2011年03月23日 (水) 21時07分 - 渋江照彦
満員電車の中、一人ボンヤリと突っ立って、俯きがちになりながら、人々の足元を眺めていた。
今勤めている会社に入って早二十年。
気付けば、四十五になっていた。
毎日毎日満員電車に乗り続けている物だから、人々の足元を眺める事が完全に習慣になっている。
人の顔など、滅多に見ない。
俯いていた方が、気分が楽なのだ。
昔はこんな人間では無かった。
上ばかり、向いていた。
希望が、あったのだ。
だが、二十年の時間という物が、段々と私を俯きがちな人間にして行った。
人間、俯いてばかりいると途端に人生がつまらなくなる。
昔は抱いていた希望も、今ではすっかり鳴りをひそめてしまった。
でも、今更顔を上げる気力も無い。
それに、俯いている方が居心地が良いのだ。
そう考えて。
私はフッと溜息を吐いていた。
・
ガタン、と音がして、電車が少しだけ揺れた。
それに合わせて、私の視線も少しだけ揺らいだが、目に入って来るのは相変わらず人々の足元だけ。
満員電車だからだろう、皆足をピクリとも動かさない。
まるで、マネキン人形の様だ。
ガタン。
また、揺れた。
今度のは前よりも少し大きい。
だから、その分だけ私の視線も大きく揺らいだ。
人々の脚が視界に入って来た。
途端に、アレッと思った。
何かが、垂れている。
人々のズボンの上からタラタラと。
赤黒い、液体だった。
――な、何だ?
そうは思った物の、目線を上に上げようとは思わなかった。
何だか、上げてはいけない気がしたのだ。
目線を上げれば、立っている人や座席に座っている人の上半身が見えてしまう。
何故かは判らなかったが、それだけは避けたかった。
だから、私は懸命に頭を出来るだけ俯かせていた。
その間にも、人々の脚からタラタラと赤黒い液体が垂れて床に徐々に広がって行った。
その時になって、私は初めてある事に気が付いた。
――静か過ぎる……。
満員電車の中だというのに、話し声、否、それ以前に人の息遣いという物がまるで聞こえていなかったのだ。
それに気付いた途端に、不安になった。
――おかしい、絶対におかしい。
心臓の鼓動が早くなり、呼吸が荒くなって行くのが自分でも判った。
視線を上げたかった。
だが、上げられなかった。
上げたいという思いとは裏腹に、私は気付くとしゃがみこみ、ジッと赤黒くなって行く床を見つめていた。
ゴトンゴトン、ゴトンゴトン……。
そんな私を嘲笑うかの様に、電車の音だけが響き渡る。
そして。
ガタン。
今までとは比べ物にならない位強い揺れが、私を襲い、私は耐え切れずにその場にベッタリと尻餅をついてしまった。
ベチャリと、厭な感触がした。
同時に錆びた鉄の様な臭いが鼻孔を掠め、私はその臭いに抗う様にして、顔を上へ上げた。
途端に、私はアッと叫んでいた。
目の前には、腰から上の無い人々の身体が突っ立っていた。
そして、その腰の部分から、ドバドバと赤黒い液体が物凄い勢いで流れ出していたのだ。
床が、みるみる内に赤黒い液体に染まって行く。
考えている暇は無かった。
私は、自分でも考えられない様な勢いで近くにある人々の足を薙倒しながら、電車のドアへと近付いて行った。
ドアへと辿り着いた時には、既に液体はドアの半分位の高さにまで達していた。
「開けてくれ!」
私は力の限りにドアを叩き、叫んでいた。
手動でも開けれたのだろうが、其処まで考えは至らなかった。
唯、もう馬鹿みたいに力の限りドアを叩き、叫びまくった。
すると。
願いが通じたのだろうか、何の前触れも無しに突然ドアがスッと開いたのだ。
しめた、と思った。
そして、私は傾れ込む様にして、ドアから外へと這い出して行ったのであった……。
・
気付くと、私は駅のホームで俯せになって倒れていた。
辺りは真っ暗だった。
ハッとして、後ろを振り返ったが、其処には無人の線路があるばかり。電車など、何処にも見当たらなかった。
身体を念のために触ってみたが、濡れた形跡は全く無かったし、変な臭いもしなかった。
――アレは一体、何だったんだ?
今更ながらそう思ってもみたが、さっぱり見当が付かなかった。
終電に乗った筈が、気付いたら満員電車に乗っていて、其処で変な目に遭った……。
それ以上の事は判らなかった。
唯、考えても無駄な気もした。
「面倒臭い……」
私は最後にそう呟くと、ロクに立ち上がりもせずにその場で仰向けになって、ボンヤリと空を見上げ始めた。
その空には。
今まで一度も見た事の無い様な数の星が、何時までもキラキラと瞬いていたのであった。