2005年04月18日(月) 22時20分-木組
せっかくだから希沙はジャンルーカ達と話をしようと思ったのだが、テューンは「じゃーあー、ボークたちーぃは、部屋をー見―てくーるねーぇ」と、例によって間延びした声を残してコンパートメントを去っていった。列車が動きだし、席に座らざるをえなくなってしまった希沙は、仕方なく彼女らの去っていったほうを見やった。
――その、扉を。
なんだか色々あったので忘れていたが、この列車、車両はひとつである。だからその扉の先は乗務員室のはずなのに、乗客は当たり前のように扉を出ていっている。前の扉も、後ろの扉も。実際希沙も、アイビスにつれられて、前の扉をくぐった。そうしたら、部屋どころか、教会があった。そこがアイビスたちの部屋だという。考えてみれば、これは相当不思議な事態だ。
――あの二つの扉は、一体どこにつながっているのだろう。
(扉、かぁ…)
“扉の列車”。この列車は、希沙のいた町ではそう呼ばれていた。“扉”の解釈は、色々あった。“どこかとどこかをつなぐもの”、“その先へ導くもの”、“ジャッジメント”、“禁忌を封じるもの”、“境界の世界”――
もちろん、それは怪談のレベルで話されていた話題だ。もっと格好よく、都市伝説といってもいい。希沙の通っていた小学校でも結構有名な話で、一時期はみんな、その列車についての勝手な憶測を話しては面白がっていた。もちろん、誰もその話を本気にはしていなかっただろう。廃線になった鉄道駅、そこに真夜中に来る不思議な列車だなんて、いかにも作り話くさい。
当然、希沙だって信じていなかった。――咲が、いなくなるまでは。
(サキ…)
小学校の最高学年。狭い村の小学校とあっては、もうクラス全員が家族のような連帯感を持つようになるころ、桜庭咲は不意に現れた。どこか遠い都会から引っ越してきたという彼女は、田舎育ちのわたし達にとって、憧れを形にしたような存在だった。何もかもが洗練されて見えたし、彼女の肢体は白くて細く、きれいだった。
彼女は一躍人気者になった――というわけでは、実のところ無かった。冷たいわけではないのだが、皆に対する咲の態度は、どこと無くそっけなかった。都会のことは話したがらないし、休み時間も、図書館から借りてきた本を一人で熱心に読んでいた。咲の存在は、逆にクラスで浮いてしまっていった。
そんな彼女だったが、何故か希沙にだけは親しかった。希沙が尋ねると、それは名前が似ているから、いつも咲はそう言って笑った。咲の笑顔は、その名の通り、花が咲くかのようにぱあっと広がった。二人は、すぐに親友に呼べるとまでに親しくなった。
咲が消えたのは、秋の訪れの頃だった。その夜、希沙がなんとなく眠れずにいると、窓ガラスをこんこんと叩く音がする。怪訝に思って窓を明けると、そこに咲がいた。咲の格好は、まるで旅に出るかのようなそれだった。
『咲、どうしたの? こんな時間に』
『ごめんね、希沙。時間が無いの』
そう言って、咲は懐から何か取り出した。
『この本、あげるわ』
文庫本くらいの大きさの、古びた本だった。月明かりに、それは淡く光っているように見えた。
『え、咲、どうして? この本、すごく大切な物だって、言ってたじゃない』
『いいの。わたしには、もう必要が無いものだから』
そう言って、咲は笑った。
本を持ったままの希沙の手を、咲は両手で包む。
『――わたしは、列車に乗るわ』
『…え?』
『“扉の列車”。みんな、信じてないわ。幸せなのね』
学校ではやっている噂のことを言われ、希沙は驚く。咲は、あの話題には興味がなさそうに見えたのに。
『でも、あれは、ただの噂なんじゃないの?』
『そんなことないわ。わたしは、そのためにここにきたの』
希沙はわけがわからず、困惑するばかりだ。いっそ夢かとも思ったが、両手に感じる咲の手の暖かさは、まぎれもなく本物だった。
『――いけない、もう時間が来る』
『え、え、何? 咲、どこかへ行くの?』
『希沙、短い間だったけど、ありがとう。あなたに会えてよかった』
咲が手を離す。ぬくもりが消える。
『できれば、その本が意味を成さないことを祈るわ。――それじゃあ希沙、さようなら』
『咲!? え――また、会えるよねっ!?』
咲はただ微笑んで、返事をしなかった。月明かりの夜を、咲は行ってしまった。
そのあと、すぐにわたしは眠くなって、眠りの世界へ落ちた。
翌朝起きて、わたしはすべて夢だったのかと思った。けれど学校へ行ってみると、咲は転向してしまっていたし、家に帰って部屋に戻れば、咲から渡された本が置いてあった。
意味を成さないことを祈る――そう、咲は言っていた。あれはどういう意味だったんだろうと思いながら、希沙は本を手にとった。表紙の文字はどうやら英語で、希沙には読めなかった。まさかと思いページを開いてみると、中は日本語で、思わず希沙は肩をなでおろした。
ところが、どういうわけだか、その本は最初の1ページしか開かなかった。古すぎてページがくっついているのかとも思ったが、希沙は咲がもっと先のページを開いているのを見たことがあった。なんとも不思議だ。
唯一開けた最初のページを読んでみて、希沙はまた驚く。
『これ、あの駅じゃない…』
そのページには、噂の舞台になっている駅が描かれていて、しかもそこに見たことも無い列車が停まっていた。これはどういうことだろう、希沙はまだ夢の続きなのだろうかと、本気で疑ってしまった。
『ここではないどこかへ』。後で調べて見ると、本のタイトルはそういう意味だった。
コートのポケットに手をやる。そこには、古びた文庫本のような感触があった。
ふと、希沙は気づいた。
(もしかして、わたしの部屋も、あるのかな…)
*(穂永)
ドアノブをつかむ手が汗ばむ。
わけは分からないけれど、激しく動悸がする。
希沙は、扉を、開けた。
――何も無かった。あると思っていたものも。あるはずのものさえも。
自分の部屋らしきものはなく、先に見たアイビスの部屋もなく。運転席があるかと思えばそれもなく。
光もなく、闇もなく。といって荒野や宇宙があったわけでもなく。
あえて表現するなら、そこには虚無があった。
呆然とただずむ希沙は、後ろから人が近づいているのに気づかなかった。
「よう、嬢ちゃん」
肩に置かれた手に驚いて振り向くと、そこにはあの賈という男がいた。
「あ……賈さん、でしたよね」
「おう」
頷いて、前を見た賈は、いかにも驚いたようにつぶやいた。
「いや、また、こりゃ……見事なほどなんにもねぇな」
何を聞こうとしたのか。あとになって思い返しても、希沙はこのとき、賈に何を尋ねようとしたのか分からなかった。何か質問をしたかったはずだ。しかし希沙は、何の質問もできず、ただこう言った。
「さみしいですね」
この言葉に、賈はふと考え込んだ。やがておもむろに顔を上げると、ポケットを探り、不思議な形をした石を希沙に渡した。
「取っておくといい。これでも、多少は部屋の飾りになるだろ」
見れば、あの青灰色の草原の、ナイフの化石だった。
―― * ―― * ―― * ――
〈8〉木塚百川:二周目
「持ってきてたんですか?」
「まあね。癖なんだ、なかなか止められんよ。身を滅ぼすとわかっていてもな」
何がそんなにおかしいのか、肩を震わせて、賈は笑った。乗っていたカナリヤが羽をはばたかせ、賈の頭に乗る。「そりゃそうと」扉を閉めながら、賈は聞いてきた。
「お嬢ちゃん、なんだってこいつに乗り込んできたんだい?」
「え? ええっと……」
希沙は言葉に困った。
なぜだろう? そういえば、なぜなのだろう?
