2007年04月20日(金) 00時19分-鴉羽黒
*
「ネコの声がするのよね、最近」
昼時、食堂。自分の昼食を食べ終えて一呼吸の後、口を開いた紫野川の台詞はそんなものだった。
「…?」
だからほうけたような顔をした城崎の反応はもっともだろうし、実際隣にいた弓子も同じような反応だった。
別に返答も求められていないだろうと吟は気にせずカツ丼に向かったが、城崎は律儀に言葉を返すつもりのようだった。
頬張っていたコロッケを飲み込んでから、改めて城崎が疑問を投げる。
「ネコって、喋るっけ?」
しかしその疑問は吟の抱いていたものとは違っていたらしい。
「声って言っても、言葉じゃなくて鳴き声でしょ」
的外れな疑問を口にした城崎に、弓子が冷静にツッコミを入れる。
「でも、愛猫家には自分のネコの言ってることが分かる人もいるって言うし」
「すてきな話よね」
「単に親バカならぬペットバカなだけだと思うけど」
「弓子は夢がないわねー」
「わたしの家、ペット禁止だったし」
「僕も今は下宿だからペット禁止だけど、実家にはいるよ」
「あら、なにが?」
「うん。メダカが何匹か」
「かわいいわね」
「いや、それ、ペット?」
「だって、ペット売り場に売ってるよ? まあ、中型魚のエサ用だったりするけど」
「…切ない話ね」
「というか、メダカなら下宿でも飼えるでしょ」
「そうなの?」
「臭いとか毛とか鳴き声とかがペット禁止の主な理由よね」
「臭いは多少あるかもしれないけど、メダカに毛はないし。ウロコはあるけど」
「ウロコなんてあったっけ?」
「…ないかも。とにかく、鳴きもしないし」
「まあ、もし鳴いたとしても小声っぽいよね。小さいし」
「そうね――ってあら、鳴き声? なんか、デジャヴを感じるわ」
紫野川が不思議そうに首をかしげる。
滔々と脱線していく話題だったが、奇跡的に復帰の兆しが見られたようだ。
「まあ、気のせいね」
「…ネコの声の話はどうした」
*
朱焼けの空の下、公園のベンチに二人の中学生が並んで座っている。
部活帰りの彼らは、一様にぐったりした様子で背もたれにもたれかかり、それぞれの方法で焼け石のような疲れに水をかけていた。
「やっぱ、疲れた時はソフトクリームだよな」
右側に座ったほうがそう呟いた。
左が言う。
「そんなべたべたするものより、ヨーグルトのほうが健康的だ」
「お前の乳酸菌万能説は聞き飽きたよ」
ソフトクリームをなめているほうが呆れたように呟く。
*
せっかくの話題復帰の兆しを潰そうとする紫野川に、いい加減痺れを切らせて吟は口を挟んだ。別に話の続きが気になるわけではないが、カツ丼セットを食べ終えてしまって手持ち無沙汰になってしまったということもある。
「ああ、そうだったわ。ネコの声がするのよ」
「ちょっと神秘的だよね」
「…うどんが伸びるぞ、城崎」
城崎が喋るとまた話が脱線していく気がしたので、とりあえず食事に注意を戻させておく。
「結局、いったい全体どんな話なわけ? まさか、猫の国から勇者シノを呼ぶ声がする、とかいう話じゃないのよね?」
「そんなわけないでしょ。だから、最近いろんなところからネコの鳴き声がするって言う話よ」
なぜ一言目からそう言わなかったのか、という指摘は、まあ、しないほうがいいのだろう。
「いろんなって、例えば?」
「農学部の裏の植え込みとか、正門からの並木道を囲むツツジの茂みとか――あと食堂の出口のとこの、なんかわさわさ茂ってる庭師とかが手入れしてそうな名も無き小木々の中から、にゃーにゃーにゃーにゃー聞こえるのよ」
