2006年12月01日(金) 22時00分-鴉羽黒
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わたしの犯したミスは合計で三つだ。
一つ目は、秋海の言うことを聞いてしまったこと。出会ってしまったのは仕方がないとして、なにもあの女の言うことに素直に従うことはなかった。
二つ目は、秋海の作戦を遂行する手段として、よりにもよって高校の図書室から借りた本を使ってしまったことだった。その場に他に持ち合わせがなかったからとはいえ、あまりに後先を考えなさすぎた。場の勢いに流されてしまった感が否めない。すぐ頭に血が上る癖はどうにかしないといけない。
そして三つ目は、それらのことをすっかり忘れ、のこのこと図書室に来てしまったことである。
「一冊、足りませんね。その本も返却期限を過ぎていますが、どうされました?」
数週間前にわたしが借りた本は、個人が一度に借りられる分ギリギリの五冊だったが、今カウンターに置いた本は四冊しかなかった。ここにいたってようやく、自分のミスに気づいた情けないわたしである。
レンズの奥の丸い眼を、こちらに向ける図書委員。この時点ではそれは、まだ単なる疑問の色しか宿していない。
「いえ、ええと…」
「教室に置き忘れてきましたか? それなら、すぐに取りに戻ってくだされば結構ですが」
教室どころか、自宅にもない。というか、今どこにあるのかわからない。
「ちょっとよく――、わからなくて」
返答に窮して、ついそんなことを言ってしまう。途端に、図書委員の顔色が変わる。
「…もしかして、失くされました? もしそうなら、そう言ってくれればそれで構いませんよ。もちろん歓迎はしないですし、今後そんなことがないようにはしてほしいですが。高校の図書室ですし、特に弁償を要求したりはしません」
「そういうわけではないんですけど」
見つめる瞳が、徐々に迫力を帯びてくる。ついでに補足すれば、よりにもよって最も恐れられている図書委員が当番の曜日に本を返しに来たのも、わたしのミスだったようだ。といっても、バイト休みの日は限られているので、これも仕方のないことではある。
「…じゃあ、どういうわけなんですか?」
そう返されると困る。わたしのミスはそもそも秋海のせいで引き起こされたものであり、そういうわけで心の中でわたしは秋海への呪詛を吐きつつ、ついでに回し蹴りを見舞いしておく。
とはいえそんなことで状況が改善されるわけもなく、瞳のプレッシャーに耐えきれなくなったわたしは、ついに自分から地雷を踏みに行ってしまった。
「一応、誰が持ってるかはわかってるんですけど…」
「…誰かが持ってるんですか?」
図書委員の眉がぴくりと動いた。まずいと思ったときにはもう遅く、彼女の丸い瞳には怒気が燃え上がっていた。
「それはつまり、又貸ししたということですか? それは、ちょっと問題ですね。図書室はただの本の倉庫ではないんですから、自分たちで勝手に貸し借りされるのは困るんですよ」
「いえ、あの、事情が…」
「言い訳は後で聞きます。又貸しした上でもし失くしでもしたら、これはただの遺失というわけにはいきませんからね。…まあいいです、とにかく、貸した生徒のクラスと名前を教えてください。こちらから連絡して、正式な手続きを踏んでいただきます」
図書委員は譲歩の姿勢を見せてくれているようだが、残念ながらそれに乗ることもできない。なぜって、どこのクラスかわからないどころの話でなく、この高校の生徒ではない――というか、高校生ですらない。
「ええと…」
どうしたものか。噂では怒ると分厚い辞書を投げつけてくると聞く図書委員を、これ以上怒らせるのは得策ではないのだろうが、今のわたしは彼女をなだめる要素を持ち合わせていない。
「どうしました?」
その丸い瞳に不似合いな迫力をまといながら、しかし静かに彼女は問う。
もう図書室は使えないかも、などとちょっと暗い考えになりかけたわたしの前に、ふいに無いはずの本が現れた。
「え?」
それは軽い音とともに、カウンターに積まれた四冊の本の上に着地した。タイトル、『紅茶日和』。それは確かに、ひょんなことからわたしが又貸しすることになった本だった。
「これ、さっき落としてたよ。一緒に返却でいいよな?」
その本を差し出した男子生徒は、ごく軽い調子でそう言った。知り合いの生徒ではない。どこかで見たことがある顔だと思うのだが、思い出せなかった。
突然の乱入に図書委員はいっとき困惑したが、すぐに返却に応じた。これで返却すべき本がすべてそろったことを確認すると、とりあえず彼女の怒気は収まったようだった。と思いきや、作業を終えて顔をあげた図書委員は、男子生徒の顔を見るやいなや、
