2005年05月22日(日) 05時29分-穂永秋琴
(ここまでのあらすじ:南蛮の儂智高の叛乱を鎮圧して都へ凱旋した楊宗保・文広親子。戦勝祈願のため東岳へ進物を持っていった使者が焦山の山賊に襲われ、宝物が奪われてしまったことを知る。楊文広は部将の魏化とともに、山賊を討って宝物を取り返し、改めて東岳へ納めるため、軍勢を連れて焦山へ向かった)
文広、兵を率いて宝を取る
さて仁宗皇帝は楊文広に、まず焦山へ行って宝を取り返し、さらに東岳へ行ってこれを納めてくるよう命じた。文広は詔を得て、「奉敕取宝進香」と書かれた旗を作らせた。旗が出来上がると、無佞府へ戻って父と別れ、ついに三千の鉄騎兵を率いて出発した。
出発にあたって、文広が魏化に、
「焦山へはどの道を通って行けば良いのだろう」
と尋ねると、
「二つの道があるそうです。一つは広い道で、焦山の正面へ通じています。もう一つは隘路で、焦山の後ろ側に出るのですが、こちらのほうが距離は近いとか」
との答え。そこで文広は、
「隘路の方が近いなら、夜のうちに進撃して、備えのないところを衝けば、すみやかに討滅できるだろう」
と言い、魏化も、
「小将軍の意見は正しいと思います」
と応じた。そこで文広は兵士たちを率い、隘路を通って進発した。
さて焦山の杜月英と宜都の竇錦姑は義姉妹の契りを交わしていた。月英は朝廷の使者を襲撃し宝を奪ったあと、人を遣って都の様子を探らせていたが、その人が戻ってきて、文広が隘路を通って宝を取り戻しに来たことを報せた。月英が喜んでいると、錦姑がやってきたので、出迎えて中へ招いた。
錦姑が問うて、
「あなた、どうしてそんな嬉しそうにしているの?」
と尋ねると、月英は、
「あたしはこの前、朝廷の三種類の宝を奪い取ったけど、楊文広が奪い返しに来るそうなのよ。この人は長善公主の許婚だけど、まだ結婚はしてないわ。彼は美少年だと聞いているし、あたしだってなかなかのものよ、不釣合いじゃないわ。だから彼を捕まえて結婚し、良い旦那さまを持とうと思ってね」
との答え。錦姑は話を聞いて、密かに思うよう、
――月英は好い夫を欲しがってるけど、私にも夫は必要だわ。私が先に部下を連れて戦って、結婚してしまうとしましょう。
そこで月英に、
「彼がどの道から来るか分かってる?」
と尋ねた。
「姐さんが来た方角からよ」
錦姑は暗に喜び、月英と別れて戻り、文広を捕らえる作戦を決めた。
文広が軍を連れて宜都山の前まで来ると、たちまち前方に一つの軍勢があって道を阻んでいるとの報せ。文広が進み出て、問うて言う。
「私は天子の勅令を受け、東岳へ香を届けに行く者だ。そなたは何者か。どうして道を阻むのか」
その部隊から美貌の少女が進み出てこれに答えた。
「私は宜都山の竇天王の娘で、ここを守っている者よ。もし旅人や商人がここを通過するときは、まず若干の通行料を置いて通ることになっているわ。このことを知らないの? あなたは何者?」
「私は先に儂王天子を捕らえて帰国した、先鋒の楊文広だ」
「その蛮族を捕らえることはできても、私の宝刀を受けきれるかしらね」
文広は大いに怒り、槍を引っさげて錦姑に向かった。錦姑は馬を進めて数合を交わした後、絆馬索を放って馬の脚を絡めとり、力をこめてぐいと引く、すると馬は倒れて文広を地面に放り出した。すると山賊たちが一斉に打ち出て文広を捕らえてしまった。魏化が救援のために慌てて出てきたが、錦姑が矢を放って彼の馬を射ると、魏化もまた地に投げ出された。錦姑は魏化を放っておき、文広を縛って連れ去った。
塞に戻って錦姑が座って休んでいると、山賊たちが文広を引っ立てて前に立たせた。錦姑が文広を見てみると、顔は白粉を塗ったよう、唇は朱をすり込んだよう、捕らえられてなお威儀を保っている。心の底で思わず喜び、ついに山賊たちに結婚のことを話させた。ところが文広は、
「私は堂々たる天子の婿だ。どうして山野のカラスと連れ合いになることがあろう。死んだほうがましだ」
ととりつくしまもない。錦姑は怒って、
「虜囚の身で何を言っているのやら。今は殺さないで、ただ閉じ込めておきましょう。朝廷に知られたところで、なにができるわけでもないし」
と言うと、文広は犬と罵り、錦姑に頭突きを見舞おうとした。錦姑は山賊たちに命じてその手足を厳重に縛らせた。
その後、密かに山賊たちに、
「彼に傷をつけたりしてはいけないわよ。私に計算があるから、彼が結婚のことを承知しないからって、心配することはいわ」 と言いつけた。山賊たちは承知して、文広を床に転がしておいた。
それからまもなく、塞の外で地を揺るがすような声がした。錦姑が出てこれを見てみると、まさしく魏化である。
「この前は助けてあげたのに、またやって来るなんて、大胆なこと」
「話をする必要はない。小将軍を返してもらおう」
「もう煮てしまったわ」
