2006年12月13日(水) 23時34分-川口翔輔
地下鉄2番出口での別れ際、青木は彼特有の大仰な咳払いをしてから「さよなら」と言った。僕も「さよなら」と言って彼と別れた。すたすたと何千回も踏みしめた帰途を辿る。その道、僕は、僕とは誰であるかと真剣に考えている。僕は常日頃から、青木が咳払いをした時にはこの問題を真剣に考えるようにしているのだ。
僕って誰だっけ。カラスがかあと鳴く。たしか、僕には名前がある。色んな方向に影法師が伸びる。でもそれは、どうせ親父が自分勝手な期待を込めて僕に貼り付けた名前だ、たぶん。夕日の反対側から夜が溢れ出る。その名前と僕自身とはぜんぜん関係ないような気がするけど、みんながそう呼ぶし、僕もそうだと思ってきた。星が出る。じゃあ僕をそうだと思ってきた僕は誰だっけ。月が高くなる。そうか、「おれはおれだ!」ってどこかで聞いたことがあるから、きっと僕は僕なのだろう。三千回くらい犬の遠吠えを聞く。じゃ、今度はその僕とは誰であるかを考えてみよう。車両用信号機が点滅している。たしか、僕には名前がある。東の空から夜の色が抜けていく。
すたすたと何千回も踏みしめた帰途を辿る。その道、僕は、僕とは誰であるかと真剣に考えている。
さて、僕はいまだ部屋に帰り着いていない。僕は真剣なのだ。僕が誰なのか判らない限り、当然僕の家は誰の部屋なのか判らない。誰のものか判らない部屋に、勝手に錠を解いて我が物顔で上がりこむほど、僕は無礼漢ではない。
というのは建て前で、僕はただ、常日頃から、何にしても真剣に考え出したら、それがまとまるまでは帰らないことにしているのだ。
僕はひとまず帰宅を諦め、また駅へと踵を返すことにした。
今日もまた青木と会う約束がある。