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2011年12月02日(金)03時03分 - 御伽アリス

 


   ◆
 空は青く澄みきっている。桜の蕾はまだ開かないけど、春の日差しを受けて少しずつ膨らんできている。風が吹く。千切った綿みたいな雲が流れていく。空気をいっぱいに吸い込むと、18歳の春の香りがした。みんな、流れて、流されて、進んでいく。俺たちは一瞬たりとも立ち止まることなんて許されず、常にどこかへと運ばれて行っているのだろう。
 見慣れていたはずの校舎を見上げる。そこには卒業する今まで一度も見たことがなかった校舎の光景があった。嫌いだと思っていた学校。それでもどこか好きだった学校。あの玄関、あの教室、あの廊下、あの体育館、あのグラウンド。そこに俺がいたということを思い出せる。感じることができる。自然に暖かな微笑みがこぼれてくる。俺は校舎に背を向けた。まだ分からないけど、またここに戻ってくることがあるような気がする。だから、それまで。自分の向かう先は、過去じゃなくて、いつだって……。



   ◇7月のJanuary
 全ての物事には、いつか終わりというものが来る。そう言われれば、そりゃそうだよな、と理解はできる。でも実際にその終わりが来るまで、いやひょっとしたら終わりが来た後も、全然その実感が湧かなくて、受け入れられないということがあるかもしれない。ずっと続くなんて、あるいはそれも若さ、なのだろうか。



  【7月5日】
 緑の芝が湿っている。延長後半から降り出した霧雨はまだ続いている。ジメジメとした空気が体にまとわりつく感じがする。
「決めてくれ、将磨」
キャプテンの駿河功毅が俺の肩に手を置いた。
「ん、任せとけ」
ボールに向かう足は自分でも思ったよりしっかりしていた。決める自信がある。と言うよりは、決めなければならない。ここで外せば、俺たちのチームの夢は絶える。インターハイ出場の夢。今までの努力は全て、そこで発揮されて初めて意味があるんだ。ここはあくまで通過点でなければいけない。俺たちが目指す場所は今この場所なんかじゃなくて、もっと先の大舞台だ。
 ホイッスルが鳴る。勝負の時。相手のキーパーが手を広げた。見つめるゴールの枠は広い。でも、狙う場所は一つ。
(ど真ん中に、ぶち込んでやるっ!)
足が勢いよくボールに触れた。
しかしその時いきなり、その11メートルが、途方もなく長い距離に変わった。ゴールの枠が、すごく小さくなった気がした。

 大きな歓声が聞こえた。試合、終了。俺たちは、PK戦の末に、試合に負けた。ボールは右側に、一直線に鋭く突き進んだ。相手のキーパーが飛び込んだのは、それとは逆方向。入った、と思ったのは俺だけじゃなかっただろう。でもボールは、ポストに当たって弾き返された。
 あの時、ど真ん中を撃ち抜くはずのボールが右側にそれたのは、俺にその勇気がなかったからなのか、それは自分でもよく分からない。



  【7月12日】
 肩を叩かれた。あの時の駿河の手を思い出す。振り向くとその駿河がいる。
「将磨? 次、移動教室だぞ」
そう言われて初めて俺は教室の中に他のクラスメートたちの姿が既にないことに気付いた。
「あ、行く行く。今行こうと思ってたんだよ、うっせーな」
完全に嘘だ。ボーっとしていたのだ。肩を叩かれたこの時、俺が駿河の口から聞きたかったのは、「決めてくれよ」というあの時の言葉だったのかもしれない。もう一度、チャンスが欲しかったのだ。なぜか、諦めることができない。終わったことは仕方ないなどと簡単に切り替えることができない。
 俺と駿河は一緒に次の授業の教室へ向かう。
「サッカー、したいな」
言ってから、しまったと思った。自分の弱さを見せびらかしてしまった。自分でも気付くくらい俺はあの時の失敗を引きずっていた。周りの友達、特にサッカー部だった奴らはそのことで俺を心配しているということも分かっている。
「ああ、したいな。またやろうぜ。みんな集めて、昼休みとかさ」
駿河は無理に明るくそう言ってくれた。でも、違うんだ。俺が今やりたいサッカーは、あの時手にしたくて手にできなかった、夢の舞台でのサッカーなんだ。あの試合に勝って辿り着くはずだった、その先にあるインターハイのサッカーなんだ。

 気付いてみれば、高校3年も既に7月なんだよな、と思う。俺の通う高校は一応進学校だ。就職する奴がいないわけではないけど、ほとんどの生徒は進学を選ぶ。俺も二流の国公立大学を一応目指してはいる。そんなわけで部活を引退した奴らはみんな受験勉強へとその意識をシフトさせるのだ。でも俺はあのPKのミスを今も気にしてるわけで。部活を引退したという自覚もないわけで。だから受験勉強に集中などできるはずもないわけで。そもそも俺は勉強が好きじゃない。
 もうすぐで夏休みだ。3年生の中にも、そのことで盛り上がってる連中が少なくないけど、俺はとてもそんな気分になれない。夏休みとは部活をするために学校の授業がなくなる期間だと思い込んでいた。その部活が今年の夏休みはない。代わりに襲い掛かって来るのは勉強だ。受験生としてみっちり勉強に打ち込むべきなのは分かってる。でも、何かやる気が出てこない。サッカーをしている時に感じていた、もっと上手くなりたいという、あの熱のようなものが全くこみ上げてこない。家にこもって勉強している自分など想像もできないのだ。
 あの試合の後のミーティングで、顧問の淡路先生は引退する俺たちに言った、「よく頑張った、お前らの積み上げてきた努力はこれからきっと役に立つし、お前らの味わった苦しみも喜びも将来のために必ずプラスになる。君たちの将来に期待したい。サッカーで身につけた精神力で、次は進学に立ち向かっていけ。いいか、サッカーも受験も、結局は自分との戦いなんだ」と。淡路先生の言葉は力強くて、きっとみんなを勇気づけたんだろう。
 そう、将来のため。将来のために勉強するんだよ。インターハイのためにサッカーの練習をしてたように。インターハイの目標は達成できなかった。でも今度は別の目標に向かって頑張れば良い。それだけのことなのだろうか。俺の将来って何だ、大学に進むってことか。大学に進んでどうするのか。その後俺は何をしたいのか。
(あーもう、分かんねーよ……)
授業が進む中、俺の今日のノートはまだ白紙であることに気付く。

 授業を受け、勉強するためだけの学校は本当につまらなかった。何で勉強してるんだ、などと考え始めると、もう苦痛でしかない。
 授業が終わって、下校する。空は曇っている。雨が降りそうだ。俺はあの時の霧雨を思い出していた。ふとグラウンドを見ると、サッカー部の後輩たちがもうストレッチを始めている。自然に、本当に自分でも気付かないうちに、足がグラウンドの方へ向いた。しかしその時後ろから腕をつかまれた。
「警部! こんな所にさっそく掟を破ろうとしている野郎がおります! ただちに拘束しますであります!」
このうるさい声は、加賀琢哉だ。俺と同じクラスで、こいつもサッカー部だ。……「だった」、か。加賀と一緒に、駿河もいた。駿河は少し心配そうに微笑んで言った。
「将磨、引退してからは部活に出ないって決めただろ。1、2年の迷惑になるし、あいつらも俺たちには勉強に集中してほしいって言ってるんだから」
俺はグラウンドの方をちらりと見て、笑った。
「ああ、そうだった。別に忘れてたわけじゃない。放課後向こうに行く癖がついちゃってるだけだよ」
作り笑いは、俺の顔からすぐに消えてしまった。くっついてくる加賀が言う。
「あれ、将ちゃんったら元気ないの? お姉さんが慰めてあげようか~?」
加賀がふざけて俺を元気づけようとしていることはもちろん分かっている。チームの中でも明るい性格のムードメーカーだった加賀は、基本良い奴だ。でも思わず顔をしかめてしまう。
「おい、加賀……」
駿河は加賀の肩を引いて俺から離した。あまりふざけると逆に俺を傷付けるんじゃないかと思ったのかもしれない。そういうところはいつも冷静にキャプテンとしてチームを見ていた駿河らしい。二人は俺の方を見ている。少しの間俺たちは沈黙し、その後加賀が思いついたように言った。
「そうだ、これからカラオケ行こうと思ってたんだ。な、駿河?」
駿河は加賀の方を見た。
「ああ、そうだった。で、将磨も誘おうと思ってたんだよ」
「なあ行くだろ、言っとくけどオレの十八番聴いたらお前泣くよ。全米までも泣かすよ?」
こうやって自分のことを気にかけてくれる仲間がいることは感謝しなければいけないだろう。こんな良い友達ができただけでもサッカーをやっていた甲斐があったというものなんだけど、今の俺には二人に対して申し訳ないという思いしか湧いてこない。あの時のミスでこの二人や、チームみんなに迷惑をかけた……。とにかく、一人で落ち込んでいるのなら良いが、もうこれ以上二人を巻き込んではいけないと思う。
「悪い。カラオケはパス。えっと、俺のことは心配しなくて良いよ。俺もそんなにバカじゃないつもりだからさ、いつまでもウジウジしてないから」
俺は二人を残して帰路についた。精一杯の強がりだな、と自分でもそう思う。もしかしたら二人をよりいっそう心配させてしまったかもしれない。でもさすがに今は全然カラオケなんて気分じゃない。



  【7月19日】
 夏休み前ということで、担任との個人面談がある。夏休みに思いっ切り勉強に打ち込めるように、先生が生徒に発破を掛ける、ということだろう。教室前の廊下で待っていると、俺の先に面談を受けていた、名簿番号の1つ前の生徒が出て来た。俺は教室の戸をノックした。「入って良いよー」と中から声がする。教室に入って担任の志摩先生の前にある椅子に座る。先生は独特の訛りが混じる口調で話し始める。
「若狭くん、最近勉強の方はどうです?」
「えーと、それなりに頑張ってます」
「部活引退したわけやけど、上手いこと勉強に切り替えられてる?」
問題はそれなんだよな。志摩先生も薄々俺の悩みに気付いているからこんな質問をするのかもしれない。
「少しずつ勉強に集中できるようになってると思います。もっと勉強しなきゃな、と思いますけど」
先生は微笑む。
「まあ無理は禁物ですよ。なんせ受験は長丁場ですもんで。現役生、特に部活を頑張ってた君のような生徒はこれからじゃんじゃん成績伸びます。受験でも体力がものを言うんです。ただ、焦らないこと」
「はあ……」
「とりあえずは次の模試に向けて頑張って。あ、時に若狭くん、君は志望校どこだったかな?」
「今は○○大を考えてます」
先生はうなずき、また微笑んで言う。
「そうですか、頑張ってください。期待してますよ。また何か相談したいことがあればいつでも私のところに来てくださいね」
面談は5分か10分くらいで終わった。結局志摩先生は志望校について、俺の成績ではどうなのか、言わなかった。7月の段階でどうこう言うこともできないのだろうか。

