モータル

2011年10月15日(土)12時28分 - 御伽アリス

 


   【目覚めと救いの章】
 
 僕はそこにあったナイフを手に取った。ナイフは気が付いたらそこにあった。元々僕が持っていたのかもしれないし、誰かが落として行った物なのかもしれないし、たった今、急にどこかから出現したのかもしれない。でもナイフは当たり前のようにそこに存在していた。ナイフには誰かの血液が付いている、などということはなかった、おそらく。どうしてそんなことを思ったのか、僕はそのナイフの曇りのないきらめきが嬉しかった。そしてナイフの感触は僕にそれが現実の物であるということを伝えていた。これは夢ではない。僕は眠ってはいないのだ。
 
 いつの間にか、僕はどこか別の場所にいた。辺りは明るく、静かだった。みんな眠っているのだ。ナイフを握る僕の手は震えていた。僕の中に恐怖があった。死ぬのは怖い。僕は震える自分の手を見てフウ、と息をついた。
「急いだ方が良い」
と明晰夢は言った。僕はうなずいた。

「キャアアアア!」
突然近くで甲高い叫び声が上がった。それも一人や二人ではない、大勢の人の恐怖の叫びだった。みんな僕を見て恐怖に襲われたのだ。あるいはそれは恐怖という言葉では語れないようなものだったかもしれない。恐怖よりももっと深く、より恐ろしいもの……。まるで、世界そのものが叫んでいるような声。そんな気がするし、そうであってほしい気もする。なんとなく。
 人々の感情は僕のところへ感染してきた。僕は怖かった。いつの間にかナイフは僕の手から消えていた。急に心配になった。
「どこだ……どこに!」
ナイフはすぐに見つかった。ナイフには黒っぽい血液と、肉片のような物がこびりついていた。さっきまでのきらめきはもう残っていなかった。その濁りを見て僕はまた怖くなった。もしかして、さっきまでのきらめきは幻に過ぎなくて、ナイフには元から血が付いていたのではないか?
 
 誰が刺されたのかはわかっていた。体からはドクドクと熱が流れ出て、僕は寒かった。何だか夢のようだった。でも夢ではない。眠ってはいけない。
「僕は、死にたくない……」
ポツリとつぶやくと、隣で明晰夢の声がした。
「そう。それでいい。さあ、急がないと」
僕は彼を見てうなずいた。時間がない。早くしないと何かとてつもなく恐ろしく、この世に起こってはいけない何かが起こる。そう思った。刺さったナイフが抜かれた穴を見て、僕は腹を押さえた。気分が悪かったが、吐いてはいけないと思った。吐いてしまえば楽になれるかもしれなかったけれど、大事なものまで僕の中から消えてしまう気がした。
「あと何回?」
と訊くと、明晰夢は答えた。
「あと20回だね」
あと20回も、と僕は思った。
「さあ、メメント・モリの誕生は近いよ」
ククク、と彼は笑ったようだった。でも僕には少し泣いているようにも見えた。その笑ったような、泣いたような仕種を見て、またしても僕はそこに僕の弟を見た気がした。


   【夢と予感の章】

 夢を見た。怖い夢だった。
 テレビはどこか遠くの場所で起きた事故のニュースを映していた。僕はここから逃げなければ、と思った。理由はわからなかった。ただ、何かとても悪いことが起きるのだ。それだけは確かだと思ったのだ。
 
 通りに出ると、父さんがいた。僕は危ないから逃げなくてはならない、と必死になって主張した。しかし父さんは僕の焦りに気付かないようで、呑気に言った。
「どうしたダイ。あ、そうだ。今ここに穴を掘っているんだ、お前も手伝ってくれよ」
父さんはシャベルを僕に差し出した。穴は既に1.5メートルほどの深さまで掘られていた。僕は苛立った。苛立ちは恐怖まで連れて来た。父さんはいったい何を言っているのだ? 僕は身震いした。
「父さん、早く逃げないとなんだ。穴なんか掘ってる場合じゃないんだ!」
僕が焦って言うと、父さんはいきなり怒り出した。
「いいからすぐに掘れ!」
僕は仕方なく穴を掘ることにした。穴は僕の背丈ほどの深さ(僕は結構大柄な方だ)になった。どことなく恐ろしい感じのする穴だった。浅くはないが深すぎることもない穴。僕の身体がちょうど入るくらいの穴がぽっかりと口を開けていた。この穴に落ちたらどうなるのだろう、とふと思った。
 すると穴の底の土が動いた。僕は驚いて父さんの方を振り返った。しかし、またもや驚いたことに、父さんは地面に横になっていびきをかきながら眠っていたのだ。さっきまではいびきの音など聞こえていなかったのに。
 
 その時、穴から何かが這い出て来た。それはなんと僕の母さんだった。でも僕は次々に起こる奇妙なことのせいでパニックに近い状態で、穴から母さんが出て来たことに疑問を抱く余裕も無かった。
「母さん、すぐに逃げなきゃならないんだ。でも父さんは眠ってしまったんだ」
母さんは僕に気が付いて、服や髪に付いた土を払いながら笑った。
「ダイ、母さんねぇ、あなたの父さんとは別れることにしたのよ。別の男の人と結婚し直すの、ふふ」
僕は母さんの言うことがいまいち理解できなかった。頭が混乱してくる。母さんが父さんとは別の男の人と結婚……? どうしてそれをそんなに嬉しそうに母さんは話すのだろうか。
「それより、何かとても悪いことが起こるんだ。早く逃げて!」
僕が頼み込むと、母さんはバタリとそこに倒れ込んだ。近寄ってみると、微かに寝息を立てていた。母さんは一瞬のうちに眠りに落ちたのだ。