魏化は怒って、真っ直ぐに錦姑に向かって行ったが、数合を交えただけで捕らえられてしまった。山賊たちが彼を塞へ引きずっていった。錦姑は自ら彼の縄を解いて言った。
「あなたを捕らえたのはね、仲人になってもらうためなのよ」
「どういうことだ?」
「私は楊さんと結婚したいんだけど、この話をしても私の身の上を嫌って、承知してくれないのよ」
「そんな馬鹿な話があるか! あの人は朝廷の婿だぞ。まだ婚約しているだけだから、知らないのも無理はないが」
「私が第二夫人になれば、問題はないでしょ?」
「――まあ、俺が将軍に話してみよう」
魏化が塞の中へ入ってみると、文広が手足をきつく縛られ、床の上に転がされていた。
「小将軍、おいたわしや!」
「魏化、どうしてここへ来たんだ?」
「先に小将軍が落馬したのを見、助けようと思いましたが、弓で射られ、落馬させられてしまいました。馬を換えてもう一度戦いにきましたが、捕らえられてこの有様です。――あの娘は結婚のことを話していましたが、どうするつもりですか?」
「どうやって結婚できると言うのだ。宮廷へ戻ったら罪に問われるぞ」
「私もそう思います。しかし今、頑強に拒み続ければ、おそらく生かして帰してはくれないでしょう。物事の順序に従い、彼女を第二夫人になさればよろしいでしょう。なお朝廷から咎めがあれば、私が弁護いたします」
文広はしばらく考え込んでいたが、ついに承知した。魏化がこれを錦姑に告げた。
「小将軍は承知した。しかし、後で文句を言っては困るぞ」
「何のこと?」
「上下のことだよ」
「私は宮仕えした人間じゃないけれど、礼儀は心得ているわ」
そこで山賊たちに命じて大いに酒宴を開き、夕方には文広と夫婦になったのだった。
月英、怒りて錦姑を攻む
翌日の早朝、文広が錦姑と別れて東岳へ向かおうとしていると、たちまち塞の外に喚声が上がった。文広が馬に跨って出て行ってみれば、またしても一人の佳人である。
――どうしてまたこんな目に遭うのだ。
頭を抱えてそう思ったが、とりあえず槍を手にして言った。
「私は大宋の皇帝の勅令を受け、進物を納めに行く者だ。そなたは何者か。どうして道を阻むのか」
月英が言った。
「あなたが楊文広将軍かしら?」
「そうだ」
「ではあなたはあたしの旦那さまね! あなたと戦うつもりはないわ。そっちのあばずれに、出てきて技を比べるように言ってよ!」
文広はこれを聞き、もはや言葉も出さずに馬を駆って月英に打ちかかった。月英はこれを迎え撃ち、数十合に渡って戦ったが、勝負はつかない。魏化が助太刀に出てさらに数十合戦ったが、やはり決着はつかなかった。文広はさらに戦おうとしたが、錦姑が止めたので、軍を収めて塞に戻った。
錦姑が言った。
「月英の力量は私の十倍以上だし、頭も切れるわ。彼女とも結婚しておかないと、後々の災いになるかも」
文広はもはや諦めの境地で、
「では、そのことをどう報せたものだろう」
と言う。錦姑は魏化に行ってもらうように勧めた。
翌日、魏化は月英の陣営を訪れ、この事を告げた。
「憎らしいわね、あたしを騙そうと言うんでしょう」
「もし錦姑どのが昨晩強く勧めなかったら、楊先鋒も承知しなかっただろうな」
「確かに承知したなら、楊さんには一人であたしの陣営に来てもらいましょう。そうしたら軍を退くわ」
魏化が戻って文広にこのことを伝えると、文広は錦姑に別れを告げた。錦姑は涙をふるって言った。
「またいつか。どうぞ田舎者の私をお嫌いにならないで。私に白頭の嘆を抱かせないでくださいね」
文広は答えた。
「どうしてそんなことがあろう。私は王允らとは違うぞ」
それから文広は一人で月英の陣地に向かった。
月英は迎えに出て、大いに喜んで言った。
「旦那さま、迎えに出るのが遅れました。どうぞご寛恕くださいな」
文広が月英を見ると、化粧は薄く、眉は整い、口中には白い歯が並んでいる。密かに思うよう、
――世間にはこれほどの美少女がいるものなのか! 月の仙女の美貌は無双だと言うが、見たところ、あるいは彼女なら並びえるかもしれない。
文広は非常に嬉しくなり、ついに焦山まで同行した。その晩、月英は大いに宴を設け、文広をもてなした。
翌日、文広は月英に言った。
「君の愛が厚いのは分かってる。でも私は聖旨を奉じて東岳へ行かなければならない。期日に遅れれば穏便にはすまされないからな。まずは先に君が奪ったという宝物を返してもらえないか。そして再会の日を待とう」
「本当は何日もここに留まってほしいんだけど、君命を軽んじるわけにはいかないわね。だから無理に留めはしないわ。でもあたしは死ぬまであなたを旦那さまにしておきたいの。忘れないでね」
文広は心臓を指して、
「君の心を捨てることがあれば、天が罰するだろう」
と言った。
