2011年02月11日 (金) 11時22分 - K
川沿いの堤防の上を、女と二人でとぼとぼと歩いている。月のない夜である。わずかに届く街の明かりで、水の面がゆらゆら煌めき揺れる。風が少しあるようだ。堤防の草がゆっくりと揺れるなか、虫がりんりんと鳴いている。川の流れはゆったりとしていて、どちらに流れているのかは良く分からない。そもそも私たちが、どこに向かっているのかも、よく分からない。私に女がついてきているようでもあるし、私が女についていっているようでもある。私はこの女のことをよく知っているのか、それとも知らないのか、何だかよく思い出せない。もしかしたら、知らないでもない、くらいの仲なのかもしれない。その二人が、こんな夜中にどこへ向かっているのだろうか。女は黒い、ノースリーブのワンピースを着ていて、白い顔と、そして白い腕と脚が、宵闇の中に浮いている塩梅である。目鼻立ちはよく見えないのだが、私には綺麗な女に思えた。しばらく歩いているうちに、その白さが何だか、この世のものとは思えなくなってきて、確かめるために、思わずその手を掴んでしまった。少し冷たかったが、柔らかい、本当の手のように思われた。だが、手を握ってみてから、もし彼女がそれほど知った仲ではないとしたら、これは失礼にあたるのではないかと思い当って、恥ずかしいような気分になった。しかし彼女は、手をつないで歩くことを特に嫌がりもせず、むしろ握り返してくるようなので、仕方がないからそのまま歩いた。しかし、しばらく手をつないでいると、どちらの汗なのか、手と手との間が妙にべとついて気持ちが悪いので、こちらから放してしまう。するとそのべとついた手に、夜風が涼しくて気持ちが良かった。手が乾くと、また女の手を握ってみる。そうして、握ったり、放したりしながら、随分と歩いた。
暗い川の水面を見ていると、ときどき動きがある。ふと気になって、しばらく見ていようと立ち止まると、女も私に寄り添うように並んで、一緒に川を眺める。こちら側の川面に、かぷかぷと気泡が立ったかと思うと、水面にむくりと何か黒光りする獣が顔を出した。私は心底肝が冷えて、髪が一本立ちになるかと思った。その獣はすぐにまた潜ってしまい、見えなくなる。少し落ち着いてから考えてみると、あれは大きな齧歯類であった。おおかた、飼うために外国から輸入しておいて、手に負えなくなったから捨てた阿呆がいるのであろう。
そう頭では納得出来ても、闇の中からぬっと影が立ちあがるのを見て跳ね上がった心臓はなかなか元通りには治まらない。そこで私は彼女の手を取ると、その場を離れるために歩き出した。彼女の手は、なぜかぬるりとしているように感じられた。私は、なぜこれほど自分が怖がっているか困惑しながら、その恐怖と困惑をごまかすために、何か喋りつづけることにした。それは私の友人が幼いころに川で溺れた話だった。水を飲み、危うく流されそうだった彼を、大人が数人がかりで助けて事無きを得たのだが、彼の話によると、実は彼はそのとき水の精霊の子と入れ替わってしまったのだそうだ。その証拠に溺れた後の彼には、その前にはなかった額の黒子があるという。だから、私は一度もあったことのない本当の彼とやらは、水の精にさらわれて、今もどこかの川の水の底に住んでいるのかもしれない。こんな話、恐らくは彼の母親か誰かの作り話であろうが、それでも私には妙に印象深かった。川面に浮かぶ泡は、人生の無常さの象徴であるとともに、水面下に何か人に知られぬものの潜むことの証拠なのだ。
そう誰にともなく話していると、女は突然私の手を振り切り、少し先まで足早に掛けて、振り返りざまにこう言った。
「そんなことを言ってると、川が怒るよ」
私は、今までの話のどこに、川を怒らせるような物があるのか分からないので、困惑した。もしかしたら、意識しない言葉の端々に、そういう要素があったのだろうか。私は何も言うことができず、振り返った彼女の夜空の月のような顔を見つめるばかりであった。しかしそんな私の気持ちをよそに、彼女はかかとを中心に反回転すると、私に背を向けて、また歩き出した。私は彼女の後を、頭の後ろに結い上げられた黒髪の下にほの見える白いうなじを見つめながら、少し間をあけて歩くしかなかった。
しばらく黙って歩いていると、ぽこっ、ぽこっ、という音が川の方から聞こえてくる。泡がはじける音のようにも聞こえるし、もしかしたら先ほどの鼠が顔を出している音かもしれない。それを聞くたびに、先ほどの女の言葉が思い出され、私は何だか気持ちが悪くなってきてしまった。それで怖くなって、できるだけ川の方を見ないように歩いていた。ところが、いくら歩いても、どこかにつくわけでもなく、どこまでも歩いていくしかない。街の風景も、薄ぼんやりしているばかりで、どこまで行っても変わり映えしない。それにおかしなことに、街中を流れる川というのは、だいたい橋が掛けられている物のはずだが、それが見当たらない。胸の奥のつっかえがどんどん大きくなって、私は嫌な予感に押しつぶされて、どこかへ逃げたくなってきた。しかし、逃げるにもここがどこなのか分からない。私は意を決して、女に、われわれがどこに向かっているのかを聞いてみる。すると、
