2006年12月31日(日) 19時45分-Κ
リチャード・ブローティガンの『西瓜糖の日々』。この小説を手にとって、まず考えることは、西瓜糖って何だろう、てことだと思う。とりあえず、聞いたことはない。作品を読めばわかるかというと、そういうわけでもない。読んでわかることは、いろいろな色があること、食べられること、そして、それを使って、いろんなものが作れることだ。板、家、橋、それだけでなく言葉まで。この小説自体が、西瓜糖の言葉でできているという。読んでも分からないなら想像するしかないわけだが、西瓜糖と聞いて、ものすごく甘い濃厚なものを想像する人は、あまりいないだろう。それは、西瓜のように、みずっぽく、脆く、淡いものだろうと思われる。その「淡さ」こそ、この小説が、この小説の言葉が指向するものだ。
1.世界
この小説の一つの魅力はその世界だ。三章で構成されるこの小説の第一章は、ほとんど全部がこの「西瓜糖の世界」を描くことに費やされる。その世界は「アイデス(iDEATH)」を中心にして、森やたくさんの小川、その川には鱒たちが泳ぎ、川底には夜になると光る美しい墓がある、また森には人々が住む小屋があり、その向こうには町があり、さらに向こうには山脈と「忘れられた世界」がある世界。そこでは月曜日には赤い太陽、火曜日には黄金色の太陽、水曜日には灰色の太陽、木曜日には黒色の無音の太陽、金曜日には白色の太陽、土曜日には青色の太陽、日曜日には褐色の太陽が昇る。その世界は少しずつ変化していて、その変化の仕方を住人たちは気に入っている。そんな世界。そして何よりそこは、特に何も起こらない世界だ。この小説の第一章で起こる、一番重要な出来事も、フレッドが語り手に明日工場のプレス機のところまで来てくれと言い、いってみるとプレス機の下に蝙蝠が巣を作っていて、
“「どんなもんだい、え?」とかれはいった。
「うん」蝙蝠を見つめて、わたしはいった。
「おととい、見つけたんだよ。なかなかやるぜ、たいしたもんじゃないか」とかれはいった。
「うん。こりゃ、かなわないや」とわたしもいった。”
ってだけの話だ。何が「かなわない」のかもよくわからない。あとフレッドが、なんだかよくわからないものを拾うけど、それも何かの伏線てわけじゃないらしい(ぼくの見落としでなければ)。こんなに何も起こらない世界なので、住民たちもたいしたことはしゃべらない。きょうの夕食はだれが作るのかとか、にんじんはもうこりごりだ、とか、そんな程度だ。感情の起伏も乏しい。ちょっとイヤだな、と思ったり、ちょっとうれしいと思ったり、好きだ、と思ったりはするけど、激怒したり、歓喜したり、熱烈に愛したりはしない。この世界は静かなのだ。だが、この世界には死のにおいが漂っている。そこかしこに夜になると光る墓が安置されている。そして今でも、まだ入る人さえ決まっていない墓が作られ続けている。生きることは、死の準備に過ぎないとでもいうように。そして、人々の脳裏には、まだこの世界がいまのように平和でしかなかったときのことが刻み付けられている。虎の時代。人語を解し、気持ちのいい声でしゃべり、決して残酷なわけではないが、人を食い殺す以外に生きるすべを知らなかった虎たち。彼らは今ではすべて殺され、滅びてしまい、人々は最後の虎を殺すときに涙を流した(この虎たちは、我々人間のことを言っているのかもしれない。決して残酷なわけじゃないが、争い以外に生きるすべを知らない我々)。また町の向こう側には、さまざまな忘れられたものがある忘れられた世界がある(これはもしかしたら滅びてしまった我々の世界のことかもしれない)。そして記憶に新しい、忘れられた世界に魅入られた人々インボイル(inBOIL)たち。この世界はそのような荒々しい死の世界を潜り抜け、ようやく静かに死にゆく世界を獲得したのだ。この世界は死のように静かで、死のように優しい。iDEATHとは、I+DEATHであり、IDEA+DEATHであるのだろう。それは、不純物を取り除いた純粋な死の世界。透明な死の世界。