それから月英は小娘を呼び、三種の宝物を持ってこさせた。――この三つの宝とはどんなものか? 一つは万年経っても消えない青叢灯、一つは吉凶を占う玉の筒(これを叩けば籤が出て吉凶を示してくれるのだ)、それに夜光の珠である。文広はこれらの宝物を収めると、月英と別れ、軍勢を連れて東岳へ向かって旅立ち、やがて燕家荘へ到着した。
燕家荘の前には大きな谷がある。鮑大登という人がいて、身の丈一丈(2メートル30センチ)、生きた牛から角を引き抜く怪力の持ち主である。燕皇帝を自称し、海賊行為を働いていたが、官軍は捕らえることができないでいた。彼の夫人は江氏。三男一女があり、息子たちはそれぞれ太卿、少卿、世卿、娘は飛雲といい、みな勇力があった。数万の無頼漢を率いて燕家荘にたむろしているのだった。
この時、鮑大登が江氏と談笑していると、たちまち飛報を告げる者があり、宋の朝廷が東岳へ進物を納めに人を遣り、今この地を通過するので、部隊を繰り出して宝物を奪い取ろうと言ってきた。
「太卿と少卿は海へ行っているから、わしが奪ってこよう」
と大登は言ったが、世卿は、
「いや、俺にお任せください。進物を奪うなど、袋の中のものを取るようなものです」
と豪語し、ひらりと馬に跨って、無頼漢どもを引き連れて出発した。
文広の軍に遭遇すると、世卿は言った。
「さっさとその宝を置いていけ、そうすれば好きな方向に通してやろう。嫌なら生かしては帰さんぞ!」
これを聞き終わるや、文広は激怒し、矛を振りかざして世卿に突進した。世卿も馬を進めて迎え撃ったが、数合を交えた後、文広が鞭を振り上げて世卿の左肘を撃ったので、痛手を受けて逃げ帰った。大登はこれを見て、槍を手にして出て行ったが、十合打ち合った後、やはり敗れて逃げ戻った。大登は悶々として喜ばなかった。
飛雲は父が敗れて帰ったと聞き、慌てて尋ねた。
「これほどの勇者とは、来たのは誰でしょう?」
大登は答えた。
「名は問わなかった。ただお前の兄が鞭で一撃されたので、わしも出て行って戦ったのだが、こうして早めに逃げ出さなかったら捕らえられるところだったわ」
「父さん、ここは計略を用いるべきです。蛮勇を頼みにするのは無益だわ」
「来たのは美貌の少年だ。子供だと思って不覚をとった」
「私が出て行って戦ってみます」
「気をつけて行けよ、彼は槍法に長けている。もし彼を捕らえてお前の夫にできたなら、わしは満足なのだが」
飛雲は恥じらってそれ以上答えず、馬に乗って出陣し、問うて言った。
「将軍、あなたの名前は」
「私は征蛮元帥の子で、先鋒の楊文広だ」
飛雲は文広の容貌が美麗なのを見、また楊家の子弟であると聞いて、密かに思うよう、
――父さんの言葉は間違ってなかったわ。
そこで言った。
「あなたも『悪竜さえ蛇とは争わない』ということわざを聞いたことはあるでしょう。あなたが私たちの土地を通るなら、多少に拘らずに礼物を献上して通るべきではありませんか? それなのに無礼を働き、豪勇を恃みに無理矢理道を切り開くなんて、何か得があるかしら」
文広は聞き終わるや大いに怒って、真っ直ぐに馬を駆った。数合に渡って戦ったが、飛雲は力及ばず、馬を返して谷のほうへ走った。文広は、
「賊の小娘、どこへ逃げる!」
と叫びながらこれを追った。
飛雲はいつも馬に谷を飛び越す調練をさせていたので、馬は跳躍に熟達していた。そこで文広を引き寄せたのである。ついに谷まで至ると、馬に鞭をくれてひらりと跳び越えた。文広は飛雲が誘っているのだと悟らず、谷のところまで来ると同じく馬に一鞭をくれて跳び越えさせたが、馬は中途でいななきを残して谷に落ちた。魏化が慌てて救援に向かったが、大登に阻まれた。飛雲は文広が谷に落ちたのを見ると、水練に長けた無頼漢にこれを捕らえさせた。飛雲は文広を傷つけないように命じると、馬を返して先に塞へ戻り、母親と結婚のことを相談した。
文広、飛雲と親と成る
さて飛雲が文広を捕らえて塞へ戻ると、江氏が出迎えて言った。
「あなたがこの将を捕らえてきたから、先に負けた父さんや兄さんの恥も雪がれたというものだわ」
「恥のことはこれで済んだけど、もう一つ話しづらいことが……」
「母さんに話せないことがあるわけ? ほら、言ってごらんよ」
飛雲は話しかけたが、また口をおおってしまい、ただ照れ笑いをするだけだった。
「ああ、この人を捕らえてきた本当のわけは、お婿さんにしようというわけね」
飛雲はうなずいて、
「彼は楊家の人だし、年頃も丁度良いから……」
「父さんが帰ってきてから話しましょう」
やがて大登が戻ってきて、江氏は側に座った。部下が楊文広を引っ立ててきた。江氏が見ると、容姿美麗なことは冠玉のようである。思わず喜んで、婿に相応しいわとつぶやいた。大登が問うた。
「捕らえられてきて跪かないのは、どういうわけだ」
文広は答えた。
「私の膝は金石よりも堅い。ネズミ野郎などに屈するものか」
大登は激怒し、剣を引き抜いて殺そうとした。江氏は遮って、
