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私小説的タイムマシン

2010年04月16日 (金) 21時35分 - 17+1

 

 かけがえのない大切なあなた。

 あなたにとっては遠い未来の二〇一〇年一月二日。いくつかの条件付きではありますが、とうとうタイムマシンは完成しました。
 わたしの手によって。

 あなたはタイムマシンをご存知ですか。たいていのひとなら本か何かで一度は目にしたことがある言葉だと思いますが、もしかしたらあなたにとっては初めて聞く言葉かもしれませんね。
 わたしたちは自分の足や、乗り物でどこへでも行くことができます。交差点に差しかかるまでは、迷うことなくどこまでもまっすぐ前に進めます。壁や塀や穴や溝、その他の障害がない限りは左右どちらにも進む向きを変えることができます。もちろん、ふと思いたったその瞬間に後退することだってできます、誰かがそこにいるなら話は違いますが。それなりの装置さえあれば、上下に移動することも簡単です。さまざまな手段の組み合わせで、たとえば、右斜め前水平よりちょっと上とか、横向きのらせん運動、のように複雑な方向へ空間移動することも可能ですね。このような空間移動ではなく、時間移動するための手段が、タイムマシンです。上下左右前後に進むように、過去や未来へ進むための装置なのです。
 訂正します。過去に進むための装置が、タイムマシンです。わたしのタイムマシンは過去にしか行けません。過去に行って戻ることしかできません。
 過去のひとと会う。
 それが条件のひとつであり、わたしのタイムマシンの唯一意義です。
 こちらでは普遍的な真理となっていますが、時間の流れは砂時計と同じです。ひっくり返すことのできない砂時計です。時は上空から降ってきて積み重なります。積み重なった過去はそれきり動きません。たった今積み重なったその時が現在です。未来は積み重なる前なのでまだありません。わたしにとっては、このわたし自身が現在の基準というわけです。わたしから見て過去にいるあなたは、おそらく自分のいるところが現在だと信じているでしょうから、この考えはわたしの独りよがりのように思えてしまうかもしれませんね。その通りです。でも、わたしには、わたし自身しか基準にできるものがありませんので。ですから、わたしがタイムマシンで過去に移動及び滞在している間、観測すべき現在にいないわたしと、観測するわたしがいない現在は、おそらくどちらも固定されていることになるのでしょう。過去にいるときのわたしは流れる時間を感じることはなく、実際にわたしがいない現在の時間は勝手に流れないということです。きっと砂時計は静止することになりますね。
 端的に言えば、過去はずっと不変で、現在はわたしがいたところで、未来は存在しません。または未来は可変だと言い換えても構いません。
 運命なんてのは、うそです。
 すくなくとも未来を指してそう呼ぶときは。
 だから、タイムマシンで未来に行くことはできません。わたしのタイムマシンでは行けません。身も凍るほどに眠りつづければ、目覚めたときに未来を体感することはできるでしょう。しかしそれはわたしの整えた理論とは異なります。そうです、わたしは理論を考えたわけではありません、整えたのです。そこに最初から棒きれのように転がっていたものを整理しただけなのです。
 整理して、組み立てて、初めて使ってみたのです。
 かけがえのないひとに会うために、わたしはタイムマシンを創りました。
 そのひととは、すなわちあなたのことですね。

 わたしは自分の創ったタイムマシンで過去へ飛び、そしてあなたに会いました。わたしとほとんど同じ年に見えるあなたは、わたしが想定していた通りに、独りで暮らしていました。鍵のかかっていない寝室で、ベッドに腰掛けて、じゅうたんの上に新聞紙を敷いて、足の爪を切っていました。音もなく現れたわたしに驚くこともなく、黙々と爪を切っていました。敷かれた新聞紙とカレンダー、それに掛け時計で、わたしはその日がだいたい何年何月何日の何時ごろなのかを知りました。新聞紙に使われている文字から、そこが地球のどのあたりなのかを推測しました。新聞紙には切り抜きの跡がありました。
 それから、あなたが新聞紙を慎重に拾い上げるまで、わたしはあなたが爪を切る様子をずっと見ていました。爪のかたちや光沢を見ていました。とりたてて綺麗に磨かれてもいない爪を照らしているのは、ベッドのそば、卓上のスタンドひとつきりでした。のっぺりとした夜が窓からのぞいていました。
 あなたは新聞紙を丸めて傍らのごみ箱に投げ捨て、ベッドに寝転がりました。伸ばされた手がスタンドのスイッチを切って、部屋は暗闇になりました。
「おやすみなさい」わたしは言いました。
「おやすみなさい」あなたは言いました。
 それが最初です。
 最初の何なのかは分かりませんが、いえ、何なのかは分かってはいてもうまく言葉で表現することができないだけなのですが、この世にはものごとや概念に比べて表現する言葉があまりに足りなさすぎるのですが、とにかく最初の何がしかです。
 
