2011年03月07日 (月) 00時21分 - K
村西が久しぶりに訪ねてきた。このような恩知らずは、普通なら部屋に上げてなどやらないものなのだが、土産として近年値上がりの激しい缶ビールなんぞを持ってきているから、仕方なく敷居を跨がしてやった。そして魚肉ソーセージのつまみで酒を飲みながら、赤い顔して、自動車のエキゾーストの匂いにはニルヴァナがありはしないかなどと、下らないことで盛り上がっていた。とうに夜半を過ぎたあたりであろうか、酒がまわってお互い呂律がまわらなくなり始め、意識も混濁の極みに達しようとしていた。私は酒を飲んで記憶を失くすということのない人間であるが、もしかしたら、今進行中の現象がそれなのかも知れないと思い始めていた。目の前で魚肉ソーセージをいくつも口に詰め込んでいる男が誰なのか、だんだん思い出せなくなってきたのだ。最初は気のせいかとも考えたが、次第にそうは言っていられなくなってきた。どこで知り合ったか、自分とどういう関係なのか、そもそもどんな人物なのか。始めのうちは、苦労すれば思い出せたが、最後には名前すら思い出せなくなっていた。酒のせいであろうか。しかしこれは、知り合いたちに聞いた、酒による記憶障害とは、随分様子が違うような気もする。しかし、記憶を失ったものが、記憶の失い方を記憶しているわけもないのだから、これでいいのかもしれない。それより今は、目の前に座って、私になれなれしく話しかけている男が誰なのかが問題だ。今ではもう、この男が無類の女物靴コレクターことと、この男の生家の隣のおばあさんの名前が松子であることしか思い出せなくなっていた。
「おい、村西。お前って誰だったっけ」
と私は目の前の男にできるだけさりげなく聞いてみた。すると、
「そう言えば誰だんたんだろう」
へらへら笑いながら、まるですでに過去のことのよう語りはじめる。こいつも相当酒がまわっているようだ。しかしそうなると今の状況は、どこの誰かも分からない男が勝手私の部屋に上がり込んで、酒を飲んでべろんべろんになっていることになる。それはどう考えても気持ちのいい物ではない。なんとか追い出さなくてはいけないが、しかし逆上されて暴れられても困る。あまり刺激せずに、お引き取り願う方法はないだろうかと、思いをめぐらす。時計を見て、「終電は大丈夫か」と訊くと、「ああ、もう間に合わないっすね」と答えて尻を上げもしない。それではと、「ぶぶ漬けでも食いなはれ」と言ってみるが「おおきに」と言ってぶぶ漬けが出てくるのを待っているところを見るとどうやら京都人ではないらしいし、だいたいそんなことをいう京都人も見たことがない。まったくこれでは埒が明かない。その埒が明かないうちにとうとうこいつがなんのコレクターだったのかも忘れてしまい、松子の名前の最初がまで最後がこであることが、記憶の最後の砦だ。そんな卑猥な名前の人間の親戚をうちにおいておけば治安維持法に引っ掛かってしまうかもしれない。私は思い切って、単刀直入に話しを切りだした。
「あのさあ、村西。はっきり言ってお前が誰なのかも俺は知らないし、迷惑だからさっさと出て行ってくれないか」
行ってしまってから私は、言葉に少々刺があり過ぎたのではなかろうか、と心配になった。しかし言ってしまった言葉を再び飲み込むことは音速を超えでもしない限りできない。遅すぎる後悔をしながら恐る恐る顔を上げて、表情を窺う。俯いて畳の目を数えているようだ。やはり相当応えていると見える。いくら知らない人間であろうと、自分の言葉で傷つかれるのはやはり寝ざめが良くない。しかし、心の弱さに負けて、ここで何か優しい言葉でも掛けようものなら、一晩中居座られるのは結果が見えている。ここは心を鬼にして、最後の一押しをしなければと思っていると、ぽつっ、ぽつっ、と畳に水滴が落ちる。すわ雨漏りか、と思うがここは最上階ではないし、もし雨漏りとしたらその雨粒は人の頭を貫通したことになる。雨だれ石を穿つとは言うが、もし頭を穿たれれば途中で気付く。よって論理的に判断すれば、これは雨ではなく、こいつの涙であろう。外が晴れているのがいい証拠だ。
私は人に泣かれるのが何よりも苦手だ。例えばそれが女性だったら苦手は苦手ではあるが、なんとなく風情というものがあるではないか。しかし今回目の前で、嗚咽をかみ殺して涙を流しているのはむさ苦しい男だ。何とも美しくない。気持ち悪いと言ってもいいくらいだ。そしてその気持ち悪い物体に「どうした。何かあったのか」と優しげに話しかけている私は絶望的に人がいいのであろう。