「この人は楊家の子弟です。留めて飛雲の夫にしたいと思いますが、あなたはどう思し召します?」
と言った。そこで大登は剣を投げ捨てて笑い、
「婿どの、怖れることはない」
すでに日は暗くなっていた。大登は文広の返事を聞かず、その縄を解き、飛雲を呼びつけて、この事を天地に告げた。
飛雲が出てくると、大登は跪くよう命じた。文広は従わなかったが、大登はその頭を押し付け、無理矢理跪かせた。文広は諦めて思った。
――またしてもこのような目に遭うとは。従わなければ生かして帰してはくれまい。承知するほかない。
そこでついに跪いて舅を拝した。このことが終わった後、文広と飛雲は部屋へ入り、夫婦の楽しみを尽くしたのだった。
翌日、文広は大登に告げて言った。
「舅どのの厚恩には感謝に耐えませんが、婿は詔を奉じて宝物を納めに行かなければなりません。期限もあることですから、先へ進みたいと思います」
「臣たる者が忠節を尽くすのは当然のことだが、お前の妻はどうするつもりだ」
「復命の後、人を遣って迎えることにします」
「いや、わしが送っていこう。娘は傷のない璧だったが、お前が点をつけたのだ。白髪になるまで節を守れ、見捨てることがあってはならんぞ」
「婿は軽薄な者ではありません。二言はありません」
「では娘に別れを言ってこい」
そこで文広は部屋へ戻り、飛雲に別れを告げた。飛雲はしばらく押し黙っていたが、やがてため息をついた。
「何をそんなに悲しんでいるのだ」
「こんなに早くあなたと別れることになるのは、縁がなかったからに違いありません」
「そうじゃない。天子の命令を受けているのでなければ、軽々しく別れたりするものか」
「一緒に行ってはいけませんか」
「いや、それはまずい。進物を捧げに行くのだから、身は綺麗にしておかねば。女を同行するわけにはいかない」
「どうしたものでしょう」
「都へ帰ったら、人を遣って迎えるから」
「どうか私のことを憐れと思って、忘れないでいてくださいな」
「何を言っている、心配無用だ」
「外まで送っていきましょう」
飛雲は文広とともに庭に出て、父に告げて言った。
「楊さんを外まで送っていきます」
「婿どのが負っている役目は重大だ。間違いのないようにな」
この言葉が終わると、文広は大登・江氏と別れ、飛雲を伴って去った。
塞を出ると、飛雲は両目から涙をこぼした。文広も不覚の涙を禁じえず、語りかけた。
「君とはもう別れなければならないが、どうしてこの悲しみに耐えることができよう。もしこの後、私からの音信がなかったなら、それでもまた会おうと思ったなら、焦山の杜月英・宜都の竇錦姑と合流し、三人で都を訪ねるといい。金水河近くの無佞府が私の家だ。真っ直ぐそこへ向かえ」
「無佞府へ行っても、あなたの家の人が入れてくれないと思いますが、どうすればよいでしょう」
文広は金の簪を取って飛雲に与えた。
「もし私が不在でも、それを見せれば入れてくれないことはない」
「宜都と焦山の二人は信じてくれないと思いますが、どうしたものでしょう」
文広は鴛鴦綉袋一つを解き、飛雲に渡した。
「これは月英から貰ったものだ。これを見せれば不信はあるまい。君と私はもう夫婦の仲だ。いずれまた会う機会もある」
飛雲は悲しみに耐えなかったが、ついに道を分かって帰った。文広は飛雲と別れた後、軍営に戻り、魏化に事情を知らせた。魏化は言った。
「これは天の縁で、将軍が生まれる前から定まっていたものでしょう。仇敵の家とでも、必ず成就するはずです」
それから文広は軍を率いて再び出発した。
数日を経ずして、東岳へ着いた。文広は魏化に言った。
「兵士たちは山下に駐屯させ、私と君は斎戒沐浴して三つの宝を聖帝に献上し、誠意を見せるとしよう」
翌日、文広と魏化は沐浴が終わると、宝物を捧げ持ち、一歩につき一拝し、大帝の面前へ至った。青叢灯をかけ、玉筒を安置すると、文広は「夜光の珠は大帝の手にかけるとしよう」と言い、自ら案に登ってかけた。それから二人は礼拝して香を捧げた。それが終わると、魏化とともに建物の中を巡って見物し、感嘆して言った。
「霊山の景勝は、まさに趣の尽きないところだ」
文広がそれぞれの部屋を見てまわると、道士たちはみな容姿秀麗で、飄然として神仙のようである。そこで、
「我々は矛を持って戦い、いつも驚き怖れている。こちらは大変よいところだ。我々は、ここの人たちのように、悠々と遊んで天地の高下を知らないのに及んでいない」
と言った。
文広が嘆じていると、道官が食事を勧めてきた。食事が終わると、文広は山の景色が見たいから、そなたたちは退いてくれと言った。道官たちはおのおの去っていった。
文広は魏化とともにある峰に至った。その峰は険しく聳え立ち、高さは諸峰を圧倒している。文広はその峰に、石殿があるのに気づいた。殿の門上には「天下第一高峰」と書いてある。ややあって空が暗くなり、雨の降りそうな気配がし始めた。
