2011年03月30日 (水) 23時48分 - 渋江照彦
ワタシの好きな人はナオキ君です。
ナオキ君はとっても優しい子で、何時でもワタシの事を気遣ってくれます。
「大丈夫?」
ナオキ君にそう言われる度に、私はとっても嬉しくなってしまいます。
ナオキ君は勉強も出来ます。
学校のテストは何時でも満点を取っています。
ナオキ君は頭が良いのです。
ナオキ君はスポーツも出来ます。
サッカーや野球、水泳だって出来ます。
走ったり泳いだりしている時のナオキ君はとっても生き生きとしていて、他の誰よりも格好良いです。
でも、やっぱり、一番格好良いと思うのは、ブランコを立ち漕ぎしている時のナオキ君です。
他の人がやっても格好良く無いのに、ナオキ君が立ち漕ぎしているととても格好良いのです。
ブランコにのっているナオキ君の姿を見ていると、ワタシは胸がドキドキしてしまいます。
だから、ワタシは普段のナオキ君もとっても好きですが、ブランコを立ち漕ぎしている時のナオキ君が一番好きです。
・
「ねぇ、やっぱり裏の樫の木って変じゃない?」
私は、朝食を終えてスーツに着替えている夫の背中に向かってそう言った。
「樫の木?」
夫はそう言いながら、クルリと此方の方へ顔を向けた。
ネクタイを結んでいる手はそのままの状態で固まり、顔も心無しか歪んで見える。
他人が見たら、ウンザリしている様にも見え無くは無い。
だが、私はそんな事は気にしないで、コクリと頷いてみせた。
「うん、何だか、あの木は切ってしまった方が良い気がするのよ」
私がそう言うと、夫は顰めっ面のままてだけは動かしてネクタイを結びつつ、思案するかの様に天井を見上げ始めた。
顰めっ面の様には見えるが、これが夫の素の顔なのである。
唯、最近になって皺が増えたものだから、顰めっ面に拍車が掛かってしまっている、それだけの事なのだ。
夫の顔に出来た皺の多さを思うと、時の流れの何と早い事か、と考えてしまう。
二十を過ぎたら早いと大学時代のゼミの教授が言っていたが、本当にそうだと思う。
気付けば二十三の時に夫と結婚して、今年で三十年になる。
私自身も五十三で、オバさんというよりは、オバアさんに近くなって来ている。
四十の頃はまだ心は少女などとも言ってはいられたが、今はもうそんな事も言っていられなくなってしまった。
そういう意味では夫もまた、変わってしまったと思う。
皺だけでは無い。
心の持ち様が変わってしまっているのだ。
勿論、優しい夫である事には変わりは無い。
それは、この三十年間決して揺らいだ事の無い私にとっては心理の様な物だった。
それは確かだ。確かなのだけれど……。
私は其処でソッと、天井を見上げながら考え続けている夫の顔を見つめた。
昔はこんな風では無かった。
それが、率直な感想だった。
当たり前の事だが、昔の夫はもっと若かった。
顔も、身体も、そして心も。
皆が皆、生き生きとしていた。
なのに、今の夫は老いている。
顔だけでは無い、全身が倦み疲れているのだ。
だからきっと、心もそうなのだろう、と私はフッと思った。
人間、年を取ると心まで老いてしまうのかも知れない。
それが、「心の持ち様が変わる」という事なのだろうか……。
「よし、それならまた今度植木屋さんにでも頼んでみようか?」
私の当て所も無い思考は、夫の声によって突然に破られた。
ハッとして、私は夫の顔に視線を合わせる。
夫は既にネクタイを結び終えていて、私の方を見て笑っていた。
「えっ?ええ、そうね、お願いしてみて」
自分が考え事をしている時の顔を笑われている様に思えて気恥ずかしくなった私は、それを誤魔化す様にそう言いながら、此方もニコッと笑ってみせた。
「まあ、不動産屋も庭の改変は自由にしてくれて良いと言っていたしな。唯、まだ越して来て僕達も日が浅いからな、今日明日に頼める訳でも無いだろうけど……」
夫はそう言いつつ、クローゼットの中からスーツの上着を取り出し始めた。
越して来てまだ日が浅い。
それは、確かに夫の言う通りだった。
私達が今住んでいる借家に越して来たのが今月の初めの事。
