蛛は大きく開いた口から白い塊を打ち出した。塊はダンに着弾して、白い網となって貼り付き、射出された勢いのままダンの体を手近な木に貼り付けた。
「ぐ……テメェ、何しやがる!」
ダンがもがくも、粘性と強靭性を併せ持つらしい糸は、彼を木の幹に磔にしてビクともしない。これで、彼の戦闘能力は死んだ。
恭四郎の、逃げる猶予はもうさほど残されてはいない。今すぐ回れ右をして、この場から1メートルでも遠くへ走るべきだ。
理性と本能が手に手をとって、恭四郎に撤退を促す。
「Syaaaa…………」
大蜘蛛も、まずは確実に喰らえる獲物を優先したのか、ダンに向き直り近づいていく。
チャンスだ。だが、足が動かない。
心のどこかで、別の声が叫んでいる。
(――そうだ)
その声が何か気づいた時。恭四郎の足は、勝手に動いた。
「ここまでか……なんてな。諦めねェぞ俺ァ。首だけになってもテメェの喉笛食い千切ってやる」
「Syaaaa……」
ダンは大蜘蛛を睨みつけた。できる限りの殺気を叩き付けるが、蜘蛛は意に介した風も無く牙を鳴らす。
ふと、過去の光景が脳裏によみがえった。今の恭四郎と似たような立場に追い込まれた、遠い日のことだ。
(あー……そういえば俺も、REM継いだ時はビビってたっけな)
あの時はむしろ、自分の中から目覚めた力に恐れおののいていたものだが。多少の状況の違いはあるにせよ、やはり突然実戦に放り込んでもうまくいかない、ということか。
「それならそれで……せめてあいつに生きるチャンスをくれてやるのが、先輩の役目ってことか」
どうせ命は“あってないようなもの”だ。ダンは覚悟を決めて、蜘蛛を見据えた。
「Syaaaa……aaaaaaaaaaaaaa!!」
蜘蛛は、鋭い爪を振り上げる。せめて目は閉じまいと、ダンは目を見開いて衝撃を待ち構える。
瞬間。視界の片隅にいた青年が、動き出した。
「待てぇ!」
気がつけば、恭四郎は蜘蛛の前に立ちはだかっていた。
覚悟を決めたというよりは、アドレナリンが過剰分泌されてよく分からなくなっている状態だが、細かいことはどうでもいい。
「相棒テメェ……そうか、覚醒したんだな!」
「覚醒って、だから何だよ! わけ分かんないよ!」
ダンが期待を込めて問うのを、しかし跳ね除けるように恭四郎は応えた。
ダンは絶句して、聞き返す。
「っておい! だったら何で来たんだよ!」
「決まってるだろ!」
恭四郎は半ばヤケになって、大蜘蛛に視線を戻した。
敵は巨大だ。勝ち目は薄い。だけど、もはや恭四郎の心に撤退の二文字は無い。
「ダンは俺を信じたんだろ! だからだよ!」
蘇るのは、憧れの人の自信に満ち溢れた言葉だ。
(ふっ、愚問ね恭四郎くん。クライアントの要望のためなら、睡眠時間の5時間や6時間、場合によっては命も削って当たり前なのがこの商売よ)
「自分かわいさに逃げてみろ! 俺はあの人に一生顔向けできなくなるんだよ!」
「――それだけか!」
「悪いかよ!」
「お前馬鹿だろ!」
「だからどうした!」
理性でも、本能でもなく。片思いに裏付けられた意地だけが、恭四郎を動かす。
体が、熱い。沸騰して、何かが体外へ吹き零れそうだ。
だから、それをぶつけてやろう。
「Syaaaaaaaaaaaaa!」
蜘蛛が獰猛に吼えて足を改めて振り下ろす。
恭四郎は、その懐に飛び込んだ。
「どぉりゃあああああああああ!」
計算もなく。ただ己のプライドを拳に込めて――――
