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古橋

2011年02月22日 (火) 19時58分 - 渋江照彦

 

 私が生まれてから高校時代までを過ごした町での話です。
 その町は今はもう隣の町と合併して地図には名前が残っていませんが、実家に帰省した折などに辺りを眺めておりますと、昔とちっとも変っていないものですから、今尚私の中では合併してできた市の名前よりもその町の名前の方が強く印象に残っております。
 その町の中央には姫乃川という川が流れております。それ程大きな川ではないのですが流れが急で、毎年一人は川に落ちて亡くなってしまう、そんな川です。
 その姫乃川には、昔から姫橋という木でできた橋が渡されておりました。今はもう古過ぎると言うので取り壊されて、代わりにコンクリート製の橋になったと聞きましたが、私が町に住んでいた頃はまだ取り壊される前でしたので、私も木でできた橋姫は知っておりました。
 その姫橋の近くに、橋姫の祠という小さな祠がありました。
 これは、私の母がよく聞かせてくれた話なのですが、その橋姫の祠というのは、江戸時代にこの町の近くに住んでいた女が自身の顔の余りの醜さを憂えて、姫乃川に身を投じたのを人々が哀れに思って祠を作ってお祀りした物なのだそうです。
 所謂、供養塔の様な物でしょうか。
 唯、その祠ができてから暫く経って、町に変な噂が流れる様になりました。
 姫橋を仲の良い男女が手を繋いで渡ると、その日の内にそのどちらか一方が死ぬ。これは、顔の醜さ故に川に身を投げて死んだ女が仲の良い男女を見て嫉妬し、あの世へ招くからだ、と。
 勿論この話は江戸時代の事ですが、私には話をしている母の顔が凄く真剣だった事が私にはとても印象に残っておりました。
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 さて、その私が高校一年生の時の事です。
 当時、私には付き合っている男の先輩がいました。武藤先輩といって、同じ高校に通っている一つ上の方でした。
 別に取り立ててハンサムだったという訳では無かったのですが、何と言うのでしょうか、人を惹きつける魅力という物を備えている人でした。まあ、当の本人は私の事を仲の良い後輩の女子としか思っていなかったかもしれませんが。
 それでも、私は武藤先輩の傍にいるだけで胸がドキドキしたものでした。
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 あれは、十月下旬、珍しく夕方近くから霧の出た日の事でした。
 ――肝試しに行かないか?
 私は放課後に武藤先輩に呼び止められてそんな誘いを受けました。
 肝試しと聞いて、最初私は夜遅くに家を抜けなければならないのかと思いましたから、一度は断りました。
 ところが、先輩は私の考えを見抜いたのか人懐こい笑みを浮かべて、
 ―-いや、今から行こうと思うんだけど。丁度今は霧が出てるし。
 そう言います。そこで、一体何処へ行くつもりなのかと尋ねると、件の姫橋を二人で繋いで渡るだけだとの事でした。
 それを聞いて私は少々拍子抜けしましたが、直ぐに違う不安が頭を擡げました。
 幼い時に母から聞かされた、あの姫橋の伝説です。
 こう言うと、皆様は何を馬鹿げた事をとお笑いになるかも知れませんが、当時の私にとって橋姫の伝説は伝説としてでは無く、半ば事実として受け止められていた所がありました。
 ですから自然、武藤先輩の口からそんな話が飛び出して、私の 顔には幾らかの翳りが生じたのでしょう。
 先輩はそんな私の顔を見て、ポンポンと肩を叩くと、
 ――大丈夫だよ。橋姫の伝説なんてただの迷信さ。
 そう言いながら私の手を取って、霧の立ち籠める屋外へと向かったのでした。
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 私達の高校から姫橋までは歩いて十分位の距離だったと思います。
