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泡沫奇譚(一)

2011年02月07日 (月) 02時36分 - K

 

 私は夜の街を足早に歩いていた。思ったよりも帰りが遅くなって、急いでいた様である。夜といえど人通りはまだ多く、それがなぜだか私と反対側に行く者が妙に多く、ぶつからずに進むのは骨が折れる。まるで泥の流れに逆らおうとしているかのようで、自分が前に進んでいるのか、後ろに押し返されているのかも判断がつかない。街を行く人たちの顔はまるで滲んだように目鼻立ちがはっきりせず、私はなんだか空恐ろしいような、妙な気分になってきた。このままでは埒が明かないと、たまらず横道に逸れる。そこは人もまばらなので、しばらくはこの道を行こうと決めた。
 どこへ向かっているのかもよく分からず歩いていると、そのうちに、何やらいかがわしい場所に出てしまったようだった。客引きが、道行く男たちの足を止めようと、空々しい作り笑顔で声を掛けまわっている。その一人がこちらに歩いてくる。私はひどく嫌な気分になって、足を速めた。けれども、男はぴったりと私の横に張り付いてくる。そして、声を潜めて耳元に囁いた。
 「ちょいとお兄さん。いいことを教えてあげるよ」
 その言い方が少しもいいことに聞こえなかったので、私はなんとか振り切ろうと、走り出さんばかりになった。ようやく男があきらめたかと思った刹那、男が私の後頭部に向かって吐き捨てるように言う。
 「あんた、今夜死ぬよ」
 私は肝が潰れて思わず振り返ってしまった。男は妙に両目の間がはなれて、名はすぐには思い出せないが、何かの獣に似ているような気がした。
 「何を言い出すのだ、君は」
 失敬じゃないかと思って、思わず詰め寄ると、男はすかさず私の手首を掴み、
 「嘘だと思うなら、ついて来て見なさい」
 と言って、離そうとしない。顔を見ると凄まじいばかりの笑顔である。私は急に怖くなってきてしまい、「急いでいるので」と口の中だけで、もごもごと言い訳を言い、その場を離れようとするが、男がそれを許してはくれない。無理やり振り払おうとするも、男に手首を掴まれていると、なぜだか総身から力が抜けてしまい、膝から崩れ落ちてしまいそうになる。私が困惑している隙に、男はもう片方の手で私の肩を抱くと、そのまま、けばけばしい外装の店の狭い入口に押し込んでしまう。耳元で「絶対に後悔はさせない」と呟きつづけるのを聞いていると、抵抗する気力すら萎え始めるのを、私は感じはじめていた。
 そのまま、店の内部まで連れていかれて、放り投げられるように受付に受け渡される。跡でもついていないだろうかと、手首をさすっていると、受付の男が話しかけてくる。今度はあまり美味くなさそうなどこか深海の魚のような顔だ。その男に女の子の写真の並んだ表を見せられて、「この中からお一人選んでください」と言われる。話が違うじゃないかと、腹が立ってきたが、後ろで先ほどの男がこちらを見ているのが感じられて、逃げることも出来ない。隙をつくために、とりあえずは大人しくしている振りをしてやろうと、手渡された表を眺める振りをする。その表の中に見知った顔があるような気がして、思わず息を飲む。
 気のせいではない。これは確かに三田村嬢だ。見たことのない化粧をして、彼女には全く似つかわしくない今風の名前を付けられてはいるが、特徴的な目元は確かに彼女の物だ。
 私は前にいつ彼女に会ったか、思い出そうとした。しかし、記憶に靄が掛かってしまったようで、上手く行かない。しかし前にあったときの彼女は、颯爽としていて、この手の仕事につくようにはとても思えなかった。
 「その娘ですね」
 気がつくと、受付の男が私の顔を下からのぞきこんでいた。私は思わず彼女の写真を凝視していたようだ。
 「いや、そういうわけではなくて」
 と私が慌てて言い訳するのに全く頓着せず、男は私の手元から表を抜き取ると、その他の細々とした内容を勝手に処理し、代金を請求してきた。私にはこの手の店の相場が良く分からないのだが、それほど高くないなと考えていると、終わった後にもう一度女の子にお金を払わなくてはいけないらしい。どういう仕組みなのであろうか。
 私は考えがまとまらぬまま、個室に案内されてしまう。ベッドの上に座って呼吸を落ち着かせようとする。床の模様を眺めていてもせんないことなので視線を上げると、風呂場のドアが目に入り、また頭が混乱する。仕方なく天井を見ることにすると、蠅が一匹飛んでいる。電燈に向けて飛び上がろうとしているのだが、かなり弱っているらしく、途中で力尽きてはひょろひょろと落ちてきては、またよろよろと昇っていこうとする。それを見ていたら、こんなところで私は何をしているのであろうかという、根源的な疑問に苛まれてきた。あの写真が本当に三田村嬢だったとして、それで私は何をしようというのか。話を聞いて、場合によっては相談に乗って、別の場合には軽い説教でもして、それで何もせずに帰るというのだろうか。何さまのつもりだと思われて終わりだろう。しかし、それ以外にどうすればいいのであろうか。ただ気まずいまま、黙って制限時間いっぱいまで黙っているのだろうか。それとも客は客だと居直るのか。いや、そもそもまだ三田村嬢と決まったわけでもなかろう。まだあわてるような時間じゃない。ここで挙動不審になっては、軽く見られてしまう。こういうところには来慣れている、という顔をしてどっしり座っていればいいのだ。とうとうベッドの上まで落ちてきてしまった蠅の羽を毟りながらそう考えていると、少しずつ心が落ち着いてきた。ところが蠅を投げ捨てて、いざどっしり、と思った拍子に、自分は何か大切なことを忘れているぞ、という嫌な感覚が沸き起こってきた。その途端、ドアが開き、三田村嬢が入ってきた。
