2011年04月05日 (火) 22時51分 - 渋江照彦
泥酔など普段なら殆どしな筈の夫が、その日は珍しくベロベロになって家に帰って来た。
―トイレに、行かせてくれ……。
多分、胸焼けでもしているのだろう。
夫は息も絶え絶えといった感じでそう言うと、フラフラと覚束無い足取りでトイレへと向かった。
夜遅くまで寝もせずに夫の帰りを待っていた私は、いい加減にしなさいと小言の一つでも言ってやりたかったのだが、余りにも夫が苦しそうなものだから心配になってしまって、気付くと夫を助ける様な形でトイレまで一緒に付いて行っていた。
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トイレの中へと入り、便器の前へ来るなり、夫は物凄い勢いでゲェゲェとやり始めた。
私はそんな夫の背中を摩っていたが、夫が吐く度に酒と吐いた物の混じり合った臭いがして、何度も顔を顰めた。
一種類の酒を飲んだだけならこれ程に酷い臭いにはならないだろうから、きっとチャンポンでもして来たのだろう。
私はそう考えつつ、吐いている夫を見遣って小さく溜息を吐いた。
そうやって暫くの間、夫はゲェゲェと吐き続けていたが、やがてフウッと息を吐いて、顔を便器から上げた。
すると、見ようとは思わなくても、便器の中にある物が自然と私の目に飛び込んで来た。
唯、飛び込んで来たまでは良かったのだが、私はその正体を確認して、思わずアッと声を上げていた。
便器の中。
其処に、大量の薄茶色の蝉の抜け殻が散乱していたのだ。
其れは、紛れも無く蝉の抜け殻であった。
小さい物もあれば、大きな物もある。
綺麗な形のままの物もあれば、半分潰れかけている物もある。
其れがユラユラと、便器の中の水面を揺れているのだ。
多分、夫の口から吐き出されたのだ。
それは、間違いない。
だが、だからこそ、私には訳が判らなかった。
――あ、あなた……。
私がそう言うと、夫がエッと言って此方を向いた。
そして気付いたかの様にああ、と言うと、便器の水を流した。
蝉の抜け殻達は勢いよく、水に流されてあっという間に消えてしまった。
――ごめん、心配かけちゃって。
夫はスッキリしたという感じでそう言いながら笑った。
その様子を見て、私は夫には今の蝉の抜け殻が見えていないのだと思った。
否、そもそも自分が見たあの蝉の抜け殻は見間違いか、さもなくば気のせいなのではないのかと思ったのだ。
だから、夫には何も言わなかった。
・
その次の日の朝。私は何時もよりも早くに目が覚めた。
横を見ると、夫が気持ち良さそうに寝ている。
部屋には、夫のおかげで酷い酒の臭いが充満していた。
胸がムカムカするのを覚え、それと同時に夫に対して腹が立った。
――この、バカ。
私はそう言うと、夫を起こすつもりで彼の頬っぺたを思いっきり抓ってやった。
途端に、ゾッとした。
夫の顔が氷の様に冷たくなっていたのだ。
私は慌てて、あなた、あなたと呼びながら夫の身体を揺すってみた。
だが、夫が目を開ける事は無かった。
夫は、死んでいた。