 明らかに何かがおかしかった。どうして父さんも母さんも僕の話を聞こうとせず、この危機的状況でぐっすりと眠ってしまったのか。僕は怖くなった。誰か、僕を助けてくれる人を探さなければならなかった。この迫り来る不吉に気付いている人はいないのか。焦りは高まるばかりだった。脂汗を拭い、唾を飲み込んだ。
 周りを見渡してみると、さっきまで通りを歩いていた人たちは、みんな僕の気付かないうちに地面に横になっていた。僕は眠っている街の人たちの肩を叩いて回った。
 起きてください、早く逃げなくてはなりません。寝ている場合ではないんです。もしもし、どうしたって言うんですか。早くしないと、得体の知れない何か、恐ろしいものがやって来るんです。誰か、誰か僕の話を聞いてください……。

 口の中が乾いた。そのせいだろうか、気分が悪かった。掌は汗で滑ってきた。息が切れた。僕は両手を膝に当てて、肩で息をした。心臓が痛いくらいにうごめいていた。
「だ、大丈夫ですか?」
と、いきなり背後から声が聞こえた。そして何かが頬から耳にかけて触れた。その触れた物は冷たかった。一瞬息が止まったような気がした。体が素早く反応して振り返ると、そこには髪の長い女がいた。女の手が僕の方へと突き出されていて、おそらくさっき僕の頬に触れたのはこの女の手だったのだと思った。僕は女の手を凝視した。それはすごく白くて綺麗な、形の良い手だった。

 数秒間、口を開けたまま何も言えなかった僕は、正気を取り戻し、女に話しかけた。
「良かった、あなたは眠っていないんですね」
しかし女の顔を見た僕はハッと息を呑んだ。髪が長くて顔にかかっているので少し見ただけでは気が付かなかったが、女の顔はおかしかった。女には両目が、無かったのだ。目玉の入るべき二つの穴に、目玉は無く、ただ黒い穴が開いているだけだ。
「あ、あ……!」
と声を漏らすことしかできなかった。女は顔を僕の方に向けて、僕の顔を覗き込むようにして言った。目玉は無いのに、しっかりと僕のことを睨み付けているかのようだった。
「あの、何が起きてるんです? 私、目が見えなくて……。えっと」
目玉の無い女の口が動くのは、とても不気味だった。女はよろよろと具合が悪そうにしていて、そのせいで余計に気味が悪かった。僕は頬から耳のあたりに熱を感じて思わず手で押さえた。さっき女の手が触れたところだった。女の手が顔に触れるのを見たわけではないので、もしかすると女は僕に触れてはいないのかもしれないが、僕には女が触れたとしか思えなかった。頬にも耳にも、痛みがあるわけでもないし、血が出ているわけでもなかった。それでも確かにそこに熱を感じたのだった。
「ダイ、もう、私……」
と女は弱々しくつぶやいて、ふらふらと地面に倒れ込んだ。僕はぎょっとした。女は、僕に向かってダイ、と名前を呼んだのだ。
「あ、ちょっと、あなた」
と僕が言ったときには、女はもう動きを止めていた。
「し、しっかりしてください!」
僕の呼びかけに女は答えなかった。もう眠っていたのだ。僕の耳にはさっき女が僕の名を呼んだ時の声がまとわりついて離れなかった。女は僕のことを知っていた。僕は急にさっきまで聞いていた女の声が、ずっと昔から知っている声だったように思えてきた。でも目玉の無い女など知らないし、元々は目があったとしても、それがなくなった今では女の顔を見ても誰なのかわからない。そんな女のことなど、僕は知らないし知らなかったのだと思い込むことにした。

 そして僕は女のところから逃げ出した。眠ってはいけない。眠ってはいけない。誰か目覚めた人間を探さなければ。そう思った。
 でもどこにも眠っていない人なんていなかった。僕だけが眠らずに目覚めている。怖かった。街の中で一人、僕だけが起きている。
「死んでいるみたいだ……」
眠る人々を見て僕はそう思った。死んだのは街の人たちだろうか、あるいは僕の方かもしれない。僕はもう人を探すのをやめた。多分、僕の方が間違っているんだ。だって街の人みんなが眠っているんだから。僕一人の方が正解のはずがないと思った。

 何だか僕は急に眠くなった。瞼が落ちて来る。でも眠ってしまうわけにはいかなかった。訳もわからず僕を突き動かす何かがあった。たとえ僕だけでも、ここから逃げなければいけない。迫り来る危険に気付いているのはおそらく僕だけだった。不吉な運命が近付いているのだ。それに気付いていながら、ここで眠ってしまってはいけない。もしかして、これは僕に対して用意された試練のようなものなんじゃないだろうか。僕は眠らない人間として選ばれた。そしてどうにかして街の人々を眠りから目覚めさせなくてはならない。そうだ、そうであれば怖がる必要などない。何か方法を探すのだ。

 次の瞬間、僕は地面に倒れ込んだ。鼻をぶつけそうになった。足に力が入らなかった。そして強い眠気が襲ってきた。それは今までに僕が経験したことのないような、抗いようのない暴力的な眠気だった。僕は目を閉じた。
 すぐに誰かの声がした。すぐだった、と思う。僕はハッとして目を開けた。今の声は……。その声はなぜか僕を恐怖させた。僕の脳の奥深くに囁きかけて、身の危険を感じさせるような声だった。ふと気付くと、なんだか街はまぶしかった。一度目を閉じたからそう感じたのかもしれないけれど、街が光り輝いているように見えたのだ。その光は暖かくて見る者に希望を抱かせるような類のものではなかった。どちらかと言えば、人を苛立たせるまぶしさだ。安らかな気分を乱し、駆り立てるような光だ。僕はまたぞっとした。寒気が背中を走った。

 どこかから不気味な、笑うような声が聞こえた。
「クク、クク……」
周りを見渡すと、さっきまで眠っていた人々が次々に体を起こし始めていた。奇妙な光と声が、人々を目覚めさせていた。ああ、そうか。僕はどうやら間違っていたようだ。何もおかしなことなど起きてはいなかったんだ。街の人々がみんな眠っていただけだ。それが偶然同じ時であっただけだ。危険など迫っていなかった。悪いことなど起きていないし、起ころうともしていないのだ。僕がどうかしていて、臆病になっていただけだ。

