2006年01月02日(月) 23時16分-鴉羽黒
" 人は変わるものだ。けれど、僕自身はなんら変わっていないように思える。一年前と。
変わらないものの存在なんて信じているわけではないが、変わろうとしない限り変わらないものはあるのだろうと思う。
だから、僕は変わらないだろうと思っていた。
変われないのだろうとも思っていた。
けれど。
少しずつ、気づかぬうちに変わるもの。一瞬で劇的に変わるもの。
自覚のないままに、変化のトキは訪れていた。
もうすぐ春が来る。そのとき、僕は――僕たちは、どうなっているのだろう。
◆1(始まりは二月の頃に Side.R)
二月という季節は、新しい何かを始めるには少し淋しすぎるのかもしれない。
灰色の空を乾いた風が駆け抜けて、開け放した窓から冷気が舞い込んでくる。閑散とした部屋に冷風とはあまりに似合いすぎているように思うが、そこがこれから自分の住む部屋とあってはしみじみともしていられない。
二月初旬、僕は二十年近く住み慣れた実家を離れて、大学にほど近いアパートに下宿することにした。通学が無理だったわけではないけれど、一度は親元を離れておきたいという思いもあった。一年間のバイト生活でたまったお金はそれほどたいしたものではなかったが、親を説得する程度の役割は十分に果たしてくれた。
「……ふう、まあ、こんなもんだろ」
既に汗の乾いてしまった額を、大袈裟に拭う。大人になるということは、現実を受け入れるということだろう――と、思っておくことにした。
どうせそう遠くはないのだからと必要最小限の生活用品しかも持ち込まなかったことが驚くほどに裏目に出たようで、素っ気無いどころか近寄りがたくすらある部屋が、目の前に広がっていた。本棚とベッド、一言で表すとそんな部屋だ。小説がぎっしり詰まった本棚は運ぶのは一番大変だったのだが、冷静に考えてみれば一番生活に不要なものである気はする。しかしまあ、精神的な潤いというのも必要なはずだ、たぶん。
ただまあ、さしあたり、テーブルはいる。
つくまいと思っていたため息をあっさりとつく。思い立って即実行すべきような類のことではなかったとはいまさらの実感だが、それにしたってもう少し予測は立てておくべきだった。とにかく急に動きすぎたせいで、引越しのことを誰かに連絡する暇すらなかった。手伝いが要るほど大がかりなものでもなかったとはいえ、必要以上にわびしさが増した感が否めない。
「先行き不安だな、どーも…」
窓の外を見る。相変わらず景気の悪い空はさておき、ぎっしり詰まった住宅とその隙間を縫う道路、それは決して見慣れないものではなかったが、自宅から見えるものとしては不思議な感じがした。実家の窓からは田畑しか見えない。
緑色から灰色へ。その変化は嬉しいものとは捉えづらかった、けれども。
「ここから、新しい生活が始まる――ってこと、なんだよな」
新しい何か。それを求めることは、変化を望むことだろうか。僕は、変わろうとしているのだろうか。
自分が変化を望んでいるとは思えなかった。御戸代を離れることが変化だというのなら、それは多分逃げているだけだ。水底の澱から目をそらそうとしているだけだ。
それでも、もう僕は選んでしまった。選んでしまった道だから、進むしかない。
深呼吸をしてみる。
さしあたり、ダンボール箱をどう捨てればいいのかということが問題ではあった。
◇2(始まりは二月の頃に Side.K)
二月という季節は、何かを始めるには少しばかり急ぎすぎていると思う。つまりは、どうして四月まで待てないのかなぁ、くらいの意味なのだけど。
その日、わたしこと三枝樹希は、何故か体育館にいた。
太陽が高く上る昼休み、とはいえ雪の日の記憶も忘れるには早くて、とどのつまり体育館はすこぶる寒かった。さして厚くもない靴下一枚を隔てて、氷が張ったような床の冷たさが伝わってくる。体育館用の上履きなんて、わたしは持っていない。一応屋内ではあるので風は防げているけれど、同時に日の光まで遮ることはないだろうと抗議したくなる。窓越しの光は驚くほどはかない。寒い。
(…わたしったら何やってんだろう。テスト、もうすぐなのに)
環境が悪いと人は思考さえも悪いほうに傾けるもので、さしてやる気もないくせにテスト勉強しないとなんて気持ちが沸いてくる。要するに帰りたいというだけだ。
吐く息が白くなりそうで、ため息をつくことははばかられた。
「よっしゃこーい!」
気を取り直して現実に目を向けてみたりすると、暑苦しい光景が繰り広げられてはいた。それはそれでなんか嫌だ。
むやみに威勢のいい掛け声を放ったのは同じ学科の男子で、西秋なんとかという名前だ。そのほかに見知らぬ男子が数名、バレーボールみたいなボールを投げ合っている。ついさっき狙いを外れたボールがわたしの頭のすぐ横をかすめたりしたのだけれど、そのボールは格子のはめられた窓に当たってがしゃぁんと盛大な音を立てた。傷害致死未遂。
そんな感じに暴力的な球技だが、ドッジボールではないらしい。ハンドボールだそうだ。
そして、ハンドボールって何だっけなどと言い出しかけたわたしがなんでこんな体育館の隅でぼうっと彼らの練習のを眺めているのかというと、そのあたりの事情はざっと一週間ほど前にさかのぼる。
「ねえねえ三枝さん、ハンド部のマネやらない?」
脈絡の欠片もないその一言、そして結局のところそれが現状のすべてを説明していた。
「…わたしに何の真似をしろって?」
「マネ。マネージャー。ハンド部の」
「うーんと。やだ」
「まあそう言わずに!」
もちろんそんなつもりはなかったのであっさりと断ったわたしだったけれど、そこは体育会系の粘りなのかなんなのか、西秋氏はめげずに食い下がってきた。
二日目が、「頼むよ! 今やってる先輩がもう卒業だから、どうしても要るんだって!」