魏化が言った。
「雨が降ったら、どこで雨宿りしましょうか」
文広が答えた。
「この石殿の門を開けて、中で雨を避けたらどうだろう」
そこで魏化が石殿の門を押してみたが、少しも動かない。
「開かないようですが」
「力を入れて押してみてくれ」
魏化は全力で押したが、やはり開かない。
「私も試してみよう」
文広が押してみると、音が聞こえた。「開けられそうだぞ」と言い、両手でもって押すと、山崩れか霹靂のような音がして、門が開いた。魏化は文広の大力に肝を冷やした。
中へ進もうとすると、たちまち矛を手にした二人の武士が現れて文広らの両脇に立ち、一喝した。
「大胆にも禁門を開けて中に入ってくるとは、何者ぞ」
「天子の命を受け、香を進めに来た者です」
言葉が終わらないうちに、今度は文官が出てきて、言った。
「聖帝が将軍とお話したいと仰っておられます」
文広らは彼に従って後殿に入り、ひざまずいた。
「臣が楊文広でございます。本日は旨を受けて魏化とともに香を進めに参り、遊玩してここに至りました。雨を避けんと思い、みだりに禁門を開けたのです。どうぞ罪をお許しください」
帝は答えた。
「そなたたちの罪を許そう。顔を上げるがよい」
二人を側に座らせ、側近に命じて茶と桃を与えたが、文広と魏化は敢えて食べようとはしなかった。帝は言った。
「その桃は非常に貴重で、味は極めて良い。かつて西王母が漢の武帝に桃を献じたことがあったが、これと同じ種類のものだ。まずは試してみよ」
二人はようやく桃を食べたが、その香り高さと甘さには比類がない。茶を飲み終わると、今度は酒が出され、それぞれが三杯飲んだ。帝は言った。
「楊どのは、惜しいことによき連れ合いに出会われたため、優れた境遇を傷つけることになった。そうでなければ、真果を得ることもでき、凡世に生まれて奔走することもなかったろう。だがこれも前世の縁で、棄てることはできぬ。魏化は凡人だが、主君に忠義であったから、今日は楊どのとともに飲食できた。この益は少なくはないぞ。この後、好きなように変化し飛翔することができるようになるだろう。そなたたちが労して香を進めに来たから、こうして真心で答えるのだ」
二人は辞して殿を出、門外へ来た。文広は言った。
「帝は意のままに変化できると言っておられた。私は鶴に化して前の山まで飛んでいってみよう。君は後からどんな鳥にでも化けてついてくるといい」
文広が身を揺すって跳躍すると、一羽の鶴となり、前の山へ向かって飛んでいった。しばらく待ったが魏化が追ってこないので戻ってみると、魏化は三尺も飛び上がっては地に落ちてしまう。文広が問うて、
「君はどうして飛べないんだ?」
と言うと、
「分かりません」
との答え。
「同じものを飲み食いしたのだから、君だけ飛べないなんてことがあるか。さてはあの仙桃の種を呑み込んでいないのだろう」
「帰ったらまこうと思いまして」
「帝が君を凡人だと言われたが、やっぱり君の心は凡俗だ。そんなことじゃ飛び立つことなんかできないぞ。さっさと呑むんだね」
「凡人ですから、呑んだら死ぬかもしれません」
「どうせ百年も生きられやしないんだ。死を恐れてどうするんだよ。呑め呑め!」
魏化は無理に飲み込んだ。文広は声をかけると、魏化の手を取って飛び上がり、さっと山へ飛んでいった。地に降りて立ち、元の姿の戻ると、魏化は言った。
「落ちて死ぬかと思いました」
「死を恐れる心こそ凡心の極なるものだ。道を学ぶのが難しいのも凡心のせいだ。君は早くこれを棄てて、私とともに真果を得るべきじゃないか。道に迷って真性を失ってはいけない」
翌日、文広と魏化は東岳を辞し、軍を率いて都に戻った。一日もしないうちに都に到着し、文広は仁宗に奏上した。仁宗は喜び、楊宗保を無敵大元帥・宣国公とし、楊文広を無敵大将軍・忠烈公とし、楊宣娘を魯国夫人とし、魏化を殿前都指揮使としたほか、功績によって文武の官を昇格させた。また文広に命じて長善公主との結婚を果たさせたが、これについてはさておく。
さて狄青は毎日楊宗保を恨み憎んでいたが、また宗保の一族が封を受けたのを見て、
「老賊め、わしの恨みはいつ晴らすことができよう」
と言い、腹心の家僕で師金という者を呼ぶと、
「わしが以前南蛮を征伐したとき、宗保の老いぼれに辱めをうけた。奴を殺して恨みを雪ぎたいが、お前、何か策はないか」
と尋ねた。師金は難色を示して、
「宗保は朝廷の信任厚い人物ですから、旦那さまが彼を殺すとなれば、後難は避け難いでしょう」
と答える。すると狄青は怒って、鉄錘を手にして怒鳴った。
「お前、殺されたいのか?」
逃げた師金を追って後園まで走っていった。師金は密かに思うよう、
――今は適当にごまかしておこう。でなきゃ殺されるから。
もう後園に来ていたが、師金は一計を案じて、跪いて言った。
「旦那さま、怒りを休め、私の話をお聞きください」