 突然、僕の目の前に人影が現れた。強すぎる光が逆光となっていて、それが誰かわからなかった。そこに立っている人の顔が見えなかった。影は真っ黒く、そこだけが光を切り取られたような、人の形をした穴に見えた。僕は何か嫌な予感がした。そしてその影は言った。
「死ね、死んでしまえ……!」
それはさっきの不気味な声だった。僕はいきなり街の建物が音を立てて壊れていくのを見た。僕の中で焦りのようなものが激しく動き出した。何がどうなっているんだ、やはり、やはり僕の感じていた危険は本当だった、恐ろしいことが起き始めている、逃げなくてはならない! 僕の足は絡まり、もつれた。

 どこかからテレビのニュースが聞こえていた。
「高速道路で合計20人もの死傷者を出す大惨事が起きました。大型トレーラーや乗用車など合わせて10台の車が衝突する大事故でした。救助された女性の話では、乗用車を運転していた、女性の夫がいきなり眠ってしまったのだということです。警察は居眠り運転が原因とみて調査しています。なお、女性も肩の骨を折る重傷で――」


   【恐怖と愛の章】

 いつもの2時間睡眠から目覚めた朝、僕は20歳になっていた……。
 家の中に何か異様な臭いが漂っていた。僕は軽い頭痛を感じながらベッドから這い出て、部屋を出た。家の中はひっそりと静まり返っていた。まだ誰も起きていないのだろうか、と思いながら廊下に立つと、隣の部屋のドアが開いていることに気付いた。その部屋の入口に近付くと、臭いが強くなった。おそるおそる中をのぞいて見ると、そこに誰かが倒れていた。

 その朝、僕の弟は死んだ。絨毯は血で真っ赤になっていた。弟は腹にナイフが刺さった状態であおむけに倒れていた。僕は叫び声を上げようと思った。でも声はかれてしまっていて少しも出なかった。僕はとにかく父さんと母さんに弟が死んだことを話さなければ、と思った。でもどうしたことか僕の足は動こうとせず、僕はその場から離れることができなかった。僕は弟に近付いて、その死体をよく見てみた。大量の血は、すでに乾いていたけれど、なんだか嫌な臭いがした。いつからこの状態なんだろう。前の日までは弟は生きていた。確かに生きていたし、僕と軽く話もした。今日の朝までの間に死んだとして、血とはそんなに早く乾くものなのだろうか。

 よく見ると、弟の表情は、特に苦しそうでもなかった。息はしていないようだけれど、何だか僕には弟が死んでいるようには見えなかった。刺さっているナイフは実はおもちゃで、血のように見える染みはただの赤い水、という悪戯なんじゃないかと思った。僕は姿勢を低くして、弟の腹に刺さったナイフに手を伸ばした。ナイフが本物で、本当に弟を殺した物なのか確かめたかった。僕はナイフの柄をつかんだ。

 その時、部屋の中が一瞬まぶしい光に包まれた、気がした。僕は反射的に目をつぶり、光が弱くなったのを感じてからゆっくりと目を開けた。すると、さっきまでそこにあったはずの弟の死体がなくなっていた。血の染みも無かった。ただ、僕の手にはさっきのナイフが握られていた。銀色のナイフの刃は、きらりと透明に光った。
「どうして……」
僕は恐怖に震えあがった。弟はどこに消えたのか。
「よく眠れたかい?」
と突然声がした。それは弟の声だった。視線を上げると、僕の前に15、6歳くらいの少年が立っていた。僕は思わず弟の名をつぶやいた。
「それは君の弟の名前だ。君の……死んだ弟の。ぼくの名前じゃない。ぼくは、『明晰夢』って名前だよ」
「え?」
弟はやはり死んだのか? でも僕の目の前に立っているのは確かに弟に見えた。
「弟は、どこに?」
と尋ねると、明晰夢と名乗る少年が答えた。
「死体のことを言ってるなら、ご覧の通り、消えた」
消えた、だって? なぜ死体が消えるんだ。僕はその言葉が何か別のことを表す比喩のように聞こえた。僕が黙っていると、明晰夢はさらに続けた。
「恐怖によって消されたんだ。いや、恐怖は本人が感じるものだから、『恐因』によって、かな」
「きょういん……?」
「恐怖を感じる要因のことをそう呼んでるんだよ。要因があっても実は人間の心の方に条件がそろっていないと恐怖を感じはしないんだ。まあそんなことはどうでも良いんだけど」
僕にとっては全然どうでも良くない。弟が死んだんだから。僕は怖くなった。昔から臆病な性格だったことは自分でもわかっていた。図体ばかりでかくて、性格が弱虫だからよく友達にからかわれたものだ。

 僕は何かを話そうとした。いったい何が起きているのかわからなかった。僕の目の前にいる少年は誰なのか。でも明晰夢は僕に話す時間を与えてくれなかった。
「今、大きな危険が迫っている。このままだと、とても悪いことが次々と起こるだろう。まずはその目で確かめることだね。これから起ころうとしている不吉の前兆を」
そう言うと明晰夢は、僕の前から消え去った。空気に溶けていくように、ふわりと見えなくなってしまったのだ。手に持っていたナイフもいつの間にか消えていた。

 僕は部屋を出た。妙な静けさの中、掌に汗を感じながら僕は家のリビングに向かった。リビングには父さんや母さん、帰省している3歳年上の僕の姉さんの姿は無かった。壁にかかったデジタル時計を見ると、5:05の文字が点滅していた。すでに朝日が明るく、そんなに早い時間のはずはなかった。壊れたのかな、と僕は思った。

 3人とも、どこに行ったのだろうと思って家中を探してみたけれど、家の中には誰もいなかった。庭に出てみると、僕は井戸の蓋が開いていることに気付いた。それはもう使われていない井戸だった。昔は使っていたらしいけれど、もう水は涸れていた。井戸の周りの土には、誰かの足跡が残っていた。まさかと思っておそるおそる井戸の穴の中を覗き込んでみた。中は暗すぎて、何も見えなかった。おーい、と僕が叫んでみると、反響だけが戻って来た。どうやら中には誰もいないらしかった。
 井戸の中は全てを飲み込んでしまう恐ろしく深い闇だった。少なくとも生きた人間はいない、と僕は思った。井戸の縁に、黒い蟻が列を成して登って来ていた。蟻たちは何か必死になって穴の中から逃げ出しているように見えた。何だよ蟻か、と僕は思った。なぜか僕は残念な気持ちになった。

