鬱屈とした感情

2008年03月01日(土) 22時35分-カンパニール

 私が訪れたのは、いわゆるシャッター街というやつで、腐ったアーケードの下で閑散と、しかも素朴に人は住んでいた。
 文字山精肉店と円谷ベーカリーの間にはおよそ二尺ほどの隙間があって、けれどもそこら中に転がったうら寂しさのおかげで、その違和感に誰かが見向きをするということは、私の知る限りにおいては、無かった。いや、きっと無いんだ。誰にも見えないよ。何も。誰にも。
 私は颯爽とその空間へ走り入って、踊るような動作で躍り出て、踊りに踊った。ブロードウェイ。ブロードウェェイ。
 その店はその路地を右へ右へ右へ三回ほど突き当たっていったところにあった。外観は忘れた。古ぼけていたような、印象には無い。
 黒い木製のドアを恐る恐る開けるころには、私はさながら“踊るシヴァ神”だった。念仏の一つでも唱えたくなる。踊らにゃそんそん。
 畳一畳ほどの足の踏み場を残してうずたかく柱時計やら目覚まし時計やらハムやら腕時計やらがせり上がった店内の最奥の帳場で、頭を抱えるようにして店主は座っていた。
 私は意気揚々と白髪の老人の前へ歩み出て、背広の裏から引っ張り出したものをカウンターの上に置いた。
 丸眼鏡のおじさんは怪訝な顔でしげしげとそれを眺めていたが、やがて諦めたように私に声をかけてきた。
「これは?」
「鬱屈した感情です」
 そうして私たちは互いに黙りこくりあった。踊りはやめておいた。さすがにこの狭い中では迷惑だろう。それにしても暗い。窓も商品で埋まってしまっているのか。そんなことより。
 私の精神状態は、そんなことより、だったのだ。
「50ILK(アイスランドクローナ)」
 店主が告げた言葉は私の頭を後頭部からしこたま打ち抜いた。彼の評定した値段の意味をよく反芻して、それでも我慢し切れなかった私は言った。
「なぜですか。私は努力しました。この気持ちを育てるために働きもせず家にこもり、膝を抱えて震えていました。それでもだめですか」
「50ILK」
「青春を唾棄し、享楽に背を向け、ただただ惰眠を貪ってきました。それでもだめですか」
「50ILK」
「毎夜仮想現実に入り浸り、いろいろの液を垂らしながら、ひたすら妄想に耽っていました。それでもだめですか」
「50ILK」
「良心と両親の呵責に耐え続け、世人の無思慮な誹りにも耳を聾して、どうにかこうにか今日まで生き永らえてきました。それでもだめですか」
「50ILK」
 店主はそれ以上何も言わなかった。私がいくら抗弁しようとも、うんともすんとも返事がなかった。機械だった。品定めして、代金を吐き出すだけのマシーンだった。
 私は、そうですか、とつぶやいた。ほかにやり様を知らなかった。ここにいてもどうにもならないので、放り出された銀貨を引っつかんで店を出た。怒りのような、悲しみのような感情がわずかにほとばしったが、勢い余って鼻から飛び出た。なぜだか晴れやかな気持ちが強かった。夕日の町並みへ私のからだは溶けていって、海からはイマジン・ピース・タワーが顔をのぞいて光っていた。
ごめんなさい。
最近鬱屈してたもので。
最終更新:2014年02月17日 12:18