おせちを食べて、おとしだまをもらって、壁にかけたセーラー服をそっとなでて、それからベッドに入った。でも自分がどれだけ大人になったかを知りたくて、がんばってずっと起きていた。そして列車の走る音を聞いたのだ。それで、それから――
自分の心を思い出すことは、むずかしかった。何も持たずに出てきたのだ。今だって、パジャマの上にコートを着ているだけだし、靴下ははいてない。自分は家を飛び出したのだ。なにか――なにかが心を強く動かしたから――
「まあ、それが分かってりゃ部屋がないなってこたぁ、ないんだがね。ははは、悪いな」
考え込んだ希沙の頭をぽんぽんなでて、賈が笑った。
「怒っちゃいけない。お詫びに俺の部屋を見せてやろう」
そう言うと、自分で閉めた扉を、また開ける。
部屋があった。
ひどくせまい。ボロボロの二段ベッドが右半分を占領していて、左半分には小さな食器棚や小さな冷蔵庫や小さなタンスがひしめいている。それらにはさまれるように、奥にはおんぼろ机がおさまっていた。穴だらけの木壁には、まくれあがった女の人のポスターとか、破れたカレンダーとかがピンで留められている。
床はといえば、紙くずと本と酒瓶だらけ。いろいろな形のビンが、いろいろな格好で転がっている。
なんだか古い写真みたいだ、と、希沙は思った。
色がない。日に焼けて脱色した、古い写真みたいに。
「散らかっててすまんね。なにしろ片付かなくてねえ」
理由になってるようでなってない言い訳をしながら、賈は希沙の手を引いて部屋に入っていった。もう片方の手に引いていたトランクは、入り口に立てかける。カナリヤがばさばさと飛んで、二段ベッドの下の段に飛び込んでいった。
「転ぶなよ。後であの女の子にどやされるといかんからな。あ、椅子ねぇから適当に座ってくれ。本は下敷きにしてくれてかまわん」
背中でしゃべりながら、賈はビンを蹴っ飛ばしながら机に向かい、引き出しを漁り始めた。
(したじきって言われても)
しかたなく、希沙はビンをどけ、ほこりを払い、本を脇に積んだ。本は雑誌から文庫からハードカバーまでいろいろで、中にはひどいシミができているものや、酒でもこぼれたのか表紙がしわしわに乾いているものまである。うちの一冊に目を止めて、希沙はそれを拾い上げた。
文庫ほどの大きさの、象牙色の本。変な漢字だけがいっぱい並んでいて、タイトルは読めない。目を引いたのは、絵のほうだった。
ツタが這っている古い重厚な扉を、ぐるぐるとリボンが螺旋状に縛っている。リボンの先は表紙を飛びぬけ、本の中まで続いている。それは、希沙が友人に渡された本のそれと同じだった。
たしか、次のページは駅と列車の絵だったはず。希沙はページを繰った。すると、次のページは真っ黒だった。おどろいて次のページを繰ると、そこも真っ黒。ぺらぺらめくっていったが真っ黒のままで、とうとうめくれるページが終わってしまった。それ以上は、糊でかためられたかのように動かない。
『あはは、驚いたかい。それ、あたしが賈にやった本だよ。上海で買ったんだ』
「うわわ!」
耳元でしゃべられ、希沙は仰天して本を取り落とした。ビンがいくつか倒れ、派手な音を立てる。
振り向くと、いつのまにか、肩に黄色いカナリヤが止まっていた。
『やあお嬢ちゃん、こんばんは。ああ、こんにちはか? 暗いから分からないね。まあ、はじめましてだ』
黄色い喉を震わせて、カナリヤがしゃべる。鳥の喉から出た声にしては、とても澄んでいて歯切れがいい。女の人の声……だろうか? 別にこの部屋、色はあせてるけど暗くはないのに。
「おい、初対面だぞ。俺に仲介させろよ、ったく」
賈の声。目当てのものがなかったようで、彼は首をかしげながら希沙のほうにやってきた。二段ベッドの下の段に腰を下ろして、
「そいつは珊珊(シャンシャン)といってね。まあ、おじさんのコレなわけだ」
「……へっ?」
希沙は目をぱちくりとさせて、賈の突き出した小指をみつめた。
『あはは、それじゃわかんないよ、たぶん』
カナリヤが笑う――というか、笑い声をあげる。このカナリヤ、こんなにしゃべる鳥だったっけ? 希沙の視線に気づくと、カナリヤはくいっと首を傾けてみせた。
『あたしがこいつに惚れてたの。甲斐性なしの飲んだくれだったけど、まあ周りの連中よかマシだったからね、なんぼか』
「え? その、鳥が、え?」
わけがわからなくなって、希沙は頭を抱えた。すると賈がやや複雑そうな声で、
「お嬢ちゃん、そっちじゃない。珊珊はこっちだ――と紹介する前に、お嬢ちゃん、お化けは好きかい?」
「おばけ」
「そう、お化け。ほら、日本にもいるだろ、オイワさんとか、オキクさんとか。あーゆーのだ」
おばけ……怪談は嫌いじゃない。周りに友だちがいて、昼間だったら、だけど。実際に見たことはないけど、見たら泣くか倒れるかどっちかだと思う。
沈黙を肯定だと受け取ったらしい。賈は勝手に話を進めた。
「そういうのを想像してくれ。目いっぱいリアルに。どアップで。さあ、目を閉じて」
よくわからなかったが、とりあえず目を閉じる。
『おい、オバケってそりゃ、ひどくないか』
口をとがらせたようなカナリヤの声が聞こえてきた。賈は笑っている。笑っているが、声に力がない。
マンガで読んだおばけの顔を、「目いっぱいリアルに、どアップで」想像する。しばらくそいつとにらめっこ
していると、また賈の声が聞こえた。
「ようし、じゃ、それを忘れないようにして目をあけるんだ。あけたらこっちを見てごらん」
希沙は目を開けた。賈はベッドのほうに体を寄せている。シーツに手をかけていた。それを、はぐ。
薄暗いベッドの奥。女の人が眠っていた。
長い黒髪に白い肌。切れ長の目の上には、紫色のアイシャドウが薄く引かれている。化粧はしているけど、そんなに年上じゃない――そう、高校生のお姉さんくらいだろうか。ネックレスやイヤリングは青や赤の宝石で、とてもきれいだ。