 帰り道。今日の空は晴れている。梅雨はいつの間にか過ぎ去ったらしい。これから本格的に夏なんだろうな。日は長く、夕方になっても外はまだ明るい。
 夕方の街からはいろんな匂いが漂ってくる。ラーメン屋から漂うスープの香りとか、青物屋の様々な果物の香り、出店で売られるいろんな食べ物の匂いとか、車の排気ガスとか、まだ乾ききっていないアスファルトの濡れたにおいとか、誰かが吐き出した煙草の煙とか。思えばここ数年で街は開発が進んでいて、背の高いマンションが建ったり、コンビニやファストフード店が真夜中でも灯りを煌々と放つようになっている。何年か前は田んぼだったところが今はいろんな店の立ち並ぶ商業地区になっている。前そこに何があったのか思い出せないところもある。知らないうちに世の中は変わっていくんだな、とちょっと思った。

 夕飯を食べた後風呂に入り、部屋に行こうとすると父さんに呼び止められた。
「なあ将磨。今日面談だったろ。なんか言われたか?」
父さんも俺の勉強について気にしているのだろう。あまり下手なことは言えない。
「うん、これから成績伸びるから、頑張れって」
「サッカーやめてからちょっと落ち込んでるのかと思ったが、大丈夫か?」
「大丈夫だって」
「うん、まあ新たな目標を持ってな。将磨、先に苦労した奴は、後で楽をするんだ。今苦しくて、泣いている奴だけが将来笑っていられるんだよ」
「そのセリフ、何回も聞いたよ」
父さんは少し笑って、話を終わりにした。
「励め、若人よ」
最後の一言も父さんの俺に対する口癖みたいなものなのだけど、はいはい、と適当に返事して部屋へ引き上げる。
 新たな目標、か……。そうか、俺はそれが見つからなくて迷っているんじゃないか。あのPKの失敗をまだ悔やんでいてそのせいで動けなくなっているのかと思っていたけど、そんなこと気にしていたってもうどうにもならないんだ。確かにあのミスは今でもみんなに悪かったと思っている。でもそれを何日も引きずるほど俺は弱くないはずだ。そうではなくて、これからの目標が急に見えなくなってオロオロとしているんじゃないか。今まではサッカーが目標をくれた。しかしサッカーがなくなったから……。
 将来笑っていられるように。それはもっともだ。その通りだと思う。けど。
 机に向かいながらもそんなことを考えていたら、勉強をするはずが何も進んでいなかった。なんだか今日はひどく疲れた。眠気がやばい。
(1時間だけ……)
そう思って俺はベッドに倒れ込んだ。自分で言うのもなんだけど、この後俺が朝まで眠ってしまったのは言うまでもない。


  【7月20日】
 昼休み、中庭でベンチに座って弁当を食べようとしていると、三河智春がやってきた。三河はサッカー部のマネージャーだった。彼女は普段は割と物静かな方だけど、サッカー部のこととなれば選手たちと同じくらい熱くなって一生懸命にサポートしてくれた。多分自分の好きなことのためにはとことん努力するタイプだ。そしてチームのみんなに優しかった。彼女もかけがえのないチームの一員、まさに縁の下の力持ちだった。
 きっと夏休みにやる3年生の送別会の連絡でもしに来たのだろうと思ったら、違った。
「あの、なんか、今しか言えないような気がするから、言うよ?」
「え、うん」
「えっと、その、若狭くん、できれば、つ…………」
「え?」
「私と付き合ってほしい……」
消え入るような声だ。俺は予想外の告白にぶったまげた。三河は完全に目をそらしていて、腕を組んだり、両手の指を胸の前で合わせたり、髪をいじったりして忙しない。
「すぐじゃなくても! いいからさ、返事待ってるから」
とにかく何か言わなければ、と思って頭に浮かんだ言葉をそのまま口から垂れ流した。
「あ、明日まで、考えさせて……」
三河は俺の方を見て、うんうん、と激しく首を縦に振ってホッとした顔で、でもちょっと逃げるような足取りで中庭から出て行った。
 今、告られたのか、と気付くまでに少し時間がかかった。明日答えるなんて言ってしまった。どうしよう。ボーっとしつつ頭の中ではあたふたとしていると、そこに今度は加賀がやってきた。
「将磨、ここかよ~。ひどいね君も。ちょっとオレがダブリュー・シ―に行ってる間に一人で飯食いに出て行くなんて」
加賀は俺の横に座った。俺はそれで弁当の存在を思い出し、とにかく飯を食うことにした。それを見て加賀が言う。
「あれ、まだ食べてないの。もしかしてオレが来るの待っててくれたの。くっ、泣けることしてくれんじゃねえか」
「待ってない。さっさと食え」
「はい」
たまには外で食べるのも良いだろうと思ったが、やっぱり暑い。夏の日差しが容赦なく降り注ぐ。
「何でここで食うの? 教室はクーラー効いてるぞ」
とごく自然な疑問を加賀が口にする。そんな疑問を抱きながら俺と一緒に弁当を食べているのは、一人でこんなとこにいる俺を気にかけてくれているからだろう。
「いや、特に理由はないんだけど」
と言って俺は遠くを見た。中庭からはグラウンドの半分くらいが見えた。多分、グラウンドを見つめていれば、今は見えない目標が見えてくるんじゃないか、とか俺は思っていた。特に理由はないんだけど。
「なあ、将磨。オレとケンカしない?」
加賀はいきなり変なことを言ってきた。
「何言ってんだ。暑くて頭やられたのか?」
「違うよ。なんかこう、モヤモヤしてる時って、誰かとケンカするじゃん。殴り合ってさ。青春ドラマでやるみたいに」
「ケンカしようって言って、する奴いるか?」
「あーそうか。いや、でもお前、もうちょっと暴れても良いんじゃないの。キレたって良いし、叫んだって良いし、泣いたって良い」
加賀は俺の目を見る。冗談とかで言っている目ではない。俺は何となく目をそらして、弁当のおかずを食べながら言った。
「キレる理由がないよ」
「良いじゃん、理由なんて後で考えれば」
「お前と一緒にすんなよ」
加賀はへへ、と笑う。なんだか無邪気な笑い顔だ。
「それもそうか」
「そ」
それから加賀は黙り込んだ。俺は横目で加賀を見る。彼は黙々と弁当を食べている。そしてふいにまた顔を上げる。
「あ、そうだお前、うちのクラスの摂津と、2組の河内さんが付き合い始めたの知ってた?」
「いや。そうなの?」
「反応薄いなあ、将磨。でも摂津と河内さんって何か微妙なカップルだよな。あまり気が合いそうには思えない。他にも結構カップルいるんだよな、俺らの学年。あの駿河だって、播磨さんとラブラブだからな。あいつああ見えて女ったらしなんだ。まあ2年の時から付き合ってて、それでいてサッカーには影響なかったからまだ良いよ。そこらへん駿河の器用なとこだよな。でも3年の今の時期から付き合い始めるのは話が別。高校生活最後の記念に、恋愛しとこう、みたいなもんだろ。恋に恋してんだよ。愛がねえ! 愛が足りねえ!」
中庭で愛がない、などと叫ぶ隣にいる男は多分傍から見たらおかしな人だ。
「そんなの意味あるか? パートナーがいないと、ストレスのはけ口がないと、受験に挑めないってか。ばーか。弱虫!」
加賀は大げさに言っているが、確かに少しイラついているようだ。でも、加賀の言うように、今から付き合い出す奴らって、馬鹿なんだろうか。俺はさっきの三河の告白を思い出した。
「あのさ、これ言うと怒るかもしれないけど、俺も、告白された」
加賀は弁当から顔を上げてこっちを見る。
「ふぇ!? ふぁれに?」
「口の中の物を飲み込んでから言えよ」
「誰に告白されたんだよ」
俺は言おうかどうしようかと考えた。三河は多分俺に告白したということをみんなには知られたくないんじゃないか。答えない俺を見て加賀は言った。
「相手は言えねえか。まあ良いけど。付き合い始めたらどの道、すぐ話は広まるぞ」
「いや、でも今は言わない」
「ったくお前も付き合っちゃうのか。将磨と一緒に、彼女いない同盟を作ろうと思ってたのに」
「待てよ。俺はまだ付き合うと決めたわけじゃ」
「は? 付き合うに決まってんだろ。女子に告られて拒否する男がどこにいる」
さっきまで恋愛反対みたいなことを言っていたくせに、今度は俺に付き合えなどと言う。矛盾してる。結局加賀が1番恋に恋してるのではないか。
 そう言えば、三河の言った言葉で少し気になるところがあったので、加賀に聞いてみることにした。
「なあ、『今しか言えない気がするから、言う』とか言われたんだけど、どういうことだと思う?」
「それって向こうが告白する時に言ったってこと?」
俺はうなずく。
「そりゃあれだろ。これから夏休みだから、学校で会えなくなるじゃん。気持ちが冷める前に、ってことじゃないの」
「なるほど」
納得できる答えではある。みんな、今しかできない、今しか言えない恋ってやつをしてるんじゃないのか。それは単純に高校最後の記念のための恋なんだろうか。
「で、結局相手は誰なの? その子可愛い? オレにだけ教えてよ」
その時、予鈴が鳴ったので俺は中庭を後にした。慌てて加賀がついて来る。三河には、何と答えようか……。

 夕方、帰り道で知っている顔に出会った。中学の時に俺の担任だった、能登先生だ。先生は今日は仕事が早く片付いたらしい。一緒に近くの喫茶店に入った。先生はアイスミルクティー、俺はアイスコーヒーを頼んだ。ほんのりとした苦味が舌を楽しませる。
「若狭は今年受験だよな。どこ目指すんだ?」
「○○大です」
「あそこか。良いじゃないか、頑張れ。じゃあこの夏は猛勉強だな」
「はい、まあ」
まだ勉強に集中できていないのが現状だけど。
「こんなとこでおっさんと茶してる場合じゃなかったか?」
「あ、いえ。気分転換になるし、先生と話してるとまた勉強頑張る気も起きてくるんで」
能登先生はハハ、と笑った。
「若狭、お世辞が上手くなったんじゃないか。いやしかし、お前たちみたいな若い連中は良いな」
「何がです?」
「これから先の人生、いろんなことが待ってるじゃないか。よく言われるが、可能性に満ち溢れていると言うのかな。全く、歳はとりたくないもんだよ」
「先生だってまだまだでしょ」
「もう50過ぎてるんだぞ。もちろん、すぐにくたばるつもりはないけど、それでも最近、人生をどう終わるかとか、何が残せるかみたいなことを考えてしまうんだよな。若い頃もっとこうしておけば、と今になって後悔することばかりだ」
先生はどこか上の方を見つめて話す。
「そうなんですか……」
「お前も子供とか、孫とかを持つようになれば分かると思う。いいか、後悔しないように生きないとダメだぞ。自分の未来のことをよく考えるんだ。時間は決して元に戻らないからな」
「はい……」

 しばらく話をして俺と先生は喫茶店を出た。別れ際、
「20歳になったらあの時のクラスみんなで飲みに行こうな。おれも誘ってくれよ?」
と先生は言って、去って行った。今、俺は18歳。20歳まであと2年か。意外と大人デビューは目前だ。もうすぐで10代ともオサラバしなきゃならないんだ。