 リビングに戻ると、食事用のテーブルの上に紙が置いてあることに気付いた。そこには黒く小さい字で「さよなら、ごめんなさい 母」と書いてあった。訳がわからなかった。さよなら、ということは母さんは家を出て行ったのだろうか。僕は何だかとても嫌な感覚がした。弟が死んで、同時に母さんが家を出て行ったということか。そして父さんも姉さんもいなくなった。明晰夢という少年は、これからとても悪いことが起こる、と言っていた。確かに悪いことが起こっていた。そして明晰夢が言うように、まだ悪いことは起こるのではないか、と僕は思った。明晰夢の予言は哀しいくらい説得力があった。

 テーブルの紙の下には、別の紙があった。そちらの紙の方には、細かい字が長々と書かれていた。母さんが書いた手紙だった。
『  ダ へ
 急に出て行ったりして、驚 て るでしょうね。ごめんなさ 。謝って許されることでは りませんが、やはり先に謝っておきます。 なたが20歳になる日に出て行こうと私は決めて ました。 なたが大人になるまでは、やはり私には なたを育てる責任が ると思ったからです。 え、親として、途中で責任を放棄することは許されな ことでしょうね。本当は なたの弟が20歳になるまでは我慢するつもりでした。でも私はもう耐えられな のです。もうぼろぼろに疲れてしまったんです。この20年近く、私はずっと我慢してきたのです。ごめんなさ 、こんなことを書 ても なたには何の事だかさっぱりだと思 ます。それは当然のことです。ずっと私は隠してきたからです。この家に るみんなが知らな ことです。ずっと黙ってきましたが、やはり今になっては伝えておかなければならな と思 、これを書きます。 なたは、実は私の子では っても父さんの子供ではな のです。つまり、 なたは私とよその男の人との間に生まれた子なのです。生まれてしまったのです。こんなことを言うとひど と感じるでしょうが、 なたは望まれて生まれてきた子では りません。ごめんなさ 、私はそんなひど 母なのです。 なただけではなく、 なたの姉さんと弟も同じようなものです。 なたの姉さんは、昔父さんが付き合って た人との間の子です。父さんが付き合って た人が、子供はそちらで面倒を見ろ、と言ってきたのです。その女の人が言うには、 なたの姉さんは生まれてくるはずではなかった子、だそうです。私と父さんは、正直に言って なたの姉さんをどこかに捨ててしま たくなった時も りました。彼女に暴力的なことをした時も りました。真っ暗な物置に何日も閉じ込めたことも ります。それから なたの弟は、父さんの親戚の人から引き取った子です。私たちは なたの弟を受け入れたと言うよりは、世話するよう無理矢理に押し付けられたと う感じでした。その親戚の人に返そうとしたことは何度か りましたが、その度に断られました。向こうは話を聞こうともしな のです。私たちは普通の家族ではな のです。もはや家族ですらな のかもしれません。こんなことになるなんて、本当に私は悪 親です。支え合うはずだった父さんとも、私はうまく かなくなりました。もう私は出て行かなくては けません。これから なたは なたの道を なたのやり方で進んでくださ 。私のような過ちを、どうか犯さな でくださ 。どうか幸せに。さようなら、本当にごめんなさ 。   母』


   【穴と始まりの章】

 僕はテーブルの前に立ったまま、手紙をもう一度読んだ。母さんの手紙は僕に宛てられて書かれているようだった。でも手紙の文章は何だかおかしかった。ところどころが穴のように抜けている。内容もそうだけれど、書き方もなんとなく不気味な手紙だと思った。悪い夢を見ている気がした。僕は望まれて生まれてきた子ではない……。今まで普通に育てられてきたつもりが、そうではなかったのか。手紙を読み終わってからしばらくして、僕は急に哀しくなった。椅子に座って僕は少しの間泣いた。

 ふと、外の方から音がした気がして僕は立ち上がった。庭の方ではない。僕は玄関の外の道路へ出た。道路には穴が開いていた。それはマンホールだった。そしてその口を開けたマンホールの中から、何やらごそごそと音がしていた。何かがいるのかもしれない。僕は穴の上に立った。穴の中は暗くて、何が潜んでいるのか全くわからなかった。息をひそめてぽっかりと空いた穴を見つめていると、いきなりそこから人影が飛び出て来た。あっ、と声を上げて飛び退いて、僕はその人を見た。それは父さんだった。僕は少し安心した。父さんはちゃんといたのだ。でも僕は手紙を思い出した。父さんは、僕の生みの親ではない。父さんはあの手紙を読んだのだろうか。だとしたら父さんは僕が自分の実の息子ではないと知ったことになる。そんな僕を父さんはどういう風に見るのだろう。

 父さんは母さんを探しに出たのだろうか。でもマンホールの中を探すはずはなかった。
「父さん、母さんがいなくなったんだ。それに弟が、し、死んで……! 何が何だか……」
父さんは僕の方を見ただけで何も言わなかった。なんだかその視線は怖かった。
「僕たちキョウダイのこと、母さんの手紙を読んで全部知った。でも、今はとにかく母さんを探さないと!」
僕は叫ぶように、声を絞り出すように言った。父さんはしばらく黙ったままだったけど、口を開いた。
「あ、な、を、見つけないと」
僕は最初父さんが何と言ったのかわからなかった。父さんの声はかすれて細く、聞き取りづらかった。
「穴を……探さないとなんだ」
と父さんはまた言った。僕はぞっとして鳥肌が立った。何を言っているんだ、父さんは? 様子がおかしかった。父さんは狂ったように、何かにとりつかれたかのように、同じような言葉を発していた。穴を探す、と。
「父さんっ!」
「そうか、穴を自分で掘れば良いのか……」
しっかりしろ、と言おうとした時、突然父さんはバタリと地面に倒れ込んだ。しゃがみ込んでその顔を見ると、父さんは眠っているとわかった。一瞬で眠りに落ちたのだった。僕は全く訳がわからず、怖くなった。
「始まったよ」
と耳元で声がした。