「……あれ?」
由布子は不意に、我に返った。
気づく。そうだ、ここは夢の中だ。運転中に強烈な眠気に襲われて眠ってしまったのだ。
そして、いつものように着飾って、じっと助けを待っている。
気づくと同時に思い出す。この夢の結末を見届ける、そう自分は語ったはずだ。
誰に? ――答えは塔の外に響いていた。
「あれ、今の声って……恭四郎、くん?」
由布子は外を見やる。満月の下の森林を見下ろす。
不自然に抉り取られた木々が作る、獣道の最先端から、真紅の光が溢れていた。
重い手応えとともに、大蜘蛛の体が宙を舞う。
「Sya……!?」
掠れた鳴き声をあげて、大蜘蛛は木々を巻き込んで倒れた。
信じられない、と言った感情めいたものが鳴き声ににじんでいる。
しかし、にわかに信じられないのは殴った恭四郎本人も同じだった。
「お……おおっ?」
怪物を殴り飛ばした自分の拳に目を向ける。赤々と輝いていた。
恐る恐る手のひらを開くと、知らぬ間に一枚のディスクを握りこんでいることに気づいた。
「な……なんだ、これ……っ?」
同時に下腹部、臍の辺りが疼く。視線を下げると、恭四郎の腹には、いつの間にか一本のベルトが出現していた。
昨夜、夢の中でぶつけられた光から生まれた、あのベルトだ。
背後で、拘束されたままのダンが嬉しそうに声を上げる。
「やったな、覚醒だ! おい、そのディスクをベルトに着けて、瞬きさせろ!」
「ま、まばたき?」
「いいから早く! やっこさん、また来るぞ!」
ダンに促されて、恭四郎はベルトに手をかけた。
楕円形のカバーを開くと、黒曜石に似た輝きを放つ黒い宝石と、その周囲を覆う茶色のリングが滑らかな光沢を放つ白い土台の中央に嵌まっているのが見えた。
機械仕掛けの眼球のようにも見える。
「こ、これを……」
恭四郎はわけもわからぬままディスクを宝石に重ねて、ベルトのカバーに触れる。
「Syaaaaaaa……」
一方で、大蜘蛛が起き上がり、警戒するように恭四郎との間合いをじりじりと詰めてくる。焦れたようにダンが叫んだ。
「いいからやれ! 覚悟決めたんだろうが!」
「ああもう、分かってるよ!」
言い返して、恭四郎はベルトのカバーを閉じ、もう一度開いた。
ガクン、と想像していたよりも大きな音が響くと同時に、ベルトが答える。
[――Wake up――]
「うわぁっ!?」
リングに合わせてディスクが回転する。光の奔流が暴れ出し、ベルトからあふれ出していく。思わず閉じたまぶたの裏が真っ赤に染まった。
ダンの目の前で、恭四郎の姿が変わっていく。
光を吸い込む漆黒の防護皮膚が全身を多い尽くし、クリスタルの羽根が胸と肩、前腕に幾重にも織り重なって装甲を形作る。ブーツは金に輝く猛禽の爪だ。
最後に光の鷹がベルトから飛び出し、恭四郎の頭をすっぽりと包む仮面へと変わる。
「Syu……Syaaaaaaaaa!!」
恐怖を覚えたか、大蜘蛛が恭四郎に襲い掛かる。だが、もう、遅い。
恭四郎は既に、REMの力を手に入れたのだから。
「来るぞ、ぶちかませ!」
「おおっ!」
ダンの声に力強くこたえ、“恭四郎”が腕を引き絞る。
「おんどっっ……りゃあああぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
「Sya!!?」
解き放たれた鉄拳は、過たず大蜘蛛の牙を砕き、その巨体を吹き飛ばした!
