2011年12月19日(月)00時06分 - 西本歩浩
目を開けると、朝が来ていた。寝床の側にある窓から光が差して、部屋の中が明るくなっている。
少し目を擦ってから、ベッドに肘をついて上体を起こした。頭が少し重い感じがして、全身の体温も少し高いような気がする。いつもならすっきりと目覚められるのに。今朝はどうしたのだろう。
目線を、窓の反対側の壁に向ける。壁に掛けてある、赤白模様のひし形の編み物が、窓から差した光にちょうど照らされていた。いつも僕が朝に起きる時には、その左隣に掛けてある木綿の帽子にちょうど光が当たっている。それで、僕は今朝は少し長く寝ていたのだと分かった。これはちょっと珍しいことだった。気づかない間に疲れが溜まっていたのかもしれないと、首の後ろを手でさすりながらぼんやりと考えた。
ベッドから足をおろして、靴を履いた。そして、まだ少し混濁している頭を抱えながら、玄関に向かい、ドアを開けた。
外の空気は爽やかだった。まだ夜の間の涼しさが残っているのが分かる。半袖だったから、よく風が感じられた。
柵で囲まれた庭や、離れの小屋、作業場は、柔らかい陽光に照らされて、ひっそりと立っている。目線を上げると、東南東の空に太陽が輝いていて、薄く伸ばしたような、ほとんど空の色と同じになっている雲がその周りに広がっていた。家の周りを囲んでいる林の向こうから鳥が一羽飛んでいくところが見えた。
静かだった。目の前の庭に、木々の間に、静けさが広がっている。僕はこんな朝の静けさが好きだ。こんな時には、まるで世界の大半の生命がまだ毛布にくるまって眠っていて、僕や鳥のような少数の早起きの生き物だけが動いているのだ、という錯覚にとらわれる。実際にはそんなことはなくて、まだ太陽の昇らないうちから動き始める動物だってたくさんいるのだけれど、そう思いたくなるのだ。
家の表を回って、水汲みポンプのところまで歩いて行った。ポンプのハンドルをぐっと押し下げると、蛇口から出た水が地面に落ちてびたびたと音を立てた。手にいっぱいに水を掬うと、手が痛くなるくらいに冷たい。それを思い切り顔にかけた。三回くらいやると、完全に頭も目覚めて、気分も良くなった。軒先に干してあった布を取って、ごしごしと顔を拭く。拭き終わってから、一つ、大きく深呼吸した。
さて、今日は何をしようか。
布を持ったまま腰に手を当て、柵に囲まれた庭を何となく見回した。
また狩りに行こうか。でも昨日行ったばかりだから、今日はいいだろう。柵の修理は? それはこの前終わらせたんだった。家の中の掃除は……。まだ必要なほど汚れてはいない。
無くしたナイフを捜しに行こうか。それが今一番やってもよさそうなことに思えた。何となく、歯の奥に引っかかった食べ物のかすのように気になっている。でも、昨日目星をつけていたところは全部捜したのに見つからなかったから、これ以上どこを捜したらいいか思いつかなかった。当て処もなく荒原を捜しに歩くのはちょっと嫌だ。
じゃあ、どうしよう? 今日は雲が出ていて、気温もそんなに高くなりそうにないように思えたから、外に出てみたかった。何かすることはあっただろうか。
そうだ。その時になって、僕は外に出る良い理由があることをやっと思い出した。
今頃思い出すなんて、もしかしたらまだ少し寝ぼけてるのかもしれない。
ちょっとだけ、苦笑いでもしたい気持ちになった。不思議だ。
家の中に戻って、簡単に朝食を済ませた。穀物の粉に香草を混ぜて作った団子は腹持ちが良いから、長時間外を出るときにはよくこれを食べる。その後身支度を済ませて、必要な道具を薄い革の鞄に入れ、忘れ物が無いかどうかを確認し、家を出た。
これは、今ではすっかり僕の生活の一部になっていた。もしかしたら、僕の趣味と言える唯一のことかもしれない。
いつ、そしてなぜ、始めたのだっけ。たぶん、最初は、特にはっきりとした目的も無く始めたことだったはずだ。
そう。たしか、かなり前に家の屋根裏で、おじいさんが遺してくれた物の中から、たくさんの紙の束を見つけたのがきっかけだった。
それは、縦が50センチ、横が60センチくらいの長方形の紙が重なって、束になったものだった。どれも何も書かれていなくて、またどれもやや黄みがかっていた。その一方で、繊維は丈夫で、ほとんどしみや汚れはない。数えてみると、全部で紙は24枚あった。僕はその紙の束を何かに使えないかどうか考えた。
手に持って、手のひらに伝わる重さと厚みを感じた。紙の端からはかすかに芳しい匂いがする。指でぱらぱらとめくると、一枚一枚の紙の上を素早く明暗が通り過ぎてゆく。そして、改めてそれを正面から見た。
どういうわけか、絵が描けそうだ、と思った。
まだ何も描かれていない紙。その上に思いのままに、自由に絵を描いていくさまを想像していた。小さい頃、手をクレヨンで汚れるままにして、無邪気に、たくさんの紙にたくさんの絵を描いたみたいに。どうしてこんなことを思い出したのだろう?
