2005年11月12日(土) 01時02分-鴉羽黒
* フィクションa(板チョコと缶コーヒー)
コーヒーを飲むときは缶コーヒーにすると決めている。味にたいするこだわりがあるわけではない。缶コーヒーの良いところは、どれを買っても量が同じだということだ。まあ、長い缶だとか凹んだ缶だとかもあるけど。
自販機で買った缶コーヒーを飲みながら、下りの電車を待っていた。付近に高校があるとはいえ、帰宅部およびその他の部全ての下校時間から外れた午後五時過ぎ、ローカル線無人駅のホームに僕と同じ学生服を着た人間はいなかった。ということはつまり、人がいないということだ。
僕――、それともう一人、セーラー服にコートを羽織った少女の例外を除いて。
毎日見る制服ではあったけれど、その中身に見覚えはなかった。制服だけでは学年も分からないし、まあ知ってどうなるというものでもない。同じ方面の電車に乗るつもりらしく、彼女は僕の横二メートルほどの位置で、同じ方向を向いて立っている――いや、あまり見るのはよくないな。万一目が合ったりしたら気まずい。まだ電車の来るまでに十分はある。
線路の向こうで、日が沈んでいく。駅は高い位置にあるため、見慣れた田舎町が緋に染まるのがよく見渡せた。吹く風は冷たいけれど、その代わり空気のきれいな季節だった。何を考えるでもなく、僕はその景色を見つめる。群青の夜が山際に降り始めている。
パキン、という音がホームに響いた。
その音に現実に引き戻されたというほどでもないが、僕は音源をちらりと見た。例の、隣の彼女だ。
彼女は板チョコを食べていた。
さっきのパキンという音は、冬の冷たさで硬くなった板チョコの音だ。制服に板チョコという組合せがなんとなく目を引いたのが、そもそもさっき彼女を見ていた理由だった。
視線を正面に戻して、再び僕は考えることをやめようとした。と、手の中のコーヒーが徐々に熱を失っていっていることに気づいた。そろそろ飲みきったほうがいいかもしれない。
缶を傾けようとしたときに、彼女が声を上げた。
「期待したほど、甘くないです」
なんとなく勢いをそがれて、コーヒーの缶は僕の鼻の先で傾きをゼロに戻した。
少し考えて、もしかして僕は話しかけられているのだろうかと気づく。
「…冷たいからだろ、多分」
「そんなものですか?」
「多分な」
「あ、それあったかそうですね。甘いですか?」
見ると、彼女の視線がいつのまにか僕の鼻の先に向けられていた。
「…期待したほど暖かくないと思うぞ」
「それ、ちょっとくれたりしませんか?」
「いや、ちょっとしかないし。それに」
「間接キスとかは気にしませんから」
僕の言葉をさえぎった彼女の手には、既に缶コーヒーがあった。…早い。スリか。
満足そうな顔で彼女が缶を傾ける。その顔が、予想通り見る見るゆがんでいく。
「それに、無糖だから甘くないぞって言おうと思ったんだけどな」
「さぎです」
失礼なことをいう彼女の背後から、かたんかたんと電車がやってきていた。
* フィクションb(板チョコと缶紅茶)
高校に入って驚いたことは色々とあるけれど、その中でも好意的なそれにあたることの一つが、校内に自販機が置いてあるということだった。しかも通常120円のところを100円で売っているのだから2ポイントだ。
「うわ、なによこれ」
けれど、まあうまい話には落とし穴がつき物とでも言えばいいのか、この自販機には色々と問題があった。一つは、動いている時間が昼休みと放課後下校時刻までしかないこと。それともう一つが――
「ほとんど売り切れじゃない!」
そう、すぐに売り切れるということだった。二台ならんだ自販機が、いっせいに売り切れランプを光らせている絵と言うのもなかなか壮観ではある。
「今日、日中あったかかったからねー」
「あたたかいのもほとんど売り切れてるわよ!」
「日が暮れ始めてから、急に寒くなったもんねー」
「わたしのレモンティーを返してよ!」
