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春の祭典

2007年08月28日(火) 13時01分-K

  全世界的に春が来て、世はなべて恋の季節である。恋は日の光に乗って空の彼方より来たりて、すべての物の表面で乱反射し、生きとし生けるものすべてに作用し、狂わせる。獣たちはもの狂おしげに呻き、悶え、のたうつ。草木は毒々しい花を狂い咲かせ、虫たちは乱れ飛ぶ。蛇は絡まり、鳥は血を吐いた。人間たちは理性を永久の眠りに寝かしつけると、浮かれ騒ぎ、すべての悩みやしがらみや虚飾や衣服をその身から剥ぎ取って、踊り狂い乱れ交わった。すべての人々は部屋から飛び出し、最初に出会った人々に抱きつき舌を吸いあった。
 しかしあなたの部屋のドアは固く閉ざされ、窓には厚いカーテンが係り、あなたの部屋には一条の光線さえ入る余地はない。外からはあなたが部屋で何をしているのか知るすべはないし、もはや知ろうとするものもいない。あなたの家族も、もうみな家から飛び出し、この世の春を謳歌している。あなたはもう誰も更新する者もなくなったウェブページを眺めているのだろうか。それとももう誰も省みることのない本や映画をその暗い部屋で見ているのであろうか。それとも天井の模様を眺めながら寝転がって、壁や窓を通してかすかに聞こえる浮かれた世界の喧騒に耳を傾けているのだろうか。
 あなたは孤独なのだろうか。
 人々は生まれたままの姿になり、老いも若きも、男も女も、美醜入り混じって、お祭り騒ぎをしている。あるところには人だかりができて、体中をさまざまな体液で塗れさせながら、手当たりしだい、舐め、咬み、撫で摩り、貫き、包み込みあった。何人いるのかもわからず、何処までが相手の体で、何処までが自分の体なのかもわからなかった。その周りでは一人から数人程度までの小群体ができており、それぞれ数にあわせたさまざまな様態を見せている。彼らは体液をむさぼり、腹上死した同士の体を、彼の近しい恋人たちで分け合う以外には何も口にせず、起きているときはまぐわい、まぐわっていないときは他人に体を預けて寝ているのだった。精液で精液を洗う乱痴気騒ぎの中で、彼らの体は独特の風味を帯び、その匂いとともに春の微粒子は空気に混じり、風に運ばれ空を渡り、天に昇って雲に結晶化し、雨に溶け込んで地面に染み込み、梅毒にかかったように爛れた蘭の露となり、白濁した川となり、大潮でもないのに珊瑚はつぼみを開いて、大切な真珠を海に放つ。
 しかしあなたに春は届かない。あなたの皮膚は硬い鱗に覆われ、春の微粒子も跳ね返されてしまう。あなたの瞳には分厚いフィルターがかけられ、天然色の春とモノクロームの冬も見分けがつかないのだ。あなたが部屋を出ると、あなたは異臭にハンカチで鼻を押さえ、できる限り呼吸をしないように歩く。あなたが歩いていても、誰もあなたに抱きつこうとはしない、誰もあなたに口付けしようとはしない。なぜならあなたは違うから。あなたに春は来ていないから。あなたからは春の匂いがしないから。みな、あなたの臭いに敏感なのだ。あなたからは違う臭いがするのだ。あなたは春の色をしていないから。みな、あなたの色に敏感なのだ。あなたは違う色をしているのだ。あなたはあきらめて、もしくはあきれて、部屋に戻る。鍵をかける。あなたは酔狂心を起こして部屋を出たことを悔いている。結果がわかっていることをしてしまったことをしたことを悔いている。あなたは、みながあなたをどんな目で見たかをしばらく忘れないだろう。
 あなたは孤独なのだろうか。
 孤独なのだろうね。
 春は続く。体中が干からびた体液でかさかさになろうと、人々はそこにもう一度潤いを与えるために新たな液を吐き出す。吐き出しきってしまったものは干からびて地面に転がるほかない。自らの精液に溺れて死んだものもいる。祭りは続くが最初の活気はいつまでも続かない。人々はすべての人々の体が干からび始めていることに気づかない。彼らは何かに気づくことをもうやめてしまっていた。彼らの体にはまだらの発疹ができ、空咳を繰り返し、やせ細り始めた。
 今ではあなたを除いて、世界中の人間がエイズにかかってしまった。梅毒にもかかっているようだ。生まれた赤ん坊たちも多くは感染し、すぐさま、今日もまた恋に生きるための糧となった。春は滅びの季節、世界は楽しく気持ちよく滅んでいこうとしている、あなたをのけ者にして。あなたが部屋にこもっているうちにすべてはおきてしまった。あなたを置いてけぼりにして、すべては終わってしまった。
 あなたは孤独なのだろうか。
 孤独なのだろうね。
 あなたは世界を恨んでいるのだろうか。
 いや、当然のことをしたまでだと思うだろうね。
 孤独はつらいのだろうか。
 つらくはないはずだ。なぜなら、つらいのならドアを開ければよかっただけなのだから。カーテンを開いて、窓を開け放てばよかっただけなのだから。身にまとった鱗を脱ぎ去ればよかっただけなのだから。目を無理やりにでも抉じ開ければよかっただけなのだから。頭に春を呼び込めばいいだけなのだから。そんなこともわからないほど馬鹿ではないはずだ、あなたは。
 だからあなたは自分の生き方に納得しているはずだ。あなたは絶対的無理解の中でさえ孤独になれない者どもが、仲良く滅んでいくのを横目に、ほくそえんでいるはずだ。抵抗するのをやめ、春に身を任せた者どもを、哀れんでいるはずだ。みなの痴態を目の当たりにし、自分の判断の正当性を確信したはずだ。
 だがそれも、ここで窓を見上げている限りでは、すべては硬く閉ざされて確かめようもなく、聞こえてくるはずのあなたの哄笑も、ここには届かない。


桝野浩一の短歌が元ネタ。
最終更新:2014年02月17日 11:18