三日目には、「マネージャーったって簡単な雑用と会計だけだって! 楽勝さ!」
四日目になると、「ほら、昼休みの練習のときだけでもいいからさ!」
と、そんな感じに勧誘は続いた。大学のクセに選択の余地のほとんどない授業日程の所為でかぶる授業が毎日ひとつ以上は確実にあるわけで、顔をあわせるたびにそんなことを言われるものだから、なんだかかわいそうに思えてきてしまってすらいた。
それにしても、なんでわたしばっかり誘うんだかと思っていたら、友達たちもちゃんと(?)誘われていたらしい。ただ、みんなばっさりあっさり斬ったようで、わたし以外に脈がある人がいなかったとのことだ。わたしだってちゃんと断ったと思うのだけど、彼女らに言わせれば、甘いらしい。そんなこと言われても。足りないのはばっさりか。
そしてこの件に関してある男の友達の言うところでは、
『なんてーか、意外と断れないタイプだよな。流されやすい』
だそうだ。いい根性だこのやろー。
というわけなので週明けの月曜日、今日こそスパッとばっさり断ってやろうと意気込んでいたわたしだったのだが、結果はこのとおりだ。とにかく見学してみてくれよと、ごく物理的に強引に体育館まで引っ張ってこられたわたしだ。誘拐だ。
…いや。これは違う。違うのですよ。わたしが押しに弱いとかそーいうことではなくて、ただほんとにちょっとかわいそうだしマネージャーやってもいいかなぁって思ったわけで。
誰に対してなんだかわからない言い訳を頭の中で巡らせているうちに、昼休みが終わりかけていた。どうだった、といわんばかりの顔で西秋氏が近づいてくる。
さて、どうしたものか。
ちらりと見た窓の格子が、牢屋の鉄格子に見えた。
◆3(再会と再開)
下宿をする以上これまでよりも両親に金銭的負担をかけることになるのは確実で、だからそのあたりは少しでも軽くしなければいけない。というか、自分で稼がないことには生活費が無い。仕送りは家賃その他と学費に限られている。
元々やっていた家庭教師と喫茶店のバイトは、どちらも自宅付近でのものだったので続けるにはちょっと厳しいところがあった。家庭教師のほうは仕事柄辞めづらくもあったので(もちろん時給もいい)、多少移動時間に無理があっても続けることにしたのだけれど、喫茶店のほうは辞めてしまった。
空いた分の時間を、そのまま空きにして置けるほど経済状態はよくはない。
そんなわけで、大学と下宿の中間あたりに都合よく位置し、都合よくバイトを急募していた喫茶店に応募してみると、それがことのほかあっさりと採用が決まった。
「じゃ、採用」
そんなあっさりな判決が下されてから一時間が過ぎ、僕はなんだかわからないままにカウンターの内側に立っていた。ほかに店員の姿はない。どころか、店長の姿すらない。
信じがたいごとだが、一通り仕事の説明をしたあと、店長はどこかに行ってしまった。店の奥に引っ込んだんならまだよかった。しかし彼は店のドアを開けて出て行ってしまった。
喫茶店のバイトは初めてではないとはいえ、この任されっぷりはどうなのだろう。
「どうにかするしかない、んだろうなぁ…」
そうこうしているうちにぽつぽつとお客さんが来てしまって、それでもどうにかそつなく仕事をこなしているうちに、時間はさっさと過ぎてしまっていた。店長はいまだに帰らない。
常連客らしきおじいさんの言うには、時々そういうことがあるのだそうだ。臨時休業が多いのがこの店の特徴らしい。なんて店だ。
昼時の客の波が途絶えて、ようやく落ち着くことができた。これまで店長一人でやってこられただけはあって、客の数自体はそれほど多くはない。要するに大して流行っていないということなのだが、眺めてみると店の雰囲気はいいように思えた。
やわらかく暖房の効いた店内に、ゆったりしたテンポのジャズ・ミュージックが流れている。時刻は昼下がりの午後三時過ぎ、することのなくなった平日の午後の時間は、必要以上にゆっくりと流れている…
……。…。…。………。
つい落としていた意識を、不意に鳴り響いた鐘の音が持ち上げる。浅瀬から飛び出すようにというよりは、ちょっとした崖から飛び降りるような感覚で僕は目を覚まし、取り繕うように声を上げた。
「いらっしゃい、ませ!」
表情のほうも取り繕えていた自信はあったのだが、入ってきた客は僕のほうを見てにやりと笑った。それは言うなれば、子供のいたずらを見破ったような表情だった。
「しっかりしなよ、バイト君。――外から丸見えだったよ?」
「申し訳ありません」
苦笑いを浮かべて、僕は謝った。コーヒーを注文してそのまま窓際のテーブルを陣取ったその客は、おそらくは僕と同じくらいの歳で、都会っぽく洗練されていて、そして異性だった。僕をバイトとわかるあたり、彼女も常連客なのだろう。
注文されたコーヒーを淹れる。この店のメニューで僕が人並みにこなせるのはこのコーヒーくらいだろうが、注文されるのも同様にコーヒーくらいだった。前の店でやっていた淹れ方でつい淹れてしまうのだが、さしあたり苦情は出ていない。どこもそう大して変わりはしないということなのか、バイトだとわかっているからさほど期待されていないということなのか。なんとなく後者のような気はする。
コーヒーを運ぶ途中、彼女のテーブルの上に参考書や問題集が広げてあるのが見えた。ほんの一年前自分も使っていたような、見覚えのあるものも混じっている。その中の一冊に、彼女の視線は注がれていた。
(受験生、か…。懐かしい話だな)
もう二月に入っているのだから、センター試験は終わっている。私立についてはわからないが、いずれにせよ追い込みどきなのだろう。その割に彼女には受験生特有の切羽詰った感じがしなくて、余裕で合格をさらっていきそうな雰囲気を感じた。