用意した100円玉を握り締めた右手を突きつけて、みーこが理不尽な要求をしてくる。そんなことわたしに言われても困る。ので、
「困るよ」
と主張してみる。でもみーこはなんだかネコの威嚇みたいな声を出してきただけだった。そんなに寒いのだろうか。
「こんな時間まで延長するあの委員会が悪いのよっ!」
「まあまあ。ほら、コーヒーならあるし。あったかいの」
指で示してみせる。自販機は二台あって、そのうち一台のほうの一番下の段の右隅二つ、そこにちょこんと小さいコーヒーの缶が並んでいる。100円を投入されていない自販機は、彼らの下のボタンを光らせていない。つまり、売り切れと表示されていない。
「いらないわよコーヒーなんて。少ないし。甘すぎるし」
レモンティーだって甘いことに変わりはないだろうと思ったが、それは黙っておいた。ついでにいうと、二つ並んでいる缶コーヒーの、右側の黒いほうは甘くはない。経験的に知っている。文字通り苦い経験だ。
「…甘くなる予定だったんだけどなぁ」
「ん、なに?」
「ううん、なんでもない」
みーこは眉をひそめたが、それ以上は気にした様子はなかった。ようやく100円で買えるレモンティーに諦めがついたのか、踵を返して彼女は歩き出した。わたしも彼女にならって、隣を並んで歩く。校門を出た途端に強い風が吹いて、わたしは思わず目を閉じかけた。ああ、確かに寒いかも。
「でも、そもそもなんで缶コーヒーなんておいてるのかしらね。あんなの、買ってる人見たことないわよ」
まだ機嫌は直っていないのか、さも缶コーヒーが悪者みたいな言い方をするみーこ。あいまいな笑みを返したわたしは、不意にいつも図書室にいる、どこか少し変わった先輩の姿を思い浮かべた。
「…少なくとも一人は、缶コーヒー買ってる人、いるみたいだけどね」
頭上に疑問符を浮かべたみーこをそのままに、わたしは鞄から板チョコを取り出した。
* フィクションc(板チョコと猫と缶コーヒー・前)
立冬を過ぎ冬至は近く、五時を過ぎる頃には夜はもう街一面を覆うようになっていた。
放課後、いつものように図書室で適当に時間をつぶしていたら、気づいたときには夕焼けはもう終わっていた。何をしていたという記憶もないのだが、もう結構な時間が過ぎていたらしい。眠っていたのかもしれないが、少なくとも夢は見ていなかった。まあ、何も考えずにぼーっとしているのと眠っているのと、さして違いもない。
放課後に図書室に寄る生徒と言うと、真面目に勉強している生徒を思い浮かべるかもしれないが、少なくとも僕はそうではない。帰宅する前に一日を終えた疲れを癒すために、つまりぼーっとするために僕は図書室に来ている。そのうち追い出されるかもしれないが、あからさまにいびきを立てたりはしていないから多分大丈夫だろう。
だから今日もいつも通りではあったのだけれど、僕は何か違和感を覚えていた。ただぼーっとするにしても、今日は疲れが取れた気がしない。格別疲れることがあったわけではない、のだけれど。気のせいだろうか。
ふと溜息をつきかけて、やめる。同じ敷地内にあるとは思えないほど、図書室は他の場所と比べて静かだ。加えて、この時期になると受験を控えた三年生の放つ妙なプレッシャーがあたりに満ちていて、わずかな音を立てるのもはばかられるというか、もういっそ息苦しいくらいだった。三年生用に自習室が解放されるようになる年明け以降は、この空気も少しは緩和されるのだが。
そこまで考えて、あれ、おかしいなと気づく。こんな空気のなかで気が休まるわけはなくて、このところは図書室に寄るのをやめていたはずだった。正確には、寄るには寄るのだけど、入り口前のちょっとしたロビーのようなところで、ソファに座って少し息抜きする程度にとどめていたはずだった。
それが、どうも今日は無意識のうちに中まで入ってきていたらしい。そういえば、あまり記憶がない。
(…まあ、こういう、調子が悪い日もあるか)