だからここでは、濃厚なもの、個人的個別的なものは、すべて淡い、透明なものに置き換えられている。人々は、強いパーソナリティを持たず、関係の中に浮かぶように生きている(このコミューン的な感じが60年代後半のヒッピーたちに受けたのだろう)。主人公に名前がないのもそういう理由からであろう。ここは原文からそのまま引用したい。
”わたしが誰か、あなたは知りたいと思っていることだろう。わたしはきまった名前を持たない人間のひとりだ。あなたがわたしの名前をきめる。あなたの心に浮かぶこと、それがわたしの名前なのだ。
たとえば、ずっと昔に起こったことについて考えていたりする。――誰かがあなたに質問したのだけれど、あなたはなんと答えてよいかわからなかった。
それがわたしの名前だ。
そう、もしかしたら、そのときはひどい雨降りだったかもしれない。
それがわたしの名前だ。
あるいは、誰かがあなたに何かしろといった。あなたはいわれたようにした。ところが、あなたのやりかたでは駄目だったといわれた――「ごめんな」――そして、あなたはやりなおした。
それがわたしの名前だ。
もしかしたら、子供のときした遊びのこととか、あるいは歳をとってから窓辺の椅子に腰かけていたら、ふと心に浮かんだことであるとか。
それがわたしの名前だ。
それとも、あなたはどこまで歩いて行ったのだったか。花がいちめんに咲いていた。
それがわたしの名前だ。
あるいは、あなたはじっと覗き込むようにして、川を見つめていたのかもしれない。あなたを愛していた誰かが、すぐそばにいた。あなたに触れようとしていた。触れられるまえに、あなたにはもうその感じがわかった。そして、それから、あなたに触れた。
それがわたしの名前だ。
それとも、こういうことだったろうか。ずうっと遠くで、誰かがあなたを呼んでいた。その人たちの声はなんだか木霊みたいに聞こえた。
それがわたしの名前だ。
寝床に入って、横になっていたのかな、もうちょっとで眠ってしまうところだったのだが、あなたはなにかのことで笑った。ひとり笑い。一日を終えるには、これはいい。
それがわたしの名前だ。
それとも、なにかうまいものを食べていたんだが、なにを食べているのか度忘れしてしまった。でも、うまいな、と思いながら食べ続けたとか。
それがわたしの名前。
ひょっとしたら、もう真夜中で、ストーブの火が鐘の音のように鳴っていたとか。
それがわたしの名前。
それとも。かの女が例のことについて触れたので、あなたは気分が鬱いでしまった。誰か別の人に話してくれればよかったのに。かの女の悩みごとのことをもっと理解できる誰かに話してくれればよかったのに。
それがわたしの名前だ。
鱒は瀞で泳いでいた。ところが、その川ときたら巾が八インチしかない。月がアイデスを照らし、西瓜畑は異様なほど暗い輝きを放つ。月はまるで植物の一本一本から昇ってくるようだった。
それがわたしの名前だ。”
と、このように、語り手は、主体として独立しようとするよりも、関係の中で浮遊することを指向する。全体の中に溶けていこうとする。これがアイデスに満ちる、静かな死の正体だ。
この世界は一種のユートピアだ。いや、「ユートピア」という言葉には人工的な感じがするから、どちらかというと「桃源郷」であろうか。
ここでは人々は、我々は何も気にせず、何も考えず生きていける、そして死んでいける。たいした苦痛もなく、静かな心で。
いったい、どうやってブローティガンはこの世界を作ったのであろうか。二十世紀にはいって、ユートピアも桃源郷も著しくリアリティを失った。これが書かれたときには、すでに人々は全体主義の悪夢を見ているし、今現在では共産主義の末路だって知っている。ディストピアとユートピアが一緒のものだというくらいみんな知っている。さらに自然が純粋無垢なものだなんて、脳みその腐ったヒッピーならともかく、まともな知性があれば口が裂けてもいえない。じゃあ、どうやってこの小説はリアリティを確保しているのだろう。それは言葉だ。この世界を書くための専用の言葉を作ることにより、この世界を現前させているのだ。
