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習訳『嶺南逸史』第一回途中まで

2005年11月08日(火) 02時41分-穂永秋琴

 


 もともと正史があれば野史もあるものだ。正史は確かなことは伝えるが疑わしいことは伝えない、一方野史は確かなことも疑わしいこともともに伝え、さらにまた知られざることも伝えるのである。そのため目に見え耳に入ることで、正史にそのことが伝わっていたなら、人々はそれを「異とするに足りない」と言うことができるだろう。もし耳に入ったことが無く、目に見えたことがない事件を、人々が聞いたり見たりしたなら、驚かない者はなく、後人がでっち上げたものだと考え、実は確かに見られ聞かれたことであることに気付かないのである。信じないのは、耳目の能力が限られているためだ。例えば禹王の旬楼山碑のことについて朱子は、実際にその地へ行ったが見つけられなかったとて、実際には無かったことで、好事家が想像したものだとした。ところがその後、蜀の人がきこりに案内されてその場所へ行き、なんと碑に七十二字が打ち出されているのを見つけたという。そこでこのように言う事が出来る、およそ天下の奇事や凡事で、人が言わず、また知られないことでも、一たび人が言い始めたら、正史の文章に記されておらず、我々の目や耳に入らなかったとしても、信を捨てることは決してしてはならない。以下に説き出だすことについても、正史はじめ府志、省志、県志、『羅浮志』、『赤雅外志』などには詳しく書かれていないが、私は熟知しないことはなく、新奇な事柄で読者を驚かせるだろうが、正史に無いのはよいとしても、我が野史には欠くべからざることなのだ。

 さて神宗万暦帝の時代、広東省潮州府程郷県から東に百五十里ほど行ったところに、桃花村があった。四方は高山に囲まれ、その間に平地があり、森林は美しく、清らかな泉が流れていた。百十人あまりが居住していたが、みな山水の側にあって、桃・竹・梅・柳を植え、左右の景色は映えていた。いつも春が訪れると、鳥は鳴きながら飛び交い、子供も老人ものんびりとその間で暮らし、さながら古の桃源郷のようで、そこで桃源という名も持っていた。住人は黄・張・竜・蕭・楊・盧・許・謝を姓とし、みな誠実で、田畑を耕して道を楽しみ、浮世の名を求めなかった。歌の声が時には鶏や犬の声とあわさり、人の心にしみいるのであった。
 ここである人物を紹介しよう。姓は黄、名は瓊、字は逢玉といい、幼い頃から聡明で、読んだことのない書物はなく、詩詞歌賦の類も通じないところはなく、しかも生まれつき大力の持ち主で、よく双剣を扱うことができた。家には先祖から一対の竜泉宝剣が伝わっており、彼がこれを手に舞えば、初めはさながら二匹の白竜が飛び交うよう、終わりはさながら白雪が降りしきるようで、剣も人も見えないほどだった。彼の父の思斎は彼を玉のように愛し、また彼の歯が真珠のように白く、眼が金星のように明るく、きらきらとして玉のようであったため、瓊玉の二字を以って命名したのであった。

 こちらは無謀にも完訳しようと志し、冒頭部分だけで途絶している無残な代物。しかしちょこちょことでも更新していけたらいいなと思っている。
『嶺南逸史』は私がこれまで原文で読んだ中でも最も面白い作品だったが、中国小説に関する日本の書籍で、この作品について触れているものは一つも見たことが無い。この面白さ、私が伝えねば誰が伝える? と気概だけは立派にして実力不相応。

最終更新:2013年06月12日 23:48