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悪魔のワルツ

2012年02月10日(金)16時46分 - るり

 

 愛知県立成和高等学校音楽科では、今年も定期演奏会の代表奏者を決める公開選抜試験を控えて誰もが不安と緊張と、ほんの少しの期待を胸に抱いています。選ばれるのはわずか一握りの生徒だけ。それを、悪魔は笑って見守ります。


   ○ ○ ○


 愛知県立成和高校音楽科二年九組七番。それが私、荻原真実の現在の肩書き。でもそんなところに収まるほど小さな器じゃないことは、この私がいちばんよく分かってる。その証拠に、私には第*回エトリンゲン国際青少年のためのピアノコンクールカテゴリーA第五位、第*回東京音楽コンクール第一位ならびに審査員大賞、第*回シドニー国際ピアノコンクール第五位ならびに三つの特別賞受賞など、輝かしいキャリアがある。ゆくゆくは全国、ううん、世界で活躍する有名ピアニストになるのだ。
 さしあたり私の念頭にあるのは、来週末に迫った公開選抜試験のこと。皆はそれを来月の定期演奏会の代表を決めるものだって勘違いしてるみたいだけど、私にとって定期演奏会は特別に重要ではない。ソロ部門だけでも、三十七人クラスから最大五人も選ばれるのだから結果は分かりきっている。大切なのはその先。二年生のみ、選抜試験で最優秀の総合成績をおさめ、かつ十二人の試験官全員がそれと認めた場合に限り、その一人は来年度のパリ国際音楽アカデミーへの推薦状を手にすることができる。
 パリ国際音楽アカデミー。それは毎年八月下旬から九月上旬にかけて開かれる短期のアカデミーで、将来海外での演奏活動や留学を考えている私としてはぜひとも参加したいものだ。一般への募集も行っているけれど、このアカデミーと提携している我が校の推薦状を手に出向くのと、一般人として丸腰で飛び込むのとでは、受けられる教育のレベルが違う。もちろん質の良い教育を受けることが目的なら、今すぐにでも高校を飛び出して長期留学してしまうのが正解だろう。ただ私の両親は、私が日本で大学卒業までの最低限の学歴を残しておくことを強く望んでいる。この狭い日本に置いておくには勿体ない存在だということにも気づかずに。
 世界中から集まる才能ある若者と、パリ国立高等音楽院をはじめとする、楽壇屈指の教育機関で教鞭を取る著名な教授たち。エコールノルマル音楽院の充実した設備を借りて行われる個人レッスンに、重要文化財、サル・コルトーでの演奏会。石膏造りの白い街並み、オープンカフェでいただくブランチ、噴水のある広い公園のベンチで仲間と音楽を語り合って、夜はオペラを観に行く――。
 対象となる専攻はピアノ、バイオリン、ヴィオラ、チェロ、ハープ、フルート、クラリネット、声楽、楽曲分析。クラスのうちオーボエ、サクソフォン、トロンボーンを専門にしている四人は除外されるので、実質私のライバルは三十二人ということになる。ただ、私は毎日伊達に最低三時間の基礎練習、六時間の演奏練習と、二時間の楽典の勉強をしてきたわけではない。さらにそれに加え、私は独学で即興演奏法、作曲法の訓練と、フランス語とドイツ語の勉強もしてきたのだ。将来はヤマハ音楽教室で幼児科の先生になるの、だとか、音楽は大学まで趣味で続けてそしたらお嫁に行くの、だとか、そんなことをぬくぬく言っている子たちのことなんてライバルとして考えたくもない。
 でも、だからといって私のことを井の中の蛙だとは思わないで欲しい。まがりなりにも中部一と言われる成和高校の音楽科。皆上手い子ばかりだし、国内外各地のコンクールで実績を残している子も多い。ただ少しばかり、私の才能と努力とが傑出しているだけ。人によっては私と咲希が一位を争うだろうなんて予想しているみたいだけど、それは心外だ。咲希は確かに優れた技術をもっているし繊細で綺麗な演奏をするけれど、私と張り合うには圧倒的にパワーが足りない。そのくせ私に対抗しようっていう魂胆が、選曲から何から見え透いているのが気に入らないのだ。
 身のほどをわきまえろ! っていうの。