 家に帰ると、珍しくテーブルにお菓子が用意されている。
「ちょっと前に、おまんじゅう貰ったんだけど、賞味期限切れるから食べちゃってよ」
と母さんが言う。そういうことかい、と思いながらもありがたく頬張りながら、箱に書かれた賞味期限の表示を見る。確かに今日の日付だ。賞味期限の日に、まんじゅうに何か急に劇的な変化があって不味くなるわけではない。徐々に徐々に、少しずつ変化していくのだ。終わりに近づくんだ。でも今日のまんじゅうは昨日のまんじゅうとも明日のまんじゅうとも少し違うはずだ。20歳になった途端、いきなり自分の中の何かが変わるわけではないのだろう。でも、その瞬間に10代の殻を脱ぎ捨てて、俺は20代の皮膚になるんだ。もちろん俺はまんじゅうとは違うわけだけど、賞味期限ジャストのまんじゅうは、今しか存在しない。
「ん、美味いなこれ」
まんじゅうの箱には、「葉月堂」と書いてある。どこかで聞いたことのある名前だけど……。


  【7月21日】
 次の日、俺は三河に返事をした。2人で8月の夏祭りに行くことを約束した。つまり俺は三河の告白にOKをしたということだ。他の奴らが恋愛をする理由とかあれこれ考えていたけど、最終的には俺が三河を好きになれるかということを考えた。そうしたら答えはすぐに出た。
 まあ少しずつではあるけど、時間が経つにつれて部活を引退してすぐの頃よりは気分が楽になっている気がする。多分俺はあの試合をようやく終えることができたんだと思う。負けを認めることができたんだと思う。



   ◇Daseinの呪文と光の余命
 全ての物事にはいつか終わりというものが来る。受け入れられない終わりを受け入れた時、そこからもう既に何かが始まっているのかもしれない。しかしその始まりも、終わりに向かう始まりだろうか。そうかもしれない。でも俺はこう考える。終わりが来るまで本当の終わりなんてものは存在しない、と。重要なのは、時の流れの中で今自分の立っている位置だ。



  【8月5日】
 真夏の35度灼熱光線。日陰に時折吹き込む風は少し暖かいがそれでも結構気持ち良い。木々の葉がカサカサと鳴る音がまた耳に心地良い。
 夏休み。もう8月だ。俺は近所の小さな神社の、神殿とか本殿と呼ぶのだろうか、その建物の屋根の下で寝転んでいる。勉強の方は、だいぶ集中してできるようになっている。でも疲れると、よくこの神社に休憩しに来る。神社は街から少し山を登ったところにある。この神社は涼しいし、人もいなくてひっそりとしているから、自分だけの世界に入ってリラックスできるのだ。蝉の声は大音量だけど、蝉の声だけで他に物音がしないこういう場所だと、かえって心休まる気がする。とりあえずは勉強する気が起きてきたけど、まだ何のために勉強しなきゃいけないのかは分からない。まだ見えてこない目標を、俺はここで静かに見つけようとしているのかもしれない。

 何かの音がして俺は目を覚ました。寝転んでいたら心地良さに眠ってしまったらしい。目をこすって境内を見渡すが誰もいない。耳を澄ますと、どうやら音は石段の方から聞こえてくるようだ。ハッ、ハッ、という息づかいだ。石段の方に目をやると、山の下に広がる街を見渡せる。小さい頃から、ここから見る風景が好きだった。昔と比べると街に建物が増えているけど、やっぱり今でも好きだ。
 予想通り、石段から誰かが上ってきた。だいぶゆっくりとした足取りのその人は、腰の曲がったお婆さんだった。この暑い中石段を上ってきて、お婆さんは苦しそうにしながら白いハンカチで額を拭いている。ハッ、ハッ、と息を切らしながら、お婆さんは賽銭箱の前まで来る。俺の座っているところは本殿の端の方だからお婆さんはこっちに気付いてはいないようだ。それにしてもお婆さんはやけに必死な様子で、なんだか少し人を心配させる挙動だ。
 カランカランと鐘が鳴る。お婆さんは小銭を賽銭箱に入れ、2回お辞儀をし、2回拍手し、合掌したままもう一度お辞儀した。そのままお婆さんは動かず、ずいぶん長いことお祈りをしている。信心が篤い人もいるんだなあと思って見ていると、ようやくお婆さんは顔を上げた。するとお婆さんはふいに俺の方を見た。俺は軽く頭を下げて会釈する。お婆さんはにっこりと微笑んで、こっちにゆっくりと近寄ってきた。
「こんなとこにあなたみたいな若い人がいるとは思わなかったわ」
お婆さんはしわがれた声で言う。近くで見るとその顔に刻まれたしわは深く、結構お年寄りなのかもしれない。
「ここは静かなので、ちょっと休憩してたんです」
お婆さんはまた少し笑った。
「良い場所でしょう、ここ」
「そうですね、良いところです」
お婆さんは俺の隣に座った。お婆さんは俺と話したがっているのかもしれない。お年寄りの話は長いからあまり好きではないけど、このお婆さんは何となく嫌な感じではない。何か話した方が良いのかな、と思って俺の方から聞いてみた。
「何をお祈りしてたんですか」
風が通り抜ける。お婆さんは空を見上げて、すぐには答えなかった。俺もお婆さんの視線を追って日の傾き始めた空を見上げる。意外と長い間眠ってしまったのかもしれない。
「家族みんなが、元気で幸せでいられますように、ってね」
お婆さんは静かにそう言った。
「そうですか」
案外普通な祈りだ。普通ではない祈りを期待していたわけではないけど、それだけのことであんなに長くお辞儀していたんだろうか。
「あなた、今何かやりたいことはあるかい?」
唐突にお婆さんは訊いてきた。俺は何と答えようか迷った。目標が見つからなくて悩んでいるところにこの質問が来たからだ。
「やりたいこと、ですか……。実はあまり思い浮かびません。大学に進もうとは思ってるんですけど、その先の目標が自分でも決められなくて」
お婆さんは笑って、首を振った。
「違うわ。将来何をしたいかではなくて、今、何をしたいかってこと」
俺は少し驚いた。将来ではなく、今やりたいこと? 何だろう。言われてみればそれは今まで考えたこともなかった。黙って考えているとお婆さんは言った。
「多分難しい質問ね。私もあなたくらい若い頃は答えられなかったと思うわ。だって若い頃は将来のことを考えるに決まっているからねえ。でもこの年になると、昔のことを思い出してばかりだわ」
お婆さんは立ち上がった。気付くと、空は少し赤くなり始めている。
「おかしなこと話してごめんなさいねえ。そろそろ帰るわ。あなたも遅くなる前に帰りなさいな」
お婆さんは石段を下りていく。俺は座ったままその背中を見送った。また境内に静寂が戻ってくる。カナカナカナ、とひぐらしが鳴き始めた。空が暗くなっていく。今日が、暮れていく。


  【8月6日】
 昼食を食べ終わった時に、三河からメールが届いた。「明日一緒に勉強しない?」というお誘いの内容だ。「良いよ。9時30分に学校の図書館で良い?」と返信。すぐに返事が来て、「分かった。楽しみ」と絵文字付きのメールを見ると、今俺って三河と付き合ってるんだよな、と今更ながら思う。そう思うとちょっと心臓がどきどきした。
 昼過ぎ。一番暑い時間帯だ。部屋のクーラーが壊れて動かなくなったから、ひどい暑さで、何もしてなくても汗がにじんでくる。俺は家を出た。最初は近くのコンビニにでも行って涼もうと思っていたんだけど、どうしてか足が神社の方に向いた。石段を上って行く。今日も神社は静かだ。階段を上りきると、境内に人影があることに気付いた。
 昨日のあのお婆さんだ。ちょうどまたお祈りをしている最中だ。邪魔してはいけないと思って離れたところでしばらく見ていると、頭を上げたお婆さんが振り返ってこっちを見た。俺は微笑んで、お婆さんの方へ向かう。
「あなたが、また、来るような気がしてたわ」
お婆さんはハンカチで汗を拭きながら言った。俺も、なぜかここにお婆さんがいたことに驚きはしなかった。昨日言われたことが引っ掛かっていて、この人と話をしたいと期待していたのかもしれない。俺はお婆さんと一緒に、本殿の木製の階段のところに腰を下ろした。木陰に座ると、ふわりと夏の匂いがした。夏の匂いとはどんな匂いなのか、と訊かれるとちゃんと答えられないのだけど、何となくそういう風に感じる匂いだ。街では感じられない、そんな空気がここにはある気がする。
 ふう、と息をついてから、お婆さんは持っていた袋から小さな容器を取り出して、俺に差し出した。
「これは?」
「あなたに、あげようと思って、持って来たのよ。どうぞ、食べて」
容器のふたを開けてみると、白い大福が1つ入っていた。さあさあ、と勧められるのでぱくりと食べてみると、美味い! 中にはイチゴが入っている。ちょうど良い甘さと酸っぱさと、それと嬉しさが、暑さを一瞬吹っ飛ばしてくれる。
「すごい。おいしいです」
「良かったわ。これ、うちで作ってるんだ。うちは『葉月堂』っていう、和菓子屋なのよ」
容器のふたには、その「葉月堂」の文字がある。前に食べたまんじゅうもそうだった、と思い出す。そう言えば、俺の家からは少し離れたところだけど、街の中にそんな名前の店があった。その店のお婆さんだったのか。
「わざわざすみません。今度お店の方に買いに行きますよ」
「ありがとう」
お婆さんは笑って、またふう、と息をついた。今日は昨日よりもさらに暑い気がする。蝉の声がすごい音量で響いている。
「今日も、お参りしてたんですね」
お婆さんはうなずく。
「今日は、あなたのこともお祈りしておいたわ」
「えっ?」
「あなたがやりたいことを、見つけられるように、と」
今、俺がやりたいこと。昨日から考えているけど簡単には見つかりそうにない。ふと、加賀の言葉を思い出した。もうちょっと暴れても良いんじゃないの、と彼は言った。加賀が言うみたいに、俺は今何かにキレたいのだろうか。それとも叫びたいのか、泣きたいのか。
「今やりたいことって、どうやったら見つかるんでしょう?」
お婆さんは、ふふ、と笑った。
「さあねえ。それは、私も分からないわね。力になれなくて、申し訳ないけれど」
お婆さんは笑う。なんだかちょっと誤魔化すような口調だ。それは自分で考えなくちゃいけないんだ、とお婆さんに諭されたような気がする。
「でも1つ思うことがあるの。大事なのは、自分の今を、見つめるってことじゃないかしら」
「どういうことですか」
「今、ここにあなたが、存在していることを、ちゃんと分かるってことかしら」
ますます分からない。俺がここにいるということくらい分かっている。それが大事なことなのだろうか。
「あなたは、将来の目標がない、って言ったわねえ。確かに、将来について考えることは、大切。でも、今について考えてみることも、良いと思うのよ」
そう言われて、俺は思った。もしかしたら、将来のことを考えるよりも、今を考えることの方が難しいんじゃないか、と。考えている間に、考え始めた時の「今」は過ぎて行ってしまうのだ。分からない。これはまた悩みそうだ。