「この川の流れていくところ」
と、女は答える。何が何やら、私にはさっぱり分からない。
そのとき、今まで目を背けてきた川の流れが目に入り、私はぎょっとした。川の真っ黒い水面が、さっきよりも上の方にあるような気がしたからだ。川の水自体が、今までよりも粘り気を増したようで、何だかどす黒い血を思い出させた。まばらな街の明かりも、いまや水面で反射しているというよりは、水面に吸収されて、闇を濃くしているように感じられた。
私は、気のせいだ、私が怖がりなせいだ、と自分に言い聞かせながら歩くが、一度意識すると、先ほどとは逆に、暗い川の流れから目が離せなくなってしまった。しばらく見ていると、確かに水位が少しずつ上がっているように思える。上がり方があまりにわずかなので、もしかしたら私の気の迷いに過ぎないのかもしれないとも思うのだが、ずっと見ていると確かにそれが分かるのだ。
私は気味が悪いのに我慢ができなくなって、女に
「もう、帰ろうよ」
と言うのだが、女は振り向いて、
「なぜ」
と訊くだけだ。私が「それは」とか「だって」とか、川の方を身振り手振りで示しながら、口では上手く説明できないでいると、女は続けて、
「それに」
と言った。私が黙って続きを待っていると、
「どこに帰るというの」
と女は言う。そう言われてみると、私には何も答えられない。ただ魅入られたように川面に反射する街の光を見ていた。しかし、見つめているうちに、それが川の中に棲む鼠達の目が光っているように感じられ始め、足がすくんで動けなくなってしまった。鼠達は、かぷかぷ泡を吐きながら、ゆっくりとこちらに向かってくる。私はそれを見て息をすることも出来ない。女は私の腕をとって、
「どうしたの」
と訊いてくる。私は川を指さすが、喉の皮が張り付いてしまったようで、声が出てこない。女は私の指の向く先を見て、
「何が見えるの」
と言い、川の方に近づいていってしまう。私の見ている物が、女には見えていないのだ。そんなことをしている間にも、鼠の群れは押し寄せてきている。今に、大挙して上陸してくるはずだ。女はそれに気付きもせずに水面をのぞいている。その水面はすでに堤防のへりに触れんばかりの所まで這いあがってきている。女の視線の先に、小さな気泡が立ち始めた。
私は我慢ができなくなって、女の背中を思い切り突きとばした。
女は、ばちゃんと軽い音を立てて水面に落ちた。そのあと、ばちゃばちゃと水がはねる音が続く。暗くて、女が足掻いている音なのか、それとも鼠達が女を襲っている音なのか分からない。どちらにしろ、次の瞬間には水面が膨らむようにせりあがって、女も鼠もすべて飲み込んでしまった。私はそれを見て全身から血の気が引いてしまい、無我夢中で、自分でも分けの分からないことを喚きながら、できるかぎり川から離れるように走り出すしかなかった。
街は死んだように静まりかえっていた。堤防が決壊すれば、ここは水に呑まれてしまうはずだから、寝ている場合ではないはずだった。しかし、私がいくら叫ぼうが、戸口を叩こうが、誰も起きていない。まるで誰もいないようだった。しばらく道をまっすぐ走っていると、片側の家並みが途切れた。そこに顔を出したのは、先ほど逃げてきたばかりの川だった。おかしい。私は川の流れに対して直角に走ってきたはずなのだ。私はもう一度道を曲がって、川から離れていくように走った。しかし、すぐに川がいつの間にか自分に併走していることに気付く。私は愕然とした、これは明らかに川が私を追いかけているのだ。私がどのように道を変えても、川はそれに応じて流れを変えて、次第に私を追い詰めていく。一体これはどうしたことなのだ。女が言うように、私は川を怒らせてしまったのであろうか。私が何をしたというのだろうか。
しばらくは川が見えなかったので、もしや逃げ切ることができたか、と考えた拍子に道が尽きてしまった。街を尽きた。目の前に黒々とした川が広がっていた。今にも堤防を乗り越えて、こちらに流れ込んできそうだ。私はどうやら、見事に川に先回りされていたようだ。
逃げるのをあきらめた私が立ちつくしていると、水面にぽこぽこと泡が立ち始め、それが次第に多くなってきた。不透明な水の底から、何かが泡とともに浮き上がってくるのが見える。女がたくさんの鼠に引きずられて、昇ってくるのだ。水面から顔を出した女の死体が莞爾と笑った。