 わたしの整えた理論に話を戻しましょうか。
 もしもあなたがタイムマシンという言葉を知っていたのであれば、おそらくタイムパラドックスという言葉も耳にしたことがあるでしょう。一般に、タイムパラドックスはタイムマシンを創る枷となっていましたが、わたしにとっては枷ではありませんでした。それどころか、タイムパラドックスという考え方がなければ、わたしは理論を整えるどころか理論の存在に気づくことさえできなかったと言えるでしょう。
 タイムトラベル、タイムトリップ、タイムスリップ、タイムリープ、タイムワープ。表現はいろいろありますが、どれも積み重なる時間の砂山に潜りこむことです。過去へ潜りこむことによって現在が変わってしまい、その結果、過去と現在の因果関係がおかしくなってしまうことをタイムパラドックスと言います。時間の逆説です。
 とりわけ有名なのは親殺しのパラドックスです。
 たとえばわたしが架空のタイムマシンに乗って過去に行き、自分が産まれる前の時代の両親に会ったとしましょう。そこでわたしは用意したナイフで両親を殺します。いえ、いくら仮定の話でもそれではあまりに絵空事です。わたしが両親を殺すわけがありません。そうですね、親殺しのパラドックスという名称には反しますが、ここでは両親の仲を引き裂く程度の仮定にしておきましょう。それでもわたしとしては、かなりの譲歩ですが。
 過去へ行ったわたしは、どうにかして自分の父親と母親がそれぞれ別の道を歩むように、そして二度と二人の道が交わらないように工作しました。するとどうでしょう、両親はわたしを産むことも育てることもないままにめいめいの人生を終えてしまいます。つまりわたしは産まれなかったことになります。しかしその場合、わたしの父親と母親を引き離したわたしは誰なのでしょう。わたしは産まれていないので、彼らは何者かに引き離されることなく結ばれるはずです。彼らが結ばれるのであれば、わたしが産まれるのだから、彼らはわたしに引き離されることになり、彼らは結ばれません。
 これが親殺しのタイムパラドックスです。
 親というのを祖父母や曾祖父母に置き換えても、このようなパラドックスは起こります。わたし自身に置き換えても矛盾は成立します。血縁関係にこだわることはありません。わたしにタイムマシンというものを教えてくれた児童小説の作者に置き換えても良いでしょう。タイムマシンを創るきっかけを喪失したわたしがはたしてタイムマシンに乗れましょうか。もっと小規模なタイムパラドックスでもいいならば、もっと小規模な人間でも構いません。
 先ほども仮定文を改変しましたが、ひとを殺すことにこだわることもありません。引き離すだけ、遠ざけるだけ、目隠しするだけ、あるいはそれらに似た多くの些細な行動で、いとも簡単に大きなタイムパラドックスが生じます。あたかも、一匹の蝶々の羽ばたきが、遥か遠くの土地で嵐を引き起こすかのように。