まだ、越して来て三週間しか経っていない。
借家に越す事になったきっかけは、下の息子が無事に大学に合格して一人暮らしを始めた事だった。
息子もこれで居なくなったし、これからは二人の時間も増える。だから二人の新しい生活を別の場所で送ってみてはどうか、と。
言い出したのは夫だった。
その提案に、私も賛成した。
夫が自分の職場からは遠くなるかも知れないけれど、今よりもっと静かな場所にしようと言ってくれたのも、私を乗り気にさせた。
閑静な住宅街でヒッソリとした老後を過ごすというのが、私の長年の夢だったのだ。
そうと決まれば、話は早い。
直ぐに不動産屋で家探し、という事になった。
やっと最初のマイホームのローンを完済したばかりなのにまたローンを組むのは嫌だ、という事で最初から借家で探した。
すると、案外早く良い物件が見つかった。
私の望んでいた通りの閑静な住宅街にある一軒家だった。
家賃も手頃で、メンテナンスもしっかりしている様だったし、何より家から職場までの距離が最初のマイホームとさして変わらないというのだ夫を喜ばせた。
「こんなに良い条件の物件が残ってるなんてラッキーだったな」
夫はそう言ってホクホクしていた。
私も夫と同じ気持であった。
唯一つ、ある一点だけを除いては。
それが、庭の裏にある大きな樫の木だった。
樹齢何年かなんて事は私にが到底想像も出来なかったが、多分、かなり長い事この土地に根を張っているのだろうとは思う。
不動産屋曰く、この樫の木が唯一の欠点なのだと言う。
そして実際、私自身も不動産屋の話を聞いて、確かにそうだなと納得もした。
だから。
切ってしまおうと思ったのだ。
それに不動産屋はこうも付け加えていた。
もし庭の一部を改変したいのだったら、自由に改変してもらっても構わない、と。
まるで樫の木を切ってくれと言わんばかりの条件である。
それならば、行動は早めに起こした方が良い。
そう思った。
唯、引っ越しして最初の内はやはり何やかやで忙しく、とても樫の木の事を切りだす事は出来なかった。
だから、生活も少し慣れて来た今になって話を夫に切り出す事になったのである。
「ええ、そうね。でも、出来るだけ早めにお願いね。
「ああ、判ってるよ。心配の芽は出来るだけ早く摘んでおいた方が良いからな……」
夫はそう言いつつ、クローゼットに付いた鏡で暫く細かい身嗜みを整えていたが、それを終えると、じゃあ行って来るよ、と言ってソファに置いてあった鞄を手に取ると、玄関へと向った。
その夫の後ろを私は玄関まで着いて行き、無意識の内に夫のネクタイを見ていた。
「あっ、また凹ませてる」
私はそう言って、夫のネクタイを指差した。
ネクタイの結び目の部分が変な形に凹ませてあるのだ。
夫曰く、「えくぼ」という今風のネクタイの結び方なのだそうだが、私は何度見てもそれが気に入らなかった。
「もう、変な凹み、付けないでよ……」
私がそう言ってネクタイの凹みを直そうとすると、
「良いんだよ、これで。ファッションなんだから……」
と夫は言った。でも、私はめげない。
「ファッションか何か知らないけど、私の居る前では凹みなんて作らないで頂戴」
そう言いつつ、私は夫のネクタイをせっせと直し始めた。
「ハハ、仕方無いな」
夫はそう笑いながらも、別に抵抗はしなかった。
「さっ、出来た」
私はそう言うと、夫ははにかむ様にして有難うと言って、そそくさと玄関のドアを開けて外へと出て行った。
この年になって、妻にネクタイを直されるのが恥ずかしいのだろうか。
「じゃあ、行って来るよ」
外に出しなに、夫はそう言って手を振った。
私がそれに笑顔で行ってらっしゃいと返すと同時に、ドアがバタンと閉まって、夫の姿はドアの向こうへと消えてしまった。
・
「初めまして、担当の土肥と申します」
私達が家を探しに初めて不動産屋へ足を運んだ時にそう言いながら夫に名刺を渡したのは、四十絡みの瘦せぎすな男だった。
その声は、広い事務所の中でいやに私の耳に響いた。
「さて、借家をお探しとの事でしたね?」
一通りの挨拶を終えると、土肥は椅子に腰掛けて、チラリと私と夫を見つつそう言った。
