2007年08月03日(金) 23時42分-カンパニール
とよおは、とても感じ入りやすい子でした。
とよおは、軒を見上げています。そこにはオレンジ色の豆電球があって、玄関先でポツポツと照っています。軒のすぐ下にくっ付いているので、とよおにとってその位置は素晴らしく高所なのでした。
その光の周りにたくさん張られた蜘蛛の巣が、さっきからとよおには気に入りませんでした。あのじっとしていて、のうのうと生きている感じが癇に障るのでした。
とよおはしかし、頭のいい蜘蛛に感心もしていました。あそこなら蛾を簡単に食べられます。光に呼ばれて勝手に集まってくるからです。とよおは物知りな子でした。
でも、ととよおは思いました。どうして蜘蛛はそのことを知っているのだろう。蛾が飛んでくるのをどこから盗み見たのだろう。今も、どこか知れない暗がりで、僕が電球に吸い寄せられるのを待っているのだろうか。
屋根上の漆黒を蠢く幻影が、とよおを戦慄させました。
とにかく気に入りませんので、蜘蛛の巣をすっかり除くことにしました。とよおは急いで納屋へ走って、戸に立てかけてあった棒を手にしました。それは、いつだったかとよおが網を破いて帰ってきた虫取り用のたもで、庭の松の蜘蛛の巣取りという新たな役目を祖父が与えたものでした。
だから、先端の輪っかにはこれまで取ってきた巣が膜になっていて、今なら充分また虫を捕まえられそうでした。それを抱えながら戻ってくるとよおの顔はわくわくしていました。
使ってみると、とよおにもあの高さが手に届いて、ペリペリと音を立てながら巣がはがされていきます。その中心でどっかとしていた家主も慌てて逃げます。愉快です。
さすがに一番上の奥のほうは駄目でしたが、豆電球はきれいになってオレンジが鮮やかになりました。とよおは満足しました。
道具を片付け終えたちょうどその頃に、母の声が聞こえました。とよおは大きく返事をして、家の中へ入っていきました。お風呂が沸いたのです。
翌朝から、とよおにちょっとした悩みができてしまいました。なんだかいつも腕に蜘蛛の糸がまとわり付いているような感触があるのです。とよおは感じ入りやすい子でした。とよおには、住みかを追われた蜘蛛たちが怒っているのだと、そういう気がしてなりませんでした。振り払おうとしても離れない、あの不快感が終始とよおを締め付けました。
自転車で門前の垣根の間を通る時、毎回ピンと張った糸が顔にかかりました。ラジオ体操のため、朝一番に家を出るのがとよおですから、夜中の内に橋を作っているのでしょう。どうやって長い距離に真横の糸を渡すのかは見当も付きませんでした。ただ、これがピアノ線なら死んでいただろう、ととよおはその度思うのでした。
そういう陰鬱とした感覚も、とよおの若い辺縁皮質の内に押しやられ、風化しようとしていたある日、とよおは縁側の畳部屋にいました。夏の積乱雲が青空に乗っかっていました。
とよおがぼうっとそれを覗いておりますと、いつの間にか、手首に違和感が湧いていました。蜘蛛の糸でした。ようやく忘れかけていた記憶が蘇ってきました。しかも、今立ち現れたそれは、過去のどんな時よりリアルにとよおを捉えています。
異変はそれだけに留まりません。糸に引かれて、腕がだんだん吊り上げられていくのがわかるのです。とよおがその先を目で追っても、糸は外へ上方へと伸びていて、ここからはどこに繋がっているのか知れません。
とよおは怖くなって抗おうとしますが、向こうの力は強く、両手がどんどん引っ張られて万歳した格好になってしまいました。痛い、と言ってとよおは思わず立ち上がります。それでも二階にいる「何か」は全然容赦しなくて、直立したからだはとうとう地面から離れようとしています。
とよおはどうにもできなくなって、母に助けを求めます。
おかーさー、おかーさー。
一向に反応はありません。
おかーさー、おかーさー。
屋根上の炎天下に佇む大蜘蛛を想って、とよおは絶望しました。
1メートルほど浮き上がったところで、首にも糸が巻き付いているのに気が付きました。もう50センチ上がると、腰にも脚にも絡まっていて動けません。視界はふさがってしまいました。どうやら、からだ中ぐるぐる巻きにされたようでした。
とよおは、せめて美しい形の繭であろうと、精一杯身を屈めました。
大蜘蛛は、絡め取ったえさを口元まで引き上げると、おぞましく湾曲した右の牙で触れてみました。中身は小刻みに震えていました。今度は、鈍く光った左の牙で小突いてみると、糸玉の内から気の狂った小学生のような、甲高いわめき声が響いてきました。
下調べを終えた大蜘蛛は、満を持して両の牙を突き立てました。未発達の頭蓋は卵殻のごとくあっさり破れて、黄色い脳漿が穴から飛び出ました。それをこぼさないように慎重にあごで砕いて、大蜘蛛は旨そうに汁をすすります。とよおは声が出なくなって、いよいよ助けが呼べなくなりました。頭が無いのです。
とみに静かになった肉の塊を、ゆっくり味わいながら飲み込んでいきます。毒が回りきったのか、痙攣もしなくなりました。勢いよく噛み付くと、ひしゃげた骨が糸を突き破って太陽の下に露出しました。飛散した赤いしぶきが、光を受けながら瓦の上に落ちました。獲物の体内は消化液に浸されて、たんぱく質のスープになっていきました。大蜘蛛はそのまま、ぶよぶよになった内臓を残らず嚥下して、昼食を完了しました。大蜘蛛は満足しました。
そしてとよおは、一本の透明な糸となって、大蜘蛛の尻から排出されました。