 私、倉地美佳は、成和高校普通科の二年二組十一番です。普通科の人間から見ると、音楽科というものは、ちょっとした不思議空間です。校門を入ってすぐ左のところに音楽棟という音楽科関係者の生活圏があるので、私たちとは滅多に顔も合わせません。でも登下校中など、ちらりとでも見ればそれと分かります。音楽科の女の子たちはみんな可愛い顔にしっかりとお化粧を施して、とっても華やいだ空気をまとっているからです。そして面白いのは、全校の球技大会にはどれだけ暑くても長袖長ズボンのジャージ姿に日傘を差して現れることです。幼馴染の真実に言わせれば、ステージに立つのに日焼けは禁物なのだそうです。それと、肥満とすっぴんとショートカットも。
 音楽科は先生もとっても不思議です。ライオンみたいな頭をして首から何本も縦笛をぶら下げているおじいさんとか、いつも真っ赤なロングドレスを着て真っ赤なハイヒールを履いているおばさんとか。今ちょうど私が委員会の報告書を提出してきた若い男の先生も、てかてかのグレーのスーツに、ワックスでめいっぱい逆立てたアッシュブラウンの髪が目印なのです。ちなみに普通科で密かに呼ばれているあだ名はホストです。こんな先生たち、普通科にはいません。
 音楽棟の職員室は二階にあるので、私は階段を下りきると、薄暗い廊下をそろそろと進みます。音楽棟の廊下の両側にはぎっしり練習室が並んでいるので、日の光があまり届かず昼間でも決して明るくはありません。況んや、夕方をや。そう思っていると、前方で練習室の扉がひとつ開きました。
「あ!」扉の陰から現れた生徒の姿を見て、私はなんていいタイミングなのだろうと思いました。「真実、今から帰るところ?」
 真実はとても洗練された動きで長い髪をなびかせながら振り向き、柔らかく微笑みます。「うん。美佳はどうしたの、こんなところで?」
「馬場先生に用があって」と言いながら小走りで真実のところに駆け寄ると、真実は「馬場先生は生活委員の担当だったね。それじゃ、一緒に帰ろ」とまた笑います。この可愛くて優秀な幼馴染は、私の自慢です。
「公開試験、ついに今週の土曜日だね。いつものホールでやるの? 見に行ってもいい?」
 モデルさんのように颯爽と歩く真実の周りを、わたしはぴょこぴょこついて行きます。
「いいけど、美佳は日曜日に模試があるじゃない? 大丈夫なの?」
「大丈夫! だってそれに、土曜日は真実の晴れの舞台でしょ! 絶対行く!」
「大袈裟だよ、ただの試験だよ……? でも美佳が来てくれたら心強いと思う。よかったら来て、ありがとう」
 優しい真実は心強いと言ってくれますが、実際私は音楽のことなどてんで分かりません。でも私は少しでもこの幼馴染の近くへ行きたいので、公開試験で真実が弾く曲の説明を熱心に聞きます。そして中世ヨーロッパの悪魔が話題に上った時、あることを思い出して、私は鞄の中から革張りの本を一冊取り出しました。
「そういえばこの本、この前古本屋で見つけたんだけど、見る? 悪魔とはちょっと違うけど……本格的な護符の描き方が色々載ってて面白いよ、戦いを勝利へと導くとか、敵を死に至らしめる強力な魔力をもつとか、効能はさまざま」
「それを私が試すことを期待してる?」真実は大きな瞳をくるくるさせて冗談っぽく笑ってから、ひょいと白く細長い指で魔術書をつまみ上げました。「でもちょっと興味あるかも。貸して」