 誤解しないでもらいたいのは、ここまでが、すべて仮定の話だということです。
 実際はまったく異なります。
 タイムパラドックスなんて存在しません。
 机上の空論です。
 タイムパラドックスは存在しない。その事実を説明する前に、先人たちがいかにしてこの矛盾を解消したか、そしていかにその解消方法が間違っていたかを語らなければなりません。どんなものごとにでも必ず付随するそれは順序です。
 まず、そのようなタイムパラドックスが想定されるからこそタイムマシンは創れるはずがなく過去に行くことは不可能なのだ、という身も蓋もないような背理法が解決法として提示されました。わたしはわたしのタイムマシンで過去へ行くという操作をこなしているので、この論理が間違っているのは火を見るよりも明らかですね。
 また、過去をいじったとしてもそれは一時的な変化に過ぎず、そのずれはやがて小さくなり現在においてまったく影響を及ぼさない、という思いこみもありました。結局はひとすじの線に収束するという考え方です。しかし、すこし考えれば分かりますが、その程度の取り繕いでは親殺しのパラドックスは解消しません。親を殺そうとしてもどうしても失敗してしまいタイムパラドックスを意図的に生み出すことはできない、という説もありますが、これはどちらかというとわたしの整えた理論に近いので、のちのち触れることにしましょう。
 さらに、パラレルワールドという概念を用いてタイムパラドックスを受け入れるというやり方もありました。平行世界あるいは並行世界とも言って、この現実と平行あるいは並行して別に存在する、もうひとつの、もうふたつの、もうみっつの、もうnつの、無数の現実のことです。
 パラレルワールドを使った解決法はふたつあります。過去をいじった途端にそこはパラレルワールドになってしまい現在の自分および世界には一切影響が及ばないというものと、タイムマシンで行った過去は本当の過去ではなくパラレルワールドの過去であるからそこでどんな行動をしてもタイムパラドックスは生じないというものです。
 しかし、パラレルワールドなんて便利なものが存在するはずありません。ちょうど良いタイミングなのでここで打ち明けておきますが、パラレルワールドや他世界解釈というのは、わたしには専門外の分野です。実のところ、タイムマシンに関わるほとんどが、例の児童小説に出会うまでのわたしの人生とは無関係のことがらでした。それでも、そのくらいのことは分かります。
 タイムマシンだって創れました。
 証明は赤子の手をひねるようなものでした。そのときのわたしはすでに理論を整え終えていましたが、タイムマシン製作に先立って、理論の補強材料としてひと通りパラレルワールドを探してみたのです。何しろパラレルワールドは無数に存在するのですから、近所のそこかしこにもいくつかあるに違いありません。宇宙の外に宇宙があろうとも、さらにその外側に広がる空間があろうとも、無限個のものを収納するにはかなりの密度で詰め込まなくてはなりません。押されて世界が重なることだってあるでしょう。わたしはタイムマシンがなくとも空間移動はできるので、東西南北各方角へそれぞれ数キロメートル歩いてみました。けれども、発見したのはケースに入ったカセットテープと手のひらほどもある缶バッヂ、数軒の魅力的な雑貨屋、あとは不法投棄の現場ぐらいで、どこにもパラレルワールドはありませんでした。よってパラレルワールドは存在しません。
 証明を終わります。
 