「何を言おうというのだ。お前を千日も養ってきたのはこの日のためなのに、かえって他人の威風を恐れて忠心を曲げるとは」
「はかりごとは機密に行わなければ災いを招くと言うではありませんか。旦那さまが大声でそのようなお話をなさるものですから、楊家に報せに行く者が現れるのを恐れたのです。楊家の者たちが、旦那さまが私情でもって人を殺そうとしていることを明らかにすれば、朝廷で彼とともに奏上する者も多うございましょう。その時悔いても遅いのですぞ。旦那さまを怒らせたのはこういうわけです。今はここまで来ましたから、申し上げましょう」
それを聞いて狄青は喜び、
「なるほど、お前の話には理が通っている。では聞くが、いかなる策略で楊宗保・文広親子を殺すのだ?」
「先ほど旦那さまは私を打ち殺そうとなさいました。まずは私を追い出してください。それから私は楊家に投じ、機会を待って楊宗保を殺し、証拠も消します」
「妙計だ!」
そこで狄青は師金を追いかけるふりをし、大声で罵り散らし、家人に命じて追い出させた。師金はすぐに楊家へ向かった。
この時、無佞府の中では大いに宴が催されており、燭台はきらめいて、文広と長善公主の結婚を祝っていた。屋敷の者たちはみな大いに飲み、泥のように酔いつぶれていた。師金は宗保の部屋に辿り着き、梁上に潜んだ。宗保が客との飲食を終えて部屋に戻ってくると、冠を脱いで床に寝転がったが、梁上に人をいるのに気づいて、言った。
「梁上の君子よ、そなたの望みは金かな? それともわしの首か? まずは降りてきなさい、相談しようではないか」
師金は聞いて、転がり落ちるように宗保に跪いて、事情を告げた。
「私は狄太師の家僕の師金です。太師に命じられ、刺客としてやって参りました」
「結構。わしの首をくれてやろう」
「老旦那さまが私を殺さないのでしたら、どうして私にも義に背く真似ができるでしょうか」
そこで遂に狄青が宗保を謀殺しようとしたこと、自分がそれを承知しなかったことを逐一教えた。そして、
「老旦那さま、どうぞ計略をもって私の命を救い、狄旦那さまの復讐の心を静められますよう」
「わしは死んだことにしよう。そなたは帰って狄青に報告せよ。それでことは収まる」
師金はその策に従い、夜の中を逃げ帰って、狄青に知らせた。
「楊家は婚姻のことがありましたから、宗保さまは酔いつぶれており、私は彼を床の上で刺し殺しました」
「まずは一人だな。次は文広だ」
この話はここまで。
さて宗保はこの日に多量の酒を飲んだため、夜半に至ると身体の調子が優れなくなり、急いで文広を呼んで後事を託した。文広は問うた。
「父上、何か不安がおありですか?」
「さきほど狄家の家僕の、師金という者がわしを殺しに来た。わしは殺せと言ったが、彼は泣いてできないと言ったので、わしは彼に助かる道を教えてやった。つまり私は彼に刺し殺されたことにしたのだ。その後、寝ていたら、陛下が武士にわしを斬るよう命ぜられているのを夢に見た。今にして思えば、この運命を逃れることは難しく、生きようと思っても無理であろう。狄青はのちにきっとそなたを殺そうとするぞ、気をつけろよ」
言い終わると、痰を咽喉につまらせ、間もなく亡くなった。翌日、朝廷に宗保の死を奏上すると、朝廷は文広に葬儀を任せた。
三女、都へ赴き夫を尋ねる
さて、大登はいつも飛雲を都へ送っていきたいと考えていた。ところが嵐のために太卿と少卿が海で溺死し、世卿は崖から転落死するといった具合に、立て続けに不幸が起きた。このため大登は悲しみから血を吐いて死んでしまう。飛雲は母の江氏と相談して、言った。
「父さんも兄さんたちも亡くなってしまったから、この土地は居心地が悪いわ。楊さんのところに行こうと思うの」
「あれから日にちも経つし、心変わりしてなきゃいいけど」
「彼は別れるときに匂い袋を残してくれて、焦山の杜月英・宜都の竇錦姑とともに都へ訪ねてくるように言ってくれたわ。これだけ誠意を尽くしてくれたのだから、軽々しく心を変えることはないと思う」
「そういう約束があるのなら、早速行こうじゃない」
そこで二人は塞は焼いてしまい、焦山を目指して出発した。
焦山に到着すると、杜月英が馬に乗って出てきて、尋ねた。
「あなたたちは何者? 兵を連れて出てきたわけは?」
「姉上は月英さんじゃないですか?」
「そうだけど」
「前に楊さんは、あなたを連れて都を訪ねるように言い残して行きました。姉上のお考えはいかがです? 一緒に行きますか?」
「まずあなたの名前を聞かせてもらいましょう。楊さんがどうしてそんなことを言い置いて行ったかもね」
「私は鮑飛雲です。楊さんは別れるときに、姉上が贈られた鴛鴦綉袋を私に預け、姉上と宜都の竇錦姑さまを同行して来るように言われました。そこで今日は姉上をお誘いするため、ここにやって来たのです」
月英はこれを聞いて涙目になり、思わず言った。