   【名前と闇の章】

 明晰夢だった。
「何が、始まったんだ」
と僕が言いながら振り返ると、弟の姿をした弟ではない少年が答えた。
「恐因による影響だよ。さてところで、こうなった今からは、君のことは『白昼夢』と呼ぶことにしよう」
「白昼夢?」
「そう、それが名前だ。もう君は泉下ダイではないんだ」
明晰夢は嬉しそうに言った。僕には少年の言葉の意味がよくわからなかった。僕が黙っていると明晰夢はクク、と笑った。
「もう一度言うけれどね、白昼夢。このままだととても悪いことが起きる。それはこの街だけじゃない。この国の中だけでもない。世界全体に影響が出るだろう。大きな恐因によって……。しかもこの危機に気付いているのはたった一人しかいない」
明晰夢は首を少し傾げて僕の方を見た。その目は笑っているようでもあり、また憐れんでいるようでもあった。
「どうしてなんだ……」
明晰夢はまたククク、と肩を震わせた。
「さぁね」

 そして明晰夢はいきなり姿を消した。今のところ何かを知っていそうなのはあの奇妙な少年だけなのに、明晰夢はすぐにいなくなる。僕の訊きたいことなど聞いてもくれなかった。
 道の脇で物音がした。音がした方を見ると、そこにはまた人が倒れていた。近寄って見てみると、その人も父さんと同じく眠っていた。離れたところで別の音が聞こえた。そこに倒れた人もまた、眠っていた。弟は死んだ。父さんは眠り込み、母さんは家を出た。姉さんもどこかへ消えた。僕は恐ろしくなって、その場を離れた。どこに行くあても無いけれど、そこに立ち止っていてはなんとなく危険な気がした。明晰夢の言う、とても悪いことから逃げなければならないと思ったのかもしれない。

 街は明るかった。歩行者用信号機の電子音が軽快だった。大通りに出た僕は、唖然とした。地面に倒れた人々。ビルに突っ込んだ車。それに車同士がぶつかってグチャっとつぶれている光景。僕は一瞬めまいがして視界が狭くなり、耳が詰まって音が聞こえづらくなり、そして体がふらつくような感覚に襲われた。どこかで救急車のサイレンの音が聞こえた気がした。運ばれるのはひょっとしたら僕かもしれないとふと思ったけれど、救急車は僕のもとには来なかった。

 これだけの人たちが、いっせいに眠ったというのか……。僕は恐怖に震え、誰かを探さなければいけないと思った。まだ眠っていない誰かを。僕は通りにあるいろんな店に入ってみた。しかしどこの店も眠っている人ばかりだった。明晰夢が言った言葉を思い出した。「この危機に気付いているのはたった一人」……。僕はこの街で、いや世界で、たった一人になってしまったのだろうか。

 その時、たまたま見上げていたビルの窓の向こうで、何かが動いた気がした。よく見ると、その部屋のカーテンが揺れていた。誰かがカーテンを閉めたに違いなかった。眠った街で、動く物はほとんど無かったから、とにかく僕はその窓のある部屋を目指すことにした。
 ビルの中はホテルだった。ロビーを見た感じ、高級そうな雰囲気だった。みんな眠っていて静まり返ったロビーから、エレベーターで上を目指した。僕は5階でエレベーターを降りた。外から見た窓の位置だけで、中からその部屋を探すのは難しかった。うろ覚えの記憶を頼りに歩き続け、大体の見当はつけたけれど、どの部屋なのかはわからなかった。とにかく、僕はその辺りの部屋のドアを片っ端から開けてみることにした。まず501号室のドアをノックし、インターホンを鳴らした。中からは何の反応も無い。僕はドアの取っ手をつかみ、押してみたがビクともしなかった。念のために引いてみても同じことだった。502号室も反応はなく、ドアは開かなかった。503号室はインターホンを鳴らさず、ノックも無しに開けようとしたがやはりダメだった。諦めずに505号室のドアを押したとき、ドアはスッと音もなく開いた。

 部屋の中は真っ暗だった。廊下から入る弱い灯りは無残にも部屋の中の闇にかき消されていた。その闇は井戸やマンホールの闇とよく似ていた。僕は部屋の中を進んで照明のスイッチを探した。手探りで探すスイッチはなかなか見つけられなかった。背後で、開けておいたドアがガチャリと閉まった。この部屋の中の闇が溶けて廊下に流れ出し、弱々しい光を消し去ってしまわないように、何かの意思が働いてドアを閉めたようにも思えた。部屋は隅から隅まで真っ暗な空間へと戻った。僕はあと一歩足を踏み出すと、深い闇の中へ真っ逆さまに落ちていくのではないかと想像した。井戸の底へ沈むように。マンホールの中へ引きずり込まれるように。

 誰かの吐息が聞こえた。するとその瞬間、パッと部屋が明るくなった。僕の指が照明のスイッチに触れたのだ。僕はまぶしさに一瞬目を閉じ、徐々に両目を開けた。部屋は広く、テーブルが窓際に1つ置かれていた。大きなテレビの画面が黒く闇を映していた。壁にはなんだか訳のわからない藍色の絵が額縁に入れられて飾ってあった。ベッドは2つあったが、そのうちの1つには誰もいなかった。もう片方のベッドの上には、女と男が横たわっていた。2人はほとんど何も身に付けない格好で、抱き合うようにして眠っていた。女と男は静かに寝息を立てていた。遅かった、と僕は思って肩を落とした。そしてもう一度2人の、いや女の顔を見た僕は驚愕に息ができなくなった。そこで眠る女は、僕の母さんだった。母さんの表情は安らかに見えたけれど、僕にはそれがなんだか腹立たしかった。男の方は、見たこともない顔だった。ハンサムな顔つきだけれど、少し見る角度が変わると醜くも思えた。

