2006年11月24日(金)03時47分-渋沢庚
赤インキが滲んだような暖かい陽射しがあった。
陽の光は谷の下の人家にある若葉に差しこんでいく。若葉は桜だろうか。枝にはわずかながらに花弁が残っていて、それが時折の青い風に吹かれ舞う。蝶がふわふわやっているようである。花弁はそうやって崖下のほうにも落ちてゆく。ぽつりぽつり―――春の名残を惜しむかのような風情だ。
駅の前は少しぬかるんで土はどろりとしていた。水溜りをよけながら人は動く。水溜りは忙しく動く人々をうつしてはきらきらと輝いていた。
駅の近くには赤レンガの工場があってもうもうと煙をたいている。その煙のせいかレンガは少しすすけて年代を感じさせる。その赤レンガ工場にもやっぱり桜が一本あって、晩春の風に若い枝は狂人のように舞う。白い花弁が赤レンガにはえては、泥にまみれるのであった。水溜りが陽光を反射しては怪しく彩色どられている。
大正は晩春の、とある町での話しだ。
軽く拭いた顔や首筋にはちらりとだけ汗が滲んでいる。里子は病院に行った帰りのことを布団の中で思い出していた。じっとしていると床に接している部分が熱くなってくる。布団は硬くて寝心地がいいといえないが、寝返りをうつごとに布団のひんやりとした感触が気持ちよかった。
まだ、お昼で外は陽気だというのに。里子は寝ていないといけない身の不遇を思った。
今朝、病院へ行ったのは、それはそれで気晴らしになった。汽車に乗ると谷の下の我が家が小さく見えて爽快な気分にさせてくれる。家は谷下の町の郊外にあった。里子は決して出たがりな女ではない。むしろ、日ごろは家で家事をやっている方が気が楽なのである。近年は、町を闊歩する女性も増えたと聞くが、里子には到底無理な芸当であった。しかし、こうも家に閉じこもって何もしていないと憂鬱になるものだ。里子が体調を崩したのはつい数日前だったのだが、何しろ良人が心配性なのもので、寝ていろと言って聞かない。家事はすべて女中に任せきりになっている。それでも、たまには台所へ行って家事をする。女中はむしろ里子の味方で良人には黙っていてくれるのだ。そうでもしないと数日のことではあるが本当に気がめいるのだ。
さて、良人は名を京介といったが、物書きなどをやっていて最近はもっぱら陸軍省で露西亜の本の翻訳などを手がけている。仕事は二階の書斎である。
里子は今、京介が仕事しているであろう二階をみてため息をついた。暗い天井は揺れれば埃がふってきそうでこの家が古いことを再認識させられる。
「五月にでもなれば、仕事もあらかた片付いて休暇が取れるだろうから少し早いが夏休みといこうではないか。君は海を見たがっていたね」
京介はそういって海に誘ってくれたのであるがうまい具合に病気と重なってしまった。何故こんな時に。里子はそれでも海が見たかったのであるが、良人は
「それは駄目だ。君は休みたまえ。体には用心しないといけないよ。海はまた何時でもいけるじゃないか」
といって聞かなかった。
そういっている内に京介には仕事が入り、里子は布団の中で楽しまない日々をおくることになった。軍の病院には予約を入れてみたものの、なかなか、診察にはならない。ため息をつくごとに二階の天井が自分に圧力をかけているように感じる。古いということはそれだけ重みがあるということなのだ。
今日は予約を入れていた病院に行くことになって朝早くに家をでたのであるが京介は仕事が忙しいといって結局二人では出られなかった。たまには一緒に町のほうに出てくれればと願っていた。里子は良人のつれなさを恨みこそしなかったものの、そんなにほったらかしにしておくのなら、いっそ、病気のこともかまわずに海に連れて行ってくれればいいのにと思った。海の潮の香りをかぐだけでどんなに気持ちが安らぐことか。
障子から入ってくる薄明かりを受けながら里子はまた寝返りをうった。
障子には庭の桜の陰がおぼろにうつっていて、ゆらゆらと揺れた。せめて、障子だけでも開け放ってしまおうかと思うのだが、つまらないことで良人に何かいわれたらたまらない。それに―――里子はある思いを胸中に秘めていた。
「とにかく、気晴らしにどこかいけたらいいのに。あの人ッたら!」
里子は良人を気分屋の頑固者と見ている。実際、その性格はこのようなかたちであらわれて里子を当惑させるのであるが、それでも憎めない人だと陰で笑っていた。こういうことはよくあることだ。しかも子どもじみている。京介は結局、里子がいないと何もできない。
男とはそういうもの。外では威張り散らしているくせに一人では何もできやしない。困ったお人。
京介はそんなことは露とも知らずにいる。
砂丘に植えられた小ぶりな松や、細やかな砂の波際、藍色の海と空が遠くで交じり合っているのが、里子には脳裏に浮かんだ。それは、四、五年前に新婚旅行で行った海岸の情景であった。里子はその焼けるような赤インクがしみこんだのを思わせる陽射しは嫌いではなったが、それより何より松の枝の先を踊り狂わせる青い海から吹く風が印象に残っていた。その風が強くて里子がよろけたのを京介が支えてくれた。里子はあの海を思い浮かべてみた。あの海に行って景色を眺めながら良人と二人、弁当でも広げたらどんなに楽しいか。また、あの風に吹かれたらどれだけ気晴らしになるか考えた。
里子はそこまで考えて、それなのに―――と思った。
「それなのにあの人ッたら、まったく分かってくださらないのだから」
幾度目かのため息をつきながらまた寝返りをうつ。こういう所在無い、やるせない気持ちを抱くと何かしていないといけないものだ。寝返りをうつことでそれが発散されるとは到底思えない里子であったが、今はそうして気を紛らわすことにしている。