体が、軽くなったのが分かった。力が、漲る。
恭四郎は拳を下ろし、自分の体を確かめる。
鮮やかなルビーレッドの装甲が、全身を彩っていた。
「な……」
自分の頬に触れてみる。ヘルメットの感触が、手のひらと頬を遮っている。
振り返ると、ダンがニヤリと笑っていた。
「やりゃできんじゃねェかよ、若人」
「……いや、変身するなんて聞いてないんだけど俺」
恭四郎は言い返す。ダンは苦笑した。
「その辺のことはこれから追々説明しようと思ったんだよ。とりあえず俺を助けてくれ」
「やってみる」
恭四郎はうなずいて、ダンを捕らえている糸に手をかけた。彼のもがきが嘘のように、糸はあっさりと引き剥がされて、虚空に解けるように消えた。
どうやら、とんでもない力を手に入れてしまったらしい。
「で……これからどうすればいいんだよ。そうだ救急車……」
「来るわきゃねーだろが。とりあえず、あのバイオメアを倒せ。変身したからな、あとは先輩特権で、テレパシー的な力で教えてやるよ」
「分かった……って、アイツ逃げるし!」
大蜘蛛に視線を戻すと、あっさりと逃げていくのが見えた。ダンが舌打ちする。
「あの野郎、この夢を“落とす”気でいやがるな? 手遅れになっちまうぞ!」
「じゃあ追いかけないと!」
恭四郎は慌てて駆け出す。すると、早速脳裏にダンの声が届いてきた。
『落ち着け相棒。ベルトの横ボックスから紫のディスクを出して、さっきみたいにベルトに瞬きさせろ。それで追いつける』
「分かった!」
戦えるとはいえ、自分よりも頼れるのは事情を知っているダンだ。恭四郎は素直にうなずいて指示に従った。
紫のディスクをベルト脇のケースから抜き出して、ベルトに装填しカバーを瞬きさせる。ベルトは無機質な声で答えた。
[Raid-Somnus]
ディスクが高速回転し、光が渦を巻く。その中から飛び出したエネルギーの塊が、恭四郎の眼前に着地する。
赤く青く、不規則に光を照らし返すそれは、丸っこい形状をした大型バイクだ。
「何か出てきたんだけど?」
『そりゃお前んだ、乗れ! 後は思うように動いてくれる』
ダンからアドバイスが飛ぶ。恭四郎はバイク――ベルト曰く“レイドソムナス”という名らしい――に跨り、ハンドルを握った。
レイドソムナスは、恭四郎の意思を感知してタイヤを猛回転させると、大蜘蛛が作った獣道をまずは逆走しはじめた。
『いいか、そのままでよく聞け。さっきも言ったが、奴らはバイオメアって情報生命体種族だ。人間の精神に寄生し、悪夢を見せ、夢を見ている“宿主”のストレスを吸収して成長し、最後は宿主を食って別の宿主に寄生する』
レイドソムナスを駆って林の外を目指す恭四郎に、ダンからのテレパシーが語る。
『奴らはそうやって力をたくわえ、仲間を増やし、いずれは悪夢と現実の力関係を逆転させて天下取ろうって腹だ。だけどまあ、世の中そうそう簡単に事は運ばない。自然界がバランス戻すために生み出したのが、この力だ』
「それが何だって俺のところなんかに!?」
受動的にハンドルを切りながら恭四郎が問う。ダンは「よくぞ聞いた」と答えた。
『主な戦場は他人様の悪夢だ。それに飲み込まれちゃ戦えるわけがない。だから、力を操れる人間は限られるんだよ。
必要な素質は、ひとつ。手前で手前の夢を夢だと分かって、支配できること。お前の特技なんだろ?』
明晰夢を見る特技のことか。恭四郎は顔をしかめた。
まさか、日常に役立たないこの小技のせいで、恐ろしい事態に巻き込まれる日が来ようとは。
「っていうか、ダンは何で俺にそれを託したんだよ! ダンが戦ってたんだろ?」
『うるせぇっ、大人にゃ色々事情っつーもんがあるんだ! とにかく急げ、あの野郎が話を落とす前に!』
ダンが微妙に話を誤魔化す。恭四郎を乗せたレイドソムナスは林を抜けて一本道に出た。
左右を確かめる。大蜘蛛の姿はない。
「ダメだ見つからない……っていうか、何だよ、話を落とすとか何とかって?」