『ね、美人でしょ。賈ってば失礼しちゃうよね』
希沙は答えなかった。賈が女性の前髪をそっとはらったのだ。隠れて見えなかった部分があらわになって、それが希沙の口から言葉を奪った。
頭環の飾りの少し下、おでこのちょうど真ん中あたり。小さな穴が開いていた。
オイワさんとか、オキクさんとか。
「逃げ切れずに、ピストルで頭を撃たれてね」
部屋に入る前とは別人のように、賈の声は低い。
「……これが珊珊だ」
声は色あせた部屋をただよって、本だの酒瓶だのに吸い込まれてすぐに消えた。
希沙は目をみはったまま、眠るように死んでいる女性の顔を見守っていた。その顔の横に、ばさばさとカナリヤが飛んでくる。
『ええと、まあ、そういうこと。……このカナリヤは前に賈がくれたんだけど、この部屋にいるとあたしがしゃべれるんだね。不思議だけど、賈の時計だってここじゃなきゃ動かないし、なんかあるんだろ』
賈は黙っている。希沙はのろのろと、自分の時計を見た。赤い腕時計の秒針は、ちくたくと軽い音を立てながら、しっかりと時を刻んでいる。駅で降りたときも見たけれど、そのときよりも少し進んでいる。自分の時計は、ちゃんと動いている。
(――あっ)
それどころじゃない、と希沙は焦った。死体を見てしまった。このあと自分はどうなるんだろう。「秘密を知ったからには殺す」? でも、自分で見せたんじゃないか!
「おーい、嬢ちゃん?」
怪訝そうな賈の声が聞こえた。希沙はびくりと身をすくませ、賈の顔を見上げた。
賈は鼻の下をこすって、苦笑いした。
「悪いな、おどろかせちまった。他意はない。嬢ちゃんの部屋が見当たらない理由ってのを、ちょっといっしょに考えてみようかと思ったんだよ」
『昔からおせっかいだからね、賈の旦那は』
珊珊の枕元から希沙の肩に飛んできて、カナリヤが言う。「ああ、こんなとこにあった」と呟きつつ、賈は床に落ちている一冊の本を拾い上げて、
「列車に乗るときに俺が持ってた本だ。他のは急だったんで、トランク一個がやっとで後は部屋に置いてきちまった。まあ、それでも間に合わなかったんだが」
賈はぱらぱらとページをめくり、それに視線を落としている。はて、部屋というのはここのことじゃないのだろうか。希沙は首をかしげた。カナリヤがその頬に身をすりよせてくる。顔は賈のほうに向けていて、
『ここ、列車の中なんだってね。あたしはてっきり、まだあの部屋にいるもんだとばかり思ったけど』
「まあな。そうだったらどんなによかったか。って、そいつは置こう」
賈は本を希沙に手渡した。
「中、真っ黒だったろ? 俺は悪い組織と戦う正義の男だったんだが、相手が強すぎてちっとばかし絶望してな。そんな状態のままだったんで、あまり経緯を覚えてねぇんだ。どーやって乗ったのか」
『お嬢ちゃん、分かるだろうけど、正義の男ってとこはあんま正確じゃないからね』
小声でカナリヤが言ってきた。希沙はうなずく。賈は気づかなかったようで、言葉を続ける。
「なんで始めの部分だけじゃなくて全部真っ黒なんだかは分からんが――俺の部屋、色褪せて見えるだろ? ここな、俺が前珊珊といっしょにいた部屋なんだ。花子(ファズ/乞食)の真似事なんかやって、平和だったころだな。それがぶっこわされて、必死で逃げて――逃げてる間は真っ黒でろくに記憶もないが、この部屋のことをよく考えたっけ」
低く、カナリヤが喉を鳴らした。
「ああ、とにかく嬢ちゃん、あんたも似たような本持ってないか? そいつを読めば、多少は何か分かるかもしれないぜ」
希沙は眉をひそめた。あれは列車に乗る前に開けてみて、1ページしか開かなかったはず。
けれど、今ならもう少し開くのではないだろうか。
コートのポケットに手を入れる。
ひんやりとしたチョコの板の隣に、分厚い本の手触り。希沙はそれをそっと抜き出した。
―― * ―― * ―― * ――
〈9〉藤枝りあん:二周目
書き出しはこうだった。
――私は大人になるんだ。
もうすぐ、あの制服を着て中学校に行く。
だからその前に、やっておきたいことがあった。
もう、子供じゃないんだから。
少しぐらい、夜更かししても、いいよね。
何かの物語の出始めのように、そう書いてあった。希沙は少し目を見張って、次のページをめくった。
そこにはまるで物語のタイトルでもあるかのように、こう描いてあった。
私 は 列車に 乗るんだ
希沙自身の、字で。
「まぁ、ともかくだ、嬢ちゃん」
と、賈は希沙の肩を軽く叩くと、ニヤッと笑って言った。
「少しは前進したんだ。そうだろ?」
希沙は軽く頷くと、本を閉じた。
パラパラとめくってみて、書き込まれていたのは汽車に乗る決意文らしき一言までだった。それから先は、何も書かれていなかった――というか、例によって例の如く、めくることが出来なかった。
色々あったのに。
車掌さんに、賈さんや、ストルクさんやアイビス、ジャンルーカさんやテューンさん(ネコだけど)、そして今は珊珊さんに、会ったこと。
お菓子をもらったこと。
駅で降りて、珍しいものを見て、少し、怖い目にも遭ったこと。
でも。
本はまだ白紙。
「きっと、増えますよね」
「まぁ、だろうなぁ・・・もっと知ってるのがいりゃいいんだが・・・すまんね」
そんなことないです、と希沙が口を開こうとしたその瞬間、
「黙れっ!」
叫び声がした。しかも、ただ事ではない口調で。
希沙は驚いた拍子に本を胸に抱いたまま、後ろの扉を振り返った。部屋の扉、すなわち、列車に続く扉を。
「今のは・・・なんか、尋常じゃないな・・・」
希沙は賈の呟きが耳に届く前に、部屋の扉を勢いよく開けて車内へと躍り出た。