それはどことなく、懐かしい雰囲気でもあった。しかしかつての僕自身の雰囲気ではない(僕は結構ぎりぎりの合格だったし、そもそも自分の雰囲気というのもわからない)。高校時代の友人にそういう奴がいただろうかと考えたが、うまく思い出せなかった。というよりは、みんな例外なく切羽詰っていたのだろうと思う。
「ホットコーヒーになります」
「ありがと。適当に置いて」
なんにせよ、受験生に変わりはない。邪魔にならないように机の隅にコーヒーを置き、僕はそそくさと退散しようとした。と。
「――ヤナ、でしょ?」
「え?」
その名を呼ばれたのは久しぶりで――それの意味するところと彼女の顔を見比べて、僕は思わず声を上げた。
「、モトコ…?」
視線を僕にうつしたその顔に、中学まで同じ学校だったクラスメートの名前を思い出した。一見しただけではわからなかったが、一度思いついてみると、その雰囲気は確かに記憶の中にある少女のそれだった。
座っているので良く分からないけれど、それでも女性にしては背の高いほうだろう。今は長袖のシャツに隠されているその腕は、記憶に寄ればただ細いだけでなく、柳の枝のようなしなやかさがあった。ちなみに攻撃力も高い。
そして僕を見る瞳には、どこか他人を挑発するような気の強さが宿っていた。
(ああ、変わってないな…)
――白崎素子。僕にとっては、その名はとても感慨深く思い起こされる。
「やっぱり! て言うかようやく今気づいたって感じね最初の時点で気づきなさいよ相変わらず鈍いわねっていうかむしろ失礼ねもう!?」
「いやぜんぜんわからないんだけど」
なんだか興奮気味の素子の剣幕に押されて、僕は少しあとずさった。
「えーと。…生きてたのか」
「何で死んでるのよ」
「いや。留学したって聞いてたから。撃たれたのかと」
「撃ったことならあるわよ。人間じゃなくて的だけど。百発二百中よ」
「…ショットガンか何かなのか?」
「バカね一石二鳥なのよ。それでも文学部?」
「そうだけど。何で知ってる?」
「勘よ。当たったじゃない」
何の会話だろう。
「帰国してたんだな」
「そりゃ、そんなに何年もいないわよ。一年間、二年の夏から三年の夏まで。おかげでクラス内わたしだけオバサンだったわよどうしてくれるの」
「モトコはまだまだ若いよ」
「当たり前よ馬鹿にしてるの?」
相変わらず、よく舌が回ることだ。というよりむしろ、さらにパワーアップしているようにすら感じる。ああ、留学効果か。なんとなく感心してしまう。
「それで、だ。今年――じゃないか、去年の秋に帰ってきたモトコが、なんでまたこんなところにいるんだ? オマエんち穂守だろ?
「それはこっちの台詞よね。あんたは何してんのよ?」
「見てのとおりの、バイトだよ。この辺に下宿してるんだ」
「下宿? このあたりの大学に通ってるんだったら、別に通いでもいけるんじゃないの?」
僕は苦笑する。
「まあ、そうなんだけどね。下宿、してみたかったし」
「贅沢な身分ね、それはまた。ならまあ、せかせか働きなさいよ」
「働いてるよ、見てのとおり」
「寝てたじゃないの」
僕は肩をすくめた。
「それで結局、モトコは何やってんだ?」
「受験生よ、見てのとおり。センターくらいで高校の授業はもう終わっちゃったから、予備校通い。御戸代にあるやつ」
言われて、地元で一番大きい駅のことを思い出す。あのあたりには、確かに予備校がいくつかあった。しかしそれは所詮地元の話で、モトコがこの矢門市の辺鄙な喫茶店にいることの説明にはなっていない。
「わたしも下宿してるのよ、実は」
その答えは、いくらか予想外ではあった。
「親が転勤になって、まあ実家のある兵庫にって話だったから、わたしを残して家族は兵庫行きよ。それで、せっかくだから志望大学の近くに下宿することにしたってワケよ」
なるほど。…待てよ。ということは、だ――
「やめてよ、違うわよ。あんな頭イイとこ、わたしが受けるわけないでしょうが。隣の外語大よ」
そうなのか、意外だ。いや、外語大というのは確かに“らしい”チョイスではあると思うが、モトコの成績ならば先に挙げた大学でも十分届くだろうと思っていた。しかしまあ、三年以上も前の話なんて、さしてあてにはならないか。
「留学してる間に古典とか歴史とか、すっぱり忘れちゃったのよ。センターはどうにか乗り越えたけど、二次のほうはもう諦めたの。まあ配点低めだし、他で取ればいいし」
「それも度胸あるなぁ…」
いくら低めといっても、一教科丸ごと捨てるような度胸は僕にはなかった。
「俺は全部やったよ、古典も漢文も英語もさ。あと数学。今考えれば、なんで文学部に数学が要ったんだろうって思うけどさ」
ポツリと漏らしたその一言が、その後の僕の運命をある程度決めた。でもあるいは、それは全然関係なかったのかもしれない。多分なにかの拍子に、それは同じ結果へと分岐して行ったのだろう。
「あら、数学がいるようなとこに入ったの? どこよ」
意外そうに、モトコが言う。まあ確かに、数学がいる文学部というのは珍しい。
「ん、矢門古城だよ。受かったらお隣だな」
大学名を言うのは、実はあまり好きではない。なまじ名の有る大学ではあるだけに、なんだか自慢しているような風になるからだ。そういうのはなんとなくいやだ。
「……うそっ!? 何よヤナ、あんた矢大なの!?」
「あー、一応。文学部だけど」
「ってことは頭イイんじゃないの!」
「モトコに勝ったことはなかったように思うけど」
「うっわなんかムカつく発言ね! いやみ!?」
「違うから」
モトコのその反応は、変に尊敬じみた目で見られるよりはずっと心地よいものだった。ふと、ずっと前にもこんなやり取りをしていたな、なんて懐かしい気分になる。
「それじゃ、決まりね」
唐突に、モトコはそう宣言した。なんのことだ?
