2011年03月10日 (木) 20時05分 - 渋江照彦
――このクソ猫が!
男はそう怒鳴ると、勢い良く目の前に居る三毛猫を蹴り上げた。
ドン、と鈍い音を立てて、三毛猫は壁にぶち当たると、それっきりピクリとも動かなくなってしまった。
――お前さん、そりゃやりすぎじゃないかえ?
男のあんまりな仕打ちに、私は思わずそう声を上げていた。
だが、男はそんな私をさも小馬鹿にする様にフン、と鼻を小さく鳴らしてみせる。
――ヘン、こんな野良猫に情けをかけるたぁ、お前相当情け深い女だな。
――別に、そういう訳じゃないさ。
――ケッ、さあどうだか。
男はそう言うと、フラフラと倒れたままの三毛猫の傍に近付いた。
何時も酒臭い男の吐く息が、今日は一段と臭っている。
一体、何処で飲んで来たのだろう?
三十過ぎに自分と飲むには景気付けに一杯やってからでないとやってられない、という事か。
そう考えると、ムラムラと腹が立って来た。
だが、その感情は男の馬鹿でかい笑い声の所為で、一旦は心の奥に引っ込んでしまった。
――ヘヘ、コイツハは傑作じゃねぇか。
男は痙攣しているかの様に何度も肩を震わせつつ、そう言った。
――やっぱり、男だ。
初め、男が何の事を言っているのか判らなかった。
だが、直ぐに彼が三毛猫の事を言っているのだと思い当たった。
――お前、やっぱり元の亭主が忘れられねぇんだろ?それで、こんな汚ねぇ野良猫を飼いやがったんだ、そうだろ?
興奮しているのだろう、男の声は甲高く、キンキンと金属音の様に響く。
正直、鬱陶しかった。
確かに男の言う通りあの三毛猫を飼い始めたのは前の夫が死んだ後の事だ。
寂しかったから、夫の名前を猫に付けてしまった事も認めよう。
だが、それがどうしたと言うのだ?
そんな事で、この目の前に居る男は前の夫に妬いているのだろうか。
だとしたら。
何とまあ、小さい男だろう。
男は尚も喚いている。
――きっと、この猫はお前の亭主の生まれ変わりに違いねぇ。きっとそうだ。だから俺とお前が仲良くしているとミャアミャアミャアミャア鳴いて近付いて来るんだろうが。今日だってそうだ、ミャアミャア鳴いて、おまけに俺の足まで引っ掻きやがって……。
喧しい事この上無い。
――本当に忌々しいぜ。死んでもまだ猫になってお前に付き纏うんだからよ、お前の亭主も中々業が深いやね。
男の最後の言葉に、私は無性に腹が立った。
――うっさいんだよ!
気付くと私はそう叫びながら、男に向かって手近にあった茶碗を投げ付けていた。
茶碗は男の真横の壁に当たると、カチャンと音を立てて砕けた。その破片が、真下にあった猫の体にかかった。
――て、てめぇ、何しやだるんだ!
男はそう怒鳴ってみせたが、目には明らかに怯えの色が浮かんでいた。
本当に、小さい男だ。
私は内心では呆れながらも、語調だけは変えずに怒鳴った。
――何しやがる?それはこっちの台詞だよ!何だい、人が黙ってりゃクチャクチャと情けない繰り言ばっかり、鬱陶しいんだよ!そんな蛆虫みたいな奴はとっととこの家から出てっておくれ!
私がそれだけ捲し立てる間に、男の顔はどんどんと白くなって行った。
――て、てめぇ、巫山戯けやがって……。
そうは言うものの、既に顔は紙の様になっている。
――ケッ、に、二度とこんな所に来るかよ!