恭四郎は目を凝らしながら、ダンの話に出た気になる言葉の意味を問う。
ダンはテレパシーの向こうで、苦々しげに答えた。
『この世界が維持できるのは、バイオメアに寄生されてる宿主が夢を見ている間だけだ』
「……ということは?」
『宿主が夢から覚めたら、この世界が崩壊する。俺たちは宿主の精神世界に飲み込まれて、夢の中の異物として処理されちまうってことだ。作業中のパソコンを強制終了したら、データが飛ぶみたいにな。
だから、バイオメアが宿主に夢の終わりを告げる前に、俺たちは奴を倒さなくちゃならない。二度と戻れなくなるからな。
だから見失ってんじゃねーよ相棒! むしろ新米! 探せ、もしかしたら道挟んで反対側の森かも知れねェ!』
「広いよ! 大体俺だって全部が全部飲み込めてるわけじゃないんだよ、こんな森に……っと」
恭四郎はダンに言い返しつつ、別の話を思い出した。
一本道の先を見上げる。黒々と聳え立つ塔が見えた。
謎の塔に囚われの姫。増えていく人質、近づいてくる足音。そして、垣間見た白昼夢。
キーワードが頭の中で組みあがる。
「……まさか」
『どうした!』
恭四郎はレイドソムナスのハンドルを、塔に向けた。あれは単なるおどろおどろしさを演出するオブジェなどではない。
「分かったんだ。この悪夢のメインは、あの塔だ。そこで閉じ込めてるお姫様にひたひた近づいて目を覚まさせる!」
『そうか、なるほどな!』
恭四郎の確信が伝わったのか、レイドソムナスも弾かれるように飛び出し、塔を目指した。まるで現実世界のように、仮面の上からも向かい風を感じる。恭四郎とレイドソムナスは一体となって、悪夢を駆け抜けた。
やがて、塔の入り口が見える。バイクを降りたり減速したりしている暇は、きっとない。
「真倉恭四郎……行きまーすっ!」
『おうっ、派手にやれ。夢を守るぼくらのヒーロー!』
恭四郎は吼えて、レイドソムナスもろとも塔に突入した。
仮面が動体視力を拡張する。バイクが己の手足のごとく敏感に反応する。レイドソムナスが急ターンして、階段を駆け上る!
夢の終わりが近づいている。由布子はひたひたと近づいてくる足音を聴き取り、身構えた。
何が現れるかをじっと待ち伏せするか、それともこちらから扉を開いて出迎えてやるか。
あるいは隣の部屋から聞こえてくる泣き声に、何か反応を示してやるか。
自分の夢を夢だと気づいた経験はほとんどない。だから、ほんの少し高揚する。何が出てくるか、期待してしまう。
「――あれ?」
そして、聞き耳を立てていた由布子は、気づいた。足音や鳴き声の向こうから、別の音が近づいてくる。
塔全体に反響する、それはバイクの爆音だった。
螺旋階段をレイドソムナスで駆け上る恭四郎の感覚が、大蜘蛛の存在を察知した。やがて前方に、窓から入る月明かりに照らされた見覚えのある異形の姿が見える。
「……追いついたっ!」
「Sya!?」
大蜘蛛もまた焦りを覚えたのか、八本の肢をフル稼働させて恭四郎から逃げようとする。だが、距離が広がることはない。それは大蜘蛛も分かっていたようだった。
「Syuuu…….SyaSyaaaaa!!」
大蜘蛛は、逃げながら今度は蜘蛛らしく尻から糸を放出し、恭四郎を狙う。
『相棒!』
「任せ……ろぉぉぉぉっ!」
恭四郎は間一髪でレイドソムナスを螺旋の外側へ寄せて、壁面走行で糸を回避した。
「Sya!?」
蜘蛛が動揺の声を漏らす。その隙に恭四郎は一気に大蜘蛛との距離を詰めた。
「これ以上彼女の夢で、好き勝手させるかよ!」
壁面を走るバイクから、階段を上る大蜘蛛の首に足を伸ばす。すれ違う瞬間、ブーツの装飾が展開し、鉤爪となって大蜘蛛を捉える。
恭四郎は、同時にレイドソムナスに全速力を命じた。
「う・ぬ・がぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!」