「ヤナ、あんたわたしに古典を教えなさい。わたし、予備校帰りにはいつもここに寄るから。ちゃんといなさいよ」
「ちょ――なんで俺がそんな!? 諦めたんじゃなかったの!?」
「いいじゃないどうせ暇なんでしょ? 再会した同級生を助けるくらいの甲斐性は発揮しなさいよ」
「無茶苦茶だなおい」
苦笑する。しかしまあモトコのことだ、こうなった以上はもう仕方がない。縁があったと思うしかない。
縁――そう、縁だ。喜ぶべきなのかどうかわからない、正直なところ、僕は今とても混乱している。
けれど、やるべきことはとりあえず簡単だった。
甲斐性を発揮すること――再会した初恋の人を助けるくらいの、だ。
つまりは、そういうことだ。
◇4(ヒマキキ)
それでもなんだかんだと過ごしているうちにテスト週間も終わって、わたしの目の前には長い長い春休みが広がっていた。それはもう草原のように――、一面になにもなく。
「暇だ…」
地方に散った高校時代の同級生が帰ってくるにはまだ間があるし、近所の大学はまだテスト週間にあるところがほとんどだ。同じ大学の友達は、逆に地元に帰っていった。正直なところ、休みなのはうれしいけれど、することがなくて困る。やれやれ。
西秋氏によるところのマネージャーへの勧誘も、いまだに続いている。一応断り続けているのだけど、相手側もなかなか必死なようだ。いっそのことこの話を引き受けてさえしまえば暇もつぶれるんじゃないか、とは思わなくはなかった。けれどなんというか、それならバイトでもしてお金を稼いだほうが生産的だとも思う。
「暇だ…」
そういうわけで、結局行き着くところは暇に落ち着くのだ。
「退屈で人は死ぬかなぁ…。どうしようこの若くして薄命なかわいそうなわたし」
日本語が微妙に変だ。
「…待てよ」
よく考えてみれば、この時期わたし以上に暇なはずの奴が、一名いるじゃないか。もうとっくにテスト週間も終わっているはずの、おきらく気楽・ひねもすのたりのたり暮らしのはずの奴が。
思い立ったわたしは、すぐにそいつにメールを打ってみた。
『暇暇暇ー』
『…いやどうした』
『ひまひまひまー』
『残念ながら、俺忙しいからな?』
『馬鹿な!』
『なんでだよ(汗)。片付けとか色々あんだよ、こっちにも』
『ああ追試か追試なのか。ぷ』
『違ぇよ。まあとにかく、そういうことだから。悪いな』
『…ちぇー』
ケータイを閉じると、どことなく寂しげな音がした。ぱたん。最新型折りたたみ式の機能は、こんなところに現れているらしい。無駄な。
「…っっっがーーーー!」
ああどうせ畜生わたしだけ除け者ですよ馬鹿バイトでも探すさー。
…はぁ
…そういうわけで、やっぱり暇が訪れてしまったのだった。
趣味でもあればいいとは思う。別にわたしだって趣味の一つや二つあるにはあるのだが、――たとえば手芸。ちょっと凝った感じのマフラーでも作り始めれば、時間は結構つぶれると思う。ただ、出来上がる頃にはマフラーをする季節でもなくなっているような気がする。却下。
となるともう一つはお菓子作りだが、大学が休みで配る友達もいない以上、自分で作って自分で食べるのを繰り返すことになる。太る。却下――
ん? 待てよ。
要するに、食べてくれる人間がいればいいわけだ。あの阿呆には死んでもくれてやらないとして、大学が休みだからといって人がいないと考えるのは早とちりだといえる。
わたしの脳裏に浮かんだのは、西秋氏の顔だった。
そして。
ある程度は予想していたのだけど、それでもその予想をはるかに上回る歓迎っぷりだったことは記しておこうと思う。
ハンドボール部の面々は、わたしの作ったレモンタルトをそれこそむさぼるようにして平らげてしまった。一瞬だった。体格のいい男子が何人もレモンタルトをほおばっている絵というのもなかなか滑稽なものではあったけれど、人より小さいわたしとしては、この人数に迫られるとなんだか逃げ出したくはなった。いや、実際に迫られているのはわたしではなくて、わたしの持っているレモンタルトなのだけれど。なんというか、気分は象にエサをやっている飼育員だ。なんにしても、先に取り分を取っておいてよかった。
「すごいよキキちゃん! うまい!」
いつの間にか呼び方が名前+ちゃん付けになっている。大学の女友達は確かにわたしをそう呼ぶけれど、男子からそう呼ばれたことはなかったので、慣れない感じがする(男友達がいないわけではないけれど、高校のそれはみんな変な呼び方をする。魔女だのなんだの)。
「別にこれくらい、誰でもできるよ?」
しきりに感動している様子の西秋氏らに、わたしは困ったように笑う。
「いや! 俺は感動したよ!」
それは見てわかるけど。
「ついにマネージャーになってくれる気になったんだね! 」
……は?
「あれ、違うの?」
わたしの表情で察したのか、あからさまに残念そうな顔で西秋氏が尋ねてきた。
「いや、単に暇つぶしだから。気まぐれ」
「えー」
ほかの部員からも次々に不満の声が上がる。いいじゃんキキちゃんーとか言う声も聞こえる。いや、あんたらほぼ初対面だろうに。
「仕方ない、わかったよ」
「お、物分りがいいね」
「じゃあ暇つぶしに毎日に差し入れ付きで来て、ちょっとした手伝いをしてくれればそれでいいから」
「それマネージャーですよね!?」
なんというか、自ら墓穴を掘っているような気はする。暇つぶしの選択として果たして正解だったのか、不安になってきた。もう少し考えるべきだったか。
…とはいえ、どうせ暇だったのだ。ほかに暇のつぶれるあてもないのだし、これはこれでいいかもしれない。
そんなことを思ったから、というわけでもないかもしれないけれど、わたしは結局その日、マネージャーのような仕事をして帰った。
やれやれ。
◆5(零れ落ちる過去のしずく)
引っ越してから一週間が過ぎようとしていた。
空いた分の時間を埋めるためのはず喫茶店のバイトが空いていない時間まで埋め始めるまでに、そう長い時間はかからなかった。その時間のほとんどを一人で店番して過ごすようになるのにも、だ。
もっとも、相変わらずそう忙しい店でもないので、暇な時は本も読める。夕方までは、だけれど。