 姫橋の付近は、周りに民家が無く、普段ですら寂しい所でした。
 それが、その日は霧が立ち込めていましたから、何時にも増して周りに物寂しい空気が流れておりました。
 武藤先輩が肝試しに丁度いいと思ったのも成程と頷けました。
 こんな所、一人では絶対に歩けなかったと思います。
 唯、その時は横に先輩がいましたので、心強かったというのは確かです。
 私達が姫橋に着くと、先輩が私の右手を握って、
 ――大丈夫だよ。心配ないさ。
 そう言って、私の髪の毛をクシャクシャと二、三回撫でると、そのままゆっくりと姫橋を渡り始めました。
 橋は木でできていますから、私達が一歩一歩進む度に、ギィ、ギィと嫌な音を立てて軋みます。
 その音を聞く度に、私は思わず先輩の手を強く握りしめていました。
 霧のせいで、前方が見えませんでした。
 だからでしょうか、私は頭の中で、私達はもしかすると一生この古橋をギィ、ギィと軋ませながら霧の中を彷徨い続けなければならないのかとあらぬ想像をしてしまいました。
 そうして、橋の中程に差し掛かった時でした。
 突然バシャバシャと川の方から水音がしたのです。
 私は思わずキャッと叫ぶと、先輩の手をギュッと握りしめていました。
 先輩も水音を聞いてギョッとしたのでしょう、私の手を握る力が強くなるのが判りました。
 水音はその間もバシャバシャと聞こえ続けていましたが、やがてビタッという音と共に何かが橋の欄干から攀じ登って来ました。
 霧のせいでソレの姿は判りませんでしたが、ゼー、ゼーという荒い息遣いが前方から聞こえました。
 ――な、何なの?
 私はもう半泣きで、必死に先輩の手を握っていました。
 暫しの間、私達とその得体の知れない物との対峙が続きましたが、その間にどんどん霧が深くなって行きました。
 ――オイ、俺がせえのって言ったら全速力で戻るぞ。
 半ば震える声で先輩がそう言うのに、私は黙って頷きました。
 ――じゃあ、行くぞ……せえの!
その声と同時に私と先輩は全速力で元来た道を駆け戻り始めました。
 するとどうでしょう。
 後ろの方からビタビタビタと物凄い勢いで何かが追い駆けて来たのです。
 もう生きた心地がしませんでした。
 ――頑張れ、後もう少しだ!
 先輩がそう言ってくれるのが遠くの方から聞こえる様な気がしました。
 そして、橋の入り口の手前に来た時です。
 バサッと首筋に何か細長い物が掛かって来ました。
 私はキャッと叫ぶと、それを振り払う様にして、入口へと倒れ込みました。
 そしてパッと後ろを振り返って見たのですが、其処には濃い霧が立ち籠めているだけで、追跡者の姿も気配も消えていました。
 ――だ、大丈夫か?
 武藤先輩が上がる息の下からそう尋ねて、私の肩へ手を掛けようとしましたが、ワッと叫んで後退りました。
 ――お前、肩……。
 そう言われて、私は恐々と肩に手を掛けてみました。
 すると、手にヌラヌラとした物が絡み付くのが判って、私はギョッとして自分の手を見つめました。
 それは、グッショリと濡れた長い黒髪でした。
 私は背中に冷水を浴びせ掛けられた様な気がして、ブルリと体を震わせると、手に絡み付た黒髪を必死で払い除けました。
 そんな私の姿を見ながら、先輩は青い顔をして、
 ――ゴメン、俺……。
 とポツリと呟きました。
 ――いえ、先輩は悪くないです。誰だってあんなモノがいるなんて思いませんもん。
 私が慌ててそう言うと、先輩は幾分気が楽になったのか、ホッとした顔をしてそのまま私を家まで送り届けてくれたのでした。
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 武藤先輩が自宅の風呂場で溺れて亡くなったという話を聞かされたのは、その明くる日の事でした。
 ――水泳部だった先輩がどうして……。
 先輩を失った悲しみは勿論ありましたが、それにも増して泳ぎの達者だった先輩の死に方と、橋姫の伝説とがダブって、私は背筋に冷たい物を感ぜずにはおれませんでした。

最終更新:2012年09月20日 19:30