「最初にお電話戴いた時にですね、条件を幾つかお出しになられていたので、それに合致する物を探しましたら、丁度一件良い物件が空いておりまして……」
これです、と言いながら土肥が分厚いファイルを開いて示したのは、小ぢんまりとした庭付きの家だった。
「家賃もお客様がご提示された金額内ですし、月に一度業者が入っておりますので隧道などのメンテナンスの方もしっかりさせて戴いております……」
土肥はさらに、家から夫の職場までの距離や、家の周りの環境の事などを述べたが、そのどれもが私達夫婦の満足の行く内容であった。
「ほほう、それは良い条件だ」
普段から私よりも用心深い夫がそう言った程に、土肥の並べた条件は良かった。
私達夫婦が否と言う理由は何処にも無かった。
だが。
「唯ですね、一つだけお伝えしないといけない事項が御座いましてね……」
一通りの説明を終えて、私達が前向きに反応するのを見て、土肥がこう切り出したのだ。
「はあ、それは何でしょうか?」
土肥の声の調子が今までのとは少し違ったという事もあって、夫が少しだけ訝しそうにそう尋ねた。
「いや、実はですね、この借家の裏庭に大きな樫の木があるんですがね、其処で過去に二人の片が亡くなっているんですよ」
「えっ、それはつまり……」
ええ、まあその、所謂首吊り自殺ですね」
「自殺……」
「ええ、そうです」
唯、土肥曰くそれはもう五年以上前の話であり、所謂自己物件と言われる物の様に値段が異様に安くなっている訳でも無いという事だった。
「現に二ヶ月前までは人が住んでおりましたし……」
曰く付きの物件では無い、という事なのだろう。
「その、二ヶ月前まで住んでおられた方というのは?」
「四人家族の会社員の方でした。転勤で越して来られて、一年間住んでおられました」
「その時に、何か変な事などは……」
「その様な報告は入って来ておりません」
不安気な夫の質問を土肥は即答で否定した。
にべも無いというのがピッタリする様な答えだった。
だが、その態度が私達を安心させたのも確かだった。
これだけキッパリと否定しているのだ。
そんな変な物件では無い。
そう思った。
「そ、そうですか」
夫も土肥の答えにホッとしたのだろう、顔に安堵の色が広がった。
「それにですね……」
私達の表情を見て取って此処が勝負所と言った風に、土肥は勢い良く話しだした。
「家主の方からはですね、家の庭を改変したいのであれば、住んでいる方であれば行って戴いても良い、という許可も取ってあります」
「えっ、良いのですか?」
夫が少し驚いた様な顔をして、そう尋ねた。
「ええ、改築する際に此方へご一報下されば、大丈夫です」
「そうですか……」
「それにですね、もし奥様がそれでも何だか心配だと申されるのでしたら、私が週に一度日曜日に其方へご様子をお伺いに参りますが……」
土肥はそう言いつつ、チラリと私の方を見た。
「ああ、それならお願いしたいわ。その方が安心ですし……」
土肥の提案は予期せぬ事ではあったが、確かにその方が不安は無くて良いと思った。
「ねっ、アナタ。その方が良いでしょう?」
私がそう尋ねると、夫もそうだな、日曜は僕も会社は休みだしと言って頷いた。
「では、そういう事で。それでですね、家の方は何時御覧になられますか?」
土肥がそう尋ねると、夫は首を横に振った。
「いえ、結構です。大きな家具は持って行かないので、写真だけで大丈夫です。一応家具は備え付けなのでしょう?」
「えっ、ええ。左様で御座います。でも、本当に宜しいのでしょうか?」
土肥は目を円くしてそう尋ねた。
「ええ、大丈夫です。お前も大丈夫だろ?」
「ええ、大丈夫よ」
私は、夫の質問にキッパリとそう答えた。
「左様ですか。では、判りました……」
土肥は尚も戸惑った様に私達の顔を交互に見比べていたが、やがて、手元にある書類に目を転じて、何やら書き始めた。
その時だった。
私には、一瞬だけ、土肥がニヤリと笑った様に見えたのだ。
えっと思ってもう一度彼の顔を見直した時には、もう既に土肥は笑ってなどいなかった。
――見間違いかな?