「Syaaaaaaaaaaaaaaaaaaa!?」
恭四郎が大蜘蛛を踏みつけたまま、レイドソムナスが駆ける。大蜘蛛の体が階段を抉り、舞い散る石の破片が後方へ流れていく。不思議と、恭四郎は足に負荷を感じなかった。
『エゲツねぇ……まあいいや、そのまま外へ行っちまえ!』
「おう!」
恭四郎と大蜘蛛は、いくつもの部屋の扉の前を通り過ぎて、屋上へと飛び出した。
爆音と足音は鈍い破砕音に転じて、無骨なアンサンブルを鳴り響かせる。
「!」
由布子は慌てて扉に飛びつき蹴り開ける――が、その時にはすでに、音源は階段のはるか上に駆け上っていた。
「……行かなきゃ」
ここで行かなければ、自分は大変なものを見逃してしまう。由布子は決意して、抉れた階段を上っていった。
夢は、まだ終わっていない。
「でやあああっ!」
階段から飛び出すと同時に、恭四郎は足を振りぬく。鉤爪から解放された大蜘蛛の巨体が、屋上の石畳に投げ出された。
「Sya……」
体のいたるところを凹ませて、大蜘蛛がよろよろと向き直る。
「Sya!」
「りゃあ!」
吐き出された糸を、恭四郎は回し蹴りを一閃させて弾き散らし、大蜘蛛との距離を詰めた。
「でやぁっ、うらっ、そらあっ!」
「Sya,Syagh,syaga!」
右フックで大蜘蛛の顎を捉え、相手の鉤爪をスウェーバックでかわす。体勢を崩した大蜘蛛の鳩尾をけり上げると、大蜘蛛の巨体は軽々と飛んで、再度床面に叩きつけられる。
そこへ、ダンのテレパシーが叫んだ。
『とどめだ相棒!』
「よっしゃあ!」
恭四郎はベルトの脇から銀のディスクを取り出して、ベルトに装填した。
これがとどめと、すでにダンから聞いている。ベルトに手をかけ瞬きさせると、無機質な音声が技を告げた。
[Daydream Believer]
ディスクが光り、ベルトが唸る。宝玉の中央から生えるようにグリップが実体化していく。
「出ろ、マウントセイバー!」
ベルトから抜き出した、グリップの先端を飾る青い山型の鍔。その先端から湧き出す白熱が、煌びやかな剣を形作った。REMの力を象徴する、秘剣マウントセイバーだ。
「ぅうぉおおおおおおっ!」
恭四郎は逆手に掲げたマウントセイバーを、足元の石畳に突き立てた。
瞬間、悪夢が様相を変える。暗雲が月を覆い隠し、塔の屋上が荒野へと“塗り替えられていく”。
マウントセイバーが刻んだ地面の亀裂が、一気に大蜘蛛の足元へと走り、地面を脈動させた。
――――刹那。
「Syaaaaaaaa!?」
大蜘蛛を支えていた地面が大きく隆起し、火口をその巨体に喰らいつかせる、山となって盛り上がった!
『細工は流々、仕上げと行こうぜ!』
「――レイドソムナス!」
恭四郎の呼び声に、バイクが爆音を響かせる。恭四郎を乗せたレイドソムナスは、土煙を上げて発進する。
バイクに跨り、右手には剣。あたかも戦場を駆ける騎士のごとく、恭四郎は疾風となって走る。
山頂に、敵を見据えて。
由布子が屋上に辿り着くと、なぜかそこは荒野だった。もう夢だから何でもありだ。
そして、彼女の目の前を一台のバイクが駆け抜けていく。暗雲の下、行く手には突然そそり立つ山と、その頂上に囚われた巨大な蜘蛛。
「何……何なのこれ?」
期待とも予想とも全く違う話の流れに、由布子は目を見開いて天を仰いだ。
レイドソムナスは山を駆け上る。
その上空、暗雲を突き破って光の鷹が現れた。その鉤爪に光球の果実を掴み、鷹は翼を広げて恭四郎の元へ舞い降り、憑依する。
光を纏った恭四郎は、レイドソムナスごと急加速した。光が、やがてマウントセイバーに収束し、長く強靭な刃を伸ばす。
そして、恭四郎は大蜘蛛へと肉薄した。
『必っ殺! デイドリーム・ビリーバー!』
「っっ――――どりゃあああああああああっ!」
ダンの、恭四郎の咆哮が重なる。
恭四郎のマウントセイバーが、すれ違いざまに大蜘蛛を真っ二つに切り裂いた!
