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最近、泣いたこと

2005年12月02日(金) 06時40分-テンシャン山脈

 

 クーラーが過剰にかかった部屋から出たら、蒸し暑い空気が頬にまとわりついてきた。夏は好きだし、かといって暑すぎると仕事にならないのでクーラーも助かるけれど、いきなり気温差7度を体感するとさすがにムッとする。7月だからといって、今は17時を回っているのだ。もうすこし涼しくなってもいいのではないか。ただでさえ太った課長や青春真っ只中の新人クンが暑苦しくってたまらないのに、どうしてこう皆んな熱を高めよう高めようとするのだろう。
 と、無駄なことを考えながらロッカーに向かった。夏に恨み言を言う気にはならない。私は日本の気候の移り変わりを心から楽しんでいるし、おかげで同僚との話の話題にも困らない。言葉に詰まったら時候か、オトコの話をすればいい。私は後者が苦手で、専ら天気の話題を振ってばかりだから、影で「お天気おねえさん」とか呼ばれたり……していなければいいなあ。

 当然、私に振られる話は、色恋沙汰が多くなってくる。
「香織ー、あんたカワイイんだから、男の1人や2人捕まえたらどうなのよ。特にこの時期は薄着の色気にメロメロ~ってなバカ男はいくらでも釣れるでしょうに」
「んー。」
「『んー』じゃないでしょ『んー』じゃ。ホラ、隣のデスクの秋田君、カレ絶対香織に気ぃあるって。どうなのよカレ。」
「んー、どうかな…でもちょっと暑苦しいのが……」
「そりゃ夏だからそう思うだけだって! 男はあれくらいハキハキしてたほうが楽しいはずだよ?」
「……あんまりそういうこと、考えたことないから……」
そうだ。私は早く帰って、4匹の猫にエサをやらなければならない。こうして友人としゃべっている時間の千倍はくつろげるから、私の生活の中で欠かせない日課である。ヒトの相手は、面倒くさい。
美咲は軽くため息をついた。
「そんなことだから、冷血女とか言われるのよ」
気を抜いた顔が固まるのが、自分でもわかった。美咲は自然な表情で着替えを終えている。
「……そうかもね」
「ま、いいけど。じゃあ私帰るね」
「うん」
美咲と入れ替わりに、他の女性社員が入ってきた。彼女らは私に軽く会釈をして、奥の方のロッカーへ入っていく。ちらと見ると、皆んな私に背を向けていた。私は滑るように、ロッカールームから忍び出た。

 無人のエレベーターに乗って、急に不安に襲われる。確かに私は無愛想なほうで、友達と映画に行って他の子が皆んな泣いている中私だけ平気だったりとか、そういうことはままある。泣けると噂の小説もさらっと読んだし、笑い話のときうまく笑えなかったりもする。それであっても、高校からの親友の美咲が「冷血女」だなんて、軽く口から出る言葉だろうか。それほど、私が「冷血女」と言われていることが、ふつうになっているのだろうか。
 ……いつから? いつからだろう!?

ヒトの相手は、つかれる。



 バスに揺られ、心地よさに停留所をひとつ通り過ぎてしまった。まだ眠ったような頭を振り動かして、大通りから一本それた道を歩く。ここいらへんを歩くのは久しぶりだ。通り側に住宅、反対側に田んぼや畑なんかがあって、キュウリやナスの直売所があったりする。いつもはスーパーで買うのだが、なるほど、こういうところで買うのも悪くないかもしれない。

 「あ」
 脇のほうを見ると、白い猫がコンクリートの表面をなめている。そこには黒い染みがあって、近くに血を流した黒猫が横たわっていた。滅多に通らない車に轢かれたのだろう。わりとスピードを出す車が多いから、痛かったろうに…。白い猫は首輪をつけておらず、野良であるようだ。黒い方は藍色地に白いアクセントのついた首輪を…。
「ニケ!!」
ショルダーバッグをほうって、ニケの前に座り込んだ。ニケは私の家に来た初めての猫で、猫アレルギーを持つ母の呪縛を離れた私の心の拠りどころだった。
「ニケ、ニケ!!」
叫んで、すくい上げて、ワイシャツが汚れる危惧などそっちのけで抱きしめた。支えを失った首がくるりと振れ、慌てて左手で押さえると今度は右足がふらっと垂れた。

 とにかく、抱きしめなくてはならないと思った。ニケとの思い出を高速で呼び戻して、泣き叫ばなければならないと思った。それはきっと、“優しい人間”のなすことだ。ニケが家に来た日のことを思い出した。ペットショップに行って、特に何と言う感動も無く、一番かわいらしく見えた猫を手に取った。翌日のことを思い出した。朝早く目が覚めて、隣につやつやな毛並みの黒猫がたたずんでいたことが、なぜかとても不自然に思えた。その次の日を思い出して、更にその次の日と、昨日のことを思い出した。大きな感動はなかったけれど、ニケはずっと傍にいた。そのニケが、今、死んでいる。
「ニケッ、…ニケ」
私は目をつむって、鼻の奥から来る涙を待った。私はニケと一緒に一日中ごろごろして過ごしたことがある。ニケを抱えて気の向くまま散歩して、一緒に迷子になったことだってある。泣けるはず。きっと、泣けなければ嘘だ。

 けれど、泣けなかった。待てども待てども涙は出てこず、冷たい猫がそこにいるばかり。腹の肉が指に柔らかく、まぶたが閉じられているだけ。途端に、二重に悲しくなった。けれど、やはり涙はかけらも出てこなかった。ドラマで覚えたセリフも無駄だった。逆にニケとの良い思い出ばかりが心をあたため、笑みさえこぼしてしまった。セミなど、うるさいだけだ。
「泣けない女、か」
私はきっと、冷たい女なのだろう。しかたないと諦めることにした。

 夢中でいたため、足元の白猫のことに気づいたのはしばらく経ってからだった。白猫は私の靴を掻き、歯を剥いて抗議をしてきた。輝く目には炎が灯り、黒い瞳に吸い込まれそうになる。どの動物のものともつかぬ怒りの声が、耳に届く。
そして、ニケを彼女の前に差し出した。
彼女は即座にニケの首をくわえて、そこを立ち去ろうとした…が、彼女の体力ではそれはかなわないようだった。一体どれだけの間、ニケを“看病”していたのだろうか。ぐったりしているニケは、動かない。白猫はこちらを見て、先ほどとは質の違う、澄んだ声で一声鳴いた。
「……お墓、作りにいこうか」
猫とヒトと、どちらが高尚かなんて、涙が決めることじゃない。きっと、夏を一緒にすごせば、見えてくる。

 へたくそですみません。
「まあ、初めてだし」というあたりでお許しを…

最終更新:2013年06月13日 00:03