2010年10月05日 (火) 21時56分 - 17+1
薄暮の迫る時分、男が古書店から下宿へと戻る折のことであった。訳あって不用となった教本のたぐいをまとめて古書店で処分しようとしたが二束三文で買い叩かれたため、男は少々機嫌を損ねていた。したがって男の歩調は荒く、地団太踏み鳴らすかのよう。
訳と云っても大層なものではなく、単に道楽にかまけて学業をないがしろにしていただけであった。どこの大学でも耳にするようなありふれた堕落である。
「そこの学生さん」
裏路地から出し抜けに、三十がらみの女が現れた。
行く道を塞がれたようになったので、男は立ち止まらざるをえなかった。ムッと女を一瞥し、不審の表情を露にする。
舌打ち一つ。
「後生ですから、どうか何も訊かずにあたくしに十円玉を恵んでいただけないかしら」
やけに古めかしい喋り方で女は云った。
馴れ馴れしいが覚えにない容貌だな、と男は思った。
年増か。しかし見てくれは悪くない。わずかに垂れ下がった二重は艶かしく、そそるものがある。巻いてない黒髪も乱れなく美しい。大口なのが残念だが、かえって愛嬌のある顔つきとも云える。不均衡な面差しが妖しい魅力を纏っている――などと不躾にも女を審美する男であった。
翻って女はというと、ジロリと全身を舐め回すような男の目つきにも無頓着で、満面に笑みをたたえていた。口の大きさが強調される。
「十円玉。十円玉かね」
男は鸚鵡のように繰り返した。
「ええ」辺りは無人だというのに、女は声を潜めている。「できることなら、あるだけすべてを」
「何のために」
「答えられないわ。どうかお訊きにならないで頂戴」
「どうして」
「理由を明かしてしまえば、お互いのためにならないと思うの」
「そんな舌を結うような調子では、こちらとしても梯子を蹴らざるをえないな」
知らず、男のほうもつられて古臭い云い回しを使うようになっていた。
慣用句の意味を知ってか知らずか、女は笑うのをやめ、小首を傾げる。
「困ったこと」
困っているのは男も同じだった。
女の話は雲を掴むようで、まるで要領をえない。男は何気なく筋斗雲を連想し、すぐに頭から振り払った。それも当然、男が単位を落とした講義のひとつは中国文学である。
別に路上強盗に出くわしたというわけでもなし、これ以上女に構わずその場を去ることもできた。しかし男には碌に麗しい女性と言葉を交わした経験もなかったので、この機会を無下にするのは憚られた。
――サテハこの女、おれに惚れているのかもしれん。十円玉をありったけ、という奇妙な金の無心も、おれの気を惹くためか。たとえそうでなくとも、ここでおれが上手く立ち回れば、きっとこの女をものにできるに違いない。
そのような、よこしまな打算も働いていた。
先ほどまでの苛立ちは筋斗雲、いや煙のように消え失せている。
「女、お前は物乞いか」
高圧的に男は問うた。
「いいえ。不肖ながら、君舘にて経理の仕事をやっております」
キミダテ、と男の知らない地名を女は云った。
「この辺りの者ではないのか」
「ええ。こちらへは初めて」
「経理ということは算盤が得意なのだな。頭の回る女はさぞかし重宝されるだろうに」
「いいえ、あたくしのような阿呆はそういませんわ。現に今だって、黒猫一匹横切らないこの寂れた街道で、誰か優しいひとが通りかかるのを待ち焦がれていたのですから」
そしてあなたに会えました、と女は締めくくる。
暗に優しいひとだと世辞を云われて悪い気のしない男ではあったが、しかし黒猫と聞いて、フト思い出すことがあった。それは古書店主が独り勝手に繰り広げていた世間話である。
曰く、先月の最終金曜に黒川某とやらが蒸発したとか。
会社から預かった、大量のドル紙幣と諸共に。
要するに猫ばば――そう、老いぼれの店主は云っていた。
札束を抱いた失踪人と、目の前にいる謎の女。何故だか、その二人が一本線で繋がるような直感を男は獲得した。黒川の素性や性別は男の記憶にない。そこまで仔細を店主が述べていなかったような気もしている。いずれにせよ、この大口女がその黒川である可能性を考える余地はある。
女の顔を睨みつつ、男は黙りこくって思考を巡らす。
女が黒川であった場合、所在地を正直に打ち明けるはずがないから、おそらくキミダテという謎の地名は出任せであろう。しかし空言というものはこれでなかなか咄嗟には口から出てこないものであるから、経理職に就いていることは真っ赤な真実であるかもしれん。それは黒川が会社の金を持ち逃げしたという話にも繋がる。
だが、仮に女が黒川だとして、大金を手にしているというのに何故このような人気のない道端で物乞いの真似事を行なうのか――それも十円玉を。大昔ならともかく、現代の十円玉には駄菓子程度の価値しかない。
それならば女は黒川とはまったく無関係の他人であると考えたほうが、まだ道理が通る。十円玉の奇妙さは残るが。