「じゃあ、また。お店でも会えると、嬉しいわ」
もう一度ハンカチで顔を拭いてから、お婆さんは立ち上がって歩いて行く。
「お店、行きます。またお話聞かせてください」
と俺はお婆さんの背中に向かって言った。お婆さんは、振り返って笑う、のだと思っていたけど、そうはしなかった。
 お婆さんは立ち止った。どうしたのか、と思って見ていると、いきなりお婆さんは神社の地面の敷石に手をついてうずくまってしまった。様子がおかしい。
「お婆さん……?」
慌てて俺が駆け寄ると、お婆さんは苦しそうに息をしている。喘息のような発作を起こしているのだ。
「しっかり!」
どうしよう、このままだと呼吸困難に陥る。お婆さんは完全に地面に寝転ぶ姿勢になった。俺は何が起きているのか分からず混乱しつつ、携帯を取り出して急いで救急車を呼んだ。場所と症状を言う。とにかく早く来てください! と何回か叫んだ気がする。それから救急車が到着するまでの間、俺はお婆さんお婆さん、と大声で呼びかけ続けることしかできなかった。苦しみ続けるお婆さんを見ていると、俺までどうかしてしまいそうになる。喉が詰まる。息が苦しくなる。
 救急車が来たのは電話をしてからおそらく5、6分だったと思うけど、すごく長く感じて、早く来いよ、と何度も心の中で叫んだ。お婆さんを乗せた救急車のサイレンが遠ざかって行く。ふと気付くと蝉の声が、止んでいた。いつも鳴いていた蝉の声が消えると、なんだか不気味なほど静かだ。そんな静寂の中で、まだ高鳴っている鼓動がドクドクと現実感を突き付けてくる。
1人神社に残されて呆然とする俺は、敷石の上に落ちたお婆さんの白いハンカチを見つけて、それを拾い上げた。ハンカチは結構古く、使い込んである感じだ。よく見ると「おばあちゃん」と刺繍が入っている。


  【8月7日】
 学校の図書館。三河と俺は4人がけのテーブルに向かい合って座っている。勉強をしに来たのだけど、落ち着かず、全然集中できない。開いた問題集がまだほとんど進んでいない。その理由が、恋人が目の前にいるから、だったらまだ良いんだけど。三河には悪いと思うけどそうじゃない。お婆さんのことが心配でしょうがないのだ。重い病気なんじゃないかとか、今どんな状態なんだとか、もしあってはならないことになっていたら、どうしようとかいろいろ考えた。考えてもどうにもならないけど考えてしまう。2日間、それもとても短い間しか会っていなかったのに、何かお婆さんには人を引き付ける力があった。お婆さんのいる病院は分からないけど、1つ行くあてはある。「葉月堂」だ。でも、果たしてそこに行くべきなのかどうか……。それに、今は三河と勉強中だ。
 下を向いてそわそわしていると、三河が俺のノートの上に手を伸ばして、トントン、と指で小さく音を立てた。顔を上げて彼女の方を見ると、三河は小さく何かを囁いた。夏休みでも、他にも勉強をしてる生徒がいるから、大きな声は出せないのだ。
「え?」
俺が聞き取れなくて耳を近付けると、三河も少し前かがみになった。
「ちょっと飲み物でも買いに行こうよ」
と三河はもう一度囁いた。彼女の吐息をほんの微かに耳に感じた。俺はうなずいて、2人で図書館を出た。
 自販機のところまで来ると、三河は飲み物を買わないで俺に言った。
「ねえ、どうかしたの? 具合でも悪い?」
三河は俺を心配して、休憩しようと言ってくれたのだ、と気付く。
「いや、そういうわけじゃないんだけど」
「今日は、もう帰ろうか」
「え、でもせっかく誘ってくれたのに」
まだ昼過ぎで、夕方までいるつもりだから、帰るには早過ぎる。
「勝手に私が急に誘っちゃったし」
「いや、俺だって三河と勉強できて嬉しいんだからさ」
恥ずかしいこと言ったな、と思ったけど、これは紛れもなく本当のことだ。三河は笑った。
「また今度一緒に来れば良いよ。ね?」
「でも」
「疲れた時は休む。勉強に集中できない時はきっぱり諦めて何も考えない。それでまた集中できる時に再開すれば良いの。休むのも受験のうちなんだよ」
なんで三河の方が説得するような口調なんだ、と思いながらも、この人はこうやって周りの奴のことをすごく考える性格なんだよな、と思った。彼女はそういう優しい人だ。その優しさに俺は負けた。
「うん、ごめん……。今度は絶対ちゃんと約束守るから」
そう言うと三河はホッとしたように笑ってうなずいた。

 自分はまだ学校に残って勉強する、と言う三河を残して、俺は1人で校舎を出た。本当は意地でも彼女と一緒に勉強すべきだったかもしれないけど、そうしたら俺はずっと苦しかったし、三河を心配させ続けると思った。一旦家に帰り、「葉月堂」へ向かう。お婆さんのハンカチがあったことを思い出して、それを持って家を出た。
 「葉月堂」の店の入り口は閉まっていて、しばらくお休みします、申し訳ありません、と書いてある。俺は裏口に回った。お婆さんの住んでいる家の玄関の方だ。チャイムを鳴らすけど誰も出てこない。やはり病院の方に行っているのだろうか。諦めかけた時、中からドタドタと誰かの足音がして、戸が開いた。
「すみませんけど今日はお店お休みなんです」
と言いながら現れたのは、若い女の人だ。女の人は、俺の顔をちらっと見てから頭を軽く下げて、すぐ戸を閉めようとした。
「あ、あの。これを届けに来たんです」
俺はお婆さんのハンカチを差し出した。女の人はそれを受け取って、びっくりしたように眼を見開いた。
「これ、コウコおばあちゃんの……! もしかして君、救急車を呼んでくれた子?」
はい、と答えると、彼女はうつむいてハンカチを見ながら、ありがとう、と言った。それから彼女は、ちょっと待ってねと言い、家の中に姿を消した。少しして戻ってきた女の人は、少しの荷物と車のキーを持っていた。そして、玄関の戸に鍵を掛けた。
「ちょうどこれから病院に行くところだったんだよ。話も聞きたいし、君も一緒に来てくれない?」
そう言いながら彼女はもう車庫の軽自動車のドアを開けて、素早く運転席に乗り込む。ゆっくりと車は車庫から出て、俺の前に止まった。女の人は中から手招きして、乗って、と言った。俺は急いで助手席に乗り込んだ。車はお婆さんのいる病院へと滑り出した。

 運転席に座る女性は、日向亜珠希(ひなたあずき)と名乗った。お婆さんの名前は、日向幸子というらしい。亜珠希さんはあのお婆さんの孫だ。あの白いハンカチは亜珠希さんが昔、お婆さんにプレゼントした物らしい。あの刺繍はそういうことだったのか、と俺は納得した。とにかく俺も名前を名乗って、神社でお婆さんと会って話をしたこと、その時「葉月堂」のいちご大福を貰ってお婆さんの家が「葉月堂」であると聞いたことを伝えた。
 亜珠希さんの両親は先に病院に行っているのだと言う。亜珠希さんはまだ大学の期末試験があってすぐには病院に行けなかったのだそうだ。
「お父さんから聞いたけど、幸子おばあちゃんは肺にガンができてるみたい」
ぽつりと亜珠希さんは言った。
「えっ」
「結構、進行してるみたい。検査したら、小細胞ガンとかいう、進行が速くて悪性のガンだと分かったって言ってた」
「どうして……」
昨日までは元気そうだったじゃないか。そう思って、思い出した。お婆さんの荒れた息づかい、ハンカチで汗を拭く手。もしかしてあれはこういうことだったのか。そんなの俺が気付くはずもない。
「おばあちゃんは、神社にお参りに行ってたのね?」
「はい、長い間お祈りをしてました」
確か、家族が元気で、幸せでいられるように、とお婆さんは言っていた。
「そう……」
自分が倒れてちゃしょうがないじゃないですか、とお婆さんに対して口には出さずにつぶやく。
「とにかく病院に行ってみないと分からない」
と言う亜珠希さんの額に、夏の日差しが当たって汗が光っていた。

 病院に着くと、俺と亜珠希さんは急いでお婆さんのいる病室に面会に行った。リノリウムの床の、少し暗い廊下を小走りで進む間、病院独特のにおいに俺は少し息苦しさを感じた。日向幸子の文字が書かれた病室のドアを開けると、50歳くらいの男女が俺たちの方を向いた。亜珠希さんの両親だ。こちら若狭将磨くん、救急車呼んでくれた子、と亜珠希さんが紹介する。俺はよろしくお願いします、などと言うのはおかしいと思い、黙って軽く頭を下げる。亜珠希さんのお父さんが、ありがとう、君の助けがなければおばあちゃんはもっとひどい状況だっただろう、と言った。
 お婆さんは、ベッドで眠っている。腕に点滴がつながっていて、鼻に細いチューブが入れられている。人工呼吸器で酸素を取り入れているらしい。亜珠希さんのお父さんの話では、今は気管挿管という経路で人工呼吸を行っているけど、長い間人工呼吸が必要になるため、気管切開ということをするらしい。俺には全く分からないけど、なんだか痛々しい感じの言葉だ。ガンは既に周りの臓器に転移も見られ、手術や放射線治療はせずに抗ガン剤による化学療法がとられると言う。
「正直、厳しい戦いになるだろう、と担当医の先生に言われた」
亜珠希さんのお父さんは肩を落として言った。俺はショックだった。でもそれ以上に亜珠希さんはひどいショックを受けているに違いない。彼女の身体が小刻みに震えているのが分かる。
 1時間ほど、4人は椅子に座ってお婆さんを見守っていた。お婆さんは眠ったままだ。亜珠希さんのお父さんはいくつか俺に質問した。俺の高校のこととか、家のこととか。この場には関係のないことばかりだ。でも沈黙に沈んでしまうのを防ぐのにはちょうど良かったと思う。
「そうか、若狭くんは今年受験生か。忙しい時に、巻き込んでしまったな……」
「そんな! 巻き込まれたなんて全然思ってません」
「君は良い子だ、ありがとう」
俺は曖昧に微笑む。救急車を呼ぶことしかできない俺が、良い奴だとは思えなかった。

 この場に部外者の自分がいても何もできないし、これ以上いると亜珠希さんたち家族の邪魔になるかもしれないから、俺はそろそろ帰ることにした。辞去しようとすると、
「私、送って行くよ」
と亜珠希さんは言ってくれた。でも俺はそれを断った。
「お婆さんのそばにいてあげてください」
「……ごめんね」
亜珠希さんは申し訳なさそうに言った。
「あの、1つお願いがあるんですが」
「何?」
「またお見舞いに来ても良いですか」
3人は、もちろんだと言ってくれた。俺はお礼を言って、病室を出た。足早に病院を出て、家の方へ向かうバスに飛び乗る。日は傾いて、西日がまぶしい。1人になると、悲しみが込み上げてきて、泣きそうになった。でも泣きたくないから必死にこらえる。とにかく俺にはお婆さんが早く良くなることを祈ることしかできない。