 そういえば、あのときも、わたしはひたすら探していました。あれはあなたが亡くなったときですから、あなたが覚えているはずもありませんね。
 老衰だったのでしょうね。
 あなたはすっかり年老いた姿で、顔はしわだらけ。髪も白いものが多く混じっていて、そう、それに老眼鏡をかけていましたね。毛布を何枚もかぶってベッドに横たわっていました。その部屋にはストーブがありましたが、それでも時おり寒そうにあなたは震えていました。窓はカーテンに覆われていました。カーテンレールにほこりが積もっていて、そこからわたしは単純に雪を連想しました。季節が冬だったからかもしれません。カーテンを開ければ外は雪景色だったのかもしれません。
 ほこりが積もっていたのは、カーテンレールだけではありません。サイドテーブルも、その上のスタンドも、老眼鏡のケースも、マグカップも、出しっぱなしのスクラップブックも、大きな鋏も、糊も、鉛筆も、落ちていた新聞紙も、じゅうたんも、ソファーも、小さな本棚も、チェストも、鏡も、古びたカレンダーも、掛け時計も、照明も、照明のスイッチも、ドアノブも、あなたが毛布をかぶっていたように、みな平等にほこりをかぶっていました。部屋の掃除は行き届いておらず、ごみ箱はいっぱいで、床にこぼれているものもありました。ここ数ヶ月間、もしかしたら数年間、誰もあなたのもとを訪れていないようでした。
 わたしを除いて。
 わたしはあなたのもとを何度も訪れています。亡くなる直前のあなたにも、その二十時間前のあなたにも、その三日前のあなたにも、その一ヶ月前のあなたにも、その半年前のあなたにも、その八年前のあなたにも、その六十年前のあなたにも、爪を切っていたあなたにも、そして当然のことながら目の前のあなたにも、タイムマシンで会っています。もっともっと会っています。わたしは、さまざまな年齢の異なるあなたに会っています。
 わたしが会ったどのあなたも、新聞紙のスクラップが趣味でした。
 あなたのスクラップブックを読もうとは思いませんでしたが、切り抜かれた新聞紙から、その内容を想像することはありました。あなたの時代によって切り抜きの傾向は変化していましたが、おおむね切り抜き跡は小さな長方形でした。地元のニュースか、その日気に入ったコラムだろうか、とわたしは想像しました。
 しかし、あなたが亡くなったときは違いました。
 そのとき、わたしは探していました。あなたが目を瞑って、震えもとまり、息もしなくなるまで、わたしはひたすら何かを探していました。何を探していたのでしょう。今にして思えば、ただあてもなく部屋中をぐるぐる見つめていただけかもしれません。チェストや本棚を勝手に調べるのはためらわれました。それに、出しっぱなしのスクラップブックを開くのも。だから、本当に、その場にあるものをぐるぐる見つめていただけですね。
 ぐるぐる見つめていると、それまで気にも留めなかったものが目につくようになります。それは新聞紙でした。じゅうたんの上に落ちていた新聞紙をよく見ると、いつもと違う特徴的な切り抜き跡がありました。それに、ほこりのたまり具合から考えて、その新聞紙の日付はあなたが亡くなった日よりも一週間以上前でした。あのとき、あなたの家の郵便受けには新聞が山ほど詰め込まれていたことでしょう。
 切り抜き跡は、アルファベットのLの形をしていました。
 大小いくつもの。
 不思議なことです。亡くなる前のあなたは、どんな内容の記事を、どういった心境で切り抜いたのでしょうか。
 過去にいるあなたには想像もつかないことかもしれませんが、わたしがいた現在では、過去の新聞記事は容易に調べられます。あなたが最後に切り抜いた箇所も数分で特定できるでしょう。けれども、わたしは調べようとは思わなかったし、あなたがスクラップしているときを狙ってタイムマシンで押しかけようとも思いませんでした。あれからしばらくはどうすることもできませんでした。
「さようなら。またいつか」わたしは言いました。
 あなたは、何も言いませんでした。
 
 そうでした。わたしの整えた理論の話がまだ終わっていません。どうも脱線ばかりしてしまいますね。タイムマシンを使うようになってから、話の順序が守られたためしがありません。頭の中で過去と現在がない交ぜになっているのかもしれません。
 ここからはすこし複雑になりますので、確認のためにタイムマシンは過去のひとに会うための機械であるということをもう一度言及しておきます。
 タイムマシンは過去のひとに会うための機械です。
 はい、言いました。
 さて、だいぶ前に、親殺しのパラドックスを解消する考え方として、親を殺そうとしてもどうしても失敗してしまいタイムパラドックスを意図的に生み出すことはできないという説があること、その説がわたしの整えた理論に近いものであることを話しましたね。
 親を殺そうとしてもできない。ある意味それは正しいです。
 正確には、親に会おうとしてもできない、ですが。
 親だけではなく、祖父母や曾祖父母、わたしにタイムマシンというものを教えてくれた児童小説の作者にもわたしは会えません。会うことを誰かに禁止されているのではなく、会うことが不可能なのです。
 