そしてついに話の全貌が明かされたわけだが、それは実にどうでもいいものだった。
「名はあるでしょ」
だからなのか、どうでもいい指摘をする弓子。
「しかも、姿が見えないの」
あっさりとそれを無視する紫野川。
「茂みに隠れてるからだろ」
「でも、気になるから覗いてみたりしたのよ? 鳴き声は結構近いのに、全然見当たらないのよ。どこの茂みでも」
「あー、わかるわかる。野鳥とかセミとかも、声はするけど姿ってなかなか見つからないのよねぇ」
登山が趣味でもある弓子が、頷いて同意を示す。
「そういえば。学内でネコっていったら、教育ネコじゃないの?」
弓子の言う教育ネコとは、教育学部で飼われている三毛猫のことである。心理学科の実験に使われているとの噂もあるが、真相は定かではない。
「たぶん違うと思うわ。場所が違うもの」
「ネコなんだから、どこにでも動き回ってるんじゃないのか?」
「でも、正門と食堂はともかく、農学部って結構遠いわよ? わたしここまで歩いてくるの結構疲れるのよ?」
後半に余計な主張が混じったが、紫野川の指摘はもっともだ。
「ふむ」
そしていつの間にかうどんを食べ終えたらしい城崎が、神妙にそう呟いた。
「とりあえず、しげみネコと名付けよう」
「なんでだよ」
「センスがいいわ」
「ものすごく安直だと思うけど」
三様の感想だったがとりあえず城崎は満足したようで、のんびりとお茶をすすりだした。
*
「乳酸菌を甘く見るなよ、冬陽。それにカルシウムだって摂れるんだ」
「でも、身長は僕の方が高いな」
「ぐ」
俺だって姉さんよりは高いんだとヨーグルトの少年は思ったが、その姉は高校生と言うには小さすぎることは彼の目からも明らかで、言うだけ悲しくなるのは自明だった。
「…虫歯に苦しんでしまえ」
呪詛のように呟く。
「僕んち家族全員甘党だけど、誰も歯医者に通ってねえよ」
「家族全員ったって、どうせ現代核家族で三人とかなんだろ」
「いや、四人兄弟。兄一人姉二人」
「…それはずいぶん、大家族だな?」
「あ、あと姉さん達は双子だ」
「ややこしい家庭だな」
*
「…で、そのしげみネコがどうかしたの?」
安直だと言っておきながら、弓子はその呼び名を採用したらしい。
「別に他意はないわよ。ただ、あんまり鳴くから気になるなって」
「ま、わたしも聞いたことあるけど。確かにうるさい」
各々に意見を言う女性陣に、食後のお茶を飲みながら吟は言う。
「――まあ、そう気にしなくてもいい。どうせ、あと一月くらいでいなくなるだろう」
吟の言葉に、女性陣二人は首をかしげる。
「なんで?」
「いや。長期休暇の間に、保健所が駆り出されるという話を聞いたことがある」
「最低ね最低よね」
「ひどい」
二人の目が一気に鋭くなった。
「…俺に言われてもな」
「ふむ」
なぜだか窮地に陥った吟を助けようとした、わけではないのだろうが、しばらく黙っていた城崎が再び口を開いた。
「しげみネコについて色々と考えてみたんだけど」
「そうなのか」
ぼんやりしているかと思っていたら、城崎なりに考えていたらしい。
「つまり、しげみネコは茂みから茂みに移動できるんだよ。ワープ」
「待て」
城崎の“色々と”がこういうことだと言うことをすっかり忘れていた。どうやら妙なスイッチが入っていたらしい。
「逆に言うと、しげみネコは茂みの中にしかいない。いられない」
あまりに唐突な城崎の語りに、さっきまで冷たい目をしていた女性二人も毒気を抜かれたようにぽかんとしている。
「無数の枝葉が邪魔をする茂みのなかを、自在に移動できるしげみネコ。茂みは彼らのテリトリーであり、茂みのなかにあって彼らに追いつけるものはいない。なんというか、密林の王みたいな」