 成和高校音楽科二年九組三十四番の宮本和哉とは僕のことだが、皆は僕をくまさんと呼ぶ。冴えない奴だってことはよく自覚してる。だから今日の音楽史の授業中、馬場っちに「もっとシャキッとしろ」と言われた時も、「シャキシャキしてたら人生変わってるし」って言い返してやったんだ。たぶん誰も聞いてなかったけど。
 僕は昔から根は真面目で勉強はそこそこにできたけど、運動がからきし駄目で自己主張も弱いいじられ役で、だから声楽を学ぶためにこの高校へ通っていることが今でも信じられない。ちなみに二年九組の男女比は三対三十四。イタリア語で愛の言葉は叫べても、三十四人もの威勢のいい女子を前に「くまさんって呼ぶな!」だの「俺たちのいる前で平気で着替え始めるのはやめろ!」だの「萩原さんに伴奏をお願いしたいんです!」だの、言えるはずがないじゃないか。
 薄暗い廊下の壁に背を預けながら、僕は防音設備の整った練習室から辛うじて漏れ出してくる音の粒を拾い集める。声楽専攻の難点は、一人では試験を受けられないことだ。各人がしかるべき伴奏者を試験のたびごとに見つけなければならない。推薦入試の日、僕が一瞬で萩原さんのピアノ演奏の虜になってから、はや一年半……しかし明日に迫った選抜試験でも、僕はまたクラスで唯一の男子ピアノ専攻者に伴奏を頼むしかなかった。
 その時正面の練習室が開いた。「あれ、くまさんじゃん」
「わ、藤野さん」
「なになに、こんなところで」ガラス張りの練習室の扉は、百五十センチの高さのところまで擦りガラスになっている。背の低い藤野さんはひょいと飛び上がって中を覗くと、嬉しそうににやにや笑った。「なるほどねぇ」
「なにが」
「でも今日はやめといた方がいいよ、試験の前日に振られるって、運気下がるって」
「べつに、そんなんじゃ……」
「いいよいいよ、黙っといてあげるから別の日に出直しなよ。じゃ、明日はお互い頑張ろうね、くまさん、ばいばい!」
「いや、だから……」
 僕の必死の抵抗など構わず、藤野さんは一人で納得すると、嬉しそうに廊下を走り去って行った。僕はがっくりと肩を落とす。いつもこうだ、いつも僕はからかわれてばかり。
 でも萩原さんは僕を笑わない。誰に対しても真摯に構え、そのまっすぐな態度は彼女の音楽性にも表れている。今回は選曲も本当にいい。リストのリゴレット・パラフレーズ。伴奏部では超絶技巧を要求し、かつ旋律には精緻な表現力が問われる大曲だ。ところで萩原さんは初めて会った時からすごく上手だったけれど、これほどまでだったろうか。その演奏は最近日ごとに輝きを増していくようだ。侯爵と、道化師と、若い乙女が二人。檀上でそれぞれの声の絡まり合う様子が、一面の薄紅色の一斉に花開く様子が、無数の星屑の滝のように零れ落ちる様子が、まるでこの目に浮かぶようだ。
 演奏が終わって、僕は現実に引き戻されたようにはっと口元を引き締める。僕も早く家に帰って、練習のつづきをしなければ。


