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と彼は言った

2007年02月12日(月) 14時14分-Κ

  「どうしてみんなこっちをじろじろ見るんだろう。彼は小声で言った。彼はいま電車のシートに座っているのだが、どうやら自分が自分のせりふだけでなく、地の文までしゃべっていることに気づいていないのだ。顔になにか付いているのだろうか? と彼は思った。もちろん彼は思っただけでなく、口に出していった。しかしするとおかしなことになる。そしたら、先ほどの文章は間違いになり、正しくは、顔になにか付いているのだろうか? と彼は言った、と言わなければいけない。なぜなら、地の文は基本的に事実を述べねばならないからである。しかし、さらに深く考えると、最初でも良いように思われる。なぜならこれはすべて地の文ではなく、せりふに過ぎないからである。せりふなら、嘘をつこうがなんだろうが許される。小説内の人物が嘘つきだからと言う理由で作者を非難する人がいたらお目にかかりたいものだ。しかし事実とはなんだろうか。この場合の事実とは小説ない事実のことだろうが、そもそもそんなものが存在するのだろうか。我々は小説に書いてあるようなことが事実であるような世界があるかのように話すことがあるが、なぜそんなことがいえるのだろう。そこに存在するのは紙やディスプレイの上に散らばる紙魚だけだ。それはただ単に誰かが書いたものに過ぎない。登場人物のせりふよりも信頼できると考える理由はなんだろう。たとえば、電話で、俺いま東京にいる、と言われたら普通信じるだろう。いまウランバートル、と言われてもぎりぎり信じるかもしれない。なんで? とは訊くだろうが。しかし、いま、ベテルギウスにいるよ、と言われても誰も信じるまい。とりあえずおれは信じなかった。じゃあ、なんで小説で、おれはいまベテルギウスにいる。正確にはその惑星の一つだ。恒星のスペクトル分布の違いにより、この星ではすべてのものが血に染まっている、って書いてあったら信じるの? お前たちは、小説家を信じすぎている! 気を許しすぎている! 小説を開いてまずやるべきことは、本当かよ? 証拠を見せろよ! と叫ぶことなんだよ! お前たちだって、この最初のほうで、おれが電車の中にいるって言ったときにどうして信じたんだよ。ほんとかどうだかわかんないじゃん。地の文までしゃべっているってのを、どんな神経してたら信じられるんだよ。地の文までしゃべっているやつなんて見たことあるか? ないだろ? とりあえずおれは一度もないよ! あるわけないだろ! だいたい、お前の隣にこういう風にしゃべっている人がいたとするだろ。な、あんただよ、あんた。こら、目をそらさない! 変なやつの隣に座っちゃったな、とか思っているんだろうけど、これも他生の縁だと思って我慢なさい。あんたに分かることは、おれがまるで小説みたいなしゃべり方をしている、まあ、いまはしてないから、正確にはしようとしていた、ってことだけで、あんたはそれが地の文なのかどうだか分からない。そりゃそうだ、この世界は小説じゃないんだから地の文なんてないんだから。と私は言った。私の話を神妙に聞いていた医者が顔を上げた。論理的ですね。と彼は言った。私と医者は診察室で向かい合っている。白っぽい壁、机、机の上にはカルテ。論理的って何がです? 私は訊いた。あなたの話ですよ。と彼は答えた。あなたは、あなたのご家族が言われるほどおかしくはないのかもしれませんね。医者はメモに二重見当識と書き込んだ。どうして電車の中で突然大きな声で話し始めたんですか? どうして一時もしゃべるのをやめないんですか? 私は質問に答えずにしゃべり続けた。おれが今話した話は論理的ではない。重要な欠陥がある。さっきの議論は、そこが視点人物にとって端的に現実であるときしか成り立たない。我々にとってこの世界は端的に現実ではないのですか? その、我々にとって、とはなんなんだ? さっきの議論が一見成り立ちそうなのは、読者が小説を読むとき、自然に一個の世界を想像し、その登場人物があたかも自分と同じように世界を見ている、世界に対して視点を持っていると思ってしまうからだ。読者? 小説? そう、これは小説だ。そして小説内登場人物は自分が小説内登場人物であることに気づくことができる。これは小説内登場人物が結局のところ読者によって想像された人物、幻の視点人物に過ぎないからだ。しかし、たとえある人物が幻の視点人物でなく、実際に生きている人物だろうと、自分がフィクションの登場人物だと妄想しそれを信じることは可能ですよ。しかし、それが真であることを知ることは不可能だ。でも、実際に現実で生きているつもりで、フィクションを生きているのかもしれないじゃないですか。だが、それを知ることはできない。じゃあ、何であなたはそれを知ることができるんですか。我々は登場人物に過ぎない。我々はそもそも、知る、なんてことはできないのだ。私に、この世界が小説に過ぎないことを証明してください。実際に小説じゃないか。論理的に証明してください、と言っているんです。それは無理だ。世の中には論理的に証明できないことがあるのだ。端的にそうであることでしか、そうであることを知ることができないことがあるのだ。