 タイムパラドックスが想定されるからこそタイムマシンは創れるはずがなく過去に行くことは不可能なのだ。
 これは間違いです。

 タイムパラドックスが起こる可能性のない過去の人物にしか会えないというのが、タイムマシンというものなのだ。
 これが真実です。

 かなり噛み砕いていますが、これが理論の基幹です。タイムマシンとはそういうものなのです。時間とはそういうものなのです。だからタイムパラドックスは存在しないのです。
 砂時計のたとえで考えてみましょう。
 積み重なる砂は時間ではなくひとだと思ってください。ひとの人生だと思ってください。ひとの人生はひとの人生の上に積み重なっていきます。積み重なった過去のひとの人生はそれきり動きません。たった今積み重なったその人生、つまりわたしの人生が現在です。未来のひとの人生は積み重なる前なのでまだありません。わたしにとっては、このわたしの人生が現在の基準というわけです。わたしから見て過去にいるあなたは、おそらく自分の人生が現在だと信じているでしょうから、この考えはわたしの独りよがりのように思えてしまうかもしれませんね。その通りです。でも、わたしには、わたし自身しか基準にできるものがありませんので。
 わたしの人生の下には多くのひとの人生があります。それは両親だったり、祖父母だったり、曾祖父母だったり、わたしにタイムマシンというものを教えてくれた児童小説の作者だったりします。多くのひとの人生にわたしの人生は乗っかっています。もちろんそのひとたちと同じ時間を共有しているときもあるので、単純に乗っかっていると言うよりは、重なり合っている、絡み合っているというイメージのほうが正しいかもしれません。まあ、これはたとえ話なので細かいことはどうでもいいです。
 この砂時計のたとえで言うと、タイムパラドックスとは、自分の人生の下にある誰かの人生という砂を持ち上げて動かすことで自分の人生という砂が揺らぎ、その座標が一致しなくなってしまうことになるでしょう。しかし考えてもみてください、はたして自分の下にあるものを動かすことは可能でしょうか、自分がその上に乗っかっているというのに。自分を自分で持ち上げられないのと同様に、自分の立っている地面を自分で持ち上げられないのと同様に、自分の下にある多くの人生を持ち上げることはできません。自分の人生の体重がすこしでもかかっているならば。
 それがタイムパラドックスは存在しないということです。
 タイムマシンは、自分の体重が一切かかっていない砂の前にしか現れることができないのです。
 タイムマシンは、自分の人生と一切関わっていないひとの前にしか現れることができないのです。過去の自分に一切影響を及ぼしていないひとにしか会えないのです。
 それが条件の、もうひとつです。
 わたしはさまざまなひとから影響を受けてこのわたしになっています。多くの人生の上にこのわたしは立っています。両親のように長らく深い関わりを持ちつづけていたひともいれば、児童小説の作家のように、過去のある一瞬においてのみ関わったひともいます。祖父母や曽祖父母のように、間接的に関わったひともいます。たくさんいます。強い関わりも弱い関わりも等価です。彼ら彼女らは、タイムマシンの条件に適いません。わたしが整えたのは、そういう理論なのです。
 過去のひとにしか会えない。
 ほんのわずかでも影響を受けたひとにはけっして会えない。
 わたしの創った条件付きタイムマシンとは、そのようなものでした。

 とはいえ、わたしのタイムマシンが無能というわけではありませんよ。
 六次の隔たりという言葉を知っていますか。人間は、六人以上の知り合いを介せば世界中の人間に辿り着くという仮説です。これはあくまで仮説ですので、現実は、どんなにコネクションを活用しようが届かないひとはいます。世界中のほとんどの人間が間接的な知り合いになるでしょうが、全員がそうはなりません。しかし、知り合いではなく、直接的にしろ間接的にしろ自分に影響を与えたひととなるとどうでしょうか。他人でも影響を及ぼすひとはすくなからずいるものですが、知り合いであっても影響を及ぼさないひともそれなりにいるでしょうから、差し引き同程度といったところでしょうか。いや、バタフライ効果や風が吹けば桶屋が儲かるという言葉もありますから、きっと地球上の人類すべての人生がわたしの人生の下にあるのでしょう。すなわち、地球上の人類すべてがタイムマシンで会うことのできる対象に選ばれないでしょう。
 しかし、もしも彼ら彼女らを地球から取り除いたとして、まだひとが残っていたならば。
 わたしに、まったく影響を及ぼしていないひとが存在しているのならば。
 可能性は限りなく小さなものですが、完全にありえない話でもありません。六次の隔たりは現在の人口をもとに計算されたものであって、過去のひとは数えられていません。わたしの知人の知人の知人の知人の知人の知人ですらない赤の他人。わたしに影響を及ぼしたひとに影響を及ぼしたひとに影響を及ぼしたひとに影響を及ぼしたひとに影響を及ぼしたひとに影響を及ぼしたひとにさえ影響を及ぼしていない無関係のひと。わたしと生きている時代を共有するひとが存在しない過去にまでさかのぼれば、そういうひとも、ひとりはいるかもしれません。
 そのひとには、わたしの創ったタイムマシンで会うことができます。
 それがあなたなのです。