2.言葉
“いま、こうしてわたしの生活が西瓜糖の世界で過ぎてゆくように、かつても人々は西瓜糖の世界でいろいろなことをしたのだった。あなたにそのことを話してあげよう。わたしはここにいて、あなたは遠くにいるのだから。
あなたがどこにいるとしても、わたしはできるだけのことをしてみなければならない。話を伝えるためには、あなたのいるところはとてもとても遠く、わたしたちにある言葉といえば、西瓜糖があるきりで、ほかにはなにもないのだから。うまくゆけばいいと思う。”
小説を形作っているのは、まずは言葉で、もし、ある小説の言葉が、ほかのどんな小説とも似ていなかったら、とりあえずその小説は、一つのことを成し遂げたといっていいと思う。この小説を作っている言葉は、何にも似ていなかった。この小説は「わたし」と「あなた」の遠い距離に関する記述で始まるが、実際それは、「距離」という言葉で表現するのが不当に思えるほど遠い距離だ。「何か」を伝えようと思っていて、それを表現するのに小説を使おうなんて人がいたら、「やめておいたほうがいい」と助言したくなるほど、それどころか、他のどんな手段にしろ、「何か」を伝えるなんて人生の無駄遣いだよ、といいたくなるほどに、その距離は膨大だ。そこで、無理を通そうとするくらいだから、小説は勢い技巧的になっていく。何しろ伝えるためには読んでくれなきゃいけないし、読み続けてくれなきゃいけない。これは別にわるいことではない。「何か」を伝えるためには技巧は必要だし、我々は意味を成さない赤ん坊のばぶばぶに付き合ってる暇はない。ただそのために、二十世紀の文学は概ねバロックな代物ばかりになってしまった。ブローティガンはそんな中、違う書き方をした数少ない人物の一人だ。彼は、ギタリストのジム・ホールが演奏中ざわついているクラブの聴衆を静かにさせるために、音量を上げるのではなくむしろ下げたように、言葉から技巧を取り除いていき、囁くようにしていく(もちろん、それだって技巧だ、と言われれば、そのとおりだ、としか答えようがないけれど)。この小説の文章がときどき、つたなく思えるのはそのためだ。
“アイデスでは、どこか脆いような、微妙な感じの平衡が保たれている。それはわたしたちの気に入っている”
「それはわたしたちの気に入っている」と言う言葉遣いは、正直あまり聞かない。「わたしたちはそれが気に入っている」と言いたくなりそうだ(こういうことを書いているときに気になるのが、原文ではどうなのか、原語ではどれくらい自然な表現なのか、と言うことだが、ぼくはこの小説を原文では読んでいない。ただ、だからと言って、この小説を日本語で読んだときの感動が偽物だとはだれにも言わせないし、文句があるならこの文章はブローティガン作で藤本和子訳の『西瓜糖の日々』の評論だと思ってくれればいい)。
“「チャーリーに見せてみるよ」とかれはいった。「チャーリーならわかるかもしれない。あいつなら、なんだって知ってるんだから」
「そうだな。チャーリーは物知りだ」わたしはいった。”
“「こんばんは」かれはいった。「橋に明りを灯しに来たんだよ。元気かね? わしは橋に明りを灯しに来たんだよ。きれいな晩だねえ」
「そうだね」とわたしはいった。「いい晩だ」”
この小説全体において、語り手はどちらかと言うと寡黙だが、しゃべってもあまり意味があることは言わない。上の引用にあるように、他人が言ったことをほとんどそのまま繰り返していることがしばしばだ。
“フレッドといっしょに、わたしは板材プレス機のほうへ行った。そこで、スイカ板を作っている。きょうは、黄金色の板材を作っている。”
