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人類滅亡前夜

2010年12月21日 (火) 22時03分 - カンパニール

 

 夢を持とう、と漠然と思ったのが十二の春で、ぜんそく持ちの母が死んだのが十九のクリスマスだった。初めて女を知ったのが十五の時で、初めて〝封筒〟を好きになったのが七歳の頃。今(過去)も、基本的には僕は僕だ。
 ところで、僕が何かに向かって夜光虫のように進みだすと、いつも決まって顔を見せるのが無気力漢というヤツだった。
 たとえば、僕は机に向かってテスト勉強に取りかかろうとする。すると突然、無気力漢は部屋のドアをぶっ叩いて家中に響き渡る大声でがなり立てる。
 おいやめろおいやめろやめろおい。
 僕は必死にそれを無視しようとして、深い眠りに落ちる。途端に無気力漢はズカズカと部屋に上がり込んで僕の首根っこを引っつかみながら耳元で、寝ると死ぬ寝ると死ぬ寝ると死ぬ、と五百回くらい繰り返すものだから、僕はいつまでたっても寝たふりをしていなくてはならない。
 そんな時、ねぇいないの?、と小さな声で呼びかけて、慌てて階段を下りてきた僕ににっこり笑顔を振り向けるためにいつも玄関のポーチに立っているのが、そう、〝封筒〟だった。
 〝封筒〟は「連絡帳」と書かれた薄いノートを僕に手渡し(その瞬間に互いの指先はわずかながらに触れあい)、ノートにはその日に実施された漢字テスト(僕がテスト勉強を始める頃には、たいていテストは既に終わっている)や学級新聞や給食費の催促状なんかが入っているのだけれども、彼女はろくに説明もせず、ぷいと踵を返して行ってしまう。
 僕が(あくまでお礼を言うために)後を追おうとすると、彼女はやっぱり振り向いて、暑いね、と言う。笑顔で言う。僕も脊髄反射で、そうだね、と言う。(やや引きつった)笑顔で。
 正直に言うと、別に暑くはなかった。
 五月中旬のまだ優しい陽光が灰色の厚手のカーテンを貫いて僕の部屋までやって来ることはなかったし、天気とか季節とか、そういうものを意識の中で知覚する習慣が元々なかった。それでも僕は、暑い、と思った。その瞬間に。
 その瞬間だけは日差しが暑くて、からだ中が熱かった。〝封筒〟がまたしゃべった。うち来る?
 僕は二つ返事だ。まともに声も出せない。小さくうなずきかけて、もう歩きだしてしまった彼女に続く。〝封筒〟の家は歩いてすぐの距離。だから僕への連絡係を任されている。対人地雷に気をつけながら連れ立って歩く二人。夕暮れ。
 放射能除けに申し訳程度の塀がある。タングステン製。当然のようにある隙間。なぜなら僕がおとといの夜中に開けた。近付いて彼女がそこを指差す。見てみなよ、ほら。
 僕はまだ暑いと思っていた。動悸が高まる。膝が笑い始める。含み笑いをしながら、しゃべり始める。ぐずぐずしてないで、とっとと行けよ。俺はこんな道の真ん中でおまえを支えてやるほどお人よしじゃねぇんだよ。歩け。歩く。吸い寄せられる。吸い込まれる。穴だ。このサイズは……間違いない、覗き穴だ。
 僕はうるさい膝を地面に押し付ける。屈み込んで、秘密の穴に目を押し当てる。ぐうぐぐ、苦しい、息ができない。膝が言う。僕も息ができない。穴の向こうには〝封筒〟がいた。
 どう? 見える? 耳元で〝封筒〟が囁く。〝封筒〟は部屋の中にいた。庭に面した大きなガラス窓の向こうに。リビングの真ん中に立っていた。どこかから帰ってきたばかりなのか、ちょうどヘルメットを脱ぐところだ。ぷせす、と音がしてジョイントが外れ、長い黒髪が露わになる。
 どう? どうなの? 耳元で〝封筒〟が囁く。〝封筒〟はゴムの全身スーツに手をかけた。もちろん、安全な室内ではそんなもの必要ないからだ。彼女はリラックスしている。
 僕は窒息死しそうだった。息ができない。部屋の中の〝封筒〟は僕の存在に気付いていない。全く。耳元で〝封筒〟が笑った。
 彼女はスーツを脱いでいる。限りなく無音に近い静寂が僕と〝封筒〟の間に満たされている。衣擦れの音さえ聞こえてきそう。スーツの下の〝封筒〟はクリーム色のワンピースを着ていた。背中が汗で濡れている。蛹から羽化したばかりの蝶のようだった。
 目尻と目頭の両方が痛い。きっと充血している。こめかみの血管が震えているのがわかる。彼女はこちらを振り向いた。彼女はこっちの目を見てはいない。彼女は独りであると思い込んで、精神を弛緩させている。あられもない姿、だ。絶対に、他人には見せたくない姿。これからシャワー浴びようかな。〝封筒〟が言った。吐息を僕の首筋に触れさせながら。僕の心拍数は、そこで振り切れる……。
 僕はとうとう我慢できなくなって穴から目を離した。やっと呼吸ができるようになった。何度も何度も深呼吸する。頭の中に響く、けたたましい声。〝封筒〟が笑っている。全身が動揺していた。指ひとつ動かせない。誰もいない道端で、立ち尽くす。
 ようやく落ち着きかけた頃には、三十分以上経っていた。
 僕はとぼとぼと家に帰った。太陽はもうほとんど沈みかかって、忍び寄ってくるのは、濃紺の夜。頭上を飛び交う迫撃弾は、花火のように美しく街を火に変える。でも僕にはそれを気にかける余裕もない。膝はずっと黙っている。目の奥に焼き付いた〝封筒〟の幻影を僕は考えていた。背中に張り付いたワンピースの汗のことを想っていた。
 我が家に着くと、玄関のドアが開けっぱなしになっているのが見えた。鏡に映した僕にそっくりな男、無気力漢が玄関口で心配そうにこちらを見つめていた。僕は、大丈夫だよ、と言ってあげた。伸び放題の無精ひげに頬ずりしてあげた。くの字に折れ曲がった背骨をさすってあげた。ヤニで黄ばんだ唇に接吻してあげた。