極力音を立てないように席を立ち、適当な本をタイトルも見ずに本棚から抜き出して、カウンターへ向かう。別に、図書室にいたからといって本を借りなければいけないわけではないのだけれど、なんとなく僕はそうしている。在学中に何百冊か借りると多読賞をもらえるからだとか、そういうしょうもない理由もある。
カウンターへその本を持っていくと――妙に重くて、ちょっと後悔したりはした――、カウンターにいた図書委員は、なぜだが、ちょっと困ったような、あいまいな笑みを返した。
「あの、すみません。これ、帯出禁止なんです」
よく見ると、僕が手にしていたのは辞書だった。そりゃ、帯出禁止だろう。
「えと……、悪いけど、これ、元に戻しておいてくれるかな」
そう言い残して、僕は足早に立ち去った。
…やはり調子が悪い、今日は。
駅につくと、ちょうど折り悪く電車は行ったばかりだった。少し迷ったが、結局僕はホームに上った。
覚悟はしていたのだが、遮るもののないホームでは、夜風がいっそう厳しかった。手袋をしてこなかったのを、改めて後悔する。乾いた風は、冷たく僕の頬をなでる。
いつものことだが、やはりホームに人はいなかった。
ホームから見える景色も、一月前とはずいぶん様子が変わった。といっても町並み自体に変化があったわけではなくて、単に日が短くなっただけなのだけれど、明かりに乏しい片田舎では、日の落ちたあとは街が半分なくなったんじゃないかと思えるような風景になる。まあ、さすがにそれは言い過ぎかもしれないけれども。
「ふう――」
吐く息が白い。
何か足りないような気がする、そんなことをふと思った矢先、強く冷たい風が吹く。舞い上がり飛んでいく落ち葉を見届けたあとで、僕はどこかで聞いたような音を聞いた。
パキン。
――そういえば、あの日も風が強かっただろうか。
* フィクションd(板チョコと猫と缶コーヒー・後)
「ふぁ、ふぁれまひた?」
何かが割れる音に、僕は振り返った。そして目の合った少女が、ころころと笑う。その、手袋に包まれた手に、板チョコが大事そうに抱えられている。その一かけらが口にくわえられていて、そのせいで言葉が言葉になっていなくはあった。さっきのはたぶん、「あ、バレました?」と言いたかったんだろう。
「えと、バレました?」
伝わらなかったと思ったか、チョコを飲み込んだ彼女は、律儀にもそう言い直した。僕の予想は当たっていたらしい。
「足音、立てなかったと思うんですけど。すごいですね」
「…もう少し、別のことにも注意を向けるべきなんだろうな」
「? 気配とかですか?」
「いや、まあいいさ」
この人気のない駅で、板チョコの彼女と会うのは、これで何度目になるのだろうか。深く考えるまでもなく、奇妙な縁だ。同じ高校に通っているはずなのに、このホーム以外で会ったことがない。それも、決まって僕らの他に誰も人がいないときだった。
いつも板チョコを食べている、そんな程度のことしか、彼女について知っていることはない。名前すら、知らない。もっとも、それは彼女も同じだろう。
特に言葉を続けることなく、僕は再び視線を町のほうへ落とした。多少の会話を交わすことはあるけれど、それでも総じて見ればお互いに黙っていることのほうが多い。まあ、たまに帰りが同じになるだけの関係なのだから、その程度のものだろう。
そう思ったのだけれど、少しの沈黙のあと彼女は再び口を開いた。恐る恐る、という形容がしっくりくるような調子で、
「…あの。こんなこと聞くの不躾かとも思うんですけど、なにか、ありましたか?」
と、そう言った。その言葉は、池に落とした小石のように、僕の中に小さな波紋を立てた。
けれどその動揺――動揺、なのだろう――は隠して、
「なんで、そんなこと?」
僕はそう答える。
「いえ。その、いつもより、先輩、寂しそうと言うか――」
その言葉に、僕は少なからず驚く。寂しそう、か。
「…んー、考えもしなかったな」
「禁帯出の辞書を借りようとしますし」
「う。…なんで知ってる?」
「図書部ですよ、わたし。見覚えありません?」