  【8月11日】
 俺は毎日お婆さんの入院している病院に行った。亜珠希さんたちは俺も一緒に車で送る、と言ってくれたけど、亜珠希さんたち家族にも俺にもそれぞれの都合というものがあって、俺が3人を邪魔するわけにはいかないので、ちょうど俺と亜珠希さんたちの時間が合う時以外はいつもバスで病院までを往復している。財布は少しずつ軽くなるけど、そんなの気にならない。俺は勉強しなくちゃいけないことも忘れて病院に通っていた。家族には友達の家で勉強するとか学校に行くとか嘘までついて。
 お婆さんは検査とか診察とかで忙しい。お見舞いに行っても病室で眠っていることが結構多かった。病室に俺が行った時にお婆さんが起きていたことがあるけど、その時お婆さんは俺の顔を見て何も言わずに少し笑った。弱々しい笑みでなんだか悲しみが込み上げる。ガンとの闘いは、相当疲れるみたいだった。それはお婆さんだけでなく、周りで見守る亜珠希さんたちも。
 俺と亜珠希さんはよく2人で話をする。携帯でメールを交換することもだんだん増えている。彼女とは歳が近いからか話が合うことが多い。話していて気付いたけど、こんな厳しい状況でも彼女はよく笑おうとする人だ。どことなくその笑顔はお婆さんに似ている気もする。
「『葉月堂』っていう名前はどうして付けられたと思う?」
と亜珠希さんが訊いてきたことがある。
「八月に開業したから、とかですか?」
「うーんちょっと惜しいかな。実は創業したのが幸子おばあちゃんとおじいちゃんなんだ。で、おばあちゃんが8月生まれなのね。それで当時2人が『葉月堂』と名付けたんだよ」
「へえ」
「おばあちゃんとおじいちゃんはね、若い時から2人とも和菓子作りが好きで、自分のお店を開くのが夢だったんだって。ある日あるお菓子屋さんで働いてた2人はお互いの夢を知って、そしたら二人とも相手のことが好きになってね、電撃結婚というやつね」
「す、すごい……」
「お父さんもお母さんも『葉月堂』で働いてるんだ。私も未熟だけどお店を手伝ってるんだよ」
「大学行きながらですか。大変じゃないですか?」
「できる限りのことを頑張ってる。おばあちゃんもお父さんもお母さんも、私に自分の好きな道に進めって言ってくれてるけどね、ちょっと悩んでて。大学の勉強を生かして学校の先生になるか、お店を手伝うか。あ、ちなみに私もおばあちゃんと一緒で8月生まれ。もうすぐ21歳だよ。『葉月堂』をいつか継ぎたい気持ちはあるんだけど、教職に就くために大学に入ったのも事実だし」
将来について真剣に道を選ぼうとしている亜珠希さんを見て、俺は3歳しか違わない彼女にとても大人っぽさを感じた。確実に、亜珠希さんは俺よりどこか先の方にいて、俺は彼女より遅れていて何かが欠けている、そんな感じがした。これが大学生と高校生の違いなのかな、とか思う。
「おばあちゃんとは神社で何を話したの?」
と亜珠希さんに訊かれたので、俺は神社での会話を思い出す。そこで亜珠希さんに質問してみた。
「亜珠希さんは、今何かやりたいことがありますか?」
あまりに唐突だったためか、亜珠希さんは笑いだした。しかし、俺はそんなにおかしなことを言っただろうか。やっぱり歳は近くても分からないところは分からない。しばらくして亜珠希さんはやっと笑いを抑えて、まともにしゃべることができるようになった。
「ご、ごめん。将磨くん、すっごい真面目な顔で言うからさ。なんか君って可愛いなあ。ちょっと弟ができたみたいな気分」
弟ができたみたい、と言う彼女は1人っ子のようだ。俺も兄弟姉妹がいないから、何となく親近感が湧く。
 亜珠希さんはまだ笑いをこらえるようにしている。……ちょっと馬鹿にされている気分だ。まあ年下の高校生に「今何がやりたいですか」なんて尋ねられたらおかしくもなるかもしれないけど。俺だって中学生にいきなりそんなことを訊かれたら多分不思議な気分になるだろう。俺は笑われて少し恥ずかしくなったので、とにかく先を促した。
「いいから、質問に答えてくださいよ」
亜珠希さんはあまり悩まずに答えた。
「さっきも言ったでしょ? やっぱり先生になるか、『葉月堂』のお店を継げるように頑張るか、どっちかってことになるかなあ」
やっぱり、そういうふうに答えるよなあと思った。俺はさっき笑われたことに対して、卑怯と知りながら一矢を報いるような気分になる。
「いや、それは将来のことで、聞きたいのは今現在についてなんです」
そう言うと亜珠希さんは、えっと言って驚いた表情になった。自分がお婆さんに言われたことをそのまま使って亜珠希さんを引っかけるのも少し汚いな、と思って俺はお婆さんとの会話について話すことにした。
「実は、お婆さんにそう質問されたんです。それで俺、答えられなくて、若い時は将来について考えるものだから、ってお婆さんに言われました。でも歳をとると昔のことばっかり思い出すんだと言ってました。それで、将来のことを考えるのは確かに大事だけど、今のことを考えるのも大事、ということを言われました」
「今について考える、か。それってもしかしたら、将来のことを考えるのよりちょっと厄介かもね……」
俺も亜珠希さんと同じ感想だ。将来ってつまり希望とか目標みたいなものだ。でも「今」というのはもっと……スピーディーな気がする。
「今やりたいことを見つけるためにはどうしたら良いかって尋ねたんです。そしたらお婆さんは、今ここに自分が存在していることをちゃんと分かること、と言ったんです」
「自分が存在していることをちゃんと分かること……」
そもそも「今」って何なんだ。「今」とはいつのことだ。お婆さんの言おうとしたことは何だ。
「おばあちゃんらしいと言えばおばあちゃんらしいかもね、こういうセリフって。たまに私じゃよく分かんないこと言う時があるんだよ。でも多分それっておばあちゃんの強さなんじゃないかな。今を強く生きろ! みたいなの」
「そう、かもしれませんね」
「おばあちゃんはね、もう80歳超えてるけど、家のこともお店のこともすごく熱心に、明るく頑張っててね、すごく強い。だから、おばあちゃんはガンにだって負けない。私はそう思う」
そういう亜珠希さんの目には、信念が輝いているように見える。
「ですよね、絶対治りますよね」
亜珠希さんはうなずいて笑う。そう、お婆さんは強い。だから俺はお婆さんに引き付けられたのかもしれない。お婆さんの強さを、信じよう。そう思った。



  【8月13日】
 今日はサッカー部の3年生送別会だ。サッカーの強いすごい高校は冬の大会に進出するけど、俺たちみたいな進学校では3年生はみんな夏で引退。夏休み前に引退した3年生のために毎年夏休みにお別れ会をやる。一昨年と去年は先輩を送り出したけど、今年はついに俺たちが送り出される方になってしまった。今年もいつものように学校のグラウンドに集まり、3年生チームと1、2年生チームに分かれて試合をやる。1、2年生だからと言ってナメてかかることはできない。3年生の言わば最後の試合だから、1、2年は本当に本気でかかってくる。こっちも手加減などしない。90分間もうガチの戦いってやつだ。だからこそ熱くなるし、最高にサッカーを楽しめる。
 勉強に集中している3年生たちも今日はとにかくサッカーのために集まった。駿河も、加賀も、三河もいる。なんだか引退前の部活に戻ったような、そんな気がした。空は快晴。蒸し暑いけど、これ以上ない良い天気だ。
「3年生諸君、今日は、思いっきりハメ外して騒げ! 後輩に負けたら春になってもお前らだけ卒業させないからな!」
顧問の淡路先生のそんなかけ声にみんなから歓声が上がる。
「あ、でも怪我だけは絶対にするなよ、受験生!」
そんな先生の言葉にも、また歓声が上がる。怪我するなと言われて「イェーイ」とは意味が分からないけど、とにかくみんなテンションが上がってる。特に加賀のはしゃぎっぷりはすごい。俺だってすごくわくわくするし、体の中から熱が湧いてくるような感じだ。あの試合以来、こんなのは初めてかもしれない。

 そうして始まった試合で、俺は1つシュートを決めた。3年生チームのみんなが俺に覆いかぶさるようにして喜ぶ。誰かが俺の首に腕を回し、誰かが俺の頭を揺さぶり、誰かがチョップをしてくる。苦しい。でも嬉しい。楽しい。
「将磨、ナイス!」
と駿河が言い、
「将ちゃん、惚れちゃう」
と加賀が言う。俺は親指を立てて応える。
その後俺は交代してフィールドを出た。全員がゲームに参加するのがルールだから、目まぐるしく交代がある。
「ナイスゴール」
と言って三河がタオルとスポーツドリンクを渡してくれる。「サンキュー」と俺が受け取ると、三河は笑った。
「若狭くん、今すごい良い顔してる」
「そう?」
「うん、かなり」
俺と三河は同時に吹き出した。今、ここで仲間たちと一緒に過ごせることが、どうしようもないくらい素晴らしいことだと俺は思った。あのPKの時の失敗から、自分が完全に立ち直っていることに気付いた。やっぱり、サッカーは楽しいスポーツだ。

 試合は、4対1で3年生チームが勝った。そして試合後は……。
「焼っき肉ぅ!! 早く食わせてえ!」
「おい加賀、人の耳かじんなよ!」
ということでみんなで焼肉屋へ。淡路先生が号令をかける。
「いいかお前ら。今日は食べ放題ということだから、あんまり食うんじゃねえぞ~!」
「はーい、分かりましたー」
って俺ら馬鹿だな、と思いつつ、最高だと思った。
 散々食いまくった後、夏休み前の大会の時に撮った3年生の集合写真を渡された。額に入った、でかい写真で、3年生全員の名前が書かれているやつだ。みんな良い表情をして写っている。今、俺はこの写真の時のような表情を取り戻せた気がする。ユニフォーム姿の少し懐かしい自分に1人で感動しつつ、そして興奮覚めやらぬままに送別会はお開きとなった。

 なんだかよく分からないうちに、俺はみんなに元気づけられて、よく分からない疑問とか違和感とか不満とか不安のようなものを克服した。時間が何かを解決していく。そんな気分だ。俺は病院にお見舞いに通いつつも、勉強にも身が入るようになっていた。実際には問題は解決されていなくても、何かを乗り越えたという気になっていた。でも俺は忘れていただけかもしれない。嫌でも前を向いて、どこかへと絶えず進まされるこの生き方に流されていたのかもしれない。そうやってとにかく笑って、何かを隠し、逃げようとしているのだ。



  【8月18日】
 悪い夢を見た。寝苦しい夜。熱帯夜だった。
 俺は1人で緑の芝の上にいた。弱い雨が降っている。振り向くと11メートル先に四角いサッカーゴールが置かれていて、下を向くと足元にボールが転がっていた。その時、いきなり周りから歓声が聞こえてきた。驚いて視線を上げる。スタンドで応援する人たち。さっきまでいなかったはずのチームメイトたちが、俺の後ろから祈るような視線を向けてくる。駿河も加賀も、ベンチには淡路先生と三河もいる。みんなが俺に注目している。そして、ホイッスルが吹かれる。キーパーが手を広げる。
(あの時と、同じだ)
そう思ってボールを蹴る。思いっ切り、力を込めて、ど真ん中に。でも、振りぬいた足は空を切っただけだった。ボールの感触がない。何もない。俺は暗いどこか闇の中へ落ちていく。そこには誰もいない。自分自身さえもいない。怖い……。
 目が覚めると、気持ちの悪い汗をかいていて服が肌に張り付いていた。カーテンの隙間から日が差し込んでいる。もう朝だ。起きなくてはならない。ひどい目覚めだった。