そこにいたのは、白い肌を紅潮させたストルクと、毛を逆立てて目を剥いているテューン、そして、相変わらず無表情のまま佇んでいるジャンルーカの、三人だった。
「どうし・・・たんですか、ストルクさん?」
おずおずと、希沙は口を開いた。その場の雰囲気は最悪で、無関係の自分がおいそれと割って入ることは出来っこないと、暗黙のうちにそう思わせていた。だが、来てしまった以上はまた部屋に引っ込むわけにはいかない。
「えと、今凄い声がしたから・・・」
「君には関係無い」
ビクリと、希沙は肩をすくめた。自分の方を見てすらいないのに、氷の瞳で射すくめられたような感じがしたのだ。後ろで賈も、いたたまれない、といった雰囲気だ。
「――ともかく、何も言うことは無い。失礼する」
ストルクは顔を伏せたまま希沙の横をすり抜けると、ガチャリと音をさせて扉の向こうへ消えた。おそらく、アイビスもその部屋にいるのだろう。彼女も同じく、今の喧騒を聞いたのだろうか? だとしても、ストルクを問いただしたところで答えが返ってこないのは明白だった。
「・・・嬢ちゃん」
呼ばれたかと思って希沙は振り返ったが、賈が呼びかけたのはもう一人の少女――ジャンルーカの方だったようだ。彼は続けた。
「何が、あったんだ? いや、俺が無関係だってのは知ってる。けど――」
「けどぉ~?」
テューンの声で、そう返事が来た。希沙はジャンルーカが喋っているのではないかもしれないと賈に言おうと思ったが、それよりも早く、
「けど、ほら、ケンカは良くない・・・だろ、嬢ちゃん?」
「かもね」
「じゃあ、その理由を教えてもらえるかな? ほら、場合によっちゃ、何か手伝えるかもしれないからな、それに喋ったほうが楽になるかもしれないだろ?」
「・・・いぃよ、別に。たいした理由なんかじゃない」
ともかく、会話が成り立ったので、希沙もそれに従うことにした。この声の主がどちらであれ、今は関係が無いのだろう。
ただ――
「・・・大丈夫ですよ、テューンは。ね?」
賈の胸の辺りの膨らみが、小刻みに震えているのが服の上からでも分かる。テューンが喋るにせよ喋らないにせよ、迂闊に出てきたら食われてしまうのではと珊珊が思ったのは無理の無い話しだ。何せ、テューンはネコなのだから。
と、当のテューンは、あくまでも何を意図しているのか分からないといった様子で、
「ん~? 何~? う~ん、たいていは・・・ね」
と返すと、じっと賈の胸の辺りを見ていた。
絶対、わざとだ。
希沙だけではなく賈もそう感じたらしく、ジャンルーカに向かって、
「嬢ちゃん、とりあえず、そのテューンは抑えといてもらえるかな?」
と苦笑してみせた。
別にたいした理由ではない――そう最初に断りがあったとおり、原因は些細なことだった。
ただ、テューンが――というか、あの声が『ボクが・・・』と語りだしたのでテューンが主体だと思われるのだが――ストルクの親友の、悪口を言っただけだということなのだ。
「・・・それだけ?」
「そ、それだけ~。言ったでしょ~? たいしたこと無い~って。そのジュランのこと~、ボクが大嫌いだって~言った~ら~、ストルクが~、死者の悪口を言うな~ってぇ~怒ったんだ~ぁ。それだけ~のこと~」
「そっか・・・じゃあどうこう出来るような事でもないな」
「そ~そ~。死んだら許せ~って、ストルクは言う~んだよね~。けどボクはそれが出来な~いんだよ~ぅ。ど~ぉすればい~かな~ぁ?」
テューンは悪びれる様子も無くそう言って笑っていた。賈もつられて、そんな理由なのかと笑っていた。
「でも・・・テューン、何て言ったの?」
希沙も、半分ほっとして笑おうとしたその瞬間、
「俺の命よりも大事なものを奪った、死んで当然のヤツだった」
低い声がした。
苦しみを絞り出したかのような、つらく、悔しげな、青年の声。ストルクとは全く異なる、感情ある声。
そしてそれは、絶望に満ちている。
「え・・・?」
「だ~ぁからぁ~、ひどいこと言ったんだって~、怒っても~仕方がな~いよ~なこと~」
テューンの、子供のような声が、そう笑っていた。賈は気付いていないらしく、そりゃあ嬢ちゃんが悪いな、と苦笑していた。
だが、あの声。
確かに、聞こえたのだ。
まるで、誰かを呪うような。
希沙は、ジャンルーカを見た。彼女はいつものように、仮面のような顔に何も浮かべることなく、ただただ、何処かありもしない空間を、眺め続けている。
何故、皆はこの列車に乗っているのだろうか?
希沙の脳裏に、かすかにそんな疑問がよぎった。
――10:黒・カラスバ――――
自分の部屋に戻るつもりにはなれなかった。生活感と呼べるようなもののまったくないあの部屋では、気が休まらない。そもそも、ベッドはおろか椅子もないのでは、物理的に休めない。
席に座ったままぼうっと外を眺めているうちに、希沙はいつの間にか眠ってしまっていた。考えることがなかったわけではない――むしろ疑問は募るばかりだったが、気づかぬうちにたまっていた疲労は確実に希沙の身体を蝕んでいて、列車の振動すらも希沙を眠りへと誘った。
くらやみのなかから、なにかが顔を出そうとしている。
何もない虚空のくらやみ、それははじまりのやみでもある。
そこから生まれいずる何か、それは善なるものか、悪なるものか。
まだ決まっていない。それがはじまりのくらやみ。
ぼうっとしていれば、くらやみはあなたの意志に反してうごめきだす。
けれど恐れないで、そのやみはあなた自身。
くらやみを見つめなさい。くらやみを照らしなさい。そこになにを見つけるかは、あなた次第――
「――まもなく、賢石の園、賢石の園に到着します――」
響いたアナウンスの声に起こされ、希沙は目を開けた。十分な睡眠が取れたとは思えず、頭の奥に鈍い痛みがある。
(わたし、夢を、見た…?)