そう言われ、彼女の顔をまじまじと見るが、記憶の底に手がかりは見つからなかった。というか、見つかる前に何故か彼女は顔を背けてしまった。なんだかな。
ちなみに図書部と言うのは、貸し出し受付の図書委員とは違う。実態はよく知らないが、司書さんの手伝いをしたりするらしい。そんな部があるのはうちの高校くらいだろうし、何が楽しいのか知らないのだが、廃部になっていないということはそれなりに人数がいるのだろう。かくいう僕の友達にも、実は図書部がいる。
奴は図書部に板チョコ好きの女子がいるなんて話をしたことがあっただろうかと考えていると、彼女は再びこちらを向いた。
「なんか変だなと思って、それで部活早退してついてきたんですけど」
さらっと問題発言してるんじゃないだろうかこの娘。
「見て、わかりました。寂しそうです」
「………」
断言されてしまった。いつもより調子が悪いとは感じていたし、実際友達らにも指摘はされたのだが、“寂しそう”と形容したのは彼女が初めてだった。
視線を手元の時計に移す。まだ、次の電車まで時間があった。
腕時計を離れた僕の視線は、線路の先、自宅のある方角を向いた。線路の伸びる先には、ちらちらと灯る光が見える。そこには、誰かの生活がある。僕の住む家の光だって、どこかにあるだろう。
けれど僕は、見えない光――見えなくなった光を見ようとしていたのだと思う。
「猫が、さ」
僕は口を開く。
「死んだんだ、昨日」
脳裏に、やせた小さな三毛猫の姿が浮かぶ。名前すらなかった、その猫。
「といっても、野良猫なんだけどな」
その三毛猫が初めて僕の家に現れたのは、二週間ほど前のことだった。あの夜、窓の外からかすかに泣き声が聞こえることに気づいた僕は、その声があまりにも必死そうな響きを帯びていたのにほだされて、様子を見に庭へ降りた。そこで、その三毛猫に会ったのだ。
「餌をやってしまったからだろうな。うちの納屋に寝床を見つけて、その猫は住み着いた。多分捨て猫だったんだろう、姿を見せるとしきりに擦り寄ってきて、ずいぶん懐いていた。両親にもすぐなついて、そのあとの餌はむしろ親がやってたよ」
あんなに動物に懐かれたのは、初めてだった。
けれど、猫の飼い方なんて分からなかったし、汚れるのを嫌って、家の中にはいれなかった。そして結局、そのことが仇になる。
「夜だった。僕は見ていなかったけれど、道路に飛び出して、撥ねられたんだそうだ。向かいの家の人が教えてくれて、それで――」
僕は言葉を切る。後悔しても仕方がないし、するようなことでもない。選んだのは、僕だ。
「――納屋に住み着いてた野良猫が、事故で死んだ。それだけだ。それだけなんだけど――」
かぶりを振る。苦笑して、彼女の方を向く。
「そうか…、淋しかった、のかな」
見ると、彼女は微笑んでいた。なんとなく、僕は恥ずかしい気持ちになる。
「どっちか、あげますっ」
唐突な申し出に戸惑う僕の前に、彼女の両手が差し出された。その右手に、板チョコ。ただし食べかけの。そして左手に――缶コーヒー。
それを見た僕の顔は、一瞬多分すごく間抜けだったと思う。
そして、缶コーヒーを買うことすら忘れていた自分に気づいて、
次の瞬間には、なぜだか笑いがこみ上げてきた。
「もちろん、左だ」
「やっぱり先輩は、缶コーヒー飲んでないと、ですよねっ」
「なんだそれ」
元気出してくださいと彼女は言い、僕は缶コーヒーを受け取った。手のひらから、じんわりと暖かさが伝わってくる。
気づけば、何かが足りないと言う感じは、もうなくなっていた。
「…ありがとな」
「いえ、どういたしまして」
嬉しそうにそう言い、彼女はパキンと板チョコをかじった。
(了)
とりあえず一区切り。さりげなくヒロインの名前が永森千代子に変わってるんですが、本文中に反映されてないので多分誰も気づきません(気づきようがない)。元ネタは森永のチョコです。板倉はちょっと片足切断した挙句に死んでしまうイメージがあるのでやめました(何。
最終更新:2013年06月12日 23:50