世界が存在する、ということ。時間が存在する、ということ。私が存在する、ということ。この世界は小説である。そのことを知っているから私はそのことを知っている。そのことを知らないからあなたはそのことを知らない。あなたは先ほど、我々は一切知ることなどできないと言ったばかりでは。揚げ足取りですな。ではこういうのはどうでしょう。あなたは私があなたのせりふまでしゃべっているということをどう解釈するのですか。いくつかの解釈がありえます。一つ、この世界は実際に小説であり、そのことによりそんなことが可能なのだ。二つ、私はテレパシーであなたの思考を読んで、あなたと同期してしゃべっている。三つ、これはすべて私がひとりでどこかわからないところでしゃべっていることに過ぎない。合理主義者であるあなたにはそのどれも受け入れるわけにはいかない。あなたは私を黙らせようとするだろう。いまあなたがそうしようとしているように。看護婦が私の腕を取り、注射をする。鎮静剤を注射しました。すぐに落ち着いて、眠ってしまうでしょう。お前はいう。実際おれはどんどん眠くなる。それでもしゃべり続けようとするが、自分で何を言っているのかもうよく分からない。目を開けていることができない。もうほとんど意識もない。しゃべるのもやめてしまった。おやすみ。しかし、声はやまない。なぜだろう。お前は不思議に思う。そしてお前は気づく。しゃべっているのはお前だ。いままでずっとしゃべっていたのはお前だったのだ。お前は恐怖におののき、しゃべるのをやめようとする。椅子を蹴飛ばし、机の上の書類を落とし、手で口を押さえしゃべるのをやめようとする。悶える。足掻く。壁に頭をぶつけ続ける。口に手を突っ込む。書類を丸めて、口に詰め込み栓をしようとする。何とかやめさせようとお前はおれを殴る。蹴る。首を絞める。俺は死ぬ。お前はぶんぶん腕を振り回す。ガラスを割る。その破片で自分の頚動脈を切る。血がどくどく流れる。部屋の床に血がたまっていく。足首、腰、胸、首。口の中に血が流れ込む。お前は自分の血に溺れて死ぬ。と私は言った。私は何が言いたいのか。私は何がしたいのか。そもそも私はなんなのか。何が語っているのか。いままで付き合ってくださったあなたは、この小説を普通小説を読むときのように登場人物がどうのこうのという風に読むのは間違いだ、ということにもう気づかれたであろう。この小説に登場するものは唯一つ、単なる文字、もしくは単なる声なのだ。もちろんあらゆる小説だってそうだと主張することはぜんぜん難しいことじゃない。じゃあ、誰がどこで語っているのだろう。声の言っていることを無批判に信じることをやめるなら、一切何も分からなくなってしまう。作中人物じゃないとなると、作者か! ってことになりそうだけど、そう断ずるのは早計というものだ。小説の署名だって、小説の一部に過ぎないし、嘘や偽造だって簡単だ。大体、ひとりで書いたとは限らないわけだし、文章を自動で作り出すことだって可能だ。誰が書いたか分からない物だってあるし、数多くの人が手を加えていったものだってある。それを作者なんて簡単な言葉に集約するのは不可能だ。たとえ作者が一人きまっていたとしても、作者自身が必ずしもどうしてそんなものを書いてしまったのか分からなかったりするのだ。小説がどこで生まれたかなんて誰にも分からないことなのだ。多分、暗闇の中で、単なる口が、うごめく単なる穴が、べらべらまくし立てているのだ。小説は、いったいどこから来るのだろう。だがどこに行くのかは分かっている。あなたのところだ。Messages from 彼方 to youというわけだ、かっこつけていうならば。このMessagesという部分と彼方という部分がもやもやしているのだ。そして私はこのもやもやしている部分が気になるのだ。なぜだろう。きっとこのもやもやしている部分に自由を感じ、またなにか秘密があるかのように感じるからだろうと思う。だからこの小説もそのもやもやした部分についてどうにか語ろうとしているのかもしれない。しかしこの小説は正直youの部分をないがしろにしすぎている感じがしないでもない。これは今後の課題である。つまりこの小説は読者ではなく小説の側を向きすぎているのだ。言い換えるなら、この小説は小説へのひねくれたラブレターなのだ。ひねくれるのも仕方がない。私には小説が必要なのに、小説には私は必要でない、という思いが作者に少なからずあったりするのだから。こんがらがっているが、ようやく分かりかけてきた。小説で小説とはなにかを書く、小説で小説にラブコール、小説について語るに飽き足らず、小説に語らしたかったのかもしれない。つまり私が言いたかったのは私は小説だということ、いや、すべての間違いは一人称で語ろうとしたことかもしれない、正しい人称はこれだ、これの語りたかったことは、これは小説だ、ということだ。分かってみると当たり前だな、と私は言った、とおれは言った、と彼は言った、とあなたは言った、とお前は言った、と誰かが言った、と誰も言わなかった、と誰もが言った、とこれは言った、と言った、と言った、と言った、と言った、と言った、


なんなんだろうねえ、小説って
最終更新:2014年02月16日 23:17