昔から、絵を描くのは好きだったように思う。ただ、ある時から突然描くのをやめてしまった。それでも、何も書かれていない紙を見て、急に絵を描くことを思いついたのは、たぶん、僕の心のある部分は、絵を描くことを忘れていなかったからだろう。
結局、その紙束には絵を描くことにした。何の絵を描こうかと思って、またしばらく考えることになった。これだけの量の紙が突然手に入ることになって、急にその題材を考えようとしても、すぐには決められない。
動物は難しいだろうと思った。たいていの生き物は警戒心が強いし、温厚な草食動物にしたって、その側に長くいれば、それだけ彼らを狙う肉食獣に自分も遭う可能性が高くなるのだ。だからといって、家の中の小さな物を描いてもちょっとつまらない。
どんなものなら描く気になるだろう? 僕が描く意味を見出せそうなものは、一体何だろう?
あれこれ考えてから、この荒原の風景のスケッチを描くことを思いついた。
紙の一枚一枚に、それぞれ違う場所の景色を描く。僕のお気に入りの場所を、いつもはなかなか見られないものを、僕の好きな風景を、描くことにした。
クレヨンも絵の具も無いから、できるのはシンプルな鉛筆画だけだった。でも、それで十分だった。本格的な道具が手に入るはずもない今に、できる最大のことがそれだった。僕が描きたいと思うことと、現状とが上手く付き合えるところが、そこだったのだ。
初めは家からもそう遠くない所の景色を描いた。そのうち、どんどん行動の範囲が広がっていき、それに応じて描けるものも多くなっていった。もちろん、一日で行って帰ってこられるうちでしかないけれど、する仕事の無い、暇な日さえあれば、僕はできるだけ積極的に出かけて行って、スケッチを描くことにしていた。
もともと、思いつきで始めたことだったけれど、それはすっかり僕の生活の重要な一部分を占めるようになった。
ときどき、このことが、今まで生きるためのことしかしてこなかった僕の生活に、新しいどこかへの方向を与えてくれるような気さえする。
気づくと紙の数は、残り5枚になっていた。おじいさんがあの紙束を何に使うつもりだったのかは結局分からないままだった。そういえば、彼の持ち物をすべて僕が使って良いことになってからも、僕は心のどこかで遠慮のようなものがあって、それまでは使い方の明らかに分かっているものにしか触れてこなかった。
今思うと、あのとき初めて、僕は自分自身で、ものの使い道を決めたのだ。
それに対しては、特に後悔も感慨も感じない。
これが僕の人生なのだから。
きっとそれは、おじいさんも分かってくれるはずだ。
今は、家から見て北東の方角に向かっていた。そこには、すでに見知ってはいるけれど、まだ絵には描かれていない場所がある。
起伏の少ない砂地が続いている。風がほどよく吹いていて、頬を軽く撫でていくような感覚が心地良い。左斜め前に80メートルほど離れた小山の陰に、灰色の肉食獣が駆けて行く姿が、一瞬だけ見えた。反対に右側の、30メートルくらいの所には小さな木立が立っていて、草むらから黒色のイノシシ達が何頭か、こちらを見つめている。僕のことを警戒しているのだろうか。でも、今日は狩りではないから、僕は手出しなんてしない。それを悟ってくれたのか、僕が少し歩いてからもう一度その草むらを見ると、もう彼らは引っ込んでいた。
砂が丘のようになっている所にさしかかって、その上を踏み越えていく。東の地平線に緑の層と、ごつごつとした岩場が見えてきて、あとはそこを目指して進んでいった。足下は乾いた砂地から、雑草がぽつぽつと生えた地面になって、次第に土の色が深くなってゆく。
左前方に、お椀を伏せたような形の岩がぽつんと見えてきた。あれは、今日描くものの目印にはちょうどいいものになる。僕はその岩の側まで歩いて行くと、そこに軽く腰を下ろした。
鞄から、折りたたんだ紙と、下敷きの板、そして鉛筆を取り出した。それが終わると、鞄は置いておいて、道具を持って岩の頂上まで登っていった。そこから周囲を見渡した。
岩の20メートル手前にはちょっとした高さの崖がある。そして、その崖の下に下りたところから、さらに100メートル東から、遠くの青い山脈を背景にして、視界の端まで、ひたすら広大な深緑の森が広がっていた。
落葉広葉樹を中心とした森林地帯は、荒原の北東部の大部分を占めている、一番大きな森林だ。正確な広さは分からないけれど、少なくとも50平方キロメートルはあるに違いない。これでも、かつて荒原の中央を通るあの川の跡に水が流れていたころに比べると、かなり小さくなったのだということが、周辺の土壌を見ると分かる。ただ、まだここは川の上流の跡地にも近い。これだけの規模の森林が今も生きていられるから、もしかしたら、地下にはまだ水脈が流れているのかもしれない。