結局、問題は十円玉なのだ。
男の思考はそこで空転、堂々巡りとなった。
「あたくしのこと、何かお分かりになって?」
女が沈黙を破る。
まるで、男の思考がそっくり見透かされているようであった。男は女をすこし気味悪く感じた。
「もう一度訊く。何のために十円玉を」
「答えられないわ」
「公衆電話か」
「いいえ」
「帰りの切符代が足りないとか」
「いいえ」
答えられないと云ったわりには、男の当てずっぽうをいちいち否定する女であった。男は意固地になって、理由らしきものを思いつくままに挙げる。
「ギザ十だの、昭和某年製造のがどうだの、そういった稀少な硬貨でも蒐集しているのか」
「いいえ」
「子供騙しの呪術道具か。エエト、たしか狐狗狸さんとやらだったか」
「いいえ、まさか」
そういえば、その手の儀式は十円玉一枚で事足りるはず、と男は考え直した。次は銀剥がしと云おうとしていたが、寸前で呑み込む。
女は男の持つ十円玉すべてを所望している。それは一枚とも百枚とも、もしかしたらゼロ枚とも分からない。男自身も、紙幣や名刺などならともかく、小銭まで把握していないのだ。
十円玉。
換言すれば、十円銅貨。
銅。
「銅には抗菌効果があると聞く。ぼうふら除けか、あるいは長靴の脱臭か」
「いいえ、それは初耳でした」女は感心したように男を見つめなおす。「さすが学生さん、学殖豊かですのね」
「フン。こんなもの、学問を修めるにあたって塵芥の役にも立たない。ただの薀蓄だ」
男は顔を歪める。
教本を古書店主から取り戻したい衝動に駆られるが、それを実行に移したところで、かつての挫折がどうなるものでもないことを男は知っていた。一度できた折り目は生涯消えることはない。
「そうだ、これも薀蓄だが、こんな異国の冗句を聞いたことがある。とある少年は、十セントと五十セントを見せられどちらか好きなほうを取れと云われると必ず十セントのほうを選ぶ。だから大人たちは何度もその遊びを繰り返して少年を物笑いの種にしていた。あるとき少年の友人が、五十セントのほうが得だと分かっていてどうしてそんな馬鹿なことをするのかと尋ねると、少年はこう答えた――僕が十セントを選びつづけるかぎり、いつまでも大人から十セントが貰えるからさ、とね。女、お前のやっていることはそれに近いのではないか」
「いいえ」
男の長広舌も虚しく、素っ気なく一言で切り捨てられる。
またも男は舌打ち。
「ウウム……、わからん。わからんわからん。降参だ。あとは非現実的な動機ばかりが浮かぶのみ、とても口には出せん」
両腕を挙げるという過剰な反応をとって、男は自らの知恵が足りないのを誤魔化した。近い過去の悪夢を思い出した所為もあってか、急速に様々なことがどうでもよくなっていった。
十円玉も、女も、黒川も。
「まあいい。十円玉の一枚や二枚、気前よく恵んでやろうではないか」財布を懐から出し、手のひらに小銭をジャラリと広げる。「ひい、ふう、みい、よ、いつ……」
十円玉は八枚あった。
八枚とも手垢にまみれ、中には錆びているものもある。その大部分が教本を売ったときに得たものであろう。惜しいとも思わずに、男は女に銅貨の小山を差し出す。
「ありがとうございます。助かりますわ」
恭しく頭を下げながら、八十円を受け取る女。
そのときになってようやく男は気づいたのだが、女は白い手袋をはめていた。もうすぐ初夏になろうかというのに。女の指は男の節くれ立ったそれとは違って、お釈迦様の指のようにふっくらとしている。再び脳裡に浮かぶそれは、西遊記。
――さしずめおれは、その手のひらで踊らされた孫悟空といったところか。
財布を仕舞いながらそう自嘲していると、不意にある挿話が蘇った。
男は十円玉を握り締めたままの女に問いかける。
「お前、西遊記を知っているか」
「ええ。それがどうかしましたか」
怪訝な顔の女。
「これこそただの薀蓄に過ぎないのだがな」男は自虐的に前置きする。「かの孫悟空はお釈迦様に封印されている間、腹が減れば銅の玉を与えられ、喉が渇けば熔けた鉄を飲まされたという。もしやお前もその銅貨八枚を、今晩の御飯にするのではないだろうな。ハハハ」
男にとっては、つまらない冗談のつもりであった。
ハテ、鉄の玉と熔けた銅の間違いだったかな、とまで暢気に考えている始末であった。そして実際鉄の玉と熔けた銅が正しく、男の冗談は冗談として成立さえしていなかったのだ。
ところが。
女は、目を見開いて。
「まさかまさか。十円玉を御飯にするだなんて、そのようなはずがないでしょうよ。百ドル札ならまだしも。あたくしはですね、緑青というやつが大の苦手なのですよ。触るのも嫌」
だからこうやって、選り分けたのではありませんか――と。
云うが早いか、女は大口を開けて男をぺろりと平らげてしまった。
最終更新:2012年09月20日 18:52