 あなたは、わたしの、かけがえのない大切な赤の他人です。
 血も、赤い糸も、蜘蛛の糸も、つながっていません。どんな種類の矢印も二人を結びません。血縁関係でも恋愛関係でも敵対関係でもない、なんでもない、無関係という関係です。ベターハーフという言葉になぞらえて表現するならば、わたしとあなたは、ぴったりと重なるところがひとつもない半球同士、ワーストハーフです。
 運命というなら、これこそ運命的な関係でしょう。
 すでにあなたは過去のひと、現在のわたしに何の影響も及ぼさないままに亡くなったというのは、現在のわたしにとって絶対的事実なのですから。

 これまで長々と話しておいていきなり立場を翻すようですが、わたしの整えたこの理論にはおかしなところが多々見られます。こんな理論でタイムマシンが完成しただなんて信じられないくらい、たくさんあります。まともな工学的アプローチも哲学的思考のすり合わせもなされていないのだから、当然と言えば当然でしょう。
 それに、この理論はあまりにも、わたし、でできています。わたしのいるところが現在、という独りよがりな基準点。会えるのはわたしと無縁のひと、というのは、自分そのものを条件にしているのと変わりません。対照的に、わたし自身を除くすべてに対する曖昧さ。周囲の環境、特にひと以外のものごとに対する描写や検証の軽視。本当に、あまりにもわたしでできています。
 タイムパラドックスが机上の空論ならば、この理論は紙の上の言葉遊びと言えるかもしれません。文学的とは言わないまでも、まるで小説のようです。
 ですからわたしは、完成したタイムマシンを、私小説的タイムマシンと名づけました。
 自己卑下、あるいは揶揄を込めて。
 
 まあ、どれだけこの理論に疑問点があろうとも、結果的にタイムマシンが支障なく完成してしまったのだからこの理論は正しいのでしょう。実物に勝る根拠はありません。しかし、タイムマシンが完成し、いざはじめて過去へ行かんというとき、わたしの頭の中には、たったひとつの疑問がいまだに渦巻いていました。
 わたしのかけがえのない大切な赤の他人、すなわちあなた。
 あなたとわたしは、はたしてコミュニケーションできるのか。
 一切影響を受けなかったからこそ会うことのできる過去のあなたに会うことで無関係という関係が崩れてしまい、自分自身もまた崩壊してしまうのでは。そのような不安も確かにありました、筆のひとさばき程度には。それでもわたしは、まだ存在するかも判明していなかったあなたに会いたいと思い、タイムマシンを起動させました。それは成功しました。
 そしてわたしの話は最初に戻ります。
 あなたが爪を切っていたときの、最初の何がしかに戻ります。

「おやすみなさい」わたしは言いました。
「おやすみなさい」あなたは言いました。

 一見、このときは会話が成り立っているようでしたが、実際は違いました。二度目の何がしかのときに、そのことをまざまざと思い知らされました。
 眠ったあなたが再び目を覚ますまで待てなくて、わたしは別の過去のあなたに会いに行ったのでした。たしか、きっかり十二時間後。あなたはまだ寝室にいましたが、眠っているのではなく新聞を読んでいました。マグカップ片手に。

「おはよう。いや、こんにちは」わたしは言いました。
 あなたは顔を上げました。
「あ、もうそんな時間なんだ」あなたは言います。
 掛け時計を見ながら。

 そして、わたしは悟りました。

 わたしはあなたに話しかけます。
 あなたは何かものを言ったり、軽くうなずいたりします。
 それはわたしの声に返事をしているようで、全然そうではありません。たまたま噛み合っているように見えるだけなのです。時間移動の基準であるわたしにとって、そのように見えるだけなのです。これがわたしの整えた理論の限界だったのです。
 無関係の過去のあなたに、現在のわたしが影響を及ぼせるはずがないのです。あなたが、現在のわたしに何の影響も及ぼさないままに亡くなったというのは、現在のわたしにとって絶対的事実なのと同様に、わたしが、自分が産まれる前に亡くなったあなたに何の影響を及ぼさなかったというのもまた絶対的事実なのですから。
 わたしと会う前のあなたと、わたしと会った後のあなたで、あなたに変わるところが何もないのです。あなたにとっては、わたしに会ったこととわたしに会わなかったことが同じなのです。