宣言通り、夕方になると素子はほぼ毎日現れた。最初は古典だけを教えていたのだけれど、三日目にその範囲が拡大した。といっても、他の教科で僕が教えるべきようなところはほとんどなかった。それで、家庭教師先の中学生もこれくらい物分かり早ければな、なんてことを思ったりはした。
なんというか、率直に言って奇妙な感じではあった。少し前まで机を並べていて、自分より遥かに頭のよかった同級生に、今は僕が勉強を教えている。とはいえ素子の場合は留学をしていたからこうして一年ズレて受験しているというだけで、“遅れている”というわけではないのだろうと思う。というよりは、おそらく、今でも素子は僕よりも先にいる。
あの頃の素子は歳の割に大人びていて、達観していたとかそういうわけではないんだけれど、皆が周りの景色を楽しんでいる最中に、もっとずっと先のほうを見ているようなところがあった。その視線がとてもまっすぐで、多分そういうところに幼い僕は――たぶん、僕らは――惹かれていたのだろう。
問題集に打ち込む素子はとても真剣だったので、雑談をしたりすることはなかった。僕のほうでも邪魔をするつもりは毛頭なかったし、そもそも会話の糸口をつかみかねていた。それでも休憩時間には昔のことを話したりはしたけれど、昔の話をするといっそうその奇妙な感じは強まった。違和感、とでもいうのだろうか。
多分僕は、まだ四年間という時の流れについて行ききれていないのだろう。変わらないところだって多いけれど、それでもさすがに素子は変わった。僕自身がどうかはわからないけれど、素子との関係という点においては、それはきっと変わってしまった。
四年も経てば、初恋は思い出に変わる。いまさらそれを掘り起こすつもりはないのだけれど、胸のうちに抱えているそれが、今の素子との接し方に微妙な影響を与えているのだ。
部屋の電気を消す。深夜にもかかわらず聞こえる、大きい蝿の羽音のような自動車の低い走行音の中、僕はベッドに潜り込む。とりとめのない思いが、泡のように現れてははじけて消える。そしてそれははじけるときに、夏の小川の上を吹く風のような涼しさを残していく。わるくはない。
あるいはそう自分に言い聞かせながら、僕は意識を沈めていく。
その日は引っ越してから始めての日曜日で、連休の始まりでもあった。久しぶりにバイトも休みだ。考えてみれば、月曜に引っ越してきて火曜にはバイトを始めて、そして水木金土と連日ほぼ一日中バイトをこなしていた。その合間に一度、家庭教師にも行った。当たり前だが、その間の家事は全部自分でやった。むしろ大学のあった頃よりも忙しいような気もする。
一日中寝ていると言うのも悪くないアイデアのようにも思えたが、さすがにそろそろ伸ばし伸ばしにしていた足りない家具その他の補充をしなければならない。最初の時に持ってこなかったダンボール箱が、いまだに実家の僕の部屋に置きっぱなしになっているはずだ。それに、やはりテーブルなしの食卓(矛盾)はちょっと厳しいものがあった。
そうたいしたものがあるわけでは無いから自分で運んでもよかったのだけれど、ちょうど下宿を出ようとしたとき、親父が軽トラに乗って荷物を運んできた。連絡はしてあったので、どうやら気を利かせて運んできてくれたらしい。
と思ったら、親父は荷物以外のものまで運んできていた。妹だ。
「…カヤ、なんで?」
助手席から降りてきた、重そうなコートを着込んだ妹を見て、僕は問う。
「リュウ兄が、はたして健康で文化的な最低限度の生活を営められているのかどうかをチェックしに来ました」
「俺は憲法違反者か…?」
「いいからさっさと案内してください。寒いです」
僕より厚着な上にぜんぜん寒くなさそうな表情で、外の空気よりも冷たそうな目をして樺矢はそう言った。
「もっとも、部屋の中に入ったところで暖かい寝床があるとも思えないのですが」
一週間ぶりの毒舌だった。
それでも一応は手伝いに来てくれた(のだろう、たぶん)わけで、まさか追い返すわけにもいかない。僕は荷物を持ち上げて、樺矢を案内する。
「…そういや、キリヤは今日はどうしたんだ? 部活か?」
ふと思い当たり、弟の名を出すと、
「キリ兄は、なんだかやたらとデカい女にさらわれていきました」
即答だった。しかもなんか、どことなく怒っている口調だ。
「ああ、空閑さんか」
「わたしは手伝うように主張しましたし、キリ兄も同意しかけていたのですが…、あの女強引に」
悔しげに言う樺矢のその話は、果たしてどこまで真実だか疑わしくはあった。
空閑と言うのは、僕の弟――桐矢の彼女のことで、もう付き合い始めて半年くらいになる。もっとも僕と樺矢がそのことを知ったのはもっとあとで、先に気づいた樺矢のほうがなぜか激怒したので僕も知るところとなったのだ。
「にしても――デカいって、あまり可哀想な言い方をしてやるなよ」
僕も平均程度の身長しかないけれど、桐矢はその僕より身長が低いから、下手をすると長身の女性になら抜かれてしまうだろう。桐矢自身は気にしなさそうだが、彼女のほうは気にしてしまうものだろうと思う。
「知ったことではないです。由々しいんです」
「…やれやれ」
すっかり機嫌を傾けてしまったらしい樺矢だったが、そうこうしているうちに部屋についた。
「ほら、そこだ」
テーブルを抱えながら、僕は部屋を指し示した。かなり疑わしげな目でその扉を見てくれやがった樺矢だが、それでも恐る恐るといった感じでドアノブを回した。
「なんだ。思ってたより普通ですね」
「そらよかったよ…」
「でも、なんか殺風景過ぎです。よくこんな部屋で一週間も過ごしましたね」
そのあたりに関しては返す言葉がなかったので、僕は黙って残りのダンボール箱をとりに行った。樺矢は手伝うそぶりすら見せなかったが、まあ樺矢一人ではダンボールは持てないだろうし、二人で持とうとしても身長さがありすぎて逆に持ちにくいだろうから、まあ仕方がない。
僕と弟の身長については先ほど触れたが、樺矢に関して言えば、成長期がなかったんじゃないかと思うくらい背が低い。線も細いし、どことく日本人形のような雰囲気すらある。そのくせ、桐矢から聞いた話だと、胸は人並み以上に大きいらしい(どうやって桐矢がそれを知ったのかは知らない)。我が妹ながら、実に漫画みたいな体格をしていると思う。ただまあ、身長が低さでいえば同い年に同じくらい小さいのがいるわけだし、そいつに比べればまだ樺矢は望みがあるかもしれない。彼女がもう大学も二年を迎えるのに比べ、樺矢はまだ高校一年だ。