男はそれだけ言うと、足音も荒々しく部屋から出て行った。
そして、暫くの間玄関の方で何やらゴソゴソ音がしていたが、やがて扉を開閉する音がして、それっきり何も音はしなくなった。
二度と来ない、とは言っていたが、どうせまた暫くしたらノコノコやって来るのだろう。
そう言う、男なのだ。
私はそこで、フッと息を吐いた。
あの男と付き合い始めたのは、一体何時だったろうか。
シンと静まり返った部屋の中央でペッタリと座り込みながら、私はそんな事を考えた。
はっきりとは覚えていないが、夫の一回忌がまだ終わっていない頃から家に上げていた気がする。
我ながら、とんでもない女だと思う。
それからは、完全に惰性だった。
気が付けば、後五ヶ月で夫の三回忌だ。
随分と長い間、男と関係を持っている事になる。
ふと、動かないままでいる猫の身体に目をやった。
多分もう、死んでいる。
男との付き合いも長いが、この猫との付き合いも負けず劣らず長い。
同じオスでも、こっちの方は可愛気があった。
確か、家にフラフラと痩せ細った体でやって来たのを不憫に思って飼い始めたのだ。
それまで、動物を飼おうなどとは一度も思った事が無かった。むしろ、毛嫌いしていた位だ。
だからきっとその時、私は無意識の内に夫と死に別れた自分と、身寄りの無い猫とを重ね合わせていたのだろう。
だからこそ、飼う気にもなったのだ。
私はそこでスッと立ち上がり、猫の方へと近付いて、寄り添う様にして座った。
ソッと背中を撫でてやる。
飼い始めた頃は本当にボロボロで見るのも忍びないという感じであったが、それも今ではフサフサとしていて、中々立派な物である。
――お前さんも、不運だったねぇ……。
背中を撫でてやりながら、私はフッと溜息を吐いた。
この猫のために土饅頭でも作ってやらねばなるまい。
庭の楓の木の辺りが良いだろう。
この猫のお気に入りの場所なのだ。
――直ぐに作ってやるね、ケンスケ。
私は動かぬ猫の体を見つめながら、そう呟いていた。
・
――オウ、久しぶりだな。
そう言いながら男がやって来たのは、夫の三回忌の丁度一か月前の事だった。
二度と来ないと啖呵を切って僅か四ヶ月でこれだ。情けない事この上ない。
だが、私も別にこの男を拒む気も無かったから、何時もの様に家に上げた。
――いやぁ、悪いね。
男はそう言いつつ、ノコノコと入って来る。
その両手には、一抱えもある大きな南瓜を一つ持っていた。
――それ、何だい?
私が何の気無しに尋ねると、男はさも得意気といった風に、
――へへ、いやな、お前の庭から失敬したんだよ。
と胸を張るが、言っている事は誇れた物では無い。
――たく、呆れた人だねぇ……。
私はそう言ったが、其処である疑問が沸いた。
一体、この男は庭の何処でこの南瓜を取ったのだろうか。
私の記憶にある限りでは、家の庭に南瓜を植えた覚えなど無い。
――お前さん、その南瓜を庭の何処で取ったんだえ?
私は気になって、男に尋ねた。
男は一瞬変な顔をしたが、直ぐに、
――何言ってんだ。ホラ、あの楓の木があるだろ、あの木の下だよ。驚いたぜ、こんな丸々と美味そうな南瓜が成ってんだからな。んで、こいつは今日の酒のつまみにピッタリだからよ……。
――取って来たんだね。
私が男の返答を引き取る。
――ああ、そうさ。だからよ、早速で悪いが料理してくれよ。
男はそう言って、ズイと目の前に南瓜を突き出して見せた。
目の前で見るその南瓜は、男の言う通り本当に丸々としていて、私は思わず生唾をゴクリと飲み込んでいた。
だが、それでも、私はその南瓜を見て、心の中で動揺していた。
楓の木の下。
其処は、私が四ヶ月前に猫を埋めた場所だ。
そんな所に生えていた、南瓜。
私は南瓜については良くは知らないが、少なくとも、猫を埋めた時には、楓の木の下にそんな物は無かった。
だとすれば、今目の前にある南瓜は、僅か四ヶ月の間に芽を出して、花を咲かせ、こんなに大きな実を付けた事になる。
猫の事は早く忘れようと思って、墓を作ってからは一度もお参りしていなかったが、まさかこんな南瓜が成っていたとは……。
ジワリと、脇に厭な汗をかいてしまった。
この南瓜を食べてはいけない。
頭の中で何かがそう叫んだ。
だが。
――良いわ。煮物にしてあげるから、部屋でお休みになってて。
何故か口がそう動き、男の手から南瓜を取って、私は台所へと向かっていた。
――ヘヘ、楽しみにしてるぜ。
男の声が、真後ろから聞こえた。
・
それから、自分がどうやって南瓜の煮物を作ったのかは、良く覚えていない。
だが気付くと、私は男と部屋の畳の上に煮物の入った入れ物やら、ビール瓶やらを置いて酒盛りを始めていた。
――いやぁ、この煮物は美味いねぇ。
何も知らない男は、パクパクと本当に美味そうに煮物を食べてはビールを飲み、食べては飲みを繰り返している。
だが、私はやはり気味が悪い物だから、煮物には手を付けていなかった。
それに気付いたのだろう、男がすかさず、
――何だい、お前も煮物を食えよ。
と言って来た。
食べてはいけない。
また、頭の中で何かが叫んだ。
だが。
――ええ、そうね。頂くは。
私の口は勝手にそう動き、気づくと私はパクリと南瓜の煮物を食べていた。
その時だった。
一瞬目の前の男の顔が歪んだかと思うと、叫び声を上げて口から血を吐き出し始めたのだ。
――あ、あんた大丈夫?
私は吃驚して、男に駆け寄ろうとした。
途端に。
胸が苦しくなって、口から血がボタボタと流れ始めた。
――な、何、これ……。
そう言いつつも、私は男と同じ様にドウッとその場に倒れ込んでしまった。
その時だった。
後ろの方で、ニャオと何かが鳴いた。
それは、猫の声だった。
その声が聞こえた途端に。
私の意識はプツリと切れた。