暗闇がどうの、そんな話を聞いた気がする。何か物語の一部だったか、それとも全然違うものなのか。遠い昔に聞いたような、すごく最近に聞いたような、そんな話だった。詳しいことが思い出せない。
「――キサ! 起きた? ほら、もうすぐ次の駅につくわよ。降りてみるでしょ?」
「あ、うん」
やってきたアイビスに生返事を返しながら、希沙は漠然と自分の部屋のことを思い出していた。
11(穂永)
「うわ……あ……」
降り立った希沙は、思わず絶句した。
天下の奇観、賢石の園。
そこは、暗灰色の――こう言えば語弊があるものの――町だった。
石の町だった。
人も、犬も、猫も、空を飛ぶ鳥も、地を這う蛇も、みな、石だった。石でないものは、さらさらした地面の砂ばかりだ。
そして、全てが、石に相応しく、静寂を保っていた。
テューンがアイビスと喋っている声が、妙に大きく聞こえた。
「アイビスは~この場所へは~初めて来るんだっけぇ~?」
「ええ。――まあ、なんて言うか――ほんと、奇観だわね」
「もともとはね~一つ石があっただけなんだよ~ぉ。つまり賢石だね~。そこに人とか~犬とか~集まって来て~、町みたいな庭みたいなのが~できたわけ~」
彼らのそんな会話を小耳に挟みながら、希沙はひきずりこまれるように園の中を進んだ。強烈な違和感と恐怖を感じつつも、進まずにいられなかった。
夜の学校や墓場の怖さとは違う。あるいは、火災だとか、テレビで見る戦場などから受ける恐怖とも違った。一つ譬えるなら、ただ月をじっと見つめたときの、言い知れない恐ろしさに、少しだけ近かった。
そこには生がなかった。
死もまた、なかった。
動きがなかった。あたかも千年前もこのとおりで、千年後もこのままでありそうなほどに。
加えて、風すらも全く吹いていなかった。
園の中心に、賢石はあった。天を衝かんばかりに、聳え立っていた。
触れた手から、心地よい冷たさが伝わる。希沙は、目を閉じた。
老婦人の鈴が鳴ったのに、希沙は気づかなかった。
絶対の静寂。
絶対の不変。
その虚無の中で、黙って安らうことを選ぶが良い。
不確実な喧騒。
不確実な転変。
その流動の中にあれば、血にまみれなければならない。
君は、その愚を冒すな。
ストルクがもう一人の青年を問い詰めている。
青年は凄味のある笑いを浮かべている。そしてその笑いをさらに凄惨にしているのは、口のまわりについた血だ。
やがて青年がふらついて倒れる。よく見れば、胸のあたりから青年自身も血を流している。ストルクが彼を抱きかかえる。青年は狂気に満ちた笑いを発しながらストルクを突きのけ、床をのたうちまわる。そこで一人の少女が現れ――アイビスだ――ストルクが止める間もなく、のたうつ青年の首にナイフを刺す。青年が動かなくなる。
遠くから慟哭が聞こえる。アイビスがはっとしてふり返る。視線の先にはジャンルーカ。青年の死体にかけより、そして――。
――沙、希沙!
――希沙、しっかりして! 目を覚まして!
希沙がはっとして声に振り向くと、アイビスがいた。はじかれたように希沙は後ろへ下がる。
「どうしたの、希沙。顔が真っ青よ」
ジャンルーカとテューンが横目で希沙を見た。
「あ~、さては~賢石に~触ったね~。賢石に触ると~変な夢を見て~、ひどいときにはぁ~そのまま石になって~この園の住人になっちゃうんだよぉ~」
希沙は目を白黒させた。アイビスが背中を撫でた。
「ちょっ……ほんと、大丈夫? 電車までおぶっていってあげようか?」
希沙は思い切り首を横に振った。アイビスは少し機嫌を損ねて、
「そんなに大げさに断らなくてもいいじゃない」
「なにかぁ~危険な雰囲気でも~漂わせてんじゃないの~」
「なによ危険な雰囲気って。私にそんな趣味はないわよ」
アイビスとテューンの気の抜けた漫才を聞きながらも、彼らの後ろを歩いていく希沙は震えが抜けなかった。
怖かった。
アイビスも、ストルクも、ジャンルーカも。
―― * ―― * ―― * ――
〈12〉木塚百川
青ざめた顔をうつむかせて戻ってきた黒髪の少女を、賈はシルバーシートに胡坐をかいて出迎えた。「何か土産でもあったか」といいかけて、口を閉じる。目で追うと、金色の髪の少女と褐色の髪の少女が腰掛けた、その少し後ろの座席に、少女は座った。
「……なんだ? ケンカでもしたのか」
にしては、アイビスの表情が暗いわけでもなかった。ジャンルーカとやらのほうは無表情だったが、こちらは前からだ。猫はジャンルーカの腕の中で、ストルクは部屋から出てきていない。
賈は立ち上がった。希沙のもとに歩み寄ろうとして、やめる。
――どうせ出発はまだだ。希沙たちの行った賢石の園を、見物していってもいいだろう。
カナリヤを肩に乗せたまま、賈は列車を降りた。
音もなくジャンルーカが席を立って、猫を胸に抱いたまま、賈に続いてまた列車を降りた。
賢石の園、見事なまでに死んだ街だった。
――いや、死んだという表現は少しおかしい。動かなくなった、といったほうが正しいのだろう。
ここの建物を作ったのは、ここで永遠に動かなくなった人々なのだろうか。
だとしたら彼らは、ここにきてしばらくは、まだ動いていたということになる。
風化してすっかり角が丸くなっている石段に腰掛けて、賈はかつての広場とおぼしき空間を眺めていた。
ベンチも木々も、ただ石である。木陰に憩う鳥たちも、噴水のブロックに腰掛けたカップルも、みな石化した存在のみを空間にとどめている。賈の足元を這うアリの行列までも、石なのだ。精緻なことは目利きの賈さえ驚嘆するほどだったが、同時に言いようのない孤独感が風となり胸中を吹きぬけていく。
動くものはただ、舞い上げられる砂塵のみ。それさえもゆるやかに堆積し、やがて目の粗い石となるだろう。こうして座っていると、いつしか自らも石となり、永劫の孤独の中に封じ込められるような気がする――実際にそうだったからこそ、この街はこうなのだろうが。