ところで、桐矢のほうは高校二年である。つまり樺矢は末っ子なのだが、兄二人の姿がどう成長に影響を与えたのか、三兄弟のなかで一番しっかりして現実的に育ってしまった。その上あまり感情を表に出すほうではないし、僕は樺矢の考えていることがよく分からない。兄妹とはいえ歳も三つも離れているし、実のところ僕はこの妹が少しばかり苦手なのだった。樺矢のほうも、桐矢とは仲が良いようなのだが(だから彼女ができたと知って怒ったのだろうか)僕とはあまり話さない。嫌われているのだろうかとも思うのだが、でもこうして手伝いに来てくれているわけで、そうでもないのかもしれない。いずれにしろ、よく分からないのに変わりはないということだ。
そんなことを考えながらダンボールを運ぶと、樺矢は部屋の掃除を始めていた。脱いだコートが律儀にハンガーにかけられている。
「毎日とは言いませんが、週に一度くらいは掃除してください。不衛生です」
「…してるぞ?」
「嘘です」
「うわひでぇ。兄の言葉が信用できないのか」
「だって兄さん、掃除道具持ってき忘れたでしょう」
「あ」
なるほど、気がつかなかった。迂闊。観念して、僕もその掃除を手伝うことにした。のだけれど、さっき色々と考えていたせいか、なんとなく樺矢の方を見てしまう。雑巾を手にした樺矢は、本棚の上のほう――いや、半ばくらいでもう既に手が届かなくなっていて、必死に背伸びをしているところだった。やはり背は伸びていないらしい、というか、一週間でそう変わるわけもない。
視線を少し下げる。そしてよく見てみると、なるほど、セーターがちょっと不自然なくらい膨らんでいるのが分かった。いつの間に。
「カヤ」
「…なんですか? わたし今すごく頑張ってるんですけど」
「お前、結構胸でかいんだな」
雑巾が飛んできた。
「…っ!? ば、ばか! キリ兄みたいなこと言わないでください!」
顔を真っ赤にして、別に中が見えるわけでもないのに胸元を隠して、さらに涙目で樺矢が訴えてきた。
「いやまあ、そのキリヤから聞いたんだけどな? てか、あいつはどうしてそんなこと知ってんだか…。俺ぜんぜん気づかなかったぞ」
僕はつかんだ雑巾で、本棚の上の方を拭きながら言った。
「まあ、キリ兄は胸好きですから、よく気がつくんじゃないですか?」
「…そうだったのか」
知らなかった。
「むしろ一つ屋根の下にいて気づかないリュウ兄のほうが変です。鈍いです」
いや、何でそこで僕が怒られるんだ?
「どちらかと言うと、実の妹の胸に注目してるキリヤの方が問題じゃないか…?」
そういうと、樺矢は少し考えるような素振りを見せたが、
「多分、すごく素直なだけです。なんというか、やらしさが感じられません。胸おっきくなったねって、すごい普通に嬉しそうに言われましたし」
と、そう結論付けた。
「…なんとなくわかるよ」
二つ下の弟の、いかにも人の良さそうな笑顔を思い浮かべる。そして実際のところ人が良い、というかお人好しのあいつに、そんな趣味があったとは知らなかった。性格で言えば、桐矢自身があまり我が強くないせいか、桐矢を引っ張って行ってくれるような気の強い女性に惹かれるというのは知っていたし、件の空閑さんがまさにそんな感じだった。
「だからきっと、あの女も胸を武器に迫ったに違いないんです」
憮然とした表情でもってきた段ボール箱を乱暴に開けながら、樺矢は呟いた。
「…大きかったか?」
「牛です」
…ああ、だからデカい女なのか。
「まあ、良いだろ別に。あの二人はお似合いだと思うよ」
彼女に引っ張られている弟の様子が目に浮かぶようで、そんなことを呟く。雑巾がけを続ける。
「外から見れば大抵の物事はきれいに見える――って言ったの、誰でしたっけ?」
一瞬、ずいぶんと昔の光景がフラッシュバックした。眩暈にも似たような感覚を覚え、僕は樺矢を軽くにらむ。気にした風もなく、樺矢は言う。
「うまくいってほしいと、そう思ってるんですね」
ただ樺矢の口調からは、やはり彼女が何を考えているのかは分からなかった。
「…そりゃ、当然だろ。弟の恋路を祈るのは、兄としてさ」
「自分の二の舞にならないように、ですか?」
今度こそ本気で、僕は樺矢をにらみつけた。それは少し大人気ないことだとは、分かっていたけれども。
「…何が言いたいんだよ」
「いえ別に。ただ、まだこんなものを持ってくるということは、キリ兄の傷も意外に深いのかなぁ、とか思っただけですよ」
そう言って樺矢が不機嫌そうにダンボール箱から取り出したのは、斜めにストライプの入ったマグ・カップだった。そしてそれは、僕が愛用したいたものだった――ただし、半年ほど前までは、だけれど。
「なんで、それが…?」
その呟きはかすれて消えそうなものだったけれど、樺矢には聞こえたようだった。不機嫌そうな目で、僕をにらむ。
「なにを。自分で入れたんでしょう」
「いや、違うぞ」
「…じゃあ、なんでです?」
「こっちにきたあと、マグカップを入れ忘れたのに気づいてな。コーヒー飲めそうなもんをなんかテキトーに入れといてくれって、キリヤに頼んだんだよ」
桐矢の奴、よりにもよってコレを入れるとは…。まあ桐矢のことだから、悪意はないんだろうけれど。
「そう、でしたか。わたしはてっきり、兄さんはいまだにあの人のことを引きずっているのかと」
はっきりいってくれる、相変わらず。
「…なわけないだろ。大体さ――」
僕は、苦笑しながらそう言う。あの人というのは、そのマグ・カップを僕にくれた人で――つまるところ、僕の彼女だった人だ。そして、
「彼女は、僕からフッたんだぜ?」
もう大丈夫だと思っていたのに、古傷がうずくような感覚が、胸のうちに残った。
◇6(ドドキキ)
「お人好しだよね」
「お人好しだな」
「…うるさいですよ」