 安藤沙雪はツイてない。私自身だけじゃなく、友達みんなも認めるほど、本当にツイてない。まず、三年間クラス替えのない成和高校音楽科の中で、出席番号が一番なこと。日直当番も授業の指名も身体測定もなにもかも私から。しかも教室の席順はずっと出席番号順だから、一番の私はいつも窓際の席で、ちょっと気を抜くとすぐ日に焼けちゃう。沙雪なのに日焼けって、全然面白くないよ! ……それはさておき、重要なのはここから。試験の演奏順序はくじ引きなのに、一番最初にくじを引いた私が当てたのは一番だったの!
 そうして、早々と出番を終えた私は舞台衣装から制服に着替えて、今は二階席で意気消沈している。私が弾いたのはプロコフィエフのソナタ第六番、作品82「戦争ソナタ」の終楽章。すごくカッコいい、お気に入りの曲だったんだけど……序盤にちょっと指がもつれちゃった。緊張したし、恥ずかしかったんだから、もう……。で、そんなツイてなくて可哀想な私に追い討ちをかけるのは、憧れの中山先輩。先輩は去年の学園祭の時からずっと好きだった普通科の三年生なんだけど、ほら見てあそこ、ホールの後ろの方の席で、知らない女の先輩と二人で見に来てる! もう本っ当に、信じらんなーい!
 ここは、学校の最寄り駅から地下鉄名城線で二駅、東山線に乗り換えて一駅のところにある中規模のホール。毎年ここで選抜試験も定期演奏会もやるんだけど、今年の演奏会は音楽科創立六十周年記念とかいって、もっと大きい、愛知芸術文化センターの大ホールで開催するらしい。いいなー、いいなー、私も二千五百人収容のホールで弾いてみたかったなー……。
 しょうがない。だってみんな上手いんだもん。ちょうど今演奏中の真実ちゃんだって、なんていうか……キマってる。まず背筋の伸びが違う。学校での試験の定番衣装、絹の白ブラウスと黒のロングスカートもすごく似合う。シニヨンにした長い黒髪に金の髪飾りをつけているのもステキ。
 これで演奏も完璧なのだから文句のつけようがない。まず生誕二百周年のリストを選んできたあたりから洒落てる。中でもヴァイマル時代に作られたこの曲は、高度な技術を必要とするリストの数ある名曲のうち、最難関とも言われるものだ。不気味な不協和音を伴う幕開け。九度の連打。悪魔の奏でるバイオリン。楽しげな速い三拍子。踊り狂う人々。次いで、静けさ。星空の下で語り合う恋人たち。ロマンチックな中間部。再び悪魔の登場。そして結尾の激しいパッセージへと続いていく。
 ご存知の通り、リストはロマン主義を代表する大作曲家だ。ロマン主義音楽は十八世紀末から二十世紀にかけて流行ったもので、特に盛期は1830年から1880年にかけての半世紀。人間に本来備わっている感情を重視し、それを空想的、夢幻的、牧歌的な世界への憧れという形で表し、なにより個人の人間性を尊重する傾向を生み出した音楽。またリスト自身の残した業績も偉大なものだ。ピアノの楽器としての表現機能をオーケストラに匹敵するほど極限にまで拡大したこと。ピアノのみによるリサイタルを初めて開催し、さらにその形式を定着させることによって、それまでやや添え物的な存在であったピアニストの地位を引き上げたこと。一時期は四百人にも上ったと言われる多くの弟子を抱え、自らの卓越したピアノ演奏法を自分一人に留めず、後世に伝えたこと。さらには交響詩の創始、近代的な指揮法の開拓、楽壇での幅広い援助活動……なーんて、全部、音楽史の授業の受け売りなんだけどね。
 十分余りの演奏を、私は終始息を詰めて聴き通した。うわぁ、こんな難しい曲をこんなに弾きこなしちゃうなんて、やっぱり真実ちゃんはすごい。きっと今回の試験もクラストップは真実ちゃんだろうな。
 私も真実ちゃんみたいにカッコよくピアノ弾いてみたいよーっ!