賈は立ち上がると、頭や肩にいつの間にか積もっていた砂を払い落とした。風が一筋、物悲しい音色を奏でながら石と石の間を吹きすぎていく。黄色いカナリヤを肩に止まらせて、賈は歩き出した。青灰色の木々のひと群れが風に屈し、己が身を数万もの砂粒に変えて滝を作る。真下にあった石像をいくつか巻き込んで、そこに堆い砂山が生まれた。
石段を登り緩やかに下る通りを進むと、間もなく巨石が見えてくる。割ったばかりの木炭のような艶々しい黒色。あらゆる色を閉じ込めて離さない深い黒だ。頭上の晴天に比べれば小さな棘のごとき存在であっても、人を前にするとその石は雄雄しく聳え立ち、威厳さえ漂わせる。その黒色は極限まで凝縮された密度の象徴のようでもあり、逆に完全な空虚の象徴のようでもあった。
死人の目がこんな色をしていた。
そして、死人の額に穿たれた穴も。
彼らはそうして俺を見る。迷うことも怯えることもない不動の高みから、色あせた笑顔を浮かべて俺を差し招くのだ。俺は招きに応じない。迷い、怯えているからだ。俺は背を向けて走り出す。折れそうなほどに細い手首をしっかりとつかんで――
石の表面はひやりと冷たかった。黒透の表面に映りこんだ自身の視線から逃れるように、石を見上げる。晴天がある。もっと陽光を反射してもいいくらいなのに、この石の黒いことときたらまるで焼けた杭だ。
カナリヤに頭をつつかれて、手を離した。賈は独語した。
「ふうん……嬢ちゃん、こいつに触ったのかな。なんつーか、妙な気分になるね。部屋の隅で電気もつけず、頭を抱えていたくなる、そんな気分だ。なあ、そこの嬢ちゃん。あんたには分かるかい?」
振り向いた賈の視線の先に、ジャンルーカが立っていた。
「よ~く気づいたね~ぇ。ま~隠れてきたわけじゃ~ないんだけどさ~ぁ」
答えたのは、少女の腕の中の猫である。褐色の髪のジャンルーカは、色のついた石像のように佇立して動かない。他に石像と違う点は、墨色のローブが時折風をはらんで大きくふくらむところだった。
「で~もぉ、よく石にな~らなかったね~ぇ。あ~なたみたいな人が~ぁ、い~ちばん石にぃな~りやすいんだけどね~ぇ」
猫が言った。カナリヤが賈の懐に隠れる。賈は苦笑して顎を撫でた。歩き出す。
「詳しいねえ。確かに魅力的な提案だ……というか、そう思えるよ。だが、なんでかな、すり抜けちまうんだよ――ここの風は。恐怖も孤独も不安も、俺くらいひねくれると受け流せるのかもな」
少女の脇を通り抜ける瞬間、足を止めて彼女の顔を横目で見る。ジャンルーカのオッドアイは、漆黒の賢石を見つめて揺らぎもしない。腕の中のオッドアイが代わりのように賈の視線に応えた。
「平~気だよ~ぉ。ボクたちはぁ、石にはならないさ~ぁ。す~ぐ戻るってぇ」
「そうかい? まあ、あんまり見つめないことを勧めるが――」
びしり。
スーツの下で、何かがひび割れる音を賈は聞いた。左腕がかすかに重くなり、そしてすぐに軽くなった。乾いた音を立てて、小さな石片が左袖から滑り落ち石畳に弾ける。
「なんだ……時計が」
腕に変化はなかった。ただ付けていた腕時計――タグ・ホイヤーの偽物だ――が、なくなっていた。足元にできた小石の山を、賈は見下ろした。珊珊の死んだその日から、時を刻まなくなって久しかったその時計。
「……フン。賢石だと……これが答えのつもりかよ」
賈は肩を震わせて、薄く積もった砂を払い落とした。吹いてきた風が足元の小山を吹き崩し、ジャンルーカの服をはためかせた。風が全て賢石に向かって吹いてくることに、賈は気づいた。半ば独り言のようにジャンルーカに話しかける。
「よう、俺でさえこの有様だ。嬢ちゃん、悪いことはいわんから、賢石とやらには近寄らんほうがいい」
賈は歩みを再開した。細かい石を踏み砕く足音のせいで、ジャンルーカの返事は聞き取れなかった。
「そ~するよぉ。でもねぇ、ジャンルーカはもう――」
刻まれた足跡を風がさらった。懐からカナリヤが顔を覗かせる。その温もりを感じつつ、賈は自らの旅の終わりが近いことを予感していた。
―― * ―― * ―― * ――
〈13〉藤枝りあん
ヒトは、人間は、答えを求めて流離う。
そしてその答えが新たな問題の始まりでしかないと気付き、また、あてのない解への放浪を始めるのだ。
『賢石』――まだ自分が幼かった頃、とテューンはその黒い塊を見上げた。まだ自分が喋れなかった頃、この石は本当に美しかった。今とは全く異なる美しさと言えよう、あらゆる光をその身に受け、まばゆく輝くプリズムは希望を感じさせた。吹き寄せる風は命の息吹。平和と、安寧と、幸福の象徴。
だが今は。
絶望がそこに在るのみ。
「変ぁわれる・・・もんな~んだな~」
テューンはそう、呟いた。頭を振る。思考に言葉がついて来ないことほどもどかしいことは無い。ちらと少女を見上げる。ジャンルーカは無表情のまま、じっと賢石を見ている。
生きているはずなのに。
テューンは彼女の腕からふわりと飛び降りた。
死んでなんかいないのに。彼女はここにいるのに。
まるで時が止まってしまったかのように、彼女は動かない。動けない。石のように。命無き物のように。
ここは力が集まる場所。力の善悪は問わず、故に何事も起こり得る場所――たしか、彼はそう言っていた。
ジャンルーカは、微動だにせず巨石を見据えていた。
「旅というのは――といっても、受け売りなんだがな、」
彼の言葉だ。
「体験する前に知るのは良くないんだ、そうだ。だから今言えるのは、それだけだな」
要するに、不思議な場所なのだと彼は言った。時の流れを忌み、永久に変わらぬものへと姿を変えた安穏たる死の都。かつての栄華も、既に知るものはいないという。
「私、そこに行ったことはあるのかな」
答えが分かっているのに、そう彼に問いかける。彼は事も無げにこう返す。
「無いな」
「私の、故郷は――」
言いかけて、やめる。そんなものは、何処にも無いのだ。それも、分かってる。だが、彼はこう言ってくれる。
「俺が知ってる」
苦しそうな笑顔で。