 最初に病院に行った日から10日ほどたった。お盆が過ぎて、夏休みももう終わりへ向かって行こうとしている。そんな時、俺の携帯が鳴った。亜珠希さんからのメールだった。「今から病院来れる? ちょっとメールじゃ言いにくいことがあって」とだけ書いてある。「何かあったんですか?」と返信したけど、亜珠希さんからは返事が来ない。理由は分からないけどとにかく病院に行くしかないな、と思って俺は家を出た。何か、少しだけ嫌な予感がする。
急いでいる時に限って、病院までの道は渋滞していた。バスはなかなか進まない。バスの中も混雑していて、人込みが暑苦しい。苛々は募るばかりだ。

 ようやく病院に着いた俺は、病室のある上の階ではなくて1階のホールの長椅子に1人で座っている亜珠希さんを見つけた。
「亜珠希さん、どうかしたんですか」
と声をかけると亜珠希さんは少し驚いたように顔を上げた。暗い表情、に見える。
「あ、将磨くん。来てくれたんだ」
彼女はちょっと表情を和らげる。でもすぐにまた顔が曇った。明らかに様子が変だ。来てくれたんだ、って、呼んだのは亜珠希さんの方なのに。
「何かあったんでしょ。教えてください」
俺はできるだけ強く、静かな声で言った。何か予感めいたものが膨れ上がる。すると亜珠希さんは立ち上がった。
「屋上行こう」
そう言って亜珠希さんはゆっくりエレベーターへ向かう。2人で息苦しいエレベーターに乗って、最上階まで行き、そこからさらに階段で上って屋上に出る。ずっと俺たちは黙ったままだった。
 屋上には高いフェンスがある。空は少し曇っている。風が通り抜けて、俺と亜珠希さんの髪を揺らす。屋上には他に誰もいなくて、静かだった。亜珠希さんはフェンスに手をかけて、遠くの方を見ながら言った。
「幸子おばあちゃんね、もう、助からないんだって」
亜珠希さんは泣いていた。彼女は俺の2、3メートル前にいて、背を向けているから顔は見えないけど、微かに漏れる嗚咽が聞こえる。彼女が発する泣き声は、俺にとって全然現実感がないものだった。彼女は笑顔のイメージが強いから、そのせいもある。ホールで亜珠希さんに会ってから、いや、メールをもらった時から予感はあった。でも、なぜだ? お婆さんが、助からない? なんでそんなことを言うんだ。亜珠希さんはなぜ泣いているんだ。何のために?
「ちょっと待ってください……」
信じない、お婆さんが死んでしまうなんて。だって、きっとお婆さんは助かるはずだったんじゃないのか。お婆さんは強いから、と亜珠希さんだって言っていたじゃないか。
 亜珠希さんはフェンスに手をかけたまま、腕の中に顔をうずめている。
「亜珠希さん、そんなに簡単に諦めて良いんですか。俺たちが支えてあげなきゃ、誰がお婆さんを支えるんですかっ!」
風が吹いて、亜珠希さんの髪が舞う。揺れる髪の中に見える彼女の顔を見て俺はドキッとした。彼女は泣き腫らしていて、涙がぽろぽろとこぼれている。その涙を、嘘だと思いたかったけど、次々と湧き、こぼれる雫が、彼女の言葉が真実であるということを俺に教えていた。お婆さんがあの神社で倒れた時の感情が、フラッシュバックしてくる。心が焦り出すのが分かる。
 亜珠希さんは首を何度も横に振った。
「おばあちゃん自身が、言っているんだから」
「何をですか……」
亜珠希さんはくるっと俺の方を向いて、声を必死に押し出すように言った。
「もう、死にたい、って」
俺は思わず亜珠希さんの真ん前に立って、うつむく彼女の顔をのぞき込んだ。
「ねえ、本当なんですか。本当に本当のことなんですか」
亜珠希さんはついにその場に泣き崩れてしまった。俺の足にすがりつくようにして、うわんうわん泣いた。俺も亜珠希さんに引っ張られて座り込み、もうどうせなら彼女と一緒に泣いてしまいたいと思った。でも泣けなかった。やっぱり信じられない。現実が上手く飲み込めなくて、とにかくわけも分からずモヤモヤした気持ちだけが湧き立つ。
 自分より大人だと思った亜珠希さんが目の前でひどく泣きじゃくるのを見て、彼女は本当は俺にこのことを言いたくなんかなかったんだろうと思う。でも俺にもいつか知る時が来てしまう。突然お婆さんの死を知ってしまったら、俺は壊れてしまうかもしれない。亜珠希さんは優しいから、無理して俺に話してくれたに違いない。「本当なんですか」なんて訊いて、彼女をより一層悲しませるようなことをしたのを、後悔した。
「すみません、亜珠希さん……」
亜珠希さんは泣きながら首を振るだけだった。

 しばらくしてようやく亜珠希さんは落ち着き、俺に詳しい話を聞かせてくれた。亜珠希さんはお父さんから話を聞いたらしい。亜珠希さんのお父さんは、お婆さんの担当の先生から検査の結果を聞いた。ガンの転移はひどくて、もうどうしようもないのだと言う。お婆さんは延命治療をしても余命1か月が限界だと宣告された。そしてお婆さんはその時、もう死にたい、と言ったそうだ。このまま無理に生き長らえるより、もう自然な死を選びたい、ということだ。
「おばあちゃんは私たち家族には死にたいなんて言わないの。担当医の先生にだけ言ったんだ。直接言ったら私たちが悲しむこと分かってるから」
亜珠希さんはもう泣いてはいないけど悲しそうに言う。
「おばあちゃんが苦しみ続けるより、安らかに眠りにつきたいって言うのなら、私にはもうどうにもできないじゃない」
納得できない。納得なんかできるか。強いはずのお婆さんが、どうして諦めてしまうんだ。
「これ以上、家族に迷惑をかけたくない、っておばあちゃんは思ってるんだと思う。治療にもお金がかかるし、私たちの生活への影響とか、精神的な疲労もあるから」
そんな理由ってあるか。そんなの逃げる口実じゃないのか。残される亜珠希さんたちの気持ちはどうなるんだ。
「亜珠希さんは、それで良いんですか、俺は、どうしても受け入れられません」
亜珠希さんは下を向いてつぶやく。
「良いわけない。私だって受け入れたくなんかないよ。でもどうしようもないじゃない……!」
亜珠希さんは何度も首を振った。
 お婆さんが死を望んでいる。だったらもう何もすることはできない。そうかもしれないけど……。やっぱり駄目だ。お婆さんが死んでしまうことを考えると、怖くなる。信じていた大切なものを、失うようなそんな気分になる。なぜだろう。なぜかは分からないけど、とにかく恐ろしい。嫌だ。
「とにかく、お婆さんのところに行きましょう」
俺は立ち上がって、亜珠希さんを見る。
「今おばあちゃんを見たら、私泣くかもしれない。そんなの見せたくない」
「それでも、会いに行くべきです」
「でも」
俺は亜珠希さんの腕をつかんで、彼女を引っ張って立たせた。
「病室に行きますよ」
亜珠希さんは俺に腕を引かれて重い足取りで歩き出す。階段を降りて、俺たち2人はお婆さんの病室へ一歩一歩近付いて行く。正直、病室に行って何をしようとしているのか、自分でも分からない。お婆さんに「死んじゃ駄目だ」と泣きつくか。そんな事して何になる? 部外者の俺が余計なことをして、事がもっと悪い方へ転ぶんじゃないか。それでも、足は病室へ向かって行く。迷いなく。少なくとも、俺と亜珠希さんのいるべき場所は、屋上じゃなくてお婆さんのそばだということは間違いない、そう思った。

 病室のドアを開けると、亜珠希さんのお父さんとお母さんがこっちを見た。そして、ベッドに横になっているお婆さんも顔をこちらへ向けた。
「おばあちゃん……」
亜珠希さんと俺はお婆さんのベッドの横に立った。亜珠希さんは優しくお婆さんの手を取った。
「ごめん、なさい、ね」
とかすれた声でお婆さんが言った。その声は痛々しく、弱くて消えそうな火のようだ。でもお婆さんは、苦しそうに笑っているのだ。その笑顔を見ていると、なんだか悲しくて、「死ぬな」なんて言うこともできなくなった。何も言わず、何も言えずに俺はお婆さんの顔を見つめていた。
 やがてお婆さんはまた眠ってしまった。すると亜珠希さんのお父さんが口を開いた。
「今はガンに侵されて体がひどい痛みに襲われているんだ。痛み止めとしてモルヒネを使ってる。もう、おばあちゃんを痛みから解放してあげた方が、良いと思うんだよ」
「でも、嫌だよそんなの……」
亜珠希さんがまだお婆さんの手を取ったまま言うと、今度は彼女のお母さんが言い聞かせるように言った。
「亜珠希、このままおばあちゃんを苦しめ続けちゃだめよ」
「分かってる、分かる、けどさ」
重苦しい空気が部屋の中に立ち込める。俺はどうすれば良いんだろうか。何もできないことがもどかしく、自分に腹が立ってくる。
「おばあちゃんと、それと先生とも相談して、3日後に、延命をやめることにした。薬で眠りながら、最期を迎えることになる。それまでに、みんなも気持ちを整理しなきゃならない」
安楽死、ということか。
「そんな……」
俺がつぶやくのと同時に、亜珠希さんのすすり泣きが漏れ始めた。

 俺は亜珠希さんたちの車に乗り、家の近くまで送ってもらった。事情を知っている3人と別れて、1人だけになるのは何となく怖かった。亜珠希さんたちと一緒に話したいと思ったけど、そんなことを言って邪魔ばかりしているわけにもいかない。
「じゃあ、また明日。迎えに来るから」
と亜珠希さんは言った。
「はい、すみません……」
 家に帰って、俺は部屋に閉じこもった。一応勉強するふりはしないといけない。しかし当然のことながら勉強する気なんかちっとも湧かなかった。夜になって夕飯を食べた後は、すごく疲れた感じがして、かなり早い時間だけどもう寝てしまうことにした。ベッドに入ると携帯が鳴った。三河からだ。「明日一緒に勉強できる?」とある。明日は多分ずっと病院だし、勉強しようとしても絶対この前のように上の空になるだろう。「ごめん、明日は用事があって無理だから、今度」と返信すると、数分後にまたメールが来た。「うん、それならまた今度。明後日はお祭りだから、またその時にね。屋台とかいっぱい回ろうね!」今日のことで忘れていたけど、そうだ、明後日は夕方頃から三河と近くの夏祭りに行く約束だったのだ。メールから、三河が相当楽しみにしていることが分かる。俺だってもちろん楽しみなはずなんだ。でも、よりによってお婆さんの最期の日の前日なんて。


