2006年12月24日(日) 06時59分-川口翔輔
そのとき、突然僕は思い出した。ほんの一瞬だったけど、あの頃の感覚を。
午前4時の地下駐輪場にいた時のことだった。自転車に鍵をかけ出口へと向かう足、何につまずいたわけでもなく、しかしこれ以上ないくらい自然に、僕は転んだ。なんだか百年ぶりで転んだような気がした。
両手をさすり合わせながら立ち上がって、「なんでもないよ」と言うようにひとつ咳払いをしてみた。まったくしんとしている。ぐるりとあたりを見回から、わざと抑揚のない調子で「いったいなあ」と言ってみる。まったくしんとしている。ただ、かすかに何かの羽虫が蛍光灯にコンコンとぶつかる音がする。どうやら僕は誰も見ていないところで転んでしまったらしい。
きっとそのとき、僕の中にあった何かのトリガーが引かれたのだろう。僕は、あの頃の感覚を思い出している自分を発見した。
あの頃、それは、僕の人生で一番陰鬱な時期だった。考えたくもないことを、ひたすらひたすら考えて、それなのに何も見出すことがなかった。きっと誰もが経験することなのだろう、自分の頭が勝手に動いて、胸に生み出された不思議なその求心力に、ぐんぐん吸い寄せられて、耐えられずにぺしゃんこになって、そんな自分と現実に、何をも挟む間隙がない、そういう時期だ。
つまり、すごくへこんでいたあの頃のことだ。
あの頃、僕は自分を最低だと思っていた。クズだと。ただ何より自己嫌悪の心を研ぎ澄ませて、死なないでいる自分の不真面目を呪って(理不尽にも、同時に世界をも呪って)、決して怠ることがなかった。そうあることが、せめてもの誠意、せめてもの正義と信じていた。
そして常に、こんなクズの自分と、いつか、誤って本当の友達になってしまうかもしれない人や、いつか、誤って恋人なんぞになってしまうかもしれない人の身を、まだ存在さえしていない彼らの身を、ある種の不可解な熱意を以て、思い、祈っていたのだ。
例えば、その心を「気の毒」と名付けられる。こんな自分と、未来で、付き合ってしまった彼らに、申し訳なく思い、またそんな彼らを不憫に思っていた、という風に。しかし、僕は駐輪場で転んだあの瞬間、その心の本当にあるべき名前を、不意に了解したような気がしたのだ。つまりそれこそは、愛だと。
駐輪場で転び、そして立ち上がり、その場のささやかな興奮が冷めるにしたがって、不意にやってきたこの了解も薄れていった。あの直感的な了解の真偽はまるで分からない。ただ思うには、あの頃から見れば僕も大人になった。擦れて、あの頃の真面目さを、きっと失った。安易に自分のあることを肯定してしまうようになった。僕はそう思った。それがいいことなのかは、やはりまるで分からない。
以上のようなことを、僕は後日なんとなく、慎重に、しかしできるだけ軽い調子で、白井というやつに告白してみた。全てを聞き終わった後、白井はまっすぐに僕を見て言った。
「どうせうそだろ」
うそじゃない。