 それはどう見ても彼女だった。以前あったときとほとんど変わっていない。彼女の鋭利な刃物のような存在感もそのままだ。だが、もしかしたら、少し表情に陰りがあるかもしれない。私が唖然として何も言えないのに、彼女は私を見ても特に驚いた様子はないようだった。もしかしたら私が分からないのだろうか、それとも本当に三田村嬢ではないのだろうか、とも思ったが、彼女が何も言わないうちに、私の方から口を開くのも気が重く、黙っていることにした。彼女は私を一瞥すると、さっさと風呂場の方に行ってしまった。私はそれを見て、いそいで後を追うしかなかった。ドアを閉めると彼女はおもむろに服を脱ぎ始めた。私はびっくりするが、しかしびっくりする必要がないのも理解しているので、仕方なく自分も脱ぎ始めた。できるかぎり顔を上げずに服を脱ごうと悪戦苦闘していると、何やらまた腹が立ってきた。客商売なのに、笑顔の一つもないどころか、まだ一言も言葉を発していない。客をなんだと思っているのだろうか。しかし、よく考えるとこれはやはり、彼女は三田村嬢で、私のことに気付いているということではなかろうか。私が顔を上げると、彼女は体にバスタオルを巻いて、湯船にお湯を入れ始めていた。白い肌が目に眩しく、バスタオルに浮き出る体の線が悩ましかった。それを見ている、私もいまや身に纏うものといえば、腰のまわりの心もとないタオル一丁である。今声を掛けなければ、声の掛け時がなくなってしまう。私は意を決して、口を開こうとした。しかし、金魚のように口をぱくぱくさせるだけで、少しも声が出ない。なんとか、言葉を発しようと努力しているうちに、結局彼女の方が最初に口を開いた。顔は私からそむけたまま、
 「私にあんなことをしておいて、よくもおめおめと顔が出せたものね」
 と、低く重く恨み事を呟いた。なんのことか分からないので、答えられずにいると、不意に振り返って、
 「こんなことになってる私を笑いにきたわけ」
 と目を据わらせて、声を張り上げる。私はあまりに驚いたことによりようやく口が聞けるようになり、「一体全体なんの話だ」、と声を張り上げかえした。身に覚えなどあるはずもない。私と彼女の関係は、言うならば友達の友達といったところで、数回二人でコーヒーなどを飲んで談笑したくらいの仲だ。彼女がこのような仕事をしているのは遺憾だが、それは私に関係のないところで起こったことであり、文句の言われる筋合いはない。そう至極真っ当な反論をするのだが、明らかに尋常な精神状態ではない彼女に通じるはずもない。彼女はバスタオルをきゅっと持ったまま、立ち上がる。そのバスタオルの端から、何かぎらりと光るものが見え隠れしている。両手でそれを持ちなおすと、バスタオルが彼女の足元にすとんと落ち、姿を現したのが、白い裸身と銀色の刃の匕首だった。
 彼女はその匕首の刃を私に向けてにじり寄ってくる。私は慌てて距離を取ろうとして、両手を体の前に振り回しながら後ずさりする。腰に引っ掛かっていたタオルが足元に落ち、それを踏んで尻もちをついてしまう。私はなんとか彼女を落ち着かせようと、いろいろ自分でもよく分からないことを口走るが、彼女はそもそも聞く耳を持たないようだ。なんとか身の潔白を証しだてようと、
 「そもそも私は生まれてこのかた、女を泣かしたことなど一度としてない。そしてこれこそ嘘に塗れた私の一生のたった一片の本当である」
 と自信を持って宣言したのであるが、それを聞いた彼女は
 「確かに今までは、泣かしたことはなかったかもしれない。実際私は泣かなかった。今までは泣かなかった。だがあんたの聞き苦しい言い訳を聞いていたら、そういうわけにもいかなくなった」
 と言って、両の瞳からぼろぼろと大粒の涙を流しはじめてしまう。
 その涙を見ていたら、どこか胸の奥の方で、勝手に覚悟が決まってしまう音がしたのが聞こえた。私は少しも覚悟なんぞ決めたくなかったのだが、覚悟の方が勝手に決まってしまうというのはとても困る話である。しかし、一度覚悟が決まってしまうと、今までうずまいていた困惑や怒りがすうっと引いていき、その代わりに彼女への愛おしさがあふれてきたから不思議だ。私は彼女を抱きしめるために、立ち上がって彼女のもとにかけ寄ると、匕首の刃先がすうっと胸の中に差し込まれていく。どろりとした赤い血が私と彼女の肌の間を伝い落ちていく。それはぬるりとして、生温かった。体の力と意識が、指の間から落ちる砂のように、私の中からすり抜けていく。そんな中、彼女の涙を下で舐めとりながら私は、金を払った分だけはやっておくべきだったかな、と少し後悔をしはじめていた。

最終更新:2012年09月20日 19:01