  【8月19日】
 亜珠希さんたちと一緒に病院へ向かった。病棟には独特のにおいが立ち込めている。このところずっと病院に通っていたから鼻がこのにおいに慣れて、最近ではあまり感じていなかったにおいが、今日はどうしてか少し鼻に付いた。
 お婆さんは起きていた。ベッドを少し起こしていて、上半身を斜めにしてベッドにもたれかかっているから、顔がよく見える。お婆さんは俺たちに笑いかけた。やっぱり少しぎこちないけど、こんな時でも笑えるんだな、と思った。みんなを心配させないようにしているんだ。確かにお婆さんは強い。それでも病気には勝てないのだろうか。
「おばあちゃん、何か欲しい物とかありますか?」
と亜珠希さんのお母さんが尋ねると、お婆さんは小さく首を横に振った。もう何もいらない、そういうことなのかもしれないと思った。お婆さんは、もう自分の死を受け入れているんだから。
 俺たちは黙ってお婆さんのことを見ていた。しばらくして、亜珠希さんのお母さんは鞄から「葉月堂」の和菓子をいくつか取り出した。お婆さんに、見せてあげようと思って持って来たのだ。亜珠希さんのお母さんは容器に入ったそのいくつかのお菓子を、ベッドのお婆さんの手の近くに置いた。そのお菓子を味わうことも、臭いをかぐことも、もうお婆さんにはできないけど、それでも自分の努力で始めたお店の、自分で作り上げた和菓子を見て、お婆さんは嬉しそうな顔になった。それからお婆さんは何かをぼそぼそとつぶやいた。小さい声で聞き取れない。亜珠希さんがお婆さんに近寄ってその言葉を聞いた。
「あなたたちで、食べなさい、って」
「でも、おばあちゃんのために持って来たんですよ?」
と亜珠希さんのお母さんは言ったけど、お婆さんは笑って首を振った。俺たち4人は一瞬顔を見合わせたけど、亜珠希さんのお父さんが、おばあちゃんがそう言うのならみんなで食べることにしよう、と言って、4人で「葉月堂」のお菓子をいただいた。俺が食べたのは、いちご大福だった。あまり物を食べる気分じゃなかったけど、口に入れると甘さと酸っぱさが広がって、やっぱり美味い。神社でお婆さんにもらって食べたあの時と、同じ味だ。嬉しくなるような、なんだか心が温かくなるような、そんな味だ。自分の作った和菓子で、誰かをほんの少し嬉しくさせる、それがお婆さんの望みなんじゃないかな、と思う。それでお婆さんは俺たちにお菓子を食べてほしいと言ったんじゃないか。お菓子を食べる俺たちを見て、お婆さんはずっと微笑んでいた。
 お婆さんはまた眠った。亜珠希さんのお父さんは俺に言った。
「若狭くん、おばあちゃんのために、お見舞いに来てくれて、ありがとう」
「そんな、来たくて来ているだけです。俺の方こそ迷惑をかけてすみません」
「謝らないでほしい。おばあちゃんも、君のような子に出会えて、良かったと思っているはずなんだから」
そう言われて、俺はなんだかより一層悲しみが込み上げてくる気がした。やっぱり俺はどうすることもできない。いきなりあの時のお婆さんの言葉がよみがえってきた。「今何かやりたいことはある?」とお婆さんは俺に尋ねた。今なら、俺はこう答える。「お婆さんを救いたい」と。でも俺には何もできない。そのことが、ひどく悔しかった。

 ほとんど話さえしていないのに、時間はすぐに過ぎていった。夕方になって俺たちは病院を出た。今日も亜珠希さんたちに送ってもらうことになった。家の近くまで来て俺がお礼を言って車を降りると、亜珠希さんも車から出て俺に尋ねた。
「明日も一緒に来れる?」
明日は、三河との約束がある。
「すみません、明日は駄目なんです。どうしても外せない約束が」
そう言うと、亜珠希さんは残念そうにうなずいた。
「分かった。じゃあ明後日は迎えに来るよ。また、明後日にね」
「はい、明後日に……」
亜珠希さんは俺の頭を軽くなでてから、車の中に戻った。
 あと2日、なんだよな。あと2日しかない。そんなことを考えながら、遠ざかって行く亜珠希さんたちの車のテールランプを見送る。あと2日で、俺のできること、すべきことは何なのだろう。ひぐらしがカナカナカナ、と鳴いている。いつもの街の景色。誰かの命が消えそうでも、そんなのとは関係なく世界は周り、街は何も変わることなく、1日を終えていく。俺は家に向かって歩き出した。誰かがどこかへ走って行く足音が後ろで聞こえた。家に帰って行く人の足音だろうか。俺も家に帰ればそこには当たり前の、いつも通りの家庭があるんだよな。でも、亜珠希さんたちの帰る家は、その当たり前、いつも通り、がない。そこにお婆さんがいないんだから。


  【8月20日】
 昼食をとった後、少し仮眠をとるつもりが、目を覚ましたのは4時を過ぎてからだった。三河との約束は4時だ。俺は急いで髪の寝癖を直して、支度をして、家を飛び出した。祭りの屋台が出る公園で待ち合わせだった。公園の方からはドンドン、という太鼓の音とかリンリン、という鈴の音が聞こえてくる。家からは10分くらいかかる距離だ。とにかく急がないといけないと思って俺は全速力で走る。公園までの道には、そこそこの数の人が歩いていて、にぎわっている。小さな祭りだけど、1年に1度の夏祭りだから、地元の人たちは楽しみにしていて、結構人が集まる。公園に近付くにつれて大きくなる太鼓や鈴の音から、祭りの雰囲気がじわじわと感じられる。
 公園の入り口には人がたくさんいた。公園の中には屋台がたくさん出ているのが見える。辺りを見回して三河を探していると、後ろから声を掛けられた。
「遅いよ、若狭くん」
振り向いた時、一瞬その人が三河だと分からなかった。彼女は、青い鮮やかな色の浴衣を着ていて、いつもは真っ直ぐに下ろしている長めの髪を今日は結い上げていて、花の飾りが付いた髪留めがとても似合っている。少し化粧もしてると思う。思わず見惚れて言葉が出なくなる。
「若狭くん?」
三河が俺の顔をのぞきこむように見る。
「あ、遅れてホントにごめん。三河、浴衣すごく似合ってる。なんか、俺普通の格好で悪かったかな」
三河は笑って首を振った。
「ううん、良いよ。それより早く行こう」
三河はそう言って公園へ入っていく。俺は彼女の横に並んで歩く。そして一緒に屋台を片っ端から回っていく。本当に楽しそうな横顔を見て、今はお婆さんのことを考えずに、不安な表情を三河に見せないようにしなくてはいけないと思った。祭りを楽しみにしてきた彼女を、俺のことで心配させて、せっかくの楽しい祭りを台無しにしてはいけないと、俺は心に誓った。

 暗くなり始める頃、俺たちは公園に出たすべての店を回り終わっていた。「全部の屋台を攻略する!」なんて冗談のつもりが、結局全部回ってしまったのはすごいと思う。いろんなゲームをして、景品をもらい、いろんな物を2人で分け合って食べたり飲んだりした。俺たちは疲れるくらい遊び歩き回って、公園の広場に敷かれたシートに一緒に座った。
「はあ、もう食えないってくらい食べたな」
「うん。あと残すは、あれだけだね」
三河は嬉しそうに言う。彼女が空を見上げるのを見て、あれ、というのが何か分かった。
「花火か。そう言えば毎年この公園のところで上げてるっけ」
「すぐそこの川で上げるんだよ。こんな近くまで来るのは久しぶりだから、楽しみだったんだ~」
俺も空を見上げる。空は見る見る暗くなっていく。シートの上にはたくさんの人が花火を見るために集まってきている。俺たちはしばらく空を見上げたまま、黙っていたけど、三河が口を開いた。
「ねえ、驚かないで答えてほしいんだけどね」
俺はそう言われて三河の顔を見た。三河も俺の目を見て言った。
「昨日、若狭くんどこに行ってたの?」
え、と思わず声が出てしまう。
「一緒に車に乗ってた女の人、誰?」
どうして三河が亜珠希さんのことを知っているんだ、と思った。ひょっとして、昨日のあの足音は、三河だったのか。
「あれは知り合いの人で」
俺はうまく言い訳できないことに気付いた。三河からの勉強の誘いを断って病院に行ったのだ。お婆さんのことについて三河を巻き込みたくない。でも、亜珠希さんと俺が一緒にいるところを三河が見ていたとしたら、三河がそれをどう思うか分からない。
「若狭くん、どうして……」
三河の髪が揺れる。寂しそうな顔が薄暗闇の中に見えた。彼女は、俺に裏切られたと思っているんだ。違う、と弁解したいけど、でも駄目だ。やっぱり三河には言うことができない。どうすることもできない……。俺は、三河に「もう別れよう」と言われることを覚悟した。
「三河、ごめん。俺最低なことした。本当に、ごめん」
三河は少し俺に近付いた。ぶたれるかもしれない。どうしてこんなことになってしまうんだ。どこでどう間違ってしまったんだ。そう思った時、優しい衝撃が胸を打った。
「どうして、私に言ってくれなかったの」
三河は頭を俺の胸に預けながらそう言った。
「三河?」
「今日若狭くんと一緒にいてね、時々だけどまた図書館の時みたいな顔になってるって思った。昨日の夕方見た時もそうだった。今は必死に笑顔作ってる。私のせいで、無理してる」
「そんなことない……」
三河はぶんぶんと首を横に振った。
「分かるんだよ、若狭くんは何かで悩んでる。でも私のために自分だけで背負ってんでしょ。図書館の時からそうだって何となく分かってたのに、私、何も聞いてあげられなかった。私は若狭くんのために何もできなかった。自分のことしか考えてなかったんだ。それに昨日のあの女の人に、嫉妬してた。それで思わず、逃げた。若狭くんがそんなことするはずないのに。だから、謝るのは私の方なの、ごめん……」
三河は俺の服をぎゅっと握りしめる。そして顔を上げた。瞳が濡れてきらめいている。
「何があったのか、話して。全部聞くから。私は聞かなくちゃいけないから」
その時思い知った。俺は馬鹿だ。結局三河をこんなに心配させていた。何も打ち明けずに隠してきて、彼女は俺に裏切られたと思っている、なんて勝手に考えてた。三河は本当に俺のことを信じて、考えてくれていたのに。こんなに優しくて、愛しいと思える人に、俺はひどい仕打ちをしていたんだ。全てを、話そう、と俺は思った。それと同時に、夜空に一輪の花が打ち上げられた。周りの観衆から、わあ、とため息にも似た歓声が上がった。

 俺は三河にお婆さんのことや亜珠希さんたちのことについて全てを話していった。打ち上がる花火を2人で一緒に見上げながら話すから、ちょっとおかしな気分だったけど、三河はとにかく俺の話を聞いてくれて、時々うん、うん、と相槌を打ったりした。花火が上がる時は大きな爆発音で声が聞こえなくなるから、一時話を中断する。その間に俺は話すことを頭の中で整理して、ちゃんと自分の気持ちを三河に言うことができたと思う。
 小さい規模の夏祭りだから、花火もほぼ単発で上がるだけのものだ。でも真夏の夜空に開く色とりどりの光の花はすごく綺麗で、こんな時に見る花火が意外にも心を打つということを知った。花火がひとつひとつ打ち上がるように、俺も三河にひとつひとつを打ち明けることができた。驚いたことに、あれほど口にはしまいと思っていたことを話すことで、俺の気持ちはスッと軽くなって、信じられないくらい落ち着きを取り戻すことができた。これは、きっと三河の力なんだと思う。他の誰も持っていない、彼女だけの特別な優しさのおかげだ。