『――夢に還れ』
「それ、決め台詞なんだ」
勢い余って空を飛ぶ恭四郎の背後で。
大蜘蛛は内側から炎を上げて爆発四散した。
レイドソムナスが、塔の屋上に着地する。すでに荒野は消え去り、夢は元の情景に戻っている。
『いやぁ、終わった終わった。初陣としちゃ、上々だよ。これならお前に後を任せて大丈夫そうだな』
ダンが能天気に解説を入れる。恭四郎としては、そんな称賛よりも切実に必要なものがあった。
「そりゃよかった……で、これからどうするんだよ。どうやって帰るんだよ」
『レイドソムナスを使えば、現実世界への帰還も思うままさ』
「……あんたはどうするんだよ。拾っていこうか?」
『心配いらねぇよ。俺はまあ……別ルート知ってるし』
「ホントかよそれ。結構な怪我してたじゃんか」
『疑ってんなテメェ。分かったよ下見てみろって』
ダンと掛け合いつつ、恭四郎は苦笑する。塔から下界の林を見やると、一本道にダンが現れて、くるりと身を翻すと同時に光の粒子となって消えた。
まあ、何とかなったらしい。
だが、その背後にもうひとつの厄介事が潜んでいるとまでは考えが回らなかった。
「ちょっと、そこのあなた!」
「っ!」
振り返ると、由布子がいた。なるほど、囚われのお姫様らしくドレスアップしている。思わず見とれかける自分を心の内で叱り付け、恭四郎は彼女を見つめ返した。
「いったい何なのよ! 格好よく助けに来てくれる王子様かと思ってたら、私のこと放っておいて何か変なことして変な化け物倒すし! だいたいあなた何者っ? あなたみたいなキャラクター、呼んだ覚えはないわよっ?」
「いや、えーと」
一気にまくし立てられて、恭四郎は気圧された。どうもこの夢に関してのみ、彼女は明晰夢を見ているようだ。何となく「お前をそんな子に育てた覚えはない」と叱られているような気分になった。
だが経験上、ここで正体を明かすとその記憶は起きた後も残るだろう。
「えーとじゃなくって! 答えなさい!」
とはいえ、何らかの答えを出さないうちは解放してもらえそうにない。事態が長引くと彼女も目を覚ますだろうし、その前にこの世界を作り変えて自分を捕まえるかも知れない。
しかし、彼女に嘘をつくのも抵抗が強い。
仕方なく。心の底から渋々と。
「私の名は、レム。夢から夢を渡り、悪夢を打ち倒す者だ」
恭四郎はできる限り大人っぽい、渋めの声を演出して、そう自己紹介すると、そそくさとレイドソムナスに乗ってその場を立ち去ることにした。
「もう二度と会うこともないだろう。君の夢に、幸あらんことを。とうっ」
「ちょっと、待ちなさい!」
由布子の声があっという間に遠くなる。恭四郎を乗せたレイドソムナスは、光に満ちた“夢の果て”へと突入した。
気がつくと、周囲は元の夕焼けに戻っていた。
由布子はおらず、森林も時計台もそびえておらず、堤防の向こうから穏やかな波の音だけが聞こえてくる。
自分の身体を確認するが、すでにいつもの普段着だ。バイクもない。
「ええと……夢だった?」
自分で言って見て否定する。自分の身体を確かめると、林を駆け抜けた際の擦り傷が皮膚やズボンに走っている。
全てが現実だったと嫌な実感が押し寄せてきて。
「…………やりゃいいんだろ、やりゃ」
恭四郎は諦めの念がこもったため息をついた。それはもう、盛大に。
その夜、恭四郎は夢すら見ず泥の様に眠った。
真倉恭四郎にとっての“始まりの日”は、こうして終わりを告げた。
「あら恭四郎くん、奇遇ね」
