2007年03月01日(木) 08時53分-Κ
「自己言及文」と言うのがあります。
「この文章は間違っている」ってのです。こういう文章を使うとさまざまないたずらが出来ます。今回はそれで遊んでみましょう。
「この文章は間違っている」と言う文章は正しいでしょうか、間違っているでしょうか。正しいとすると、この文章は間違っていることになり、おかしい。間違っているのなら、間違っていないことになり、やっぱりおかしい。つまり正しくも、間違ってもいない文章と言うことになります。なんだか変ですね。
ま、はっきり言ってしまえば、文章ってのは必ずしも正しいか間違っているかのどちらかとは限らないわけだよ、ワトソン君。たとえば「走れ!」って文章は正しくも間違ってもいないし、「クラムボンはゲルペソのなんじゃもんじゃだ」という文章も、「シェーーーーー!」と言う文章も、無意味なので正しくも間違ってもいない。「この文章は間違っている」と言う文章は無意味なわけではないが、正しくも間違ってもいない、ということになる。
じゃ、こうしたらどうだろう。「この文章は正しくない」。正しいとしたら正しくないことになりおかしい、間違っているとしたら正しいか、もしくは正しくも間違ってもいないかだけど、どちらにしても間違ってはいないからおかしい、正しくも間違ってもいないとすると、つまり正しくないわけだから「この文章は正しくない」は正しいことになってしまいやっぱりおかしい。どこをどうやってもおかしくなってしまう。どうしてだろう(説明できる人はいますか)
とまあ、こんな感じで自己言及文と言う奴は色々厄介なことを起こす。それを使って田中君(仮名)がとんだ馬鹿であることを証明しちゃいましょう。
他の人は答えられるのに田中君には絶対に答えられない質問があります。それは「どうして田中君にはこの質問が答えられないのでしょう」です。もし田中君がこの質問を答えたとしたら、そもそも問題の前提が崩れてしまいます。よって田中君はこの質問に絶対に答えられません。
ここで注意! いま私が説明したことはまさしく「田中君が質問に答えられない理由」そのものです。これで田中君以外の人は先ほどの質問に答えられるでしょう。ところがここまで説明しても田中君は質問に答えられないのです。答えを教えてあげているのにもかかわらず。(そして答えられないのですから先ほどの質問には意味があります)
田中君には絶対に知ることが出来ないことがあります(ここで「知る」とは「真なる信念をもつ」つまり「正しいことを信じている」と言う意味です)。それは「田中君はこの文章が正しいことを知ることが出来ない」と言うことです。知ることが出来たら文章が正しくなくなってしまい、「知る」の定義より間違っていることを知ることは出来ないので、絶対に知ることは出来ません。
田中君には知ることが出来るくせに絶対に知ることがないことがあります。それは「田中君はこの文章が正しいことを知らない」と言うことです。やはり知ってしまったら矛盾が生じるので知りはしませんが、知ることが出来ないとまで入っていないので、おそらく知ることは出来るのでしょう。知ることは出来るくせに、絶対に知ることはないのです。なんと歯がゆい。
普通の人なら、「Aである」ことを知っていて「AならばBである」ことも知っているならば、「Bである」ことも当然推理して知っているはずです。ところが田中君はこの程度の推理力も持ち合わせていないのです。なぜなら田中君は、もし「山田君が『田中君はこの文章が正しいことを知らない』が正しいことを知っている」知っていて、さらに「山田君があることを知っているならば、それは正しい」(「知る」の定義より当然)ことを知っていたとしても、結局「田中君はこの文章が正しいことを知らない」が正しいことを知らないからです。ほんとにどうしようもない。
哀れな田中君。しかし安心してください、苦しみは長く続きません。田中君は今すぐ死んでしまうのですから。次の文章を考えてみましょう。
「この文章が正しければ、田中君は今すぐ死ぬ」
この文章が正しいと仮定してみましょう。するとこの文章が正しく、またこの文章が正しければ、田中君は今すぐ死ぬので、つまり田中君は今すぐ死ぬことになります。これは「この文章は正しい」と言う仮定から、「田中君は今すぐ死ぬ」と言う結論を導いたことになるので、すなわち「この文章が正しければ。田中君は今すぐ死ぬ」と言うことを証明したことになります。つまり「この文章が正しければ、田中君は今すぐ死ぬ」は正しいのです。よってこの文章は正しく、この文章が正しければ、田中君は今すぐ死ぬので、田中君は今すぐ死ぬことになる。よって田中君は今すぐ死ぬのです。皆さんがこの文章を読んでいる頃にはもう死んでしまった後でしょう。彼の魂に安息のあらんことを、アーメン。
とまあ、ここまでやってきたんですが、これまで自己言及文を作る時は「この」と言う言葉を何回も使ってきました。そこで問題。「この」などの指示語、代名詞、等を一切使わずに有限の長さだけ使って自己言及文を作れるでしょうか。以下のような例はルール違反です。
「次の文章をAとする。Aは偽である」(Aが代名詞として働いている)
「次の文章は真である。前の文章は偽である」(「次」とか「前」とかも指示語と考える。目の前に無いものを表す言葉は全て指示語である)
「全ての文章は偽である」(「全て」も指示語である)
「「「……は無限の長さの文章である」は無限の長さの文章である」は無限の長さの文章である」(有限の長さのみ認める)
すこし難しいかもしれないが、暇ならすこし考えてみて。(答えは↓)
答え
クライン化という言葉を定義しよう(しなくてもいいけどするとわかりやすくなる)。主語のない文章を考える。「はおいしい」。これをクワイン化するとは、この主語に自分を代入することである。「『はおいしい』はおいしい」これは「はおいしい」と言う文章について語っているのであって、「『はおいしい』はおいしい」と言う文章については一言も語っていないので自己言及文ではない(ついでに多分この文章は間違っている)。同様にさまざまな主語のない文章をクワイン化できる。「は7文字である」→「『7文字である』は7文字である」(これは正しい)「は意味がわからない」→「『は意味がわからない』は意味がわからない」(これも正しそう)。だがどれも自己言及文ではない。だがここでもう一つトリック。クワイン化に関する文章をクワイン化するとどうなるだろう(クワイン化自身の自己言及)。「はクワイン化すると間違った文章になる」→「『はクワイン化すると間違った文章になる』はクワイン化すると間違った文章になる」。これは「はクワイン化すると間違った文章になる」をクワイン化した文章について語っているが、これは「『はクワイン化すると間違った文章になる』はクワイン化すると間違った文章になる」のことなので、つまりこの文章は自分自身について語っている。すなわち自己言及文であるのだ。
「『はクワイン化すると間違った文章になる』はクワイン化すると間違った文章になる」=「この文章は間違っている」
こうして指示語を一切使わずに自己言及文を作ることが出来た。