自然というのは、人間よりもずっと丈夫で、生き延びることに長けているのだ。
それに比べると、例えば僕のような人間は、何てあくせくしていることだろう。
あの森林には、枝葉をあらゆる方向に一杯に伸ばした木々がどこまでも密生していて、その腕の下には、何万もの生命達が内包されている。
そこは、彼らにとっての家であり、通り道であり、そして、死に場所だ。
その空間には、無数の部分によって構成されている、生命達の大きな循環の関係が作り上げられている。
あらゆるものが他の存在を生かし、また別の存在に生かされる関係にあって、どの生き物もその例外ではありえない。
みんな、一つの自然の全体の中で、繋がりをどこかに持っている。たとえそれが見えなくても。
こうして、静かに蠢いているあの巨大な森林を眺めることは、そういったことを僕に想像させる。
だから、僕はこの景色を見るのが好きだ。
今の僕も、しばらくじっと佇んでいた。風が吹いてきて、手に抱えた紙がばたばたとはためいて、我に返った。今日のスケッチは、この場所から描こう。僕は腰を下ろして、道具の準備を整えた。
できるだけ楽な姿勢で、紙を固定した下敷きの板を持った。最初に、スケッチの全体の配置図を大まかに描き記しておいた。手前には、低い崖の縁のほぼ全体が見える。粘土層の崖は、おおよそ森林の輪郭に沿うように続いていた。それを表す緩やかな曲線を、紙の下方に引いた。次に森林。スケッチの中央に大きく横たわるようなイメージ。その向こうには山脈。それから、本格的な描写を始めた。何度も目を凝らして、微細に波立っている森林の輪郭を捉える。何層にも折り重なった木々の枝ぶりが、緑の濃淡の、途方も無く複雑な模様を作り出していた。さらに遠くには、蒼い霧に包まれた山脈の鋭い尾根が、空の端を切り取っている。何度も何度も顔を上げては、それらを目に焼き付けた。
鉛筆を走らせている間は、無心になれる。空っぽになって、集中できる。周りを飛び回る羽虫も、ときどき紙の端をはためかせていく風も、遠くから運ばれてくる鳥達の鳴き声の合唱も、全て僕の意識の外縁部に追いやられて、僕の作業を遠巻きに眺めるだけ。
目で見たものの姿を、紙の上に映し出す。
その過程と共にいるのは、とても楽しい。
線を引けば、それは地面になる。輪郭を描けば、それはその物として存在し始める。黒く塗れば、影と同時に光も生まれる。
なめらかに、気ままに筆を走らせて。角度を変えて、強さを変えて。幾通りもの形が現れてくる。紙の上に、世界を描き出す営み。
いつ頃だろう、僕はこう思っていた。
絵には人の心の内側が表れ出る、と。
自分が感じ取ったものは、一度自分の心の中を通ってから、外に表現されるからだ。
眼に飛び込んでくる光景は、色と輪郭の集まりで構成されていて、僕は普段、それを世界として認識している。そして、心の内に取り込まれる光景は、そのままでは大きすぎるから、その色と輪郭はばらばらに分解されていく。
けれど、それらを僕の外へと表現するときには、その光景は元のものと似ていたとしても、全く同じ形とは限らない。
ばらばらになった色と輪郭とをもう一度繋ぎ合わせるのは、自分の心だからだ。
心の自由な動きが、新しいものを創り出しうる。
それは、その人自身の心のありようそのものに基づいている。
だから、僕は無邪気にも信じていた。描かれた絵を見ることは、人の心の内側のイメージに触れることだ、と。
それは、その人の内側で再構成された世界を追体験すること。
新しい世界の存在を知って、そこに入って広がりを感じること。
人の心を知る方法の一つ。言葉にも行動にも依らない仕方。
僕は自分の描いた絵をよく誰かに見てもらっていた。
絵を描くことで、僕自身を誰かに伝えようとした。
絵を見てもらえば、僕の心を誰かに伝えられると思った。
言葉では伝えきれないこともあるから。
行動からは推し量れないこともあるから。
そして、僕のことを正しい形で知ってほしかったから。
実際に色んな人が絵を見てくれた。喜んだ表情をする人がいた。驚いた表情をする人もいた。困惑した表情をする人もいた。真剣な表情をする人もいた。
僕はそれらを見ることができると、安心した気持ちになれた。
ああ、彼らは僕を知ってくれたんだ。
今まできっと見たこともないような、僕自身が創ったイメージを目にして。
心のありように近づいて、
僕を理解してくれたんだ。
僕は誰かとわかり合えるんだ。
満ち足りた気分になれた。
全てのことが上手く動いているように見えた。
けれど……。
ときどき、ふいに不安になることがあった。
彼らの、僕の絵を見てくれた人達の、あの表情は、本当のものなのだろうか?
