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手紙とフルート

2011年03月04日 (金) 20時58分 - 渋江照彦

 

 部屋の中に入ると、微かに香水の様な匂いがした。
 麻里が最後に過ごした部屋は、主人が居なくなったというのに未だに生活感が抜けていない様だった。
 「御家族の方がいらっしゃるまではこのままにしておいた方が良いと思っいましたので……」
 何故か言い訳がましくアパートの管理人は言っていたが、それは聞きながら僕は内心、それは無駄骨だと思っていた。
 ――私には、頼れる人なんていないから……。
 付き合っていた頃に、麻里がそう寂しそうに言っていたのを思い出す。
 幼い頃に父親を亡くし、一人娘を女手一つで育てて来た母親も、麻里が大学に入ると直ぐに亡くなってしまった。
 幸い、万が一の時にと母親が貯めていたお金や保険金などで何とかバイトをせずに大学の4年間やっていけるとは言っていたが、それも何処までが本当だったのか。
 今となっては、知る術も無い。
 親戚が居ない事も無かったのだそうだが、皆すっかり音信不通なっていた。
 ――今更押しかけても迷惑でしょうし……。
 自嘲気味にそう言って笑う彼女の顔が、今でも頭の中に残っている。
 不思議な物だ。
 捨てた筈の女なのに、まだそんな事を覚えているなんて。これじゃあ未練タラタラと言われても仕方が無いじゃないか……。
 「それでは、何かありましたら言って下さい。私は外に居りますので」
 管理人の背後からの声に、暫しの間夢想に耽っていた僕は、慌てて後ろを振り返って適当な返事をした。
 一瞬、管理人が笑った様に見えたが、気のせいだったのかも知れない。
 「では、失礼います」
 管理人はそう言いつつ一礼すると、ゆっくりと部屋の外へと出て行った。
 直ぐに真後ろにある筈の扉の開閉の音が、とても遠くの方から響いている気がした。
               ・
 麻里に出会ったのは、大学のサークルがきかけだった。
 僕は元々小学校に入る前からヴァイオリンをやっていて、中学、高校とずっとオーケストラ部に入っていた。
 別に将来プロのヴァイオリニストになりたいと思っていた訳では無かったけれども、何故か毎日飽きもせずに練習には出ていた。
 ヴァイオリンが好きなのは確かだったが、今思えば、半分惰性だったのだろうと思う。
 多分、僕にとってヴァイオリンを持って練習に参加する事は、歯を磨いたり、トイレに行く事とさして変わりが無いのだ。
 だから、僕が大学に入って直ぐに余り考えもせずにオーケストラサークルに入ったのも、ある意味とても自然な事だったのかも知れない。
 そして其処に、麻里は居た。
 初めて見た時から、綺麗な子だと思った。
 長くしっとりと濡れた様な黒髪や、潤んだ様な目元、触れるとプルンと揺れるんじゃないかと思える様な桃色の唇……。
 初対面の相手には失礼だとは知りながら、気付くと僕の視線は自然と彼女の方へと吸い寄せられていた。
 その視線に気付いたのだろう。
 クルッと此方の方へ顔を向けた麻里を見て、僕の心臓は爆発しそうになってしまった。
 完全な、一目惚れであった。
 あの時、僕は何て言ったのだろう。
 よく覚えていない。
 でも多分、初めましてとか、宜しくと言ったのだと思う。
 しどろもどろだったのかも知れない。
 だって、僕の頭はその時本当に真っ白になっていたのだから。
 でも、その真っ白なノートの上に彼女の笑顔だけは、しっかりと焼き付けられた。
 「佐久間です。此方こそ、宜しくね」
 天使の様な笑顔のままで、麻里はそう答えてくれた。
              ・
 麻里と出会ってから僕達が親しくなるまでには、そんなに時間は掛からなかった。
 彼女はフルート奏者であったが、フルート曲に限らず幅広い音楽の知識を持っていた。
 元々音楽が好きな者通しだから、自然と話は弾む。
 最初はそうやって楽器や曲の話だけをしていた。
 だが徐々に、二人のプライベートな話も混じる様になって行った。
 麻里の両親の話も、そんな中で聞いた事であった。
 気が付けば、大学に入って2年目の春を迎えていた。
 ――お父さんは私の小さい時に、お母さんは私が大学に入ったら直ぐに、死んじゃった。