私はその時はそう思って自分を納得させた。
唯、何とは無しにイヤな物が心の底で蟠った様な気分にはなったのだけれど……。
・
夫が出て行った後、私は暫くの間その場にボンヤリと突っ立っていたが、鍵を掛けるのを忘れている事に気が付いて慌ててドアへと駆け寄った。
――今日は、どうしようかな……。
鍵を掛けながら、そんな事を考える。
――まあ、まずは朝食の後片付けね。
ガチャリと音をさせて鍵を掛け、その足で居間へと向かう。
――後片付けをしたら洗濯物を畳んでトイレの掃除、その後に一服入れましょうか……。
居間を抜けて食卓へと向かい、自分と夫の食器をキッチンに運ぶ。
――そうそう、今日はラジオでクラシック番組をやるのよね。
食器を洗い場に置いて、エプロンを取り出して着ながら、そんな事ばかり考えている。
――紅茶とクッキーでお茶をしながら番組を聞いてればその内に土肥さんが……。
えっ、土肥さん?
其処で私はハッとした。
結びかけのエプロンが手から離れて、ハラリと床に落ちた。
そうだ、今日は土肥さんの来る日だ。
つまり、今日は日曜日。
夫の会社は休みの日だ。
その事に気付いた途端に、私はキュッと胸が締め付けられる感覚に襲われた。
ドクンドクンと心臓が早鐘の様に鳴っている。
夫はどうして、会社へ行く格好をして出掛けて行ったのだろう……。
否、第一にどうして私はその姿に違和感を覚えなかったのか。
訳が判らなかった。
だが、此処でボンヤリしている暇が無い様な気もしていた。
――夫を探さなければ……。
気付いた時には、私は玄関に向かっていた。
玄関のドアを開ける。
その場からだと家のガレージが見えるのだが、会社に行く時には必ず車を使っている夫の白いセダンが何故か其処に置いてあった。
――会社には、行っていない……。
そう言えば、車の出て行く音が今日に限ってしていなかった。
ならば、夫は一体何処に居るのか。
其処まで考えた時だった。
ハハハハ……。
キャハハ……。
後ろの方から、子供の笑い声が聞こえたのだ。
えっ、と思って良く耳を澄ませてみた。
すると矢張り、聞こえるのだ。
ハハハハ……。
キャハハ…・・。
楽しそうな子供の笑い声。
しかも、一人や二人では無い。
大勢の子供達が笑い合っているのだ。
場所から言えば丁度裏庭の方……。
途端に、私は背中に水を引っ掛けられたかの様にブルッと身体を震わせていた。
――まさか、夫は裏庭の樫の木へ向ったのだろうか……。
そう考えたら、居ても立っても居られなくなって、私は気付くと物凄いスピードで裏庭の方へと向かっていた。
・
「じゃあ、行って来ます」
見送りに来た事務員に向かってそう言うと、土肥和正は自分の車に乗り込んだ。
シートベルトを締めながら、土肥はつくづく面倒な仕事を引き受けてしまった物だと思った。
他でも無い。
三週間程前に借家に引っ越して来た桜井夫妻の事だ。
週に一回日曜日に家の様子を見に行くと言ったのがいけなかった。
いくらもう一押しで売れそうだったからと言って、態々自分の仕事を増やす様なマネは慎むべきだった。
お蔭で元々仕事の無い日に出社する羽目になって女房からはお小言を喰らうし、同僚は同僚でこれ幸いと直ぐに他の仕事を引っ付けたがる……。
「ホント、厭になっちまう……」
土肥はそうボヤきながら、ゆっくりと車を発進させた。
「だが、それも後一週間位だろうがな……」
こっちに向かって頭を下げている事務員の姿をチラリと見ながら、土肥はそう呟いた。
そう、あの夫妻には悪いが、もうそろそろもたないだろうと土肥は踏んでいる。
勿論、それはあくまでも土肥の個人的な見解ではあるのだが。
「やっぱり、二人は不味い……」
十年前にあの借家の樫の木で首を吊ったのは若い実業家だった。
妻と一緒に入って来て二週間後に首を吊った。
原因は判らなかった。
借金も無かったし、交友関係にも怪しい所は見当たらなかった。