 成和高校音楽科専任職員、また二年九組の担任として、僕、馬場裕介はこの職に誇りをもっている。専攻はサクソフォン。高校でサックスを専門にする生徒は少ないので物足りない気もしないではないが、その分ホームルームや、音楽史やソルフェージュの授業で積極的に生徒たちと関わるようにしている。非常勤講師だった頃は方々で自由に演奏活動もしていた。専任職員になってから四年が経つが、今でもたまに名フィルでサックス奏者が必要になれば駆けつけに行く、充実した毎日だ。
 座右の銘は、「美しい音楽は美しい環境から」。これを分かっていない人が多い。同僚の悪口はできれば言いたくないが、主任の西先生は、いつも机に積み上げた楽譜の束をこちらに雪崩れさせる。それだから太るのだ。それだから型抜きのロングドレスしか着られなくなるのだ。いいかい生徒たち、西先生は決してファッションのためにロングドレスを着ているのではないぞ! ――まあそんなこと、僕が職を失うだけなので口には出さない。
 生徒たちは皆、素直で可愛い。夜、道端ですれ違うような不良じみた高校生たちとは違って、その懸命に音楽に打ち込んでいる姿が美しい。僕は彼ら彼女らを誇りに思う。
 ただひとつこの職に不満があるとすれば、学校という場の特性上仕方のないことなのかもしれないが、それは生徒たちの音楽に点数をつけなければならないことだ。それでは伸びのある演奏ができなくなってしまう。僕は生徒全員それぞれの音楽性を尊重したいのだが――しかしまた彼らが今後、大学の入試や多くのコンクールなどの場で点数化される経験をするということも事実であり、さらにこの世界で生きていく以上、他人からの評価に全く影響されなくなるということは究極的にありえない。教師としてもそこは割り切るしかない。
 僕の机が再び西先生の楽譜の山に襲われていたところ、背後から「馬場先生、今、お時間よろしいですか?」と声を掛けられた。コーヒーの注がれたマグカップを慌てて避難させつつ、「ああ、そこ座って、ちょっと待ってて」と答える。どうにか雪崩をせき止めて「いいかい萩原さん、いい音楽はいい環境から、だよ」と振り向くと、遠慮がちに背を丸めて座った女子生徒は少し困ったようにはにかんだ。
「勿体ぶってもしょうがないから、言うけど」名簿帳に挟んだ成績表を一枚取り出しながら言う。「おめでとう。百点満点中、八十九・八点。クラスで一番だ」
「私がですか?」にわかに信じられないというように、女子生徒は大きな目を見張る。音楽科のような閉鎖的な空間で長く生活していると天狗になってしまう者というのは必ず一定数現れるものなのだが、この子の控えめな態度にはとても好感がもてる。
「本当に素晴らしいリゴレット・パラフレーズだった。他の先生方もたいへん褒めていらしたから、講評を聞きに行くといいよ。非常勤の先生をつかまえるのは大変かもしれないが」そこで僕は少し言葉を止める。「まあ僕からは事務的な話をしようと思う。君、パリ国際音楽アカデミーについて、噂くらいなら聞いたことあるだろ?」
「はい、一応」
「君は成和高校音楽科の代表として、アカデミーに参加する資格を獲得したと言える。宿代や食事代までは学校では負担できないが、はっきり言って、それだけの価値は充分すぎるほどあるものになると思う。それぞれのレッスンから空気の香りまで、半月間パリで経験してくることすべてが将来の君のためになるものだよ。――返事を急かすわけではないけど、どうだろう?」
「でも、私……」おずおずと口を開く。「フランス語なんて、しゃべれないです」
「そんな、そんなことは問題じゃない! 長期留学ならもちろん現地の言葉は必須だけどね、このアカデミーの講義は主に英語だし、最悪、通訳士をつけることもできる。第一声がそれならきっと大丈夫だろう。前向きに考えてくれると嬉しい」
 僕は、この子が将来大物になればいいなあと思った。