 桜の舞い散る中、大学の正門へと続く道を歩きつつ、麻里がポツリとそう言ったのだ。
 僕は一瞬、何も言う事が出来なかった。
 しかし、彼女はそんな僕の事を気にかけずに言葉を続けた。
 ――寂しくは無いけど、何だかポッカリ穴が出来ちゃったみたいで……。
 そう言うと、麻里は愛おしそうに肩に掛けたフルートケースを撫でた。
 中学校の頃に母親に買って貰った大切なフルートが中に入っている。
 麻里はそれを撫でながら、笑っていた。
 でもそれは、何だかとても寂しそうな顔だった。
 その顔が、僕のは堪らなく愛おしかった。
 そんな顔しないで。
 心の中ではそう叫んでいた。
 でも、声にはならなかった。
 肝心な時に、何も言えない。
 そんな自分に、腹が立った。
 麻里は無言で歩いている。
 何かを、言わなくちゃ。
 そう思った時だった。
 -―私には、頼れる人なんていないから……。
 麻里がポツリと呟いた。
 それが合図ででもあったかの様に、僕の心の中で何かが動いた。
 ――ぼ、僕が……。
 気が付くと、僕は麻里の目の前に立っていた。
 ――僕が、君の心の穴を埋めてあげる。
 中学生みたいな言い草だった。
 でも、必死だったのだ。
 不器用でも良い。
 麻里に自分の気持ちを声で伝えたかった。
 君が、好きだから。
 大好きだから。
 君の心にできた穴を、僕に埋めさせて欲しい。
 僕は麻里の手を取って、懇願する様に言っていた。
 周りの目など気にしていなかった。恥ずかしいとも思わなかった。
 ただもう、必死だった。
 麻里は、そんな僕を戸惑った様に見つめていた。
 でも、直ぐに。
 麻里はコクリと小さく頷いた。
 言葉は、無かった。
 でも、とても嬉しかった。
 絶対に麻里と一緒に生きて行こう。
 たとえ不完全であっても、精一杯麻里の心の穴を埋めて生きよう。
 あの時は、本気でそう思っていた。
 本気でそんな事が出来ると信じていた。
 でもそれは。
 とんでもない、嘘だった。
              ・
 ――どうして……。
 電話越しの麻里の声は、怒りと失望で震えていた。
 大学最後の秋の事であった。
 別れて欲しい。
 僕は麻里にそう告げていた。
 理由はあった。
 他に好きな人が出来たのだ。
 峰という、僕の行き付けのレストランでウェイトレスをしている子だった。
 多分麻里と同じ、否、それ以上に可愛らしい子だった。
 それでも、最初は本気にはしていなかった。
 本命はあくまで麻里。峰はレストランで会った時におしゃべりするだけの仲。そう割り切っているつもりであった。
 それなのに。
 何時の間にやら携帯のメアドを交換し、レストラン以外の場所でも頻繁に会う様になり、気付いた時には、自分の家に入れていた。
 今までに女の子を家に入れた事など一度たりとも無かった。
 勿論、麻里だって家の中に入れた事は無かった。僕と彼女とはずっとプラトニックな関係を保ち続けていたのだ。
 それなのに……。
 幸か不幸か、僕が峰を家に入れる様になったのは丁度僕達が卒業論文に取り掛かり始めた時だった。勿論、麻里だって例外では無い。
 元々3年生の時にオーケストラサークルを引退して余り会わなくなった状況に輪をかけて、卒業論文によって更に会う機会が少なくなった。というよりも、僕がわざと麻里と会わない様にしていただけなのだが。
 そうして気付いた時には、僕の中で麻里と峰の関係は見事に逆転していた。
 本命は峰。
 そして麻里は……。
 其処まで来て。
 急に麻里が邪魔臭く思えて来た。
 本当は麻里なんて愛していないんじゃないのか。
 そんな疑問が僕の胸で湧き上がった。
 そして、その疑問は限りなく確信に近い疑問だった。
 それが証拠に。
 僕は今、麻里に電話を掛けている。
 別れて欲しい、と。
 躊躇いは、無かった。
 君の事は好きだ。
 でも、君よりもっと好きな人が出来てしまった。
 だから、別れて欲しい。
 自分で言うのも何だけれど、とても、とても身勝手な気がした。
 それでも、口は止まらなかった。
 後悔さえしていなかった。
 紋切り型の挨拶をしている様な感覚だった。
 気付くと、僕はじゃあ、と言って電話を切っていた。
 電話を切る瞬間に、麻里が叫んだ言葉がいやに耳に付いた。
 ――おいてかないで!