「――菅原浩灯!」
さっきまでの怒りは遊びだったかのような強い口調でそう言った。
「図書館ではお静かに、じゃないのか?」
「結局元凶はあなただったというわけですか、あなたという人は――!」
「いや、人の話聞いてないだろ君」
図書委員はカウンターに両手をたたきつけながら立ち上がったが、用を済ませた男子生徒――菅原浩灯はすでにきびすを返し、
「紅坂美湖、君も聞きたいことがあるだろうし俺も話すことがある。外で会おう」
早口でそうわたしに耳打ちして、足早に図書室を出て行った。その一瞬後に彼がいたはずの空間を巨大な国語辞典が横切り、振り返ると苦々しげに図書委員が舌打ちをしているところだった。
一瞬遅れて、壁にたたきつけられた辞書が、紙製にあるまじき音を立てた。
「えと…、では、失礼します」
その怒りの矛先が自分に向く前に、わたしも図書室を逃げるように後にした。
「助けていただいてありがとうございます――で、いいんですかね?」
「聞くのか、それを俺に」
管原浩灯は昇降口まで歩いて、ようやく腰を落ち着けることにしたようだ。わたしのお礼(のようなもの)に苦笑しながら、自販機でジュースを買ってわたしに投げて寄越した。
「それでいいよな?」
わたされたのは、温かいストレートティーだった。レモンティーだったら文句なしだったが、おごってくれているのだから贅沢は言えまい。
「ありがとうございます。80点ですね」
それでも、一言そう加えるのがわたしではあった。
「まあ、及第点だな。…さて、なにから話していいのやら」
管原は、自分にはコーヒーを買った。わたしの知る限り、コーヒーはいつも売れ残っているのだが…、珍しいものを見た。
「さっき静岡が叫んだのを聞いてたかもしれんが、俺は管原浩灯、二年だ」
静岡と言うのは、確かあの図書委員の名前だ。そして、そうではないかと思っていたが、彼はやはり先輩だったのか。そうなると、ますますもって疑問が増す。
「何故、わたしの名をご存知なんです?」
さして重要ではないが、気になることではあった。同学年の間でならまだしも、上級生の間でまで名を知られるほど有名なつもりはない。
「それはあれだ、…図書カードに書いてあった。個人情報漏洩だな」
なぜか菅原は、歯切れの悪い口調でそういった。後ろめたいことでもある風である。
「嘘です。借りた本には、図書カード、入ってないですよ」
「しまった、そうだったな。まあ今のはちょっとした嘘だ」
そしてあっさりと嘘を認めた。なんなんだ。
少しの間悩んでいる様子だったが、考え直したのか、すぐに管原は口を開いた。
「明冶千代子。友達なんだろ?」
「ええ、そうですけど」
藪から棒に友達の名をだされ、わたしは少し驚く。あのこがどう関係があると言うのだ。
「彼女経由だ。俺が君の名を知ってるのは」
言われて、思い当たるところがあった。千代子、彼女を知る二年の男子、そして缶コーヒー。
「…ああ、管原コーヒ先輩。あなたでしたか」
「ヒロヒだ」
ほとんど条件反射になっているのか、間を置かず訂正する管原浩灯。
「もしかしてと思ったけど、やっぱり明冶から聞いてたのか」
じゃあ別に悩むこともなかったなとと呟く先輩。どういう風に聞いていたのかを聞かれたら少し困るが、どうやらそこに突っ込む気はないようだった。さすがに、千代子が片思い中で目下アプローチ真っ最中の相手として知ってる、とは言えない。
「まあいい。今日の本題はそっちのセンじゃない。俺の従兄の話だ」
「イトコ?」
「あの本。どうして俺が持ってたのか、それが一番聞きたいことだろ?」
その通りである。秋海にそそのかされ、とあるごく簡単なメッセージを渡す手段に用いたのが、あの文庫本だった。あのひとが捨てたりしていなければ、その本はまだ彼の手元にあるはずだった。
「俺の従兄はな、大学生なんだが、暗いし胃痛持ちだし変に頑固だし、まあ要は変人なんだが、とにかくそれでもなぜか塾講師のバイトなんかをやってる」
「はあ、そですか」
それは実に向いていなさそうな仕事だ。
「でだ。バイト前に小1時間コーヒーショップで時間をつぶすのが日課らしいんだが、つい先日、そこで妙な出来事にあったんだそうだ」
「…え」
さすがのわたしにも、話が読めてきた。
「詳しい経緯は知らんが、帰り際、顔を知っているという程度の店員に、ある文庫本を渡されたそうだ。なんだろと思いその本を見ると、なんとそれは高校の図書室のもの。彼女の意図はともあれ、そこへ返さないわけにはいかないだろう。ただ運良くそこは自分の母校だし、まあ本を返すだけならそんなに怪しまれないだろうと思って、従兄は放課後の高校を訪れましたとさ」
「え、まさか」
彼がここに、来ている――?