ワープしているのは茂みネコではなく話題のほうだということに、果たして城崎は気づいているのか。
「その実とても臆病な生き物で、そもそもだから茂みにだけ生息するようになったんだ。茂みの中で姿を隠す術を見につけ、茂みから茂みへ移動できるように進化し、その姿を捉えられるものはいなくなったという――というかむしろ、しげみネコの実体は茂みそのものなのかも。それなら、姿も見えない、というか、見えてるんだけど、見えてると思わないんだよね」
それはもはやネコじゃないだろう。
「…ねえ、誰かお茶にアルコールでも仕込んだ?」
弓子が耳打ちしてくる。その気持ちはわかる。
「あと気になるところはなんで鳴くんだろうと言うところだけど、そーだなー、とりあえず威嚇ってのがもっとも一般的だよね。臆病で弱いからこそ、茂みに外敵を近づけまいと、鳴く。でも逆にも考えられる。鳴くのって、自己主張でもあるな。自己の存在の主張。茂みに隠れてしまった代償に、しげみネコは世界から忘れられそうになる。それを恐れての主張。もっと言うと、もしかして、何かを呼んでるのかな? 呼ばれて連れられて、その先は茂みの国?」
「…ファンタジーだな」
「それかまあ、しげみネコ凶暴説を採用すると、可愛い声で油断させてエサを呼び込むと言う話になるんだけど」
「野生的ね」
吟の脳裏に、ネコの鳴き声がする茂みに近寄ってみると、何かものすごい力に茂みに引きずりこまれてしまうビジョンが浮かんだ。正直怖い。
「まあ、そういう都市伝説な生き物だったら面白いかなぁと言う話なんだけどね。小説にできそう」
「…できるか?」
どちらかというと、それは小説というより怪談ではないだろうか。
「城崎君、小説書くの?」
しかし紫野川の興味は別のところに向いたらしかった。
「いや、まだ書いたことないよ。そのうち書けたらなぁ、とは思うけどね」
「すてきね」
「まあ、城崎なら書けそうだよね…」
呆れとも感心ともつかない調子で弓子が呟く。
「あ、そだ。ちなみにこの説が正しいとなると、ポイントはしげみネコの生息地は学内に留まらないと言うことなんだよね」
そしてまた妙なことを言い出す城崎。
「どこの茂みでも跳べる訳だから、つまり、どこかの公園の茂みにでも、しげみネコはいるかもしれないな。にゃーにゃー鳴いて姿が見えなかったら、たぶんそうだよ」
そこでどうして断言できるのか分からないが、もしかしたらそれは城崎流の冗談なのかもしれなかった。
いずれにせよ。
「なんというか、メルヘンよね」
「俺はどっちかと言うと、ホラーだと思うが…」
そうこうするうちに予鈴が鳴り、吟たちは次の講義に遅れないように食堂を出ることにした。
食堂の出口から続く茂みからは相変わらずネコの鳴き声がしていて、それで吟はなんとなく茂みから離れてその道を通った。
*
「いけね、もうこんな時間だ」
辺りは既に薄暗く、夕闇の空にコウモリがひらひらと舞っている。
「帰るか。寒いし」
少年二人はソフトクリ-ムとヨーグルトのゴミを捨てに、公園のゴミ箱に近づく。
「…ん、ネコ?」
片方が、公園の茂みからネコの鳴き声がしているのに気づく。
「野良だろ」
先に気づいた一人が近づいて茂みを覗き込んでみるが、ネコの姿は見えず、鳴き声も止んでしまった。
「――そういえば、こんな都市伝説を知ってるか?」
もう片方がゴミを放りながら、思い出したように言う。
「なにそれ?」
「しげみネコの話」
「…なにそれ?」
ネコではなくカラスが鳴く夕空の下、二人は家路を行く。
*