マネージャー帰りのわたしを迎えたのは、大学の友人二人のそんな言葉だった。里に帰ったはずじゃないかアンタらと言いたいところだが、彼女らが大学にいる理由はわたしと同じだ。来年度後期の研究室分けに関して、教授らの話を聞くため。いくら暇なわたしでも、ハンド部に菓子を届けるためだけにわざわざ大学に来たりはしない、ということだ。ガソリンもったいないし。
人気の少ない研究室棟の廊下に、わたしたち三人分の足音がかつこつと響いている。ブーツとローファーと、スニーカーの足音だ。ちなみに、順に、京子・柚々香・わたし、だ。
「ていうかさー」
来年の研究室について思考をはせていたわたしに、京子が話しかけてきた。
「西秋君って、絶対キキに気があるよね」
「ごふぅ!?」
パックのコーヒーが宙を舞った。きれいに扇形に広がった水滴(コーヒー)は重力に素直に従い、なだらかな弧を描いてサナトリウムの床に不時着した。ボルボックスのような模様が、大小無数に散らばる。
…いや、なにをわたしはそんなものをじっと見つめているんだ。ボルボックスって。
「わかりやすいな、あれは。…ん、でも待てよ。そういえば西秋、彼女いるんじゃなかったのか?」
「もうとっくに別れたってさ。古いなぁゆーかは」
「お前の情報が早すぎるんだ」
「ちょ、待ってっ!? 何でっ、そんなっ、話に!?」
二人して普通に話しだすものだから、わたしは慌てて割ってはいる。
「いやだって」
「まあしかし」
「「見てればねぇ」」
高音低音見事にハモられてしまった。
そういわれて思い起こしてみても、わたしの思い出す限りでは、西秋氏のわたしに対する態度に特別なことがあるようには思えない。というか、そこまでよく話しているわけでもないと思うのだけど。
「んー。全然わかんなかったけど」
「でもきっとそうだって」
「えー。ていうか、困るし」
正直なところ、色恋沙汰は苦手だ。恋愛小説とかなら読むし、興味がないわけではないと思うのだけど。
「はあ、これはどーも、脈なしって感じだなぁ」
「なんで京子が残念がる」
「だって、つまんないじゃん」
「面白がらないでください…」
はあ、と溜息をつくわたし。なんでこう、女の子って誰が好きとか誰とくっついたとか、そういう話題が好きかなぁ。
「でもさぁ、真面目な話、誰か好きな人とかいないの? まだ誰とも付き合ったことないって言ってたよね、キキって」
「うん、そうだけど」
そういう京子は、既に三人目の彼氏がいる。すごいのは前の彼と別れたその日のうちに新しい彼氏が出来ていたということだが、まあこれは順序が逆だったということなのだろう。柚々香は柚々香で、高校の頃からずっと付き合っている彼氏がいるそうで、つまりこの三人の中だと独り者はわたしだけと言うことになる。ほっとけ。
「好きとか嫌いとか、めんどくさいし」
「またまたぁ。ほら、誰かいないのー? 好きとまでは行かなくても、気になる人とかさ。うりうり」
「むー、頭を抑えるなーっ!」
「よく話す男子とかさー。いるでしょ一人くらいー」
「よく話す男、ねぇ…」
言われて、迂闊にも、二人ほどわたしの脳裏に浮かんだ顔があった。でも一人は、何年も昔に見ていた、懐かしいひとの顔だった。なるほど、恋愛関係に限りなく近いところまで言った例としては確かにそうかもしれない、そんなことをわたしは思った。でももう、いずれにせよ終わったことだ。
ただ問題はもう一人のほうで、こっちは浮かんだ瞬間に全力でかき消した。なんでだよと思う一方で、メールやチャットとはいえ確かによく話はするか、と妙に納得したりもする。しかし、だからといって、恋愛対象として気になるとか、そういうことではない、はずだ。それはなんというか……、とてもよくないことだ。
しかしそいつの顔を消したあと、自然と意識はカバンの奥に眠る、ただ一つ残ったレモン・タルトのほうに向いた。
正確には、残しておいた、だ。
……。
「うがーっ!」
「あー、なんか赤くなったー? 脈アリ!? うりうりうりー」
「京子、酔っ払いみたいだから。そのへんにしとけ」
わたしを抱きかかえる京子を柚々香が羽交い絞めにしてくれて、わたしは何とか京子から逃れる。
「それじゃわたし、寄るところがあるからもう帰るよ!」
すばやくそう宣言して、いまだニヤニヤしている京子と呆れ顔の柚々香を置いて、わたしは走って駐車場へ向かった。あれ以上京子に捕まえられたままだと、なんだか色々としゃべらされそうだった。あぶない。
運転席に滑り込んだわたしは、メーター脇に表示された時間を確認する。思ったより早い時間だ。
キーを回し、暖房をつけて、お気に入りの音楽をかけて、
(京子が変なこと言うから、なんか行きづらくなったぞ…)
アクセルを踏む足が何となくためらってしまったけれど、わたしは結局車を発進させた。
自宅とは、少し違う方向へ向かって。
異性と付き合ったことがないわけだから、わたしには恋愛経験なんて無いに等しい。
けれど、そんなわたしでも、男女間のある種の問題について、知らないことが無いわけではない。
ただ一つだけ、身に染みてわかったことがある。
それは、友達の彼氏とはあまりは親しくなるべきではない、と言うことだ。
わたし自身がどうのという問題ではない。友達は友達に変わりなくて、男でも女でも、誰の恋人であっても、友達と言う間柄には関係のないことだと思う。のだけれど、わたしがうっかり失念していたのは、周りがどう見ているか、と言うことだ。特に――件の彼氏の彼女である、友達が。心掛けるべきは、李下に冠を正さず、だ。
さっき浮かんだ顔が、またわたしの脳裏に浮かびあがってくる。
奴の名は、水城柳矢。通称、巡りめぐって、キッチ。
経験例が一つしかないのだから、いくら一般的に話してみても、それはイコール実体験ということになる。
つまり、わたしが親しくなった異性の友達と言うのが、キッチだ。それでもって、その彼女でわたしの友達なのが、川里小春、通称ストレートに、サトだ。
正確には、彼女だったのは、と言うことになる。
二人が別れてからもう半年以上経つけれど、その原因がわたしにあるんじゃないかって、今でも思う。