翌日。やはり休日だったので探偵学を学ぶため駅へと赴いた恭四郎は、発券所の手前でその声に身体を強張らせた。
「お、オハヨウゴザイマスユウコサンイイオテンキデスネ」
「ええ、いい天気ね」
由布子はすっきりとした笑顔で答える。恭四郎の緊張に気付いた様子はなかった。
バイオメアに憑依されていた後遺症などもないようだ。本人にどのような実害が及ぶのか、ダンからはまだ聞いてはいないが、心配はないのだろう、きっと。
「な、何か昨日より元気そうです、ね」
「うん。久しぶりにゆっくり眠れたからかな」
「へぇ……」
恭四郎は心からそれを喜び、共に改札口を抜けた。
「でもね。夢の最後がどうにも腑に落ちなくって」
「……夢って大体そんなもんじゃないですか?」
ホームへと続く階段を登りながら、恭四郎は生返事を返す。いつもなら彼女に話しかけられるだけで小躍りしたくなるほど嬉しいのだが、自分が彼女の夢の中――いわば究極のプライベート空間だ――に忍び込んで大暴れしたことが露見したら、と考えると素直に喜べない。
しかし由布子は恭四郎の煩悶をよそに話を続けた。
「ホント、奇妙な夢だったのよ。最後にどうなったか当ててみて? 当てたらそうね……今度ご飯奢ったげる」
恭四郎は、困った。まさか自分の経験を元にずばずば当ててみるわけにはいかない。しかし、一食奢られる――それはすなわち食事を共にすることだ――は極めて魅力的なご褒美だ。
だから、とりあえず当たり障りのない回答で誤魔化すことにしてみた。
「えーと……変な男が現れてわけのわからないことを」
「……何か嫌なことでもあったの? まあ、当たらずといえど遠からずってところかな。曖昧すぎよ」
話の流れが、どんどん近づいて欲しくない方向へ近づいていく。だが、咄嗟に話を逸らすことも出来ずに、恭四郎は相槌を打った。
「……すみません」
「私も無茶振りしちゃったから。とにかく、夢の続きよ。囚われの私に近づく足音、いよいよ扉が開く、ってその時に、なんかバイクが通路を駆け抜けていっちゃって」
「それは……寝てる時、近所に暴走族でも走ってたんじゃないですか?」
所詮夢は夢だ。堂々としていればいい。そんな言葉が脳裏を過ぎるが、実行できれば苦労はない。今の返しは我ながら上手い、と思ったが、由布子はそう感じてくれなかったらしい。
階段を登りきると、由布子は肩をすくめた。
「で、変な奴が化け物を倒してお終い、なんだけどね。そのヒーローが、何て言うか……私の理想通りじゃないし、別に優しくもしてくれない変な奴なのよ。散々悩ませて、しまらないオチよね。……あ、そうだ」
「?」
由布子が、何かを思いついたような顔をしている。訝る恭四郎に、彼女は優しげな表情を向けてきた。
それだけなら心も躍るシチュエーションなのだが……
「ね、恭四郎くんこれから何の用事?」
「え、あ、ちょっと調べ物を」
「昨日からずっと、変な男が~とか言ってるわよね。そっちの夢も聞かせなさいよ。私ばっかり悩んでるのも何か不公平だわ」
――そっちが勝手に話したことじゃないか、とは言えない恭四郎だった。憧れの人との会話は、内容はどうあれ心が弾む。
ただ、恭四郎としては懸念もある。ボロを出しそうだ。
(さあどうする、どうするよ俺)
恭四郎は曖昧に視線を逸らす。どうやって断ればいいだろう。いや、断ったらこんなチャンスは二度と訪れないかもしれない。邪念が心を掻き乱す。
電車の接近を告げるメロディが、遠く響いた。
――――Closed.