 同じ。そうでしたね。
 どうせ同じになるのだから、打ち明けてしまいましょう。
 あなたが亡くなったとき、ただ寝室をあてもなくぐるぐると見つめていたというのはうそです。本当は、わたしはあなたの名前が分かるものを探していたのです。見つかりませんでしたけど。
 悲しいことに、わたしはあなたの名前さえ知らないのです。あなたをあなたと呼ぶことしかできないのです。
 あなたとの会話が成立するようで、まったく成り立っていない所為で。

 そう。

 今だって。

 こうしてわたしはあなたに語りかけていますが、その語りかけがあなたに届くことはないのです。

 けっして。

 このような状況で、はたして物語は成立するでしょうか。
 私小説的タイムマシンと名づけながらも、そこに小説的な展開は存在するでしょうか。
 答えは、いいえ。
 何故なら、わたしとあなたは分かりあえないから。
 大小いくつものL字型のスクラップ。その意味も、わたしに分かるはずがないのです。
 予想ならできます。
 スクラップでかぎ括弧を作って、わたしにメッセージを伝えたい意図だけでも示そうとしたのではないか、とか。
 あるいは、L字型ではなくて、本当は斜め向きのハート型だったのではないか、とか。 
 でも、それらはわたしに都合の良すぎるストーリーです。
 わたしはどうしても自分本位になってしまいます。
 
 それでも、わたしはあなたに会いに過去へ行きます。
 それでも、わたしはあなたに語りかけます。
 そうせずにはいられないからです。そうしなければ、わたしは孤独になってしまうからです。
 両親はとうの昔に亡くなっております。あなたにとっては近未来かもしれませんが。
 両親が亡くなって以来はずっと独りで暮らしていました。家に訪ねてくる友人はいません。すこしはいたと思うのですが、理論を整えている間にどこかにいなくなってしまいました。正しい会話の仕方も忘れてしまうほど、ひととの触れ合いがありませんでした。
 あなたも、きっと同じような人生だったのでしょうね。
 そういうひとたちが、かけがえのない大切な赤の他人になりやすいのです。わたしもそういうひとだからこそ、あなたとの無関係という関係を望んだのです。

 ときどき、こう考えることがあります。
 もしもわたしのタイムマシンが世界中に普及したならば。
 いつの日か、わたしのもとへ誰かが会いにくるのではないか、と。
 わたしという、かけがえのない大切な赤の他人を求めて。
 彼もしくは彼女にとっての現在から、わたしのいる過去へと。
 しかしこれは不可能です。
 わたしがいるところが現在なのだとわたし自身が認識しているのだからわたし以外のひとにとっての現在など考えられないという考えや、実際にタイムマシンを普及させる実行力と意欲がないというのも理由になります。でも、それより何より問題なのは、わたしがそのタイムマシンを創った人間であるということです。タイムマシンに乗る人間は、必然、その開発者であるわたしと大きく関わることになります。誰であろうと否応なく。つまり、誰もわたしのもとを訪れることはないのです。
 そう分かっていながら、わたしはこの夢想を何度も繰り返してしまいます。
 何度も。

 唯一の救いは、あなたが、このわたしには影響を及ぼすことができることです。今、この瞬間も、あなたはわたしに影響を及ぼしつづけています。しかし、あなたとの時間がわたしの過去になってしまえば、わたしに影響を及ぼしたこともわたしの過去になり、あなたはかけがえのない大切な赤の他人ではなくなってしまい、もう二度と会えなくなってしまいます。
 だから、あなたとの時間が完全にわたしの過去になってしまわないように、静止している砂時計が動き出さないようにと、わたしは現在へ戻らず、いろんなあなたのいる過去を巡りつづけているのです。

 ああ。

 ああ。
 この話も、何度したことでしょうね。

 時間の砂に飲み込まれ、もはやわたしはわたしを失いかけています。

最終更新:2012年09月21日 15:00