「何か悩みがあるなら話してみれば。それで何か解決するかも」
と心にもない常套句を使う私。人に話して解決する程度の悩みに自分の時間を割くなんてまっぴらごめんである。しかし、目の前の見知らぬ男に私の本心が分かるはずもなく、服の裾で涙をごしごし吹くと、ゆっくりと話はじめた。
「話せば長くなるんですけど、実は僕、余命幾許もないんです」
と言って黙ってしまう。思わず私は
「それで」
と続きを促してしまうが、するときっと目を三角にして、
「それで、はないでしょう、それで、は。人が今にも死のうとしているのに、それで、とは何事でしょうか。いやあ、前から思っていたけどあなたは冷たい人だ。あなたには人の気持ちが分からないのだ。だから人を愛することも、人に愛されることもないんだ」
と怒って自分で言って自分で納得しはじめてしまう。いや、それはそれでいいんだけども、その今にも死んでしまうという人が、そもそも何で私の小汚い部屋で貴重な時間を無駄にしているのだ、と根本的な疑問をぶつけると、ぷりぷり怒っていたこの男、忙しいことにまたよよよと泣き崩れると、
「行くところがない」
と言う。混乱しきった説明を要約すると、これから死にゆく自分にはもうこの世には居場所はない、だからどこにも行くところはないのだけれども、私のところだけはぎりぎりまで居てもいいことになっている、だからここを追い出されてしまっては困る、というのだ。何のことやら分からないし、それじゃ私が困る。大体、見たところこの男、健康そうで、重病人らしいところがどこにもない。一体お前はいつ死ぬのだ、と訊いてみると、
「医者の話では今晩がヤマだ、ということです」
と答える。
すると、この世の別れる最後に私に会いにきたということであろうか。それはそれで悪い気分はしない。目の前の男といつからこうやって話をしているのか全く思い出せないけれども、缶ビールは最後の二本になってしまった。最後の酒を楽しい物にしてやることが、この正体不明の男のために私がしてやれる唯一のことであろう。ビールのタブを、ぷしゅう、という音を立てて開け、勧酒の詩なんぞを吟じながら、缶同士をぶつけあい、そして勢いよくぐびりと喉にぬるい泡を流し込んだ。そのとき、中身のたっぷり入った缶が男の指をすり抜け、ぼとりと落ちた。黄金色の液体が畳の目に吸い込まれていき、白い泡が表面を汚した。男が飲もうとした缶ビールは男の喉に届くことはなかったのだ。私はビールから口をはなし、まずは落ちて流れていくビールを見た。少しずつ流れていくビールというのは、何か取り返しのつかないことが起きてしまったことの映像的メタファーなのではないかという疑念が脳裏に閃いた。そして顔をあげ、男を見た。私には何が起こっているのか分からなかった。私は慌てて男に手を伸ばした。しかし、その手が確かな肉体に届くことはなかった。男の像は私の手をすり抜けてしまったのだ。私が絶句している目の前で、男は自分の手の平を交互に眺めながら、こう言った。
「どうやら、時が来てしまったようです。私は死んで、幽霊になってしまったのです」
言われてみれば、今では男の体は透き通って、向こう側が見えてしまっている。死んだので、肉体を失って霊体になったということなのであろう。私は、死ぬってことは普通そういうことじゃない、と言いたくなったが、それをこの男に説明するのはひどく難儀なことに思えたので黙っていることにした。男は、
「死ぬということは、その、思っていたより、何と言うか、その、変な感じのものですね」
とほとんど意味不明のことを呟いていたが、私に向き直ると、
「生前はいろいろとありがとうございました。あなたにはいろいろ迷惑を掛けたし、私もたくさん迷惑を掛けられましたけど、なんだかんだ言って楽しかったです。やはりどう考えても、自動車のエキゾーストにはニルヴァナはないと思います」
と言いながらも、少しずつ薄くなっていく。そして、自分の口の上を指さして、
「泡、髭みたいになってますよ」
と言い、私が慌てて口のまわりを拭ってもう一度見ると、もうどこにもいなくなっている。どうやらすべて消失してしまったらしい。
私はしばらく茫然としていたが、気を取り直してこぼれたビールを吹き、残ったビールをちょびちょび飲んで片づけていると、あの男は私に感謝の言葉を残して言ったのに、私はあの男のことを何にも思い出せないことが、何だか悲しくて、情けなくて、ビールを飲み終えて、あの男がいたという記憶が一切消えて、なんで自分が泣いているのか思い出せなくなるまで、泣きつづけた。