2005年03月06日(日) 20時01分-木塚百川
S線の朝の混雑は有名だ。背広とブレザーとワイシャツに包まれた肉の柱が列車内に詰め込まれて、乗客は身動きどころか息も苦しい。嘘か本当かつぶれてアバラを折った人までいるそうで、ほぼすべての人間にとって、そこは一刻も早く逃げ出したい場所だった。
ただ、そこを娯楽の場とする者や、あるいは生活の糧を得る場とする者もいる。痴漢とスリである。ともに鉄道警察官の宿敵だった。
「……というわけで、奴らは乗客の懐を虎視眈々と狙っておるんです。協力お願いしますよ、安田さん」
「そりゃ構わんですが」
私服姿の鉄警に、安田義文はいい返した。スーツに隠れた左手首を右手でさすりながら、
「そんなに心配は要りませんよ。カード入れはチェーンを二重につけて内ポケットにしまい、ファスナーを下ろしてある。尻ポケットにはダミーの財布を入れてあるし小銭入れは靴の中だし、時計はこのとおり、ずっと触っておけば問題ないでしょう」
鉄警の男は首を振った。どんぐり眼をさらに見開いて、安田の丸い肩をつかむ。やけに気合の入った男だ、と安田は思った。
「それは油断ですぞ。この線にはとんでもないスリが一人いて、あたしゃそいつをもう5年も追っているんです。あの野郎、初巡回だったあたしの財布から万札全部抜いてって、代わりに自分の名刺を入れていきやがった。そういう奴なんです。たとえ財布の代わりに金庫を持ち込んでも、安心できんのです」
安田はうんざりした。自分の汚点までさらけだしてスリを追いかけようとする執念には敬服するが、まるで無能を宣伝しているようなものではないか。
とはいえ、警官は警官だ。
垂れてきた前髪をなでつけながら、安田は鷹揚にうなずいた。
「わかりました。それほどおっしゃるのなら、見張っていてくださって結構です。あまり近寄られても困りますが」
「ですが奴はネットの掲示板であなたを名指ししているんですよ、安田専務。本職としては、タクシーの利用をお薦めしたいのですが」
「とんでもない。社員に倹約を励行させておる身が、そのような贅沢をできますか。本社だって駅に近いし、そこまでするつもりはありませんよ。だいたい、盗難防止のためにあなたがいてくださるんでしょう?」
問われた鉄警の男はすぐには答えず、胸ポケットからのぞくペンの尻を指先でこねていた。眉間のしわが、いかにも承服しかねるといった様子だ。とはいえ安田の主張に誤りはない。鉄警の男はやがて折れた。
「しかたありません。身動きできなくなるので、本当はあなたの隣が理想的なんですが、今回はあなたの二つ隣に立って見張らせていただきます」
安田はうなずいたが、内心では「今回は」ということは次回もあるということかと考えて、気が重くなった。何が楽しみかって、通勤中に買った写真週刊誌の袋とじを開けるのが唯一の趣味なのだ。周りの人々はまったく自分に関心を寄せない、そんな中で地位もあり実績もある社会人がエロ記事を読んでいるのだ。記事の内容もさることながら、この絶妙なスリルがたまらない。というのに……。
鉄警などに見張られていては、それもできない。
安田は不機嫌の極といった表情を隠しもせずに、鉄警の男と列車に乗り込むことになった。
一ゆれごとに完全に体重を隣客にあずけながら、安田は列車に揺られていた。今日も車内はすさまじい密度で、背の低い安田はなみいる肩を眺めながら、左手でドア脇の手すりを、右手で左手首の時計を握っている。靴と内ポケットにも絶えず神経を尖らせているが、今のところ何の異常もない。
肩と肩の間に、鉄警の男の顔が見えた。らんらんと目を輝かせて、安田をにらんでいる。
安田は首をひねって、ふやけたカラーで首筋の汗をぬぐった。注目を感じたときの、嫌な汗だ。エロ記事の隠れ読みを趣味にしているだけあって、安田は他人の視線には敏感な性質だった。誰かが自分に関心を向けたと分かると、すぐにダミーの経済新聞で雑誌を隠すのである。それほどの自分が、スリに懐をさぐられて気付かないわけがあるか。
列車が急カーブにさしかかった。今度は安田のほうに乗客が倒されてくる。ここで踏ん張るとろくなことにならないので、安田は流れに身を任せた。
『いいですか、立ち客相手の場合、奴らはカーブのときにぶつかってくることがあります。相手の注意が逸れるときを狙うんですな。ですから安田さん、そういうときこそ、目を光らせていて下さいよ』
鉄警の男は、七回も同じことを言っていた。左腕で体を起こしながら目をやると、鉄警の男はみじろぎもせずに安田を注視していた。「間もなく~」車内アナウンスが日本語と英語で停車を告げてくる。するとそれに負けない大声で、鉄警の男が叫んだ。
「安田さん! そこのグレースーツの男だ!」
安田は目を走らせた。グレーのスーツを着た茶髪の男性が、安田に背を向けて人の群れに紛れ込もうとしている。安田は右手を伸ばして、なんとか男のえりがみをつかんだ。
ドアが開いた。急流のように安田は流されたが、右手は離さなかった。「痛い痛い痛い!」と男が声をあげる。鉄警の男がやってきて、グレースーツの男性の右手をつかんだ。いつの間にか三人は駅のホームの自販機の横にいた。