「だから、今はこれからの旅を楽しまないと。前に進むんだ、ジャンルーカ」
その笑顔をみると、胸が痛む。締め付けられるように、胸が張り裂けそうに、痛む。原因も、何も、分からないのに。これを伝えられればどんなにか楽になるだろうか。
「泣くなって」
いつの間にか、頬を流れるものがあった。
「涙」
胸が痛むと、涙が出てくる――悲しいから。涙は、悲しい時に流すものだと彼から教わった。
つらいのは、失われた過去。自身が存在しなかった、彼の思い出。
ふいに、声がした。
絶対の静寂。
絶対の不変。
その虚無の中で、命に足掻く傀儡よ。
何処かで聞いた声だ、とジャンルーカはぼんやりとそう思った。知らず知らずのうちに、賢石に体を摺り寄せるような格好になっている。誰かが、彼女の名を叫ぶ。だが、聞こえるのは、透き通った、感情の無い声のような音だけ。
その音は続ける。
不確実な喧騒。
不確実な転変。
その流動の中で、君は血にまみれたはずだ。
その愚を犯してなお、岩壁に炎の道を刻み続けるのか。
言い争う、青年が二人。その間に横たわる自分と、それを見下ろす自分。
何故こんなことになったのか。
「ジュラン、お前・・・何てことを!」
上から降り注ぐ青年の声には、怒りがこもっている。
「幸せには」
別な青年の声。
「犠牲がつきものだよ」
「そんなものは幸せななかじゃないッ!! お前は、お前がしたのは――」
澄んだ笑い声。
「全てに等しく幸福を――それが彼女の願いだった」
「その願いのために、自分が何を、何をしたと思ってるんだ・・・!!」
二人の喧騒を全く意に介さずに聞いている自分。違う、聞こえているだけだ。動く力も、考える力も湧き上がってはこない。
だが、少しだけ覚えがある。
青年の天使のような笑顔。
もう一人の青年が元の姿に戻ってしまうこと。
そして、彼が。
「やめ――――!!」
制止の叫びは掻き消え、まばゆい光が辺りを包み込む。誰の声?
紅い。赤い。血。一面の、血。
自分は血の海に沈んでいる。
純白のローブが髪の毛と同じ赤に染まり、力無く横たわっているのが見える。その碧眼は、現実に在るものを映そうとはしない。目を背ければ、そこには何もないのだとでも言うかのように。
そして、一匹の猫が、そんな自分に覆いかぶさるようにして、死んでいるのも、見える。
そうだ、私のせい。私にこんな力があったから、テューンが・・・
彼は、こんな私を守って傷付いた。
「私なんかいなければ」
「そう、お前さえいなければ」
誰も傷付かずに済んだのに。
「僕が苦しむことも無かったのに」
そう、全部。
「お前のせいだ」
私が、私が、私が――生きているから。
「消えろ、ルカ」
金髪の少年が、もう一人の青年の横に立っている。誰?
「ジャン」
青い瞳が、冷たく少女を見下しているのを感じる。憎しみと、喜びに満ちた瞳で。
分かる気がする。何故そんな風に少女を見ているのか。自分には、分かる。何故なら、貴方は――
「僕はお前だ」
お前がいると、僕は幸せになれない。
幸せとは、眠り。
醒めることの無いまどろみこそが、全てを至福の時で包んでくれよう。
さあ。
おいで、ルカ――君をここから、救って あ げ る
「ジャンルーカ!!」
はっと我に返り、ジャンルーカはへたへたとその場に座り込んだ。背後で自分を支えてくれている彼が、自分をこの世界へと引き戻してくれたのだということだけが、はっきりと分かった。
「俺が分かるか!? 俺が!?」
彼が、そう呼びかける。ぼさぼさの青灰色の髪の毛と、青と緑のオッドアイ。
何処かで、彼は、死んでいなかっただろうか? ただの気のせいだろうか。
頭が真っ白で、何も分からない。ここは何処だったのか、自分は何だったのか。
「ジャンルーカ」
もう一度、彼はそう呼びかけた。
そうだ、私はジャンルーカ。それだけ分かればもう――大丈夫。
そう伝えられないことがどれほど苦しいことか。
頷くことも、声を出すことも、ジャンルーカには出来ない。瞬きをすることも、笑うことですら。
「ジャンルーカ」
彼はそっと、色付く石像のように身動き一つしない少女を、その腕に抱いた。
「俺が、分かるか・・・?」
返事は無い。
いつもと同じ。少なくとも、見た目になんら変化は無い。だが、心は。
「俺の名を、呼べるか・・・?」
腕に力を込め、そっと抱き寄せる。胸の鼓動が早まり、嫌な汗がじっとりと流れ出す。
焦るな。
そう自分に言い聞かせる。焦れば彼女の、ジャンルーカの心に触れられない。
「俺が・・・分かるよな・・・」
祈るような言葉。返事が遅ければ遅いほど、推測は確信へと変わってゆく。
そんなはずはないと心で打ち消し、もう一度呼びかけようとした刹那、
『テュー・・・ン』
彼女の口が、そう動いた。声こそしなかったが、それだけで十分だった。
「ジャンルーカ・・・よ、かった・・・」
失わずに済んだ。
ほっとして気が緩んだせいもあるのだろうか、彼の、青年の姿がみるみる縮んでゆき、元の姿へと戻った。
青灰色の毛をした、青と緑のオッドアイの――猫へと。
やはりここもそうだった――テューンはそう思い知らされた。
自分が人間の姿になったのが何よりの証。望むものになりうる巨大な力。人間になりたいと思う自身の心に呼応して、その願いを一時とはいえ叶えてくれるもの。だが望んだはずのその虚構は自身を責め、傷付けるだけだ。
所詮は、まがいものなのだから。
「ジャ~ンル~カ~」
声を出すのも一苦労で、大切なものすら守れないこの猫の姿。だが、それが現実だ。
満足はしない。だが、逃げも、諦めも、しない。
変えてみせる。自分自身の力で、本当の人間になってみせる。虚栄に心は、くれてやるものか。
「も~、行くよぉ~」
ふらふらと立ち上がったジャンルーカの前を歩きながら、テューンはもう一度、周りを見渡した。
永遠のときの流れの外にいざなわれ、現実と言う世界を否定し、何ものにも傷付けられず、ただそこに在るだけの、命だったものの結晶。
幸せかい?