 母さんは家を捨てて、この男と一緒になった、ということだった。それで話のつじつまは合っていた。つじつまは合うけれど……。僕は苛立たしく、哀しく、そして恐ろしくて、逃げるようにして部屋を後にした。505号室のドアには、いつの間にか「起こさないでください」と書かれた札がかかっていた。僕はホテルを出ることにした。


   【瞳と熱の章】

 もう頼れる人は姉さんだけだったが、姉さんがどこへ行ったのかは全くわからなかった。もしかすると、僕が外に出ている間に姉さんは家に戻ったかもしれないと思い、僕はひとまず家に帰った。

 家には誰もいなかった。僕はひどく喉が渇いていたので、台所で水を飲んだ。腹は全く空いていなかったけれど、何か食べておこうと思って冷蔵庫を開けた。すぐに食べられそうな物はパックに残った、ちくわぐらいだった。僕は冷蔵庫の扉を閉めて、菓子棚を覗いた。そこにはドーナツが1つあった。でもそれにも手を伸ばさず、僕は再び冷蔵庫の前まで来てしゃがみ、冷凍庫を開けた。棒付きのアイスクリームがあったので僕はそれを袋から出して食べた。腹が膨れる物ではなかったけれど、元々腹が空いていたわけではないし、アイスの冷たさが僕を少しだけ冷静にしてくれた気もした。僕は自分がまだ寝巻のスウェット姿であることに気が付いて、適当にTシャツとジーンズに着替えた。

 突然に電話の音が鳴り響き、僕の心臓が軽く飛び上がった。リビングにある家の電話だ。もしかしたら姉さんからかもしれないと思い、僕は受話器に飛びついた。
「もしもし……?」
「あ、ダイ? 良かった、やっと電話つながった」
やはりその声は姉さんだった。
「姉さん、今どこにいるの!」
「うちからちょっと行ったところのトンネルの中。散歩してたらなんか急にトンネルの電気消えちゃって、なんも見えなくなっててさ、大変なんだよ」
「停電? 非常電源とか無いの?」
「みたい。悪いけど懐中電灯持って迎えに来てよ。場所わかるでしょ?」
トンネルの場所は知っていた。
「でも、壁に手をついて歩いてれば外に出られるでしょ?」
「それがさ、ザ、いくら進んでも出られなくて、ザザ、変なんだよね、ザ、ザザザ――」
電話は雑音に飲まれて切れた。姉さんは多分、携帯電話からかけていた。電波が届きにくいらしかった。

 出られない、というのはどういうことだろう。トンネルはそれほど長くはないし、確か入り口から出口が見えたはずだ。電気が消えたって出口の光を目指せば、出られないことなどあるはずがなかった。少し落ち着いた僕の胸がまたざわついた。冷たい汗が首筋を伝った。何かあって出口が塞がってしまったのだろうか。とにかく僕は懐中電灯を棚から取り出して家を飛び出した。今世間で起きていることを姉さんは知っているかわからなかったが、まだ姉さんは眠っていなかった。今の段階で僕と話をすることができる唯一の人だった。その姉さんも、早くしなければ手遅れになるのでは、という不吉な予感が湧いてきて、僕はとにかくトンネルへ急いだ。

 街中で、やはり人々は眠っていた。できるだけそれらの人々を見ないようにして走った。そして僕はトンネルの入り口までたどり着いた。とりあえずトンネルが塞がったわけではないことはわかった。僕は息を切らして、膝に手をついた。辺りには人の姿は無いようだった。トンネルからザアッと風が吹きつけた。まるでトンネルが、外から入って来る者を拒んでいるように感じられた。僕は拳を握りしめて中へと進んだ。

 トンネルの中には、ちゃんと電気がついていた。視界もはっきりしているし、姉さんの言っていたような問題は無いようだった。僕は姉さんを探した。トンネルの中のどこかにいるはずだった。しかし、姉さんの姿はトンネルのどこにも無かった。嫌な予感がした。まさかもう遅かったのだろうか。でも眠ったのだとしたら地面に倒れている姉さんがいるはずだった。いや、こんな信じられないことが起こっているのだから、もう何が起きてもおかしくないのかもしれなかった。

 僕は入ったのとは逆の方からトンネルを出た。すると、僕の方に背を向けて立っている髪の長い女に気が付いた。一目でそれが誰かわかった。
「姉さん!」
僕の声に気付いた姉さんはこちらを振り返った。確かに姉さんだった。
「ダイ?」
僕はホッと息をついた。良かった、姉さんは眠っていなかった……。
「ねえ、早く懐中電灯つけてよ。何も見えないでしょ。というかダイ、こんな暗い中でよく私を見つけられたね」
 え、と僕は思わず声を漏らした。辺りは日の光が燦々と降り注いでいて明るかった。僕は姉さんの目を見た。姉さんの言っていることの意味を測ろうとしたのだ。しかし僕はその目を見て驚愕することになった。姉さんの目は虚ろだった。僕は掌を姉さんの目の前にかざして、何度か横に振ってみた。
「早くつけてよ、まさか持って来るの忘れたなんて言わないわよね?」
本当に見えていないのか……? 姉さんの目を近くで覗き込んでみると、瞳孔が開いていて、眼球は全く動いていなかった。その二つの黒い瞳は、ただ奥深く続く、濁った底無しの穴のように思えた。
「姉さん……」
僕は開いた口を閉じた。姉さんはもしかして目が見えなくなったのか、などと尋ねたら、姉さんはどう思うのだろう。しかし姉さんは僕が黙り込んだことで何かを察したのか、声を低くして言った。
「ねえ、もしかしてダイには私が見えるけれど、私にはダイが見えていないんじゃない? ……変だとは思ったんだよ、だってケータイ開いた時に待ち受け画面が光らなかったんだから。ボタンの感触だけで家の番号を押したのよ。ねえ、それっておかしいよね?」
「そ、それは」
僕は何か言い訳を言えないかと考えたけれど、何も思いつかなかった。
「私は失明したということなのね?」
ここまで言われたらもう嘘はつけなかった。僕はそうだと思う、と言った。姉さんは、そうなのか、とだけつぶやいてうっ、うぅっ、と声を漏らし始めた。2つの黒い穴からは涙は溢れていなかった。涸れた井戸から水は汲めない、なんてことを思った。
「どうして、母さん、父さん……いやぁあああ!」
僕の目の前で、姉さんは地面に膝をつき、叫びだした。
「姉さん、大丈夫、落ち着いて!」
姉さんは長い髪をぐしゃぐしゃとかき乱し、嗚咽を漏らした。僕は急にあの手紙を思い出してハッとした。姉さんは父さんの子で、僕は母さんの子だった。僕たちは本当の家族ではなかったのだ。
「ダイ……た、す、けて、こ、わい、の」
姉さんはサッと立ち上がって僕の腕をつかんだ。その力の強さに僕は驚き、怖いと思った。
「放せっ!」
僕は思わず姉さんの手を振りほどいてしまった。彼女の手が僕から離れた瞬間、振りほどかれた姉さんの手が、僕の頬と耳に当たった。
「あっ……」
しまったと思った。手を振り払うつもりなんて無かった。僕が謝ろうとした時、姉さんは再び膝から地面に崩れ落ちた。
「もう、私……」
慌てて手を差し伸べた直後、姉さんはアスファルトにドサリと倒れ込んだ。
「姉さん、しっかり!」
けれど、もう既に……。目を閉じて寝息を立て始めた姉さんを見ながら、僕は頬と耳に熱を感じた。そこを手で触ってみたけれど、血は出ていなかった。痛みも無かった。ただ熱いだけだった。僕はまた恐怖感に囚われた。

