2006年11月21日(火)22時49分-Κ
窓がひとつしかない、どちらかといえば狭い部屋に男が一人いる。たいしたものは何もない部屋だ。部屋はカーテンで二つに仕切られていて、カーテンの男のいる側には椅子が二つ置いてある。その椅子のひとつが机と向かい合っていて、それに男は座っている。そこからでは、カーテンの向こう側は、まったく見えない。机の上で男は、何か書き物をしている。カルテか何かのようなものに、記号や外国語のようなものを書いているようだ。男は白衣を着込んでいる。男は、医者か何かのようだ。男が座っている椅子は背もたれもない、単なる四脚の椅子だが、もうひとつの椅子は背もたれもやわらかそうなクッションもあり、また背もたれを倒して寝椅子にできる、割と豪華なつくりのものだ。催眠療法などに使う椅子だ。するとここは精神科の診療室なのだろうか。それにしては壁や天井などに清潔さが欠けるようにも見える。カーテンの向こう側には、誰の気配も感じられない。
男は無精ひげを生やし、髪の毛はぼさぼさだ。白衣の下に来ているのはどうやらTシャツとジーンズのようだ。カルテに一心に何かを書き込みながら、何かをぶつぶつとつぶやいている。その目はらんらんと輝いている。
どうやら書き終わったようだ。男は顔を上げる。
「ふうっ」
私はカルテを書き終わって、少し息をついた。ちょっと疲れてしまったようだ。メンタルクリニックをはじめたばかりのころは、なかなか患者が来なくてやきもきしたものだが、最近はだんだん忙しくなってきて、休む時間がなくなってきたのは大変だけど、文句は言えない。暇で暇で気が狂いそうなのよりずっとましだ。今のところ、忙しくて気が狂いそうなほどではない。精神科医が気が狂うだの、気楽に使うのは少々不謹慎だろうか。しかし、まあそうめったに重症なやつは来ない。大体が、ちょっとねじが緩んだ程度で、ねじがぶっ飛んでしまったやつはそんなにいない。実際そんなやつらが大挙して押し寄せたら、それこそ私が参っちまう。この商売で成功するコツは、精神科医をカウンセラーかなにかと勘違いしている若い女を呼び寄せて、害のない薬を与えることだ、という話もある。
しかし、学者としての好奇心は今も持ち合わせている。重病患者を診察するときには、もしかしたら何か新しい発見があるのではないかと、今でも少しは期待している。しかし経験から言うと、大概の患者はありきたりだ。パターンどおりの妄想をパターンどおりに披露してくれるのが、ほとんどだ。狂気にたいしてロマンチックな期待を持つのは間違いで、人間なんてのは実際そんなに個性的なものではない。
でもやはり、重病患者には興味がそそられる。しかし重病患者を診ることには危険が付きまとう。彼らは、自分の周りの世界を、すべて彼らの妄想に当てはめて理解する。彼らの妄想にうまく適合しない部分は感動的なほど見事に無視する。そして新たに登場した状況に対して、妄想はそこから取捨選択しながら変化していく。そしてもちろん、医者である私もその妄想の中に組み込まれてしまう。ある患者は、私を神か何かのように信頼し私に任せておけばすべてがうまくいくという、新興宗教のようなことを考える。また別の患者は、私を悪の組織の手先で、この世界を支配しようとする陰謀の片棒を担いでいるのだと信じるのだ。またある患者は、一所懸命になって、自分の妄想を私に納得させようとする。そのとき気をつけるのが、あまり親身にならないことだ。医者のほうが患者に感情移入しすぎると、患者の世界に巻き込まれ、妄想を共有する羽目になるかもしれない。患者とは一定の距離をとること、これが原則だ。それでもやはり、患者の説に魅力を感じてしまったりする。こうして一人椅子に座っていても、この自分の見ている世界が実態のあるものなのかどうか心配に思え、何だが気持ちの悪い浮遊感を感じてしまったりする。自分が医者だというのは単なる私の妄想ではないのか。ここは診察室でもなんでもなく、孤独な男の一人住まいで、そこで私は、日がな一日一人芝居をしているのではないのだろうか。
私はカーテンを開けた。そこに待合用の長いすに一人の男が座っていた。私は、思いに沈んでいたため、次の患者がいることをうっかり失念していたのだ。私は気を取り直して、その男に言った。
「すいません、お待たせしました、お入りください。」
「よろしくお願いします」
男は入ってきた。
「その椅子におかけしてください。はい、どうぞリラックスしてください」
男を患者用の椅子にかけさせ、私はそれに向かい合うように座る。はじめに名前などを確認してから、診察に入った。
「それで、今日は、どのようなご用件で……」
「それがですね、あのう……」
「どうぞ、ご遠慮なさらずに。軽い悩み事でも何でもおっしゃってください」
こちらとしては、ただ単に、おし黙られるのが一番厄介なだけなのだ。
「はい、あの」
「はい、なんですか」
「それが、最近なんだか周りのものが変な風に見えてしまうのです」
「変な風といいますと、具体的にはどのように」
私は、実に興味深そうに続きを促す。診療で最初にやることは医者と患者の間に信頼関係を気づくことだ。こういう場所へ来る患者の中には、今まで誰にも相談できなかったり、相談してもまじめに取り合ってもらえなかったりしてきた人たちもいる。そのような人たちに、ああ、この先生は違う、私の話をちゃんと聞いてくれる、と思わせるのだ。
「まるですべてが、偽物のように見えるのです」
割とありふれた話である。しかし、またか、という風な顔は決してしてはいけない。あくまで親身になって相手の話を聞いている振りをしなければいけない。
「偽物、といいますと?」