僕にかけられる言葉に、偽りが無いのだろうか?
本当に、僕のことを理解してくれたのだろうか?
僕が描いた絵は……、実は何も伝わることなんてなくて、彼らの表面的なところを通り過ぎていっただけなのではないか?
それは、怖い想像だった。
誰にも誤解されたくないのに。
僕のやってきたことが水泡になってしまう。
僕は誰にも何も伝えられないのか。
自分が絵を描くことの意味を否定してしまうような恐怖だった。
そして、ある時、僕のその不安は正しかったのだと分かった。
それは、まるで、真っすぐに見えた二本の木材が、合わせてみると歪んでいてくっつかないのが分かったときのように、
他人からの僕の評価と、僕が考える僕自身の姿との間に、いつの間にか埋めようのない差ができていたのが分かった。
僕が理解してくれたと思っていた周りの人々が言う言葉は、明らかに僕の心と食い違っていた。全く誤解に基づいた言葉だった。
理解なんてされてなかった。
僕には、認められなかった。
認めたくもなかった。
どうして、あんなことを言うんだ?
僕はこんなにも伝えたのに。表現したのに。
どうして分からないんだろう?
どうして分かってくれないんだろう?
何も分かっていない。
違っている。
全然正しくない。
きっと、伝わると思ったのに。
分からない。
分かりたいのに。
無力だった。
どうすればいいか分からない。
意味が分からない。
ああ……。
誰かとわかり合おうとしたのに、
どうしてこんなことになってしまうんだろう。
もう、色々なものが信じられなくなってきた。
人は理解できないものに囲まれて生きなければならない。
自分の周りを膜のようなもので隔てて、
その外界にあるものに、本当の意味で触れられない。
その中で息苦しくなって、理不尽に傷つけられて。
触れられないのに、それでも他人のことを理解した振りをするから、そのせいで人は、疑わされて、怒らされて、悲しまされて、誤り導かれる。
煩わしい。
どろどろしていて、
足が重くなるようだ。
そんな風になるくらいなら、どうしてこんなことをする必要があるだろう。
人が、誰かを理解しようとする意味なんてあるのだろうか?
誤解していたのは、もしかしたら僕の方かもしれない。
誰かに理解された気でいて、そのくせ、誰のことも理解していなかったのかもしれない。
いつかの記憶が浮かび上がってくる。
誰かが、僕の隣に立っていた。二人で何かを見ていた。
誰だろう?
顔を思い出せない。
姿もよく分からない。
その人が、何かを言った。
それを聞いて、僕が何かを言って、
その人は、僕の隣から、どこかへ去っていった。
何なのだろう?
誰が去っていったのだろう?
思い出せない。
記憶が渦巻いていて、捉えられない。
でも、誰だろうと、そんなことを気にする必要はあるだろうか?
もう今の僕は、独りじゃないか。
気が付くと、鉛筆の芯が折れてていた。手のひらに、じっとりと汗をかいていた。呼吸が少し速くなっている。耳鳴りが聞こえる気がする。とても嫌な気持ちだ。強い緊張に一瞬だけさらされてそれが通り過ぎた後に残るような、不快感を感じる。
思い出したくないものを思い出した気がした。
鉛筆の替えが鞄にあっただろうか。下敷きの板を置いて、僕は岩の下まで下りていった。新しい鉛筆を持って戻り、できるだけ気持ちを集中させて、スケッチの仕上げに入った。
薄雲に包まれた太陽が南西にある頃に、スケッチは完成した。出来はいつも通り、だと思う。ちょっと嫌なことはあったけれど、何とか仕上げることはできた。悪くはない。
岩を下りて、道具を全てしまった。鞄を持つと、僕は崖の緩やかなところを下りていく。向かう先は、100メートル東に見える、森林だった。
まず、(1)に書いた約束からおよそ5ヶ月も遅延してしまって、本当にすみませんでした。また、今週の日曜に上げる、という約束もぎりぎり守れなくて、すみませんでした。
続きをいつ上げるかは、色々と反省してから改めてお知らせします。