2007年03月01日(木) 08時41分-川口
童貞を失ったその夜、仲神はいつまでも眠れずにいた。
窓もカーテンも閉め切った暗い部屋の床に、放送を終えたラジオのノイズが淀んでいる。胸の悪くなるような空気。仲神は不思議な予感を胸に外に出ようと思う。何の電波も受信しないオーディオのディスプレイ、その薄弱な青い光だけを頼りに、クローゼットから静かにスーツを取り出して着替える。女は毛布の下で動かない。
暗いために手間取りながらも、嫌味なワインレッドのネクタイを取り、疎覚えのクロスノットに締める。姿見の前に立つ。シルエットだけを映す鏡を睨みながら、右手の甲で左右の頬を撫で付ける。左手の人差し指には買った指輪を、中指には拾った指輪をはめた。
小腹が空いているのに気が付き、姿見を離れてキッチンに入り、冷蔵庫の扉を開ける。眩いオレンジ色の光の中に見たのは、醤油のペットボトルと中華ドレッシングと魚肉ソーセージとスライスチーズと中身の乾いたマーガリンの箱。それと、べつに冷蔵の必要の無い蟹缶がひとつ入っている。仲神は蟹が嫌いだったが、知らずに女が持って来て入れたのだった。仲神は魚肉ソーセージを一本抜き取ってズボンの右ポケットに落とした。
キッチンのテーブルの足元に女のバッグがあった。仲神はそこから財布を取り出し、なかから千円札を一枚抜いてズボンの左ポケットにしまい込んだ。財布をテーブルに置いて、もう一度寝室へ入る。ノイズ、姿見、女のにおい、青い光、かすかな陰影。
滅多に履かない白のストラップブーツで仲神は部屋を出る。高らかで乾いた足音を立てて三階分の階段を下り、出た駐車場のアスファルトに、靴底を撫ぜ付けて足に慣らす。
冴え渡る月夜だったが、仲神は空に一瞥もくれない。
『夜明けのスキャット』の歯笛に合わせて一歩踏み出すたびに、仲神の視界の下部にブーツが月光を受けてぴかぴかとちらつく。時々、切ったばかりの黒い短髪を空気との摩擦で確かめるように頭を振りながら、たっぷり二十分かけて公園まで歩く。
銀色の車止めをすり抜けると、足音の色が変わる。仲神は、バスケットコート奥の背もたれのないザラつくベンチ、その端に座る。前かがみに両膝の上に両肘を合わせ、上目遣いに道を挟んで見る教会、その正面に架かる大きな十字架が、仲神の心中に不穏を醸す蛍光グリーンの電飾に彩られている。仲神は両足の間に泡ばかりの唾を吐いた。足で砂を掻いて埋めて踏み潰す。
思い出して魚肉ソーセージを取り出す。歯で絞りの留め金を噛み千切り、雑な手つきでフィルムを剥き切ってベンチの後ろに投げ捨てる。無防備になったソーセージを中指と薬指の間に挟み、その三分の一程を喰いちぎって咀嚼する。腹は減っていたはずだが、いくら噛んでもいっこうに唾液が出ない。仲神はぼんやりと光る十字架を眺めた。口の中で細かくなる肉片が乾いたままに転がる。どうしてよりにもよってああも気味の悪い緑色なのかと思う。唾液はいっこうに出ない。仲神は食べるのを諦めてベンチの脇に吐き出した。砂地にぼとぼとと砕けた肉片が落ちる。指に挟んだ残りのソーセージもそこに捨てた。
耳を澄ましても、目を凝らして見回してみても、犬も猫もいない。
ピントを合わせないままに霞んだ十字架を見ながら、仲神は磨り潰され着色され固められ喰いちぎられて吐き出される肉のことを考える。
なんの肉だ?