ここでも「作っている」の繰り返しが、稚拙な感じを出している。「きょう作っているのは、黄金色の板だ」と書くような気がする。
と、こうやって、文章の雰囲気を再現したいと考えて、引用していたのだが、こんなことをしていたら最後には小説を丸ごと引き写さなくちゃいけなくなるからそろそろやめよう。
このつたなさが、何を表現しようとしているかと言うと、一つは語り手の一生懸命さ、もう一つは作中にも書かれているがこの世界ではもう数十年もものを書く人なんて一人もいなかったこと、そして最後がこの世界の淡さだ。囁きのような言葉が、淡さを表現するのだ。淡い世界を表現するためには淡い言葉を使わなきゃいけない。消えていく世界を表現するためには、消えていく言葉を使わなきゃいけない。西瓜糖の世界を表現するためには、西瓜糖の言葉を使わなきゃいけないのだ。
“そう、なにもかも、西瓜糖の言葉で話してあげることになるのだろう。”
3.ドラマ=衝突
この世界は魅力的だ。確かにそうなのだが、それでも、もしこの小説がこの世界を現前させるにとどまるならば、たいした印象に残らないまま、砂糖を水に溶かしたように消え去ってしまうだろう。なぜならこの世界には物語がないからだ。自己完結してしまっていて、何も起こりえない。ドラマとは矛盾や衝突のことであり、完結してしまった世界ではそんなことは起こりえない。
第一章で、現在のこの世界について語った語り手は、第二章で夢を見る。それはこの世界の近い過去に起こった出来事、インボイルとその一党が起こした事件だ。ここで、この小説にドラマが持ち込まれる。衝突と矛盾が。
インボイルは、アイデスのリーダー格チャーリーの弟、かつては面白い話をたくさん知っている人物だった。しかしあるときからチャーリーとの仲が悪くなり、アイデスを出て、忘れられた世界のそばにひどいぼろ小屋を作って暮らすようになる。そして、忘れられた世界の忘れられた物を使って、ウィスキーを作って、酔っ払いながら暮らすようになる。そのうち、数人の人間がインボイルと行動を共にするようになり、小汚い集落のようなものになる。
そのころ、語り手はマーガレットという娘と恋人だった。マーガレットは素直な良い子だったが、忘れられた世界が好きだった。忘れられた物を拾ってきてはコレクションしていたのだ。語り手はそれにしぶしぶ付き合っていた。忘れられた世界にそもそも興味はなかったし、インボイルとその仲間たちに会うのが何よりイヤだった。マーガレットはインボイルのことを何にも思っていないようだった。
そんなあるとき、破局が起きてしまう。インボイルたちが、アイデスに来て宣言する。お前たちのアイデスはてんでなっちゃいねえ、俺たちが本当のアイデスを見せてやる。そして彼らは言う。本当のアイデスを知っていたのは、お前たちではなくあの虎たちであったのだと。そして彼らは本当のアイデスを見せるためにナイフで、自分の親指を切り取り、耳を切り取り、鼻を切り取り、あらゆる自分の体の一部を切り裂き、果ては出血死してしまう。アイデスの人々はその死体を、忘れられた世界のほとりのあの集落まで運んで、油で家ごと焼いた。これが、事件のあらましだ。
インボイル(inBOIL)という名前は、ぐつぐつ煮立っているイメージであろう。アイデスの消えていくイメージとは対極のものだ。ここで作者は「消えていく死」と「煮え立つ死」という二つのものの対立の構図を描いている。そしてとりあえずは「消えていく死」が残ったことを書く。そして語り手もそちらの側にいることも。
では、インボイルたちが死ぬ前に言ったことの意味はなんだろうか。「これがアイデスだ」とはどういう意味だろうか。アイデスの人々はみな彼らの言っていることは、とんまな世迷いごと、酔っ払いの妄言に過ぎないといっている。しかし語り手自身はそれに対して一切の価値判断を避けている。