「何するんですか。ひどいですよ」
茶髪の男性がうなった。鉄警の男は男性の顔をにらんで、安田に言った。
「尻のポケットを触ってごらんなさい」
言われたとおりに手を伸ばす。すると尻ポケットに入れておいた空の財布は、半分以上抜け出ていた。
「あ……これは」
「言ったでしょう。意外と気付かんもんなんです、こういうのは」
安田ははっとして、左手の袖口をまくりあげた。じっとりと湿ったそこには、金色のロレックスが巻かれていた。もとのままだ。カード入れを取り出してみたがカードも札も何も欠けていなかったし、左足を軽く振ると、小銭が触れ合う音がする。
安田はため息をついた。
「刑事さん、その人、何も盗んでないみたいですよ」
と言う。男性もそれに力を得たかのように、
「そうですよ。尻ポケットのだって、人ごみでずれただけじゃないんですか? 離してくださいよ、僕は忙しいんですから」
鉄警の男はにやりと笑った。ゲジゲジ眉毛をはねあげて、
「あたしゃ見てたんだ。あんたの手が財布を抜き出そうとしてるところをね。証拠不十分だが詰め所まで同道してもらうよ。前があるかもしれんしな」
「僕は潔白ですよ!」
グレースーツの男性は叫んだが、鉄警の男は取り合わず、安田に「万一何かやられてるといけない。すぐ済みますから、ついてきて下さい」と言うと、男性を引っぱって歩き始めた。安田は舌打ちして公衆電話にかけよると、空いている一台を使って社に連絡を取り始めた。
詰め所はベンチと机とロッカー以外に目立つものがない。鉄警の男とグレースーツの男性が向かい合って座り、安田はベンチに座って男性の背中を眺めていた。
鉄警の男はここに来るなり分厚いファイルを取り出して眺めていたが、思うような結果がなかったらしい。派手な音を立ててそれを閉じた。声をかける。
「安田さん、どうです。何か無くなったものはないですかね」
「ありませんでしたよ」
とがった声で安田は返した。貴重な時間があんたたちに奪われてますけどね、と内心で付け加える。すぐに終わるといったくせに、もうかなり経つのである。
それを聞いて、鉄警の男はあきらめたようだった。
「まあ、今回は謝っときます。ですが、まぎらわしい行動はせんで下さいよ。こっちも気が立ってましてね」
まるで男性が悪いと言わんばかりの口調だ。しかし男性のほうもつかれきった様子で、投げやりに答えた。
「もういいですよ。じゃ、僕は帰りますから」
スチール椅子を蹴り倒さんばかりに荒々しく立ち上がり、大またで詰め所を出ていく。その気持ちは安田にもよく分かった。思い込みの激しい無能警官のせいで、貴重な時間が無駄になったのだ。朝訓ももう終わってしまっている時間だった。勤続二〇年無遅刻無欠勤だったのに、それも終わりだ。ひょっとしたら、もう昼休みなのではないか。
時計を見てみる。ロレックスの文字盤は、七時二二分を示していた。
「え?」
あわてて詰め所の掛け時計に目をやる。やすっぽいプラスチック時計の文字盤は、九時一五分になっていた。
「電池切れかな……」
安田は時計を外すと、裏面を見た。ネジが緩んでいるのが目に入る。ひっぱると簡単に取れた。裏蓋も取れて、床に落ちた。
安田は絶句していた。
時計には、中身がなかったのだ。
「う……嘘だ。そんな馬鹿な」
電池どころか、歯車もない。
声を上げたきり動けなくなった安田の傍らに、鉄警の男がやってきた。安田の手元を覗き込んで、「やられましたな」とうなる。
「やっぱりさっきの奴だったんだ。とんでもない奴です。完全な愉快犯ですな。偉そうな大人を手玉にとって、笑っとるんですよ」
皮肉られた気がして安田は腹を立てたが、それを行動に出す前に、鉄警の男は机の前に座って安田を手招いた。
「そこに座って下さい。被害届を書かなきゃいけない」
安田は怒りをしずめ、鉄警の男の正面に座った。出された書類を見ながら、つぶやく。
「私はずっと時計を触ってたんです。中の機械だけ盗むなんて、できっこないのに」
「それは普通の場合ですよ。奴は技術が並じゃない。それに、訓練されてでもないかぎり、人間ってのは集中力を持続し続けるというわけにはいかんのです。警察官とか、軍人とかでない限りはね。
おっと、ここはあたしが書くんだった」
鉄警の男はしたり顔で言いながら、胸元のボールペンを抜いて書類に何か記入し始めた。
(あんただって犯行の瞬間を見逃してたじゃないか)
そう思って、安田は鉄警の男をにらみつけた。鉄警の男はそ知らぬ顔でペンを走らせていたが、「あれ、インク切れかな」といいかけて動きを止めた。
芯がなくなっていた。
軸には筒状になったメモ用紙が押し込められていた。鉄警の男はそれを広げて黙り込んでしまった。かわりに安田が、
「あんたも人のことは言えない」
と文面を読み上げて、はははと笑った。
水組のお題小説です。
この作品のお題は、「金の時計」と「ボールペン」です。
ちなみに実話ネタ。楽をしてます(恥)。