 それが、麻里の言葉を聞いた最後となった。
              ・
 管理人が去った後、僕は暫くの間ボウッとしていたが、やがて気付いたようにジーンズのポケットから携帯電話を取り出した。
 ゆっくりと、メールボックスを開く。
 その先頭には、2日前に受信されたメールがあった。
 差出人は佐久間麻里。
 彼女が、今僕が居るこの部屋で首吊り自殺をする直前に送ったメールだった。
 メールの内容は至極完結な物であった。
 ――私の家に来て。
 最初は訳が判らなかった。
 麻里はまだ僕の事を諦めきれずにこんなメールを寄越したのかとも思った。
 だから、僕は無視を決め込んだ。
 麻里にはもう、関わりたくないと思ったのだ。
 でも、それは僕の見当違いだった。
 麻里が自殺したという知らせは、このメールが届いた翌日にサークルのメンバーで親しくしていたヤツからのメールで知った。
 ――私の家に来て。
 一体、彼女はどんなつもりでこのメールを僕に送信したのだろう。
 彼女の家に、一体何があるのだろう。
 そのまま無視する事も出来たのかもしれない。
 否、無視をするべきだったのだろう。
 麻里との関係を完全に絶つつもりなら、それに越した事は無い筈だ。
 でも、僕の心とは裏腹に、僕は今この麻里の部屋に居る。
 不思議な、気持ちだった。
 気付くと、僕は無意識の内に、麻里の部屋の中へと入り込んでいた。
 八畳あるか無いかの部屋には、ベットと椅子、上に可愛らしい人形やペンなどの雑多な物が乗っている机、それに隅の方に僕も見慣れた彼女のフルートケース、後は中央に丸テーブルが置いてあるだけだった。
 そして、その丸テーブルの上には、小さな封筒が置いてあった。
 直ぐに、僕ピンと来た。
 ああ、麻里が家に来て欲しいと言った理由はこれだったのか、と。
 多分、この封筒の中には僕への彼女のメッセージが書かれた手紙でも入っているのだろう。
 そう考えた。
 考えた後の行動は早かった。
 僕は急いで丸テーブルに近づくと、物凄い勢いで封筒を手で破って中の手紙を取り出した。
 手紙の中身を確認して、破り捨ててやるつもりだったのだ。
 でも、その手の動きは手紙の内容を見た途端に、凍り付いてしまった。
 ――寂しかった。もう、ずっと一緒だよ。
 手紙にはそう、書かれていた。
 途端に、僕は背筋に悪寒を感じて、手紙をその場に放り出すと、急いで部屋の外へ出ようとした。
 途端に、僕はアッと叫んでいた。
 扉が。
 さっきまでは確かにあった扉が、今目の前で壁にめり込んで消えようとしていたのだ。
 僕は慌てて、扉に駆け寄った。
 でも、遅かった。
 僕が駆け寄った時には、扉は既に壁に完全に入って跡形も無くなってしまっていたのだ。
 完全に、閉じ込められた。
 助けを呼ぼうとして、僕は自分の携帯のディスプレイを広げて、愕然とした。
 其処には、圏外と表示が出ていたのだ。
 有得ない。
 「どうして……」
 僕がそう呟くのと、背後で突然聞いた事のある音色が響きだしたのは、ほぼ同じだった。
 フルートの音。
 忘れもしない、麻里の使っているフルートの音だった。
 それに、この音色は……。
 ――私、この曲が好きなの。
 麻里がお気に入りで、会う度に何時も僕に聞かせてくれていた曲……。
 間違える筈が無かった。
 僕の後ろで、フルートが静かにそして物悲しそうに「アルルの女」を奏でている。
 「麻里、麻里なのか?」
 捨てた筈の女なのに。
 もう、関わりあいたくないと思っていた筈の女なのに。
 僕は、堪らずにそう言いながら、後ろを振り返った。
 その目の前に。
 白い洋服を着て、麻里が、フルートを吹いていた。
 楽しそうに、でも何処となく寂しそうに。
 まるで、ニンフの様に。
 「ま、麻里……」
 僕は、それ以上言葉を出す事が出来なかった。
 代わりに、目から幾筋も涙が頬を伝う。
 麻里は、そんな僕を見て、一瞬ホッとした様な顔を見せて、フルートの演奏を止めた。
 そして、ゆっくりと僕の方へ近づいて、僕に優しく語りかける様に、一言だけ、囁いた。
 「もう、離さない」
 麻里がその言葉を言い終わるか終らぬかの内に。
 突然、部屋の明かりが全て消えて、僕の目の前は真っ暗になった……。

最終更新:2012年09月20日 19:36