 トンネルの口が僕を飲み込もうと迫って来るように感じた。嫌だ、あの穴に入ってはいけない。僕は姉さんを置いてその場から逃げ出した。何か、ひどく悪いことが起こる。早く逃げなければならなかった。その時、走る僕の耳に少年の声が聞こえた。
「クク、わかっただろう? 悪いことが、起こるんだ」


   【災いと選択の章】

「走ったって逃げられはしないよ」
と明晰夢は言った。僕の足は止まった。
「逃げられない?」
「そう、君は白昼夢なんだからね」
「じゃあ僕もいずれは……」
「君は眠らないだろう、白昼夢の君だけは」
明晰夢はニヤッと笑った。僕は肩を落とした。どうして、僕だけが……。
「今君はどんな気持ち?」
不意に明晰夢は僕に質問した。どんな気持ち、と言われたって何と答えたら良いのかわからなかった。怒りか、哀しみか、驚きか、戸惑いか、孤独か、不安か、不満か、それともただの虚しさか、信じられない気持ちか。僕はただ下を向いて首を横に振った。
「じゃあ訊き方を変えよう。君は怖いかい? 今起きている異変と、これから起こる不吉に対して、恐怖の感情を抱くか?」
最初、僕は否定しようかと思った。明晰夢は僕をからかっているのだと思った。でも、僕が話をできるのはもう、神出鬼没のこの少年だけだったから、素直に話そうと決めた。
「そうだ、僕は怖いんだ」
明晰夢はククク、と震えた。
「世界の人々はみんな眠ってしまった。どうしてだろうねえ」
そんな事は僕にわかるはずがなかった。明晰夢は僕からその答えを期待してはいなかったようですぐにまた口を開いた。
「それは人々が『目覚めて』いないからだよ。わかるかい?」
そんな事は当たり前のことじゃないか、と思ったけれど、僕は黙って首を横に振った。
「みんな感じていないんだ。感じていてもその感情を見て見ぬふりして捨ててしまう。なぜか。疲れるからだ。感情に縛られて身動きできなくなるのが苦しいからだ。それで忘れることにしたんだ。眠ってしまうことで全てを時間が解決してくれることを望んでいる。でも、時間は何も解決してくれないんだ。過去の哀しみを慰めることはできても、これから起こる災禍を変えられはしない。むしろその時間によって災いはもたらされるとも言えるんだから」
明晰夢の目は真剣だった。その目は僕に何か大事なことを訴えかけている気がした。
「いいかい、白昼夢。本当に恐ろしいのは、何も恐れずに生きることだ」
僕はその言葉に、ゆっくりと、うなずいた。明晰夢も満足そうにうなずき返してきた。
「これまでにも言ってきたことだけれど、あえて言おう。全世界が眠りに落ちた今、悪いことが、とてつもなく大きな恐因が襲いかかるだろう。それに気付いているのはただ1人。人々を救えるのもたった1人しかいない」
「僕が……みんなを救う?」
臆病者の僕が誰かを救うことができるのだろうか。目の前で姉さんを助けられなかった僕が、世界の人々を助けられるのか。

 と、その時明晰夢が何かに反応した。音がする。何かが遠くの方でゴオーと鳴っているのだ。それはこちらに向かって近づいて来ていた。これは……。
「伏せるんだっ!」
明晰夢が突然恐い顔で叫んだ。次の瞬間、僕の足がぐらつき、いきなり地面に倒された。立っていることができなかったのだ。まさか、僕も眠ってしまうのか、と思って一瞬ぞっとしたが、僕は地面に手をついて踏ん張った。眠ってはいない、地面が激しく揺れているのだ。近くの木々がミシミシと嫌なきしむ音を立てた。カラスたちがギャアギャアと鳴いて一斉に空へ飛び立った。道路に亀裂が走って、でこぼこと地割れを起こした。少し遠くの方で建物がつぶれてすごい音を立てた。これが災いの始まり……。僕は目を見開いた。眠るな、眠ってはいけない。