「楊さんと別れてから、随分日が経ってしまったわ」
「とりあえず今晩は、妹を塞で休ませてください。そして明日、宜都へ行きましょう」
そこで月英は飛雲を塞へ招いた。翌日、月英は準備を整えると、山塞を焼き払い、飛雲とともに宜都へ向かった。
月英らが宜都に到着すると、山賊は錦姑に、
「どこからか軍勢が現れました!」
と慌てて報せた。錦姑がそこで馬に跨って出て行くと、軍を率いているのは月英である。思わず笑って、
「この小娘! 今日、兵を連れて騒ぎに来たのは、またここに楊さんを閉じ込めていると思ったからでしょう」
と言うと、月英も笑って、
「抜け駆けされて楊さんを先に取られてしまったから、今日はその罪を問いただそうと思ってね」
「そっちの女の子は誰?」
「これも楊さんのいい人よ」
「宋の太后は、『蓮の花は楊文広には劣っています、なぜなら楊文広は言語を理解しますが、蓮は理解しませんからね』と言っていたそうだけど、確かに蓮は楊さんには及ばないわ。そうでなければ、その子が引っかかるわけもないからね」
これを聞いて飛雲は顔を真っ赤にして言った。
「そんなことはいいですから、まずは塞を拝ませてください」
そこで錦姑は二人を塞へ招きいれた。
挨拶が済むと、錦姑は、
「二人は今日、何事があって訪ねてきたのかしら?」
と尋ねた。月英が答えて、
「姐さんはさっき楊さんのことを言っていたけど、その楊さんのことで来たのよ」
「というのは、どうした経緯があってのこと?」
「楊さんと別れて二年、全然音沙汰がないものだから、姐さんと一緒に訪ねていこうと思ってね」
「あの人の母上・穆桂英さまは厳格な人だし、もし楊さんが不在だったら、家に入れてもらえないわよ。楊さんは軽薄な男じゃないんだから、待っていれば必ず迎えに来てくれる。行く必要はないと思うわよ」
すると飛雲が言った。
「私も心配でしたが、楊さんから証拠の金の簪を預かっていますから、これを見せれば入れてもらえないということはないでしょう」
「なるほど、それなら……。でも、都へ大勢を連れて行くわけにはいかないわね。みなを解散させて、見所のある者だけを同行しましょう」
そこで月英・飛雲が連れてきた無頼漢たちを解散させ、数十騎のみを率いて、三人で都へ向かった。
数日して彼女たちは都へ到着し、無佞府を訪問した。錦姑が手下を遣って、
「我々は文広将軍の親戚の者です。どうぞお報せください」
と言わせたが、門番は、
「夢は寝てから見ろ、文広将軍に外からやって来る親戚があるものか」
とけんもほろろに追い返した。手下が戻ってきて報告すると、錦姑は馬から下りて自ら門番に問いかけた。
「兄さん、文広将軍は在宅でしょうか」
門番は錦姑の風貌が美しいのを見て、戯れに言った。
「将軍がいたらどうなんだ? あの人とどんな話をするんだい?」
錦姑は怒って、
「無礼な! 将軍に会ったら、まずそなたの首を刎ねるぞ」
と言った。門番は錦姑の話しぶりが凶悪になってきたのを見て、何か事情があるのだろうと思い、
「失礼しました。将軍は外出しておりますが、晩には戻られます」
と言った。
「では母上に報せてください、親戚の者がやってきて、門外で待っていると」
そこで門番は中へ入り、穆桂英に報せた。
「外に何人かの人が来て、楊将軍の家の者だと言っております」
「あの子が結婚したなどという話は聞いてないわ。都に楊を姓とする者はいくらでもいることだし、きっと家を間違えたのでしょう」
門番は出て行って、穆桂英の言葉を錦姑に伝えた。錦姑は金の簪を取り出し、門番に渡して言った。
「これは楊将軍が離別のときに残していったものです。これを母上にご覧いただけば、はっきりするでしょう」
門番は簪を取って穆桂英に告げた。
「これは私が持っていたものだわ。前にあの子が南蛮征伐へ行くとき、髪を束ねるために渡したのよ。これを持っているなら、きっとなにか事情があるのでしょう。彼女たちを招きなさい、文広が戻ってきたら、わけを聞いてみます」
こうして遂に門番は三人を無佞府へ招いた。錦姑は月英・飛雲とともに府の中へ入った。門の外でこれを見ていた人たちは、口々に「あの三人の娘は、まるで観音様のようだ」と言い合った。
錦姑たちは中へ入って控えた。穆桂英が出てくると、三人は挨拶して、
「母上の万福をお祈りします。長らくお目にかかれませんでしたが、どうぞ罪をお許しください」
と言った。穆桂英が驚いて、
「そなたたち、どうしてそのような挨拶をするのです?」
と尋ねると、錦姑はこれまでの経緯を説明しようとしたが、たちまち門の外で声がして、楊文広が帰ってきたことを報せた。文広が入ってくると、錦姑たちは拝して、
「旦那さま、お変わりはありませんでしたか?」
と問うた。
「すこぶる平安だったよ」
と文広は答え、母である穆桂英に三人のことを一々知らせた。そこで桂英は家人に命じ、酒を出して三人の娘をもてなさせたのだった。