 どうも! 私は成和高校音楽科、二年九組二十番の藤野恵理奈です。今日はちょっと面白いことがあって早めに登校したんだけど、気合入れすぎちゃったみたい、教室は私一人きり。一階の練習室に行けば誰かいるかもしれないけど、でもま、そこまでする必要もないって感じだしね。
 で。何がそんなに面白いのかって言うと、決まってるでしょ、やっと試験結果が出たんだよ! 馬場っちは朝のHRで発表するつもりだろうけど、私はもう全部分かっちゃってるの。だって私は誰もが認める情報通。べつに情報を漁ってるわけじゃないんだけど、情報の方が私のところへ飛び込んでくるんだよね。これも人望ってやつかな。
 にしても今回の試験結果には大満足。あ、私の成績は聞かないで。平均点をなんとか超えて喜んでるレベルだから。――違う違う、大切なのはトップクラスの子たちでしょ。そう、今回のトップは私の予想通りひめちゃん。ちなみにこれは彼女の本名と一切関係ないんだけど、私的にクラスで一番ひめちゃんが可愛いと思うから勝手にそう呼んでるだけ。くまさんが惚れるのも道理だわ。ま、あの二人じゃ釣り合わないけどね。
 徐々に教室にも人が増えてきた。茶化してやろうと思っていたくまさんがなかなか来なくて興醒めしていた私は、「恵理奈ちゃん」という声に振り向く。耳に心地よい声で「おはよう」と、朗らかに微笑みかけてくるこの子が、噂のひめちゃん。私の前にちょこんと座るひめちゃんに「うん、おはよ」と答えていたら、私はくまさんのことなんてどうでもよくなっちゃった。もし私が男だったら絶対ひめちゃんは私のもの、くまさんになんか負けないんだから。
 席がひととおり埋まって、最後に馬場っちが教室に入ってくる。今日もてかてかスーツの馬場っちは、挨拶をして、いつもの「美しい音楽は美しい環境から」を言って、それからいくつかの事務的な連絡をした後、じっと私を見た。「藤野さん、何にやにやしてる」
「えっ? にやにやってやだぁ、そんなことないよ先生!」
「ふぅん?」
 えへん、と咳払いして、馬場っちは物々しく教室を見渡す。そして「それじゃ、先週の試験結果を報告します」と言うと、教室の空気が変わったのを私は感じた。「ここでは上位五名のみだけどな。まず、八十九点、萩原さん」
「「「――――!」」」
 もちろん私は知っていたわけだけど、ひめちゃんは自分の成績のよさを自慢して話すような子じゃないから、みんな驚いたみたい。「すごい」とか「へえぇ」とか言って教室中がひめちゃんに注目する中、くまさんも振り向いてひめちゃんをじっと見つめている。ふと悪戯心が芽生えて、私は「かっこいーっ、さすがっ!」と言ってひめちゃんの華奢な背中に抱きついた。私と目が合うと、くまさんはいつもほとんど表情の動きのない顔を少し赤らめて目を逸らした。くまさんマジうけるー。でも当のひめちゃんはみんなに「そんな、そんな、うん、ありがと……」とぺこぺこして、何も気づいていない。罪な子だよね。
 微笑ましそうに私たちを眺めていた馬場っちは、教室が多少静まると再び声を上げた。
「次いくぞ。八十五点、荻原さん――」