妻は夫の突然の自殺にショックを受けて、それが元で流産しかけてしまったらしいとは、事が全て終わった後に風の便りに聞いた。
五年前は、ピアノの教師だった。
これまた夫と一緒に入って来て、此方は僅か一週間で首を吊ってしまった。
此方も原因は不明。
夫は妻の自殺後に行方知れずになってしまった。
勿論、自殺した二人の他にもこの十年であの借家には多くの人々が越して来ている。
一人暮らしの画家。
四人家族の会社員。
弁護士の事務所として一気に七人も入って来た時もあった。
だが、そのどの時にも樫の木で首を吊って死ぬ人間など居なかった。
死人は、必ず二人暮らしの夫妻が越して来ると出るのだ。
勿論、そんな事は桜井夫妻には一言も言ってはいない。
唯、彼らには借家で過去に二人の人間が樫の木で首を吊ったという事だけを伝えたのだ。
客への説明義務としてはそれだけで十分なのだ。
それに、偶々二組の夫妻が越して来た時に死人が出たというだけなのだ。
夫妻が二人だけで引っ越して来ると必ず死人が出るとは限らないのだ。
大体、そんな不確かな事を客に言う必要も無い。
「そう、全ては偶々だ」
土肥はそう、自分に言い聞かせるかの様に呟いた。
関連など、無い。
単なる気の迷い。
それで全て決着は付くのだ。
夫妻が二人だけで引っ越すと死人が出るのも。
今、土肥の運転している車の後部座席の方からザワザワと葉擦れの音が聞こえているのも……。
・
ハハハハ……。
キャハハ……。
裏庭へと走り出した私を嘲笑うかの様に、子供達の声は段々と大きくなって行く。
私はその声を振り切るかの様にして、勢い良く家の角を曲がったが、其処である物を目にして思わず立ち止まってしまった。
それは、ガラクタなどを入れておく小さな物置だった。
その物置の扉が少しだけ開いていて、其処からダラリと何かが出ていたのだ。
「荒縄……」
私は思わずそう呟いていた。
そして同時に、腹の底からドス黒い物が噴出して来るのが判った。
物置の扉を開けたのはきっと夫に違いない。
そして、何らかの理由で夫は物置の中から荒縄を持ち出したのだ……。
物置の中身をちゃんと点検した訳でも無いのに、私は何故かそう確信していた。
ハハハハ……。
キャハハ……。
子供達の声が、私の頭の中でグルグル回る。
気のせいか、今は風も無いのにザワザワと葉擦れの音さえ聞こえて来る。
ハハハハ……。
キャハハ……。
ザワザワ……。
ハハハハ……。
キャハハ……。
ザワザワ……。
「行かなきゃ!」
気が付くと、私は全ての音を蹴散らすかの様にそう叫ぶと、裏庭の樫の木のある方へと猛然と走って行った。
ハハハハ……。
ザワザワ……。
樫の木の方へ近づけば近づく程に、子供達の笑い声や葉擦れの音が愈々大きくなって行く。
キャハハ……。
ザワザワ……。
もう一度家の角を曲がる。
其処に、樫の木はあるのだ。
ハハハハ……。
ザワザワ……。
角を曲がり終えると、直ぐ目の前に巨大な樫の木が現れた。
キャハハ……。
ザワザワ……。
樫の木は、風も無いのにうねる様にその緑色の葉を揺らしていた。
そして、その緑色の葉の間から何かがチラチラと覗いていた。
「アア!」
私はそれを見て、絶叫しながら樫の木の下へと入った。
そんな私を出迎えるかの様に、子供達の笑い声が一段とけたたましくなった。
ハハハハ……。
キャハハ……。
その笑い声に包まれて。
私は確と見届けた。
樫の木の太い枝に荒縄を括り付け、スーツ姿のままブラブラと宙に浮く夫の姿を。
その首には、これでもかという位にキツく荒縄が食い込んでいた。
そして傍には、夫が使ったのだろう、脚立が一つ倒れている。
「ナオキ君!」
私は夫の姿を見て、そう叫んでいた。
小学生の頃から呼び続け、最近では滅多に呼ばなくなってしまった名前だ。
「アア、ナオキ君、どうして、どうして……」
ナオキ君、どうして死んじゃったの?