呟きは賢石に吹き付ける風にもみ消され、石にすらならずに消滅した。その柔らかな風が、まるで命に足掻く自分達を嘲笑っているかのように、時折頬を撫でては、去って行く。
不幸だね――そう哀れみながら笑い返すジュランの声が、聞こえたような気がした。
――――(鴉羽黒)――
半ば呆然としたまま列車に戻った希沙は、そのまま自分の部屋へと戻ってきていた。相変わらず、そこには虚無が広がっている。唯一の飾りと言っていい壁にかけたナイフは、暗闇にポツリと浮かんでいるようにも見えた。
頭の奥に、鈍い痛みが居座っているような感覚がある。
「……なんで」
気が休まらないとは希沙自身の感想だったはずなのに、無意識にこの部屋に戻ってきていたことに驚く。ただ、今はアイビスたちと顔を合わせる気にはなれなかった。賢石の園で見た光景、あれが現実なのか幻想なのか、それを判断することもできそうになかったし、なにより身体が他人を拒んでいるように感じた。
そういう意味では、この部屋はとても正しいのかもしれない。ここには誰もいない。希沙自身でさえ、ここにいるという存在感が危うくなってくる。
「……ふぅ」
入り口に突っ立っているのも疲れてきて、希沙は壁にもたれかかり、そのまま腰を下ろした。ひんやりとした感覚が、壁や床と触れた部分から感じられる。
「………?」
ふと、ポケットが妙に重いことに希沙は気づいた。ここに来てから菓子の類をやたらともらっている記憶はあるが、それにしたってどうもおかしい。怪訝に重い、希沙はポケットに手を入れた。
その手に、ざらりとしたものが触れる。一瞬だけ気後れした希沙だったが、取り出してみてそれが何かはすぐにわかった。石だ。
大体テニスボールくらいの大きさの、扁平な石だった。いつの間に入り込んだのか覚えがなく、なんだか空恐ろしいような気分になる。賢石の園で紛れ込んだことは間違いがないだろう。
「………」
どうしたものかと考えて、思い切って希沙はそれを部屋の中においておくことにした。持ち歩く気にはなれなかったが、インテリアとして部屋に置いておくことには不思議と抵抗が沸かなかった。ナイフの掛かったあたりの真下に、ちょこんとそれを置く。
そうしているうちに、希沙を蝕んでいた得体の知れない恐怖心が去っていた。そのことに希沙自身は気づかないまま、少しだけ明るくなった自分の部室から、希沙は出て行った。
<15 ストルクのノートからの抜粋>(穂永)
*
賢石の園を去って一日。次の駅はまだ遠い。
みなの間には、気まずい空気が流れている。老賈がなんとか場を和ませようとしていたが、すぐに諦めてしまったようだ。彼も賢石の園を訪ねたから、あそこでみなが見せられたものがどれほど残酷な現実か、理解しているのだろう。
彼とても、大きな問題をかかえているというのに。
*
とりあえず、テューンには謝っておいた。大声を上げるなんて、大人気ないことだ。ジュランのことでは、彼とジャンルーカが一番苦しんだのだ。ジュランが「死んで当然」のことを行ったとき、そしてジュランが死んだとき、脇で為すすべなく震えていた私に何を言えようか。
ジュラン……どうすればいい。
私はあの時から、逃げ続けているだけだ。
*
昨夜、「時の廃墟」に停車した。希沙はアイビスが誘っても降りようとしなかった。結局、アイビスは老賈と二人で見物に出て行ったが、憔悴した様子で帰ってきた。やはり彼女に「時の廃墟」は辛すぎる場所なのだろう。老賈とて同じことだ。見に行かなかったテューンは正解だ。
ただ希沙には、あの場所を見ておいて欲しかったとも思う。彼女には、良い経験になったはずだから。
*
このところよく、ある少女のことを思い出す。希沙に似た名前の、日本人の少女だ。
一緒に列車に乗っていた時間はわずかだったが、印象的な娘だった。アイビスと似た目で、ジャンルーカと似た口元をして、ただし、血の臭いだけはしなかった。それでも、彼女はアイビスやジャンルーカより、私より大きな問題をかかえていた。
あの娘は今、どこで何をしているのだろうか。おそらく、幸福にはなっていまい。
*
希沙はようやく落ち着いたようで、みなとよくしゃべるようになった。だがみなの間に流れる空気は相変らず重い。それも当然だ、翼ヶ峰が近づいているのだから。
誰かが降りることになるだろう。アイビスか、テューンか……いや、おそらくは私だろう。
逃避行の終わりは近づいている。
*
もうすぐ翼ヶ峰だ。
そういえば、希沙はなぜ、列車に乗っているのだろう。
(このあと、様々なメモや計算らしきもの、意味の分からない文字などが細かな文字で書き込まれているが、インクの染みがページ全体に渡っていて、判読することができない。私の友人の精神科医は、これらの書き込みを一瞥して、「パラノイアだね」と言い捨てた。でも私には、今でも彼がパラノイア――だいたい、この言葉はどういう意味なのだろう――だったとは思えないのだ。――このノートの日付からちょうど十五年後の雨の日に、羽鳥希沙、これを注する)。
第二部?開始です。勝手に設定つけさせてもらいました、あしからず。(黒)
希沙の名前が一部カタカナのままだったので(変換されないんで書くときはいつもカタカナなんですよ)、その点ちゃんと修正して置きました。
あと、コメント欄が異様に伸びていたのを元に戻しました。By百川。
修正:区切りのしるしをつけておきました。
m(_ _)m(R)
こっちでは割と好き勝手やって増すどうも(汗)。黒でした。
なんか自分以外の三作品が一度に更新されてると不安になったり。えーと、これを上げればよかったのかな?
石の夢のシーン、やるからにはもっとグロテスクにやってしまうべきだったかなあ。ちなみにアイビスに殺されてるのがジュランかもしれません。
なんか長くなりましたが。穂永。
異様に遅れた12話。書き上げてから投稿までに一週間かかるとは……。
しかもいろいろ設定無視してます。陳謝、By百川。
自キャラばっかりですみません。が、まだ諦めてません。申し訳ないです。(R)
賢石の園編、終了、かな?(汗)。全然まとめてないっていうかいまいちまとめる気がありませんが。ていうか一回投稿した筈なのにされてなかったみたいでへこみました。(黒)
また変なことをやってしまいましたごめんなさい。
でも、恐怖小説に手記は基本でしょ?(穂永)
最終更新:2013年06月12日 21:31