 強い揺れは長いこと続いたが、やがておさまり、奇妙なまでの静寂が訪れた。ずっと隣で立っていた明晰夢が言った。
「始まった、か。これをきっかけとしてこれから次々と悪いことが起きる。そして次は今のよりもっとひどいのが来るだろう。もうあまり時間の猶予は無いね」
僕は立ち上がって明晰夢の方を見た。
「白昼夢、君に質問する。これは君が決めることだ。君は、世界の人々を救いたいか。それとも、このまま世界の終わりを迎えるか」
「え?」
「僕は君に押し付けることはしない。選ぶのは君だ」
僕は急に選択を迫られてたじろいだ。そしていろんなことが僕の脳裏に浮かんだ。死んだ弟のこと。穴を探して彷徨った父さんのこと。家を出てホテルの505号室へ行ってしまった母さんのこと。助けて、と言った目の見えない姉さんのこと。そしてあの手紙のこと。世界のうちで、目覚めているのは僕だけだった。人々を救えるのはこの僕だけだった。このまま終わってしまってはいけない、と思った。
「どうすれば、みんなを助けられる?」
明晰夢は笑った。
「君なら、そう言うと思ってたよ。よし、そうなれば、メメント・モリの誕生の儀式が必要だ」
「メメント・モリ……」
「そう、君がメメント・モリという存在になるんだ。それによって人々を目覚めさせる。恐怖の力によってね……」
明晰夢はニヤッと笑った。
「そのためには儀式が必要なんだよ。その生を世界に返す、という」
生を世界に返す。それはつまり何を意味するのだろうか。
「僕は死ななくてはならないということ?」
少年は小さく首を横に振った。
「これは君が死なないために命を捧げる儀式だ。メメント・モリというのはそういうことなんだよ」
僕はうなずいた。決意を固めた瞬間だった。それと同時に、いったい僕はどうなってしまうのかと恐れてもいた。でもそれが僕が目覚めている証拠なんだと自分に言い聞かせた。
「さあ、行こう。できるだけ人の多いところが良い」
と明晰夢は言った。
「どうすれば良いんだ?」
「恐怖と凶器が君に力をくれるはずだ」
彼はスッと指を差した。


   【記憶と死の章】

 ナイフの傷穴は、20になった。今まで、知らない街で僕は刺し続けた。次が最後だった。僕は眠っていなかった。僕は死んでいなかった。
「残るはあと1回だけだよ」
と明晰夢は言った。彼は、僕を最後の街へ連れて来た。そこは、僕の生まれ育ったあの町だった。ずいぶんと長い間帰っていなかった気がした。懐かしい、とは思いたくなかったけれど、やはり懐かしい感じがした。明晰夢は僕のためにこの街を最後に残したのかな、と思った。
「最後は、この街で、君の一番目覚めさせたい人たちを目覚めさせるんだ」
明晰夢はウキウキとした口調で、今にも飛び跳ねて笑い出しそうに言った。そう、僕の力で目覚めさせる、目覚めさせてやる。僕は怖くなって顔を歪めて少し笑った。
 僕は僕の家にたどり着いた。明晰夢の方を見ると、彼はにっこりとうなずいた。僕は玄関のドアを勢い良く開けた。
「ただいま」

 ……いつぶりの、我が家だっただろうか。台所からは何かとても良い匂いがしてくる。おかえりー、と明るい声が良い匂いと共に僕のところへやって来る。母さんの優しい笑い顔が現れる。リビングでは父さんがテレビを見ながら一足先にビールの缶を開けている。おう帰ったか、どうだお前も一杯飲むか、なんて言って僕にビールを勧める。弟と姉さんも部屋から出て来て、兄ちゃんおっ帰りぃ、とか、遅かったね、待ってたのよ、とか言って僕に微笑みかける。
「お待たせ」
と僕も笑う。それからみんなで母さんを手伝って、テーブルに食器とか料理を並べる。そして5人そろっていただきます、と言って夕食を口に運ぶ。それぞれが今日はこんな良いことがあったんだよ、と家族に話して聞かせる。誰かが言ったくだらない冗談で笑い合える。夕食を食べ終わったら順番に風呂に入る。僕と弟は久しぶりに一緒に入る。2人で下手くそな歌なんか歌って盛り上がる。みんなが風呂に入り終わってリビングに集まって、レンタルDVDを見る。なんだかとてもゆっくりと、心地良い時間が過ぎる。面白かったね、と言ってそろそろ眠る時間になる。いきなり姉さんが思いついた顔をして、久しぶりに5人で一緒に寝ようよ、昔みたいにさ、と言い出す。それが良い、それが良いと言って1つの部屋に無理に布団を敷いて、ちょっと狭い思いをしながら5人で眠る。そうだ、ここは僕にとって最高の、帰るところだったんだ。
 
 気が付くと僕はボロボロと涙をこぼしていた。
「僕たちは、素晴らしい家族だったじゃないか」
僕は暗い部屋に立っていた。父さんと母さん、姉さんと弟が一緒に眠っていた。
「さあ、最後の儀式を始めよう。そしてメメント・モリになるんだ」
明晰夢が言った。僕は彼の方を向いた。
「ねえ、最後にどうしても訊きたいんだ。君はやっぱり僕の弟なんだろう?」
明晰夢は軽く微笑んで、少し首を傾げた。
「さぁね、どうだろう。どうしてそんな風に思うんだい?」
「君は死ぬことで恐怖から逃げたんじゃないかな。恐怖の無い、明晰夢の中に」
明晰夢は愉快そうに笑った。その笑顔がまぶしくて、一瞬彼の姿が黒い影になって見えた気がした。
「どうかなあ、ぼくにもよくわからないね、それは。でも案外、全て夢のようなものだったのかもしれないよ」
本当に……そうだと良かったよ。
「さあ、そろそろ始めよう。メメント・モリの誕生のために。みんなを救うために」
僕は明晰夢の言葉に力強くうなずき、ナイフを構えた。僕はもう死ぬだろうな、と思った。みんなに二度と会えないのだろうな、と思った。死が、怖かった。僕が死んだら、みんなは目覚めて、恐怖し、僕の死を哀しんでくれるだろう。僕を愛してくれるだろう。そして明晰夢はメメント・モリになった僕を世界中に届けるだろう。僕はそれぞれの場所で祀られて、みんなの心に恐怖を与え続けるだろう。それで人々は救われるのだろう。それが一番良いことだろうな、と僕は思った。
「さよなら」

 僕はナイフを深く深く、突き刺した。

最終更新:2013年03月25日 01:33