さっきまであんなに元気だったのに。
どうして、どうして……。
ワタシは何度も何度もそう叫びながら、膝を地に付けて泣きました。
ハハハハ……。
キャハハ……。
そんな私を嘲笑う為でしょうか、子供達の笑い声はまだまだ続きます。
ワタシはその声に包まれて、涙に濡れた顔を拭うと、キッとブラブラ揺れているナオキ君の周りを見つめました。
その時、初めて気付いたのです。
この子供達の笑い声が何処から聞こえているのかを。
それは、樫の木一杯に咲いている小花からしていたのです。
だって。
良く良くその小花達を見れば、その一つ一つに小さな可愛らしい子供達の顔が付いていたのですから。
その小さな子供達の顔が笑うのです。
ハハハハ……。
キャハハ……。
本当に楽しそうです。
だからでしょうか。
ブラブラ揺れているナオキ君の顔もニッコリ笑っているのです。
まるで小学生の頃にブランコで立ち漕ぎをしていた時の顔の様……。
いえ、きっとナオキ君は今もブランコをしているのです。
自分の首を使って。
ブラブラブラブラととっても楽し気です。
心無しか、顔も小学生の頃に戻ったみたいに若やいでいます。
その顔を見ていると、何だかワタシまで楽しい気分になって来ました。
「ナオキ君、楽しそうね」
ワタシはナオキ君に向かってそう話し掛けました。
ナオキ君は本当に楽しそうに夢中でブランコを漕いでいます。
ブラブラブラブラ……。
でも。
ブラブラブラブラ……。
あんまり格好良くありません。
「ナオキ君、ブランコ下手ね」
ブラブラブラブラ……。
「ワタシの方が上手くってよ」
ワタシはそう言って立ち上がりました。
不思議と、ナオキ君にブランコで勝てる気がしました。
何時も何をやっても適わなかったのに。
勉強も。
スポーツも。
ブランコだってそうです。
何時もワタシはナオキ君に負けてばかりでした。
ナオキ君の事は好きです。
でも、いくら好きなナオキ君にだからと言って、ずっと負け続けるのは嫌でした。
何時か必ず勝ってやる。
そんな思いをずっと心の片隅で持ち続けていました。
それが今、どうやらナオキ君にブランコで勝てそうなのです。
あの、ブランコを立ち漕ぎしている時が一番格好良かったナオキ君にです。
やらない訳には行きません。
幸い、物置にはまだ荒縄が残っています。
踏み台にはナオキ君の使った脚立があります。それを使えば良いのです。
そうと決まれば、後は直ぐに行動に移すだけです。
ワタシは其処で勢い良く立ち上がると、飛び跳ね上がらんばかりの勢いで物置に向かって駆けていました。
待っててね、ナオキ君。
きっとナオキ君よりも上手にブランコを漕いでみせるから……。
そう心に誓いつつ、ザワザワと葉擦れの音をさせている樫の木から遠ざかるワタシを、子供達の笑い声が優しく包んでくれます。
ハハハハ……。
キャハハ……。
ハハハハ……。
キャハハ……。