「が、残念なことに、じゅうぶん従兄は怪しかった。私服、黒か灰色しかないしな。けど悪運だけは強い我が従兄、最初に見つかった生徒がこの俺。事情を聞いて、とりあえず本を預かって従兄は帰らせたわけだが――、まさか、いきなり探し人まで見つけられるとは思ってなかったな」
探し人という単語に、わたしは少し気まずい思いになる。
あのひとにメッセージを渡して以来、わたしは彼を避け続けていた。と言っても、バイト先でしか顔を合わせる機会はないのだから、なるべく彼が来る時間にレジに立たないようにしていただけだ。
なぜって、まあ、単に気恥ずかしかっただけなのだけど。
「なんていうか、世間は狭いな…」
ひとしきり話し終えて、管原は皮肉気に笑った。わたしもそう思う。
管原は缶コーヒーを一息に飲みきると、思いがけない言葉を続けた。
「星名速水と言うのが、その従兄の名前だ。さっきは帰らせたって言ったけど、一応事後報告をするつもりだったから、外で待ってもらってる」
言いながら、菅原はもう一本缶コーヒーを買った。流れからすると星名の分なのだろう。
「それでだ、せっかく久しぶりに会ったんだから、このあと喫茶店でもおごってもらおうかと思ってるんだが――」
「今しがた缶コーヒー飲んだばっかりじゃないですか」
「それとこれとは別だ。…じゃなくて、紅坂、君も来るか?」
飲んでいた紅茶を吹きそうになった。
「…あの、それはちょっと」
いくらなんでも急展開すぎると思う、というか、意外と大胆なことを言うなこのヒト。
「そうか? …まあ、顔は知っているとはいえ男二人と喫茶店、と言うのは確かに嫌かもな。というか、絵としておかしい気はする」
でも大して乗り気ではないようで、管原先輩は自分でもその提案に疑問を抱いたようだった。たぶん、思いつきで言っただけなのだろう。
しかし。ここで秋海がいたら、絶対に行けと言うのだろうな、とも思う。
……。
「ええと。千代子、呼んでいいですか? たぶん、まだ教室にいると思うんで」
千代子が教室で時間をつぶしているのは、管原先輩が帰るのを待っている、というか待ち伏せるためなのだから、これはむしろ千代子のためにしてあげるのである。
そういうことにしておけば、少しは恥ずかしくない。
でも管原先輩は、千代子の名を聞くと少し考えるような顔になった。どことなく嫌そうですらある。
名前を挙げただけで嫌そうな顔をされるだなんて…千代子、可哀想だけどあんたの恋は実らないかもしれない。というか、やっぱりあんたの方法論は失敗だと思う。なんか秋海と似てるし。
「…ハヤミ、人見知りなんだよなぁ。……まあ、大丈夫、かな」
でも管原先輩の悩みは、わたしの憂えたこととは別のところにあったようだった。ごめん千代子、やっぱり駄目じゃなかった。たぶんだけど。
「じゃあ、俺は東門で待ってるから。荷物、取って来なきゃいけないだろ?」
「ええ。それじゃ、千代子を連れてすぐ来ますから」
言うと、管原先輩は応じたしるしに手をあげた。そのまま立ち去りかけて、何か思い出したかのように先輩は立ち止まった。
顔だけこちらをむけた管原先輩は、皮肉気に口の端を上げると、
「――そうそう。従兄としての見解だが、ハヤミ兄を相手に、色仕掛けはたぶん無駄だぞ」
「え」
不意に、それまでどこで見た顔だったか分からなかった先輩の顔が、明確に思い出される。
忘れもしないあの日、客としてきていた顔の一人。夜椚北の制服をバイト先で見ることは珍しかったので、印象に残っていた顔だった。
そしてすぐあとに、言われた言葉の意味を理解し、わたしは顔を赤くした。
「――そんなこと、しませんっ!」
笑いながら去る先輩の背中に向かって、わたしは吠えた。
そして胸中で、にやにや笑う秋海に向かって、ドロップ・キックを放っておいた。
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