何より、床と接している部分だけ汗ばむのだ。寝返りをうつ時に感じるひんやりとした感触は布団の中の世界しかない里子にとっては十分刺激的であった。
寝返りをうつと襖があって隣の部屋に続いていた。襖をなんとなく見つめていた里子であったが、突然、襖が開いた。
「気分はどうかな?」
京介がすっと顔をだした。
京介は軍服だった。陸軍省に出仕していたのであろうと里子は思った。つまり、さっきまで二階にはいなかったのだ。それなのに二階ばかり見つめていた自分は何なんだろう。しかし、そういった言葉をかけて、それだけ心配してくれるならもうちょっと気を使って何か買ってきてくれるなどできないものかしらと里子は思った。それでもやんわり。
「ええ、おかげさまで。ですが、障子を開けてくださいな。こういうくらい部屋にずっといたのでは気がめいります」
「体に障らんか?」
「ええ、ご心配なさらなくて結構。それより早く開けてくださいな」
京介はつかつかと障子のところまでいって開け放った。障子は少し開閉の不自由があったので力任せに思いっきり引っ張らなくてはならなかった。開け放った途端、ぱっと埃が散った。急に部屋が明るくなったで里子は目を細めた。部屋の中には夕暮れ時の落ちた日が差しこんでわずかに橙に染まった。日が当たって埃がきらきらと輝きながら舞っている。
明るくなった部屋を見て端の方に掛け軸があるのに里子は気づいた。もちろん、前々から分かっていたことではあった。が、部屋が明るくなってものが見えやすくなると、そういうものがあったかと分からせてくれる。陽を入れただけでこうも違うものかと思った。
「医者はなんといってたんだね」
京介は開け放った障子の先の縁側にでんと胡坐をかいて庭をみながら聞いた。その光景すらも里子には面白く見えてならない。
「そのことですが・・・・・・」
里子がためらいがちに言ったので良人は急に向き直って険しい顔になった。
「何か悪い病気なのか?」
里子はまたこれだと思って苦笑せずにはいられなかった。いつだったか、風邪を引いたときなどは医者を引っ張ってつれてきた人だ。
だから、里子はゆっくりと子どもに説明するように行った。そうしないと京介は飲み込めなかったかもしれない。
「いえ、そうじゃないんです。ただ・・・子どもができたみたいです」
京介はぽかんと口を開けて里子を見ていた。里子はくすりと笑って恥ずかしそうにしている。庭に風がすっと吹いて、残っていた花弁をすべて持っていってしまった。雪のように白い花弁が夕暮れの陽に染まってきれいだった。一枚だけ縁側に舞い降りて京介の横に座った。
「そ、そうか・・・それはめでたい。いや、めでたいぞ」
京介は笑い出したが、まだ、何かわかっていない感じだ。唐突に切り出されて唖然としている。
里子はそれを見て微笑んでいるだけだった。
京介はひとしきり喜んでみせると女中に命じて酒を持ってこさせた。里子が「でもまだ用心しないと」というと「祝い酒だ」といって、やはり聞かなかった。
女中に酒を用意させている間に京介は小袖に着替えて上機嫌だった。布団もとっくに片付けて里子に座らせる。里子は着物のよじれを少し元に戻した。
酒がくると、とにかく里子に一口ふくませて、自分が飲み始めた。肴は特になかったが、酒に浮かべた桜の花弁が美しい。
京介は「めでたい、めでたい」といって一人、酒をあおった。
「子どもができたのなら思い残すことはないな。しっかりとした男児をうんでくれよ」
京介は顔を朱に染めている。
「あらあなた。まだお若いじゃありませんか」
「いや、俺は思い残すことがないようにせねばといっているのだ」
「たとえば?」
「伝えなければならぬ思いががあるのなら、そうしておかなければならぬ、ということだよ」
「あら、あなた。私というものがありながらどなたか想いを寄せている方がおられるのですか」
里子はそういってわざと、ぷいとしてみせた。
「ば、馬鹿をいいなさい」
里子はそれをみて笑い出す。京介もまた笑った。
「酒を飲みながら話すというのもいいものだな」
「ええ」
京介はほうと息をつき、会話はやんだ。
里子の頬にはぽっと朱がさしてそれが妙に夕日とあっていた。
庭には、なにやらうっそうとした植物らしきものが生えていて我先にと競い合うように伸びていたが、桜だけはどっしりとかまえていて庭の主のようである。他にかえでやら、竜牙草、銀銭花などが繁茂している。京介はまったく手入れをしない。自然体がいいのだの一点張りで、どうにも雑草を刈るなどということはしなかった。二人はそんな庭を眺めながら杯を重ねた。里子の憂鬱はどこかに逃げている。
ことり、と音がして庭に何かが入ってきた。
二人はぱっとそちらの方を向く。なにやら菖蒲の影で動いているものがあった。
「猫か」
京介がそう呟くと影から猫が出てきた。ブチのついた小さな猫だった。猫はとぼとぼ歩くと、手水鉢によじ登って顔を洗ったり、桜の周りをうろついたりしていた。二人はそれを見ていた。尻尾を振りながらちょこちょこ動き回る。それは、愛らしくて奇妙な動きだった。子どももあんなものかなと、里子は想像してみた。
京介は「つまみだそうか」と聞いたけれどぴしゃりと断られた。そうしている内に猫は散々庭を歩き回りどこかに行ってしまった。
「ねえ、あなた。家でも猫かいましょうか。この子がうまれたら。きっと可愛いでしょうよ」
「そうだな。しかし、その前に海にでも行かないか?」
二人はそういってまた庭を眺めた。
最終更新:2012年12月31日 23:26