客観的に考えて、ここのところ一番よく話す異性は、キッチだ。ここのところ――そう、この一年ほど。御戸高の友達みんなと集まったとき、キッチはむしろ、サトよりもわたしとばかり話していた。わたしもキッチも他意はなかったのだけれど、キッチのくだけた態度をサトはうらやましがって、それはキッチとサトの間に微妙なひずみを作り出していた。
わたしがサトから言われたのは、うらやましいということだけだ。けれどサトは、内心ではわたしとキッチの仲を疑っていたのだろう。それからしばらくしてキッチとサトは別れてしまったけれど、キッチの言うことをそのまま信じれば、別れた原因はその疑惑とは全然関係のないことだったのだそうだ。そもそもキッチのほうから別れを切り出したらしいから、素直に考えれば確かに違うのかもしれない。
けれど、もしわたしがキッチと親しくしていなければ――サトがキッチのことを疑うようなことがなければ、キッチもサトをフッたりしなかったんじゃないかって、そう思ってしまう。
キッチはそれを否定する。それにしても、普段は人を人とも思わないような毒舌ぶりなくせに、そういうときだけ妙に真面目というか、殊勝なことを言う男だ。そういう所も含めて気安いといえばそうなのだけれど。
いずれにせよ、もう済んだことだ。今わたしとキッチが友達づきあいをする分には、なんのわだかまりもない――かといえば、そうでもないのだから、困る。
サトは――表面的にはそうは振舞わなかったが――キッチのことを、かなり長く引きずっていたのだ。年末にようやく区切りはついた、とは言っていたけれど、わたしの思うに、その言葉もどこまで信じていいのか疑わしい。ということは、サトはやっぱり内心ではわたしとキッチが仲良くしているのを快くは思っていないだろう。どころか、悪くすると、彼氏を盗った女として恨まれている可能性すらある。まあそこまでは考えすぎかもしれないとは思うけど――、いずれにしろ、今後もあまりキッチとは親しくしないほうが賢明なのだろう。キッチとは大学も違うしほとんど会わないが、サトは同じ大学で、週に一度は顔を合わせるのだ。
ところが。なんだかんだ言って、わたしは今もキッチとよく話すし、親しくしている。ネットや携帯電話を通じてのやり取りのみに限られているとはいえ、だ。…要するに、気が合うのだ、キッチは。はっきりとした理由もないのに疎遠になるのは、だからちょっとさみしい。
さていったい、どうしたものか――そんな風に考えあぐねているのが現状ということだ、正直に言えば。
深く考えることはないのかもしれない、とは思う。いくらサトが疑って見たところで、わたしとキッチの友情のほかの要素が混じっている事実はないのだ。疑いを持たれるのは楽しいことではないけれど、それはたぶん時が解決してくれる種の問題だ。それに、サトが別の人を好きになれば、それはそれで問題ない。
(…キラくんあたり、サトと付き合ったりしてくんないかなぁ……)
御戸高の友達の中から適当に、サトに似合いそうな男の子を思い浮かべていく。
結局のところ、キッチとよりを戻すのが一番きれいな形なんじゃないかとは思うのだが、キッチの様子を見る限りそれも無理そうで、なんだかなぁとわたしは溜息をついた。やれやれ。
携帯電話で呼び出してみようかとも思ったが、どうせだから驚かせてやろうと、わたしはそのまま車を降りた。
コンクリートの塀に囲まれた木造二階建ての住宅に、車庫と小さな庭がくっついている。季節は冬だが、花壇には緑があった。わたしのような素人目にも、きちんと手入れをしてある様子がうかがえる。
表札を見ると、水城とあった。それを見て一瞬、ここがキッチの家だったか確信が揺らいだわたしだったが、確かキッチの本名は水城であっている、と思う。あだ名が通りすぎると本名の方を忘れてしまって困る。
玄関の引き戸の脇についていた呼び鈴のベルを押す。少し待つが、反応がない。
もしかして留守なのかな、と、わたしはその可能性に思い当たった。事前に連絡もしていないのだし、考えてみれば、いないほうが普通なのかもしれない。キッチ、忙しいとか言ってたし。
ただ、もう夕方だ。キッチはいなくとも誰かいるだろうと思い、めげずにわたしは声を上げて挨拶をした。数秒おいて、今度は返事が返ってくる。予想外に、女の子の声だ。
「はい」
がらりと戸を開けて出てきたのは、高校生であるらしい少女だった。らしい、というのはその娘がわたしの母校でもある御戸代高校の制服を着ていたからで、そうでなければ中学生だと思っただろう――つまり、背が低かった。最も身長に関してはわたしだっていまだに中学生に間違われるくらいなのだから人のことは言えまい。むしろ、身長のわりに大人びた雰囲気がその少女にはあって、下手をすると並んだらわたしのほうが年下に見えるかもしれない。
さておき。予想外の展開にちょっと面食らってしまったわたしだったが、そういえば、キッチには妹がいるという話だった。彼女がそうなのだろう。
その妹さん、わたしの手が呼び鈴のボタンに伸びているのを見て取り、少し申し訳なさそうな顔をした。
「すみません、それ、壊れてるんです――それで、あの、どちらさまでしょうか?」
「あの、三枝といいます。キ――じゃない、柳矢君の、高校の頃の同級生だった者ですが」
済んでのところでキッチの本名を思い出したわたしだったが、それにしても、違和感がある。水城柳矢。柳矢君。…うあ、気持ち悪い。
「三枝――、もしかして、三枝、樹希さんですか?」
「あ、ええ、そうですが――」
なぜわたしの名を知ってるのだろうと疑問に思ったが、そんなことよりも、わたしが肯定した瞬間に彼女の目がすっと細くなったのが気になった。なんだか、にらまれているような気がする。
「ええと、柳矢君、いますか? 留守でしたら、渡しておいてほしいものがあるんですけど――」
そう言うと、妹さんは不思議そうな顔をした。
「兄なら、もうここにはいませんよ?」
「え?」
言葉の意味を解しそこねて、わたしは間抜けな声を上げた。
「もしかして、知りませんでしたか? 兄は、少し前に引っ越して、矢門で一人暮らしを始めたんですが――」
…。
…。
なんだと。
◇◆
(続く)
"
皓月さんあたりに絶対何か言われそうな◆5を追加。別に僕は妹キャラが好きと言うわけではないですから。
最終更新:2013年06月13日 00:18