さて長善公主は、文広が咲きに賊の娘三人を娶ったことを聞き、急いで文章を書き、翌日の早朝、これを奏上した。
「文広は聖意に背き、三人の強盗の娘を娶りました。罪は棄市にあたりましょう」
仁宗皇帝は奏を見て大いに怒り、
「小僧め、無礼な真似で朕を欺きおって!」
と言い、兵士たちに文広を捕えに行かせた。宰相の包拯は文広を捕えると聞いて、慌てて奏上した。
「文広は聖旨に背きましたが、戦場での武功は絶大です。法司に委ねるべきではなく、必ず陛下の前で問い詰め、事情を調べねばなりません。もし本当に聖旨をないがしろにしたなら、その時刑罰を加えても遅くはありませんし、酌量の余地があれば、刑をお許しになるのがよろしいでしょう」
仁宗はこれを許し、文広を連れてこさせた。
文広が数十人の武士に捕えられてやって来ると、仁宗は罵って、
「無礼な小僧め、長善公主の婿でありながら、大胆にも先に賊の娘と婚姻したのはいかなる理由か」「臣には確かに罪があります。しかしやむをえない事情があったのです。魏化にお尋ねくだされば、お分かりになりましょう」
そこで仁宗は魏化を呼んでこさせた。すぐに魏化はやってきて、事情を一々奏上した。仁宗は聞き終わると、
「ではこれらの婚姻は偶然ではなかったわけか。包拯の言葉を聞かなかったら、忠臣を罰するところであった」
と言い、遂に文広の釈放を命じたのだった。
文広は衣を整えて恩を謝し、それから狄青が父と仇となった由縁、師金をやって暗殺しようとした次第などを仁宗に知らせた。仁宗は言った。
「老賊め、このように私情を挟んで人を殺そうとするとは、それでも社稷の臣といえるのか」
この言葉が終わると、文広は魏化に視線を送ってから、ともに奏上して、
「狄太師が私を憎むことは、深く骨髄に入っており、私の首を斬らないことには心が休まらないのです。私は陛下に忠であろうと願わないわけではありませんが、もし死んで首のない幽霊となったら、悔いても及ばぬことです。陛下、どうぞご竜体をお大事に。私は官職を返上し、人の世を棄てることに致します」
言い終わると稽首再拝し、ひらりと身を躍らせると、文広は一羽の鶴に、魏化は一羽の鴉に化け、天を衝いて去っていった。仁宗と朝廷の百官は驚嘆してやまなかった。仁宗は言った。
「文広は化して去ってしまった。もはやどこに忠心を尽くして朕を助けてくれるものがあろう。もし辺境に変事があったなら、誰に討伐させればよいのだ」
さて、楊家に文広が化し去ったことが伝えられた。長善公主は驚いて亡くなってしまって、一家のものはみな庭に出て哭した。するとたちまち文広と魏化が飛んで戻ってきた。穆桂英は文広が戻ってきたのを見ると、言った。
「文広、あなたは変化して去ったと聞いたのだけれど。長善公主は驚いて亡くなってしまったわ」
「若くして亡くなってしまうとは気の毒に。……みな、私たちが戻ってきたことは外には伝えないでくれ。今から後は天子の言葉を聞かず、家に隠れて念仏を唱え、時を削ることにする」
翌日、楊家は長善公主のことを朝廷に奏上した。仁宗はますます哀しみを募らせ、彼女を忠烈夫人に封じて手厚く葬らせた。無佞府の者たちが行った葬儀についてはさておく。
解題
本稿は明代の通俗小説『楊家府通俗演義』、通称『楊家将演義』の部分訳である。訳したのは巻七の後半部分で、作品全体ではこの二十倍ほどの分量になる。
『楊家府通俗演義』は、宋初の名将・楊業を始祖とする楊家五代の活躍を描いた作品で、作者はわかっていない。類似の作品に『北宋志伝』がある(こちらも『楊家将演義』と呼ばれるが、内容はやや異なっている)。とはいえ民間の伝説を集成したものなので、歴史小説と呼べる代物ではなく、描かれていることの大半は虚構である。
楊家将の故事は民間に広く愛されたが、『楊家府通俗演義』の小説としての完成度には相当に疑問符がつく(あたかも『三国志演義』に匹敵する作品であるかのように紹介する本があるが、とても比較にならぬ)。特にストーリーの構成は散漫である。ただ個々のエピソードには精彩があり、人をひきつけ、あるいは笑わせ、あるいは泣かせるに足るだけのものがあると言っても差し支えない。人物造型も生気があり、かつ独創的である。それは本稿で紹介した三人のヒロイン、竇錦姑・杜月英・鮑飛雲からも窺い知れるであろう。
底本には中華書局の「中華古典小説名著普及文庫」に収められている『楊家将演義』(2001年9月)を用いた。本作品は通俗文学とはいえ古典であり、訳者の技量も拙いことから、本稿には多く誤謬が存在すると思われる。謹んで有識者・読者の叱正を請う次第である。
省略個所を埋め、誤訳を訂正し、解題をつけました。省略を補填したといっても、かえって構成が散じてしまった気もしますが。
『泡』に掲載するのはこれです。
最終更新:2013年06月12日 21:43