「三河、ありがとう。話を聞いてくれて」
長い話が終わった後、俺がそう言うと三河は明るく笑った。
「こんな私でも、若狭くんのためになりたかったんだよ。1番良くないのは、1人で悩んでどんどん悪い方に考えちゃうこと。重たい気持ちを背負い込んで、身動き取れなくなること。でも、私たちは1人じゃない」
三河の笑顔に、俺もやっと笑うことができた。心からの、本当の笑顔が染み出した。三河の言う通りだ。俺と三河は2人一緒なんだ。それが恋人ってことなんだ。
「若狭くん、今、すっごく良い顔してる」
いつかも聞いた言葉だ。その言葉に俺はクスッと笑う。
「今は花火が上がってないから、暗くて俺の顔なんてよく見えないだろ?」
「見えなくても、見えてるの」
そう言って三河は、俺の肩に自分の頭を軽く乗せて、体を俺に寄せてきた。ちょっとびっくりしたけど、そっと俺は三河を支えるように受け止める。
「私は、若狭くんが好きだよ」
俺だけに聞こえる声で静かに三河はそう言う。
「俺も、三河のことが好きだ」
「なら、それで良いじゃん」
うん、きっと、それで良い。それだけで良いんだ。
―――皆さん、今年の夏祭りの花火も、ついに次が最後となります。最後は3尺玉の大花火です。夜空に咲く大輪の花を、どうぞご覧下さい!
そんなアナウンスがスピーカーから聞こえて、まもなく最後の一発の花火が打ち上げられた。一筋の光が昇っていく最中にも、その炎の線の周りに小さな花が開く。昇り曲導、というやつだ。光は、どんどん空高く、もっと高くへ昇っていく。俺と三河は手をつないだ。彼女の手を握りながら、もっと高く高く上がれ、と祈りを捧げる。そして。俺たちの頭の真上の空に、大きな光の花が開いた。これまでにない、どよめきのような歓声が辺りから湧き上がった。弾けて飛んだ幾筋もの光たちは、スーッと四方八方に広がっていき、最後は俺たちに降りかかるようにして空に消えた。一瞬の光。その儚くも強く、綺麗に輝く炎に、こんなにも引き付けられ、言葉にできないくらいの思いが込み上げる。やがて花火の消えた夜空に、俺はお婆さんの笑顔を思い浮かべた。あの光は、多分お婆さんだ。儚くも美しく最期の時を迎えて、そして俺たちに生きる力とか勇気とか希望とかそういうものを振りまいてくれる。きっとそんな輝きだ。その時、まだ空を見上げたままの俺の頬を、涙が一筋伝うのが分かった。
 三河のおかげで、決心がついた。明日俺は……その時を迎えるんだ。



   ◇時と永眠と永遠と名前と愛情と銀河と延長と理由の10代
  【8月25日】
 俺は、あの神社の本殿の木の階段に腰を下ろしている。隣には亜珠希さんも座っている。神社の日蔭は涼しく、時折吹き込んでくる風は心地良い。
 もうすぐ夏休みを終えて学校も始まる。9月目前の昼下がり。でもまだ夏はもう少しこの街に居座るつもりらしく、神社の境内に生えた木々からは元気の良い蝉の声が響いている。大きな空は青く晴れ渡っている。
「はあ~っ、良い場所だね、この神社は」
伸びをしながら亜珠希さんがそう言った。やっぱりお婆さんと亜珠希さんはちょっと似ている、とその時思った。
「はい、良いところです」
そう答えて俺も大きく息を吸い込んだ。新鮮な空気が体に染み渡る感じがする。

 あの日、お婆さんは眠るようにして静かにこの世を去っていった。永眠の前の最期の別れ際、亜珠希さんはやっぱり我慢できなくて泣いた。俺は最初は泣かないで見送ろうと思っていたけど、亜珠希さんの泣き顔を見たらどうしても涙を止めることができなかった。俺と亜珠希さんの後ろで、亜珠希さんのお父さんとお母さんも悲しそうにしていて、でも俺たちを励まそうと肩に手をかけてくれていた。お婆さんは、優しい笑顔だった。そして、かすれた声でゆっくりと、しかしはっきりとこう言った。
「あなたたちは、これから、自分の『今』を、見つけて、見つめて、生きて。『今』に、向かって。」
それが、もう永遠に聞くことのできない、お婆さんの最後の言葉だった。

(俺の、「今」か……)
大海原を流れていく小舟のような、小さな雲が空を泳いで行くのを見ながら、そんなことを考えていると、亜珠希さんが俺の名前を呼んだ。
「将磨くん」
「何ですか」
「前に言ったよね。ここでおばあちゃんに会った時、今やりたいことはあるか、って尋ねられたって」
「はい」
「なんか、今考えると、なんでおばあちゃんがそんなこと言ったのか分かる気がするんだ」
俺はそう言う亜珠希さんの顔を見る。
「どういうことですか?」
「うん、おばあちゃんはきっと自分の体が弱ってることに気付いてた。もうすぐでその命に、終わりが来ることを知ってたんだね。それで最後に神社にお祈りをしておこうと思ったんだろうね。多分、私たち家族が幸せでいられるように、とかって」
亜珠希さんにはお婆さんが何を祈っていたのかを教えていなかったけど、まさに亜珠希さんの言う通り、お婆さんの祈りは家族への愛情だった。それが分かる亜珠希さんは、さすがお婆さんの孫だなあ、と思った。
「私は『今』とか、『明日』とか、『将来』って当たり前のものだと思ってた。でもおばあちゃんは知ってたんだ。そうじゃないってことを。おばあちゃんが最後に言った、『今』の意味を」
「そうですね、確かに」
「将来ってさ、もしかしたら結構いい加減と言うか、上手く理解なんてできないものなのかも。『昔想像した未来は、こんな風だった』とか言うみたいに、つまり将来って過去から見た現在で、反省することでしか捉えられないような、そんなもののような気がしちゃうんだよね」
亜珠希さんはパッと階段の上で立ち上がり、座ったままの俺を見た。
「だからさ、だから、後悔しないように、やり残すことのないように生きなくちゃいけない。今までおばあちゃんは家のこととか仕事のこととかずっと頑張ってきてさ、それで家族に優しくて、みんなに好かれて、将磨くんにも会えた。後悔も、やり残したこともきっとなかったと思うんだ。おばあちゃんは幸せだったはず。……でも、やっぱり残される家族としては悲しくなるんだよ。私まだ、おばあちゃんと話したいこともいっぱいあったのにさ……」
亜珠希さんは再び俺の横に腰を下ろした。俺は、亜珠希さんがまた泣いてしまうかもしれないと思ったけど、彼女は泣かなかった。
「ごめん、つい。年下の子に弱音を吐くなんて恥ずかしい大人だ、私。でも、お父さんとお母さんの前ではもう弱みなんてこぼせないから」
やっぱり亜珠希さんは強い人なんだ、と俺は思う。
「俺で良ければいくらでも聞きますよ」
そう言うと、亜珠希さんは笑った。
「ありがとう。でももう泣かない。おばあちゃんのことで泣くのはもうやめることにしたから」
「……そうですね、お婆さんのためにも」
亜珠希さんは大きくうなずいた。

 しばらく俺たちは黙って、空を見上げたり、風が木々の葉を揺らす音に耳を澄ましたり、夏の空気の匂いを吸い込んだり、階段の木の少しざらざらした手触りを感じ取ったりしていた。ここにある「今」たちを、ただ受け取ろうとしていた。そうしているうちに、日が傾き、空は薄いオレンジに染まり始める。いつの間にか日の長さも少しずつ短くなっていることに気付く。これから夜になれば、遠くの星々が輝き始めるだろう。そして広い宇宙の中のこの銀河、この星に生きている自分のちっぽけさを思うだろう。でもそこにはきっと大きな延長がある。俺たちは延長を持った光なんだ。
「こんな言葉をおばあちゃんに聞いたことがあるんだ。今思い出したんだけど」
と、亜珠希さんは唐突に言い出した。
「えっと、『あなたが生まれた時、周りの人は笑って、あなたは泣いていたでしょう。だから反対にあなたが死ぬ時は、あなたが笑って、周りの人は泣いてくれるような生き方をしなさい』っていう言葉。誰かが言ったセリフなんだっておばあちゃんは言ってた」
俺はもう一度亜珠希さんの言ったそのセリフを心の中で言ってみる。なんだか妙にその言葉が心にしみる気がした。きっと、お婆さんの最期がそうだったからだと思う。
「そんなふうに私も生きたい。おばあちゃんがそう生きたように。で、私、『葉月堂』で働くことにしたよ。お店を継いで、ゆくゆくは『葉月堂』の3代目となるわけ。絶対に『葉月堂』を、この街1番のお店にするんだ。大学は、この際きっぱりやめることにした」
それを聞いた時は、ちょっとびっくりした。
「良いんですか、やめちゃって」
亜珠希さんはそう言う俺に笑って答えた。
「それが、私の『今』だと思うから」
それが亜珠希さんの理由であり、だからそれが、亜珠希さんの「今」なんだ……。
「将磨くんは? 君はどうするの?」
俺の、「今」。それは。
「俺は、病気の人みんなを助けられるような研究がしたいんです。生物工学って言うんでしょうか、それを研究して、医療に役立てたいです。だから俺の『今』は、やっぱり勉強ですね」
「そっか。すごいじゃん。ちゃんとやりたいことが見つかった」
「全部、お婆さんと、亜珠希さんたちと、周りのみんなのおかげですよ」
亜珠希さんは立ち上がった。
「よし! じゃあ私と、将磨くんの『今』に、お祈りを捧げよう」
俺も立ち上がって、2人で一緒に鐘を鳴らす。日の暮れゆく神社の境内に、カランカランと音が響く。そして2人で並んで合掌し、お辞儀をして祈る。2人の「今」がどうか成功しますように。これからも続いていく「今」が、幸せでありますように。




   ◆
 自分の向かう先は、過去じゃなくて、いつだって、「今」なんだ。俺はそう思う。
あれから月日は流れて俺を大人にした。いつかの疑問。「今」は、唯一自分の存在が許されると同時に、証明されている瞬間なんだ。自分が自分の存在に気付ける瞬間。自由で、確実な真実。それが、「今」だ。

 俺は彼女の手を強く強く、握る。
「頑張れ、頑張れ、智春!」
彼女の手は震える。痛みにうめく彼女の手を、しっかりと包み込む。大丈夫だよ、俺も一緒にいるから。君は1人じゃないから。そう彼女に強く語りかける。
 やがて、その部屋に光が生まれた。明るく、暖かな光。新たな命の、元気な泣き声が響いた。
「ありがとう、将磨くん」
と、彼女が笑う。

 若狭将磨と、若狭智春と、そして新しくできた大切な家族とで、俺たちは生きていく。いつだって、「今」に向かって。

最終更新:2013年04月07日 17:17