「つまり、現実ではないといいましょうか、夢とか、または幻とか、つまりそのような……」
「実体のないようなものだと」
このとき医者はいきなり患者の言うことを否定したりはしない。そんなことをしたら患者はこう思うだろう。結局この医者もほかのやつらと一緒だ。私の話をまじめに考えていない。だから医者はまず、疑っているわけではないことを示すためにこう聞く。
「それはたとえば、どのようなときに、そんな風になりますか」
「別に決まったときがあるわけではなくて、日常生活をしているときでも、何か仕事をしているときでも、関係なしに、そうなります」
「何か前触れのようなものは」
「特に何も。何の前触れもなく突然来ます」
「最近、何か日常生活で変わったことはありましたか」
「いや、別に何もありませんでしたけど……」
「なるほど、ふんふん」
医者が患者の話を聞いてこのように何か考え始めると患者はこう期待する。今までの話で何かわかるのだろうか。もしわかるのなら、今まで誰にも話さなかった、この悩みも解決するのだろうか。この先生なら、信頼してもいいのかもしれない。
医者は言う。
「離人症、と呼ばれる症状とよく似ていますね」
「離人症、ですか」
すると、こう思う。離人症か、なるほど私の症状は離人症だったのか。いや、まだ喜ぶには早すぎるのだが、なんだか少しだけ安心するような気がする。こんなことならもう少し早くここに来ておけばよかったのではないだろうか。
さらに、医者はこう言う。
「もう少し、具体的な話も聞かせてください。偽物という言葉の意味をもうちょっと詳しく話してください。つまり、どのように偽物なのか」
「と言いますと」
「えっとですね、たとえばその、偽物と言うからには、どこか別の場所に本物はあるのかどうか、とか、そのようなことをお話ください」
考えたこともないことを聞くんだな、と患者は考える。しかし言われてみればその通りで、もしこの世界が偽物だったら、どこか別の場所に本物があるのであろうか。自分が普段自然に感じていることを言葉で考え直すのは以外に難しいことだ。自分がどう感じているかなんて普段は当たり前過ぎて、言葉になんか直さないからだ。自分が感じていることは実際にはどういうことなのかを、言葉と格闘しながらこういってみる。
「えっと、夢を見ているときに、これは夢だと気づくときがあると思うんですけど、そのときには、目の前で起こっていることが夢であることはわかっても、じゃあそれに対して現実はどういうものだ、なんてことは決して考えないじゃないですか。現実は相変わらず失われたままです。それと、もしかしたら似ているのかもしれません。いや、似てないかな?まあ、いいです。えっと、そうだなあ、なんだろう。まるで、今見ている景色は自分の頭が勝手に作っているもので、目を開けると、つまり私は目を開けているつもりで目を瞑っているとしてですが、まったく関係ない景色、たとえば、私は布団の中だったり、床の上だったりして、私の目に映るのは孤独な男の一人住まいだったりして。そんな風に感じると、まるで自分の立っている地面がなくなったみたいな、奇妙な浮遊感みたいなものを感じてしまって……」
医者は、興味深そうに私の顔を見ていた。そのときだった、私がまたあの妙な感覚を感じたのは。私をじっと見ている医者の顔が、仮面か何かのように見え始め、周りの景色も、診療室なんかにはとても見えなくなり始めたのだ。突然自分の体が異物の様に思え、浮遊感と沈んでいく感覚を同時に感じた。
しかし、医者はそんな私の変化にはまったく気づいてないようで、なにやら訳知り顔で立ち上がると、こう言った。
「大体わかりました。もちろんまだ知りたいことはたくさんありますが、それはじきにわかることです。それでは催眠療法を試してみたいので、そのまま座っていてください」
医者は、私のいすの背もたれを倒すと、私の枕元にいすを引き寄せて座った。私は相変わらず、奇妙な感覚に襲われたままで、恐怖を感じないことはないのだが、まるで映画を見ているように目の前で起こっていることを黙って見守ることしかできなかった。
「それでは目を瞑ってください。はい、リラックスしてくださいね。体の力を抜いて、するとあなたのまぶたがだんだん重くなっていきます。はい、1,2の3。」
馬鹿らしいと思いながらも、私の体は医者の言うとおりになった。私は目を瞑ってしまった。
「まぶたの裏に何が見えますか?」
「な、何も見えませんが」
私は医者の質問に正直に答えた。何も見えなかった。そこは絶対の闇だった。医者の声だけが、なんだか遠くのほうから響いてくる。
「本当に何も見えないんですね」
「はい、本当に何も見えません」
「それは変ですねぇ」
医者の声はますます遠くなる。だんだん聞こえなくなるようだ。
「それでは1,2の3で目をあけてくださいね」
「ちょっと先生、先生どこに」
「はい、1,2の3。」
男は目を開けた。そこは窓がひとつしかない、どちらかと言えば狭い部屋だった。男はそこに独りでいた。男は無精ひげを生やし、髪の毛はぼさぼさだ。その男以外の人物がいたような形跡はまったくない。彼は寝椅子に寝転んでいたのだが、今起き上がって、周りを見渡している。部屋はカーテンで仕切られていてその向こう側は見えない。男は立ち上がって、カーテンを思い切り引いた。そこは彼の部屋だった。診療室でもなんでもなく、彼以外には誰もいない部屋だった。彼は周りを再び見渡す。机の上に、何かが書きこめれた紙が置いてある。それを手にとって見てみたが、でたらめな線の乱舞しか認めることはできなかった。
最終更新:2012年12月31日 23:24