 テレビを観ていた。眼鏡をかけた初老のニュースキャスターが原稿を読み上げる。なんだか渋い顔をして、気に食わないな、と言いたげな口調で、歌っている。人類の進歩。宇宙への第一歩。未来。夢。軌道エレベータ。テラフォーミング。将来的には。希望の灯。
 画面が切り替わり、大げさなオーケストラのBGMに乗ってイメージVTRが流れた。広大な宇宙の直中、赤黒い地球を後にして、大きな白い機体が浮上してきた。スペースシャトルだ。わずか七歳の僕には何を言っているのか半分もわからなかったが、ひとつ、確かなことがあった。〝封筒〟は家族と一緒にきっとこれに乗る。この地球からいなくなってしまう。そして僕が一緒に行くことはできない。

 母の思い出を語ること、それは僕にとって実はけっこう難しいことだ。と言うのも、僕は母の素顔をただの一度も見たことがない。母は空気が嫌いで、いつもガスマスクを着けていた。軍から払い下げられた、ゴーグル付きの本格的なものだ。あの緑のマスクを着けた人間なら、僕はどんな人間にでも母性を感じることができるのではないだろうか、と時々思い起こす。
 とりわけ記憶に残っているのは食事の時だ。四六時中顔を隠している母でも、さすがに朝晩のレーション摂取の時だけはマスクを外す。口の部分だけ外す。隣に座った僕がおそるおそる覗いてみるといつも、赤黒い皮膚はマスクの裏側へ幾筋もの透明な糸を引いていた。完全に癒着しているのだ。下から見え隠れするただれた口元が流動食をちうちう吸っているのがたまらなくいやだった。
 あ…コシュホース、まだ、……死なないコシュホース。
 ある寒い寒い夜、母は何かずいぶん真剣な表情で(マスクの微妙なゆがみ方が、少なくとも僕にはそう思わせた)、僕に語りかけた。ひどくこもった声で、とぎれとぎれに聞こえる言葉を部分的に理解するのがやっとだった。
 でも、コシュホース……そのうち、コシュホース。
 シュノーケルのような、ダースベイダーのような、奇妙に機械的な呼吸音が繰り返し響いた。
 母の両手が僕の肩をつかんだ。前後に小刻みに揺すっている。僕はそれがまるで他人の肩であるかのように何も感じない。母の頭が動くたび、顔とマスクとの継ぎ目から細かい粉が落ちた。チーズのようなにおいだ。
 コシュホース、どう……して、コシュホース。
 四年前に泣きながら家を出ていった妹のことを話しているのかもしれない。妹は生まれてこの方ケーキというものを食べたことがなく、それがために家を出た。この閉じられた世界の外に出れば、きっとケーキに死ぬほどありつけると思い込んだのだ。その判断、というより幼い夢想のようなものが結果的に正しかったのかどうか、僕にはわからない。ただどうしてもあの泥沼のような海の向こうに楽園があるとは思えない。
 でも、ここにも食べるものなんてない。固形のレーションすらもうない。あるのは母のからだから出る臭い粉だけだ。劣化ウラン弾の空薬莢だけだ。
 母はしばらく意味のわかる言葉とわからない言葉を喉の奥で響かせていた。そしてそれからきっかり二十四時間後、膨らみきった被害妄想をこじらせて死んだ。僕は生まれて初めてケーキを食べた。

 テレビを観ていた。眼鏡をかけた初老のニュースキャスターが原稿を読み上げる。なんだか晴れやかな顔をして、ざまあ見ろ、と言いたげな口調で、歌っている。大惨事。大失敗。死者は。未曾有の。成層圏で爆発。会場は悲しみに包まれ。
 封筒が投函されていた。僕はベランダで枯れかけたプチトマトに水をやり、カサカサになった葉を全部ちぎって捨てた。相反する感情があった。希望に行く船と絶望に行く船。どちらも同じ船だとしたら、僕は悲しまなくていいのだろうか。彼女は苦しまなくて済むのだろうか。
 封筒はまだ開けていない。たぶん、これからも開けることはないだろう。テレビをハンマーで叩き割ると、四月の夕暮れの風が心地よい冷たさに浸された。またひとつ、遠くで大きな爆発。まぶしくて目を閉じる。明日はきっと晴れだ。
 僕は生きる。封筒の中に入った彼女を後生大事に抱えながら。夢を持とう、と思った。

最終更新:2012年09月20日 18:58