もしかしたらこれは、語り手が、そして作者ブローティガンが、インボイルの言っていること、つまり虎たちのような、他人を傷つけずにはいられず、最後には自らも傷ついてしまうような生き方こそが正しい生き方(死に方)であるということを、否定しきることができていないのかもしれない。この小説に書いてあることはただ、この世界は、語り手は、ブローティガンは、とりあえずはこの生き方(死に方)を選んだ、ってことだけ。
そして、世界は何事もなかったように続いていく? いやそうじゃない。この事件は大きなしこりを残してしまった。それが第三章に書かれる。
4.欺瞞
語り手は、インボイル事件がきっかけで、ポーリーンとの中を急速に深める。そしてマーガレットとは、離れていってしまう。人々の中にはマーガレットとインボイルにつながりがあったんじゃないかと考えているのもいる。語り手や、かつてはマーガレットと仲の良かったポーリーンは、それはないだろう、と考えながらも、マーガレットが忘れられた世界と強い親和性を持っていることは否定できない。ポーリーンは、もう一度仲良くなりたいと考えながらも、どう接していいのか分からない。語り手は、手紙をよこしたり、ドアをたたいたりする、マーガレットをうっとうしいと思っており、手紙は二度と目に付かないところに捨ててしまうし、ドアをたたいても絶対にあけない。
そんなある日マーガレットは自殺してしまう。ポーりーンは泣く。語り手はそれを慰めてこういうのだ。
”「ひどいことだわ」ポーリーンがいう。「とてもつらく。どうして自殺したの? あたしがあなたを愛したせいなの?」
「ちがう」とわたしはいった。「誰のせいでもない、仕方がなかったんだよ」”
”「そうだよ」とわたしはいった。「成り行きにまかせるよりしょうがないんだ」”
ここで語り手は、欺瞞的になっている。ポーリーンのせいでないことは確かだ。明らかに語り手のせいだ。マーガレットがドアをたたいても出なかった語り手のせいだし、手紙を読んでも、「愉快ではなかった」という理由で、「後になっても、見つからないように」捨ててしまった語り手が悪い。
もし語り手がマーガレットに会って、話をしていれば、もうちょっとましな解決があったかもしれない。だが、その選択は選ばれなかった。なぜならマーガレットと会うということは、そこから離れたはずの、煮えたぎるような、ドロドロした、大きな喜びもあるかもしれないが凄まじい苦痛もあるであろう世界にもう一度足を踏み入れることを意味しているからだ。それは、できない相談だったのだ。
一見すごしやすそうな、この世界は、そういう冷たさを抱えている。そしてそのことをはっきりいえない語り手は、決定的な弱さを抱えている。そしてそのことに作者は意識的であるのだろう。
一つの物を選ぶということは、多くのものを捨てるということだ。そのことが理解できない人々は幸せである。
そして、この小説が面白いのはここである。この小説の面白さの鍵は、世界の美しさでもなく、言葉の美しさでもなく、アイデスが虎やインボイルたちから守られたことでもなく(もちろんそれらがすべて関係してくるのだが)、この死んでしまったマーガレットの前での語り手の語られない迷いである。ここにおける揺らぎこそがこの作品を忘れられないものにしている。(小説の鍵はしばしば、小説の構造上の弱点として現れる。その一本を取り外すと、建物自体が崩れてしまう木片のような形で。そしてそこにその小説の核心が隠されているのだ。だから読者は壁をたたいて、トンネルの亀裂を探すように読書をする。なぜなら、大切なものは目に見えない場合が多いからだ、小説の核心は語られていないことにあることが多いからだ)
5.作者のこと
最後に、ちょっとだけ作者のことを語っておこう。
ブローティガンはどれくらい、この静かな死の世界を信じたのだろうか。
もし信じていたのだとしたら、どうして自分の頭を銃でぶっ飛ばしたりするんだろうか。