………魚。
ズボンのポケットにしまい込もうとした左手に、例の千円札が触れる。行きがけにタバコを買うのを忘れていたと気付く。公園を出てすぐに自動販売機があるにはあるが、もうここを立とうという気にはなれなかった。仲神は、また降りてきたら女にこっそり千円返しておこうと思う。唾を吐きたくても何も出てこない。
仲神は予感していた。そのためにここへ来た。そのためにここで待った。不動のまま閉じた瞼の裏には十字架の電飾が残像を刻んでいた。
やがて予感は実現する。その背中に翼が生える。仲神は振り返らずともそれと悟る。鋭気に満ちた革張りの翼だ。
因果を考えるよりも、仲神は予感された通りのこの事象をのみただ盲目的に看取した。おもむろに仲神は立ち上がる。砂地に靴底を撫ぜ付ける。最後にブーツの硬さを確かめるように踵を鳴らし、足まわりの調子を確認し終えると、翼をたたんだままに、軽く、ギャロップのように広いストライドで公園の出入口へ走り出す。速度の安定をみると同時に左足で踏み切ってしなやかに跳ぶ。すぐさま右足で車止めにキックを入れてもう一段跳ぶ。一瞬のピークを逃さず、まだ強ばる両翼を思い切り広げる。
翼は風を呼ぶ。
仲神は四肢でバランスをとりながら、大気の塊に持ち上げられて飛び上がっていった。すさまじい速度で思うまま上昇したが、途中呼吸がままならない。風の止む最高到達点、そこに留まりうるその一瞬の時間だけ、仲神は空気を吸うことが出来た。大きく開けた口から吸引した空気は乾いた喉に棘々しかった。
仲神は翼に全く自分の血が巡ったのを察知する。ここに至ってようやく仲神は今夜の冴える月を見た。翼は風を呼ぶ。何もないところ、仲神は自分の身体が何処にでもあり得る可能性を思った。見下ろした様々の光。仲神の視界にはいまだ蛍光グリーンの十字架があり、舌にはまだ鉄と魚の味があった。やはり唾は吐けそうにない。
ゴミみてえな画。
仲神は突然気違いの如く滅茶苦茶に飛び出した。翼は風を呼ぶ。輝くその中で、慣れない飛行をやってのけ、体ごと思考ごと火のようにもみくちゃになる。仲神の息は細くなっていく。苦悶しながらも夢中に空を踊る。もはや目も開けていられない。始終頭蓋が砕ける程に叫び続けたが、全く声にならない。その上全く息ができない。それでも仲神は飛び続けた。ファースター・アンド・ストロンガー、ザッツ・オール。地上に置き去りにした思考には、たぶんその言葉があった。
ふと気が付くと、仲神はすでに地上にあった。変わらず例のベンチに座っている己を発見する。背中の翼は跡形もない。吸い込む空気はまだ棘々しかったが、問題なく息のできることを確認する。仲神は浮ついた足取りでマンションへの道を辿った。途中、再び空腹を思ってコンビニに寄る。持ち合わせが、女の財布から抜いた千円札の他に無いことに気が付いて躊躇したものの、不意に考えるのが愚かしく思えて、結局二人分の菓子パンと紅茶を買った。受け取った釣銭を一枚ずつ丁寧に募金箱に投入する仲神の手つきを、店員は無遠慮に見つめ続けていた。仲神はそれと感じていたが、まるで頓着しなかった。最後の一円玉を投入する時、仲神は左手の中指にはめていたはずの指輪が無くなっていることに気付いた。気に入っていた指輪だったが、もともと拾ったものだったので、仲神はこれにもさして頓着しなかった。
部屋に戻ると、女が起きている。椅子にかけ、テーブルに置いた自前のスタンドミラーを睨んでいた。仲神はブーツを脱ぎ、一瞥、女への不可思議な憎悪に駆られたが、しかしその思いは生じたのと同様、また不思議と瞬く間に霧散した。
カーテンは全て開けられ、日は差し込まないがもう照明の必要ないだけの採光を部屋にもたらしている。つけっぱなしのラジオは低く交通情報を流しているようだった。じわじわと鼓膜を圧迫されるような鈍い痛みが仲神の意を引いた。疲労を覚えた。
「早いね。ドコ行ってたの?」
「べつに。コンビニ」
「スーツで?」
女は口元を歪ませるようにして少し笑う。女はその笑顔を仲神に見せようという胸だった。取り様によってはそこに皮肉の色も見て取れる笑顔だった。ただ、幸か不幸か仲神の目にその笑顔は入らない。仲神は無造作に提げていたレジ袋をテーブルに置く。テーブルに女の財布はなかった。代わりに冷えた蟹缶が置いてある。女はノットを緩める仲神の指を遠慮がちに目で追っていた。しかし次の瞬間にはある種の決意を以てその目を仲神の顔に転ずる。
「ねえ、お金、取った?」
と女は訊いた。仲神は女の向かいの席に着く。無言のままにレジ袋を指して答に代えた。
仲神はまたタバコを買うのを忘れてきたことを無感動に思い出していた。不意に眠くなる。タバコも、もう吸いたいとは思わない。目を閉じると、まだ十字架の残像を見ることができる。猛烈な風の音も耳に残っている。確かな重力、女の声、缶を開ける音………
遠く遠く消失点へと近づく意識の端で、その身がいつも地上にあることを仲神は思った。
肩口に温もりを感じ、薄く目を開けると、ようやく差し込んだ低い朝日に蟹缶がきらめくのが見えた。蟹のにおいがした。