 みなの関心が教室の後方へと逸れていくのを感じて、私はほっと胸を撫で下ろした。「あれ? 荻原さんは休みか、珍しい」と先生が首を傾げると、生徒たちも無責任に「また演奏旅行なんじゃないの」「それだったら先生が知ってるでしょ」「きっとおうちで泣きじゃくってるよ、二位じゃ不満だって」「分かんないよ、移動時間も惜しいって猛練習中かもよ」と騒ぎだす。私は両手をきつく握るとうつむいて、そっと目を瞑った。
 こんな時いつも、急に教室の空気が薄くなったように私は感じる。ひどく居心地が悪かった。一人になりたかった。私の愛すべきクラスメイトたちは、みな素直で無邪気だった、でも……だからこそ、限りなく残酷だった。
 本音を言えば、真実に勝ちたいという気持ちは、私にも少なからずあった。いつだったか、恵理奈が私に「いつか真実の鼻へし折ってやりたい」とこぼしたことがあった。「私じゃ無理だけど、ひめちゃんならできる」とも。それはクラスの半数の子たちの意見を代弁したものらしかった。真実の言動はいつも、ある程度自尊心のある、特にピアノ専攻者の、自信や誇りを傷つけていた。
 でも私は何も特別なんかじゃないの、だからみんな、そんなに私を褒めちぎったり英雄を讃えるような目で見たりするのはやめて。たったの四点差……試験官の気まぐれでじゅうぶん逆転しうる結果だった、が、それだけでも私の得点が高かったことが奇跡に近いということも本当だ。事実、真実の弾いたリストのメフィスト・ワルツ第一番「村の居酒屋の踊り」と比べて、私のリゴレット・パラフレーズは純粋に難易度で劣る。さらに序盤が要するスピード感や力強さは真実が得意とするところで、私としてもそこを克服しなければ真実には勝てないという意識はあった。しかしまた、真実にも弱点はある……。
 ところでフランツ・リストの楽曲は、作曲された時期によって三つに区分される。リストが表舞台に立つことの多かったピアニスト時代、超絶技巧を極めた最盛期のヴァイマル時代、そして内面の思索に重きを置いた晩年期。メフィスト・ワルツはその作風からヴァイマル時代に分類されるが、実際にはこの曲が完成した1860年は晩年期との境目であるとも言われる。確かに曲の中盤、居酒屋を抜け出したファウスト博士と黒髪の踊り子が愛の囁きを交わす場面は、プロの演奏家によっても解釈が大きく分かれる難所だった。
 そして真実には自分の感性を絶対的なものと見なすきらいがあること、また、やや力任せな演奏に陥りがちなこと……つまり私が完璧だったのではなく、真実が完璧ではなかったのだ。しかし真実も馬鹿ではない、この結果に懲りてスタイルを変えてくるだろう。そしてまた、一位の座を取り戻すために血眼になって練習に励むのだろう。
 その日、どうしても私は授業に身が入らなかった。ペンを握りしめる傍らで、馬場先生のよく通る声は私の耳をすり抜けていく。
「――はい、このイギリスのダンスタブルと同時期にブルグンドの宮廷で活躍したのが、フランドル出身のデュファイとバンショアです。ところで安藤さん、ブルグンドって何? ――ん? いや違う、ブルグンドはフランス東部の公国で、フランドルがネーデルランドの方。この時期ブルグンド王国はフランドル地方を占領していたんですって、世界史で習ったでしょ? それでこの二人は先述のアルス・ノヴァの伝統を受け継ぎ、そこにイギリス音楽の技法を取り入れたんですね。上声部に動く装飾的な旋律を下声部で支える、という形での三声部書方による多くの作品を残した彼らを、ブルグンド楽派と呼びます。それに続く十五世紀後半から十六世紀末までのネーデルランド出身の音楽家には、オッケヘムやオブレヒト、ジョスカン・デ・プレなどが挙げられますが、ところで伊藤さん、これに続くラッセとは――」
 放課後、私は教室にも練習室にも残らず、足早に岐路についた。自分の身の上を悲しく思った。今回偶然にも私の成績が真実のそれを上回ったとして、それが何だというのだろう。私たちはこれからもずっと、終わりのない戦いを続けていかなければならない……覚悟を決めてこの高校に来たはずなのに、私は今さらのようにその事実に打ちひしがれた。そして思い出したのは、クラスメイトはみな打倒すべきライバルであるという、微笑みの裏側に隠した避けようのない現実と、入学当初は仲が良かった真実のこと。いつから彼女は私に敵意を露わにするようになったのだったか、あれは……一年の学年末試験の時。私の試験の結果を尋ねてきた真実に正直に答えると、彼女は何とも言えない、恐ろしい顔で私を睨みつけて叫んだのだった。
「言っとくけど、今回少し成績が良かったからって調子に乗らないでよね、咲希!」
 そうだ、自己紹介を忘れていた。私は咲希……成和高校音楽科、二年九組の十九番の萩原咲希。
 私は一人桟橋の上を歩きながら、冷たい風を正面から浴びて、鼻の奥がじんと熱くなるのを感じた。顔を伏せて進んでいくと、橋の中央あたりできちんと並べられた茶色のローファーを載せた黒い厚紙が風にはためいている。私はそれを手に取ると柵に寄り掛かった。どこか懐かしい、甘く柔らかい香りがする。厚紙には何重かの円と三角形を組み合わせた図形と、私の知らない文字とが銀色のペンで書き連ねてあった。首を捻って見下ろすと、底の知れない川は黒々と波打っている。
 戦いは続く。
 ずっと、ずっと。
 悪魔のワルツが聞こえる。

               了

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『葡萄』、および名工大